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弟3章「夏の夜の」

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 学校が夏休みとはいえ、教師には何かと仕事がある。
 生徒たちも、夏休みとはいえ、学校に出てきて勉強をする。
 学校には、進路課というセクションがあって、主に生徒たちを大学に送り込むための企画を立てるのが仕事だ。
 その進路課が生徒たちを遊ばせておくはずがない。ということは、教師も遊ばせておくはずがない。ジローも一年生の進学希望の生徒たちの英語の補習を担当するように言われていた。
 午前の水泳部の練習を終え、急いでうちに帰り、モモと昼食をとり、またすぐに学校に戻る。この進学補習のいいところは、学校の数少ないクーラーの効いた教室で勉強できることだ。
 運動部の生徒たちは、夏休み中は練習や試合の稼ぎ時で忙しいので、文化部の生徒たちが中心の補習だ。
 希望制である。ということは、勉強したい生徒だけが集まる。自然、話は聞いてくれる。
 話を聞いてもらえるとは、非常に喜ばしいことだ。特に、あの赤点補習で選ばれし者たちに英語を教えた後だけに、その喜びはジローの身に染みる。
 あの選ばれし者たちとも、勉強を強制するということさえなければ、良好な関係を保つことができるだろう。きっと、ジローの冷蔵庫の話を聞いてくれたように、勉強以外のことなら、真剣に耳を傾けてくれるだろう。
 幸い、赤点補習後の再試験では、選ばれし者たちは一人を除いて、全員合格した。その一人も、あと三点足らなかっただけなので、英単語の書き取りを提出すれば、合格とすることにした。
 その選ばれし者たちは、勉強こそ苦手だが、将来、会社に入れば、きっと宴会部長や花見の場所取り係、または体力仕事などで、まわりに感謝されるだろう。たたかれてもくじけない精神力と、仲間を大事にするチームスピリットで、大いに会社を盛り立てることは間違いない。もちろん、卒業までは、テストの度に苦労はするだろうが。
 さて、ジローがひんやりした教室に入っていくと、生徒たちが十五人、席につき、補習用のテキストを開いて待っていた。
 補習のテキストは、教師が自由に選ぶことができて、ジローが選んだのは、スヌーピーをとりあげたものだった。著者の伝記と、スヌーピーが出てくる四コマ漫画で構成されたテキスト。ジローの尊敬するスヌーピーは、高校生にもおなじみのキャラクター、これなら生徒の興味を引くに違いない、とジローは思ったのだ。
「じゃ、始めよう。予習してきたひと?」
 と、いきなりのジローの質問に全員が手を挙げた。予習しないのは授業放棄だ、と事前に言ってあったのだ。
 ジローは、一番前の席に座っていた女子生徒の下敷きを手に取った。
「ちょっといい? 見せて。おもしろいこと書いてあるなあ」
 下敷きには、スヌーピーが描かれていて、セリフが英語で書かれていた。

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I gave up trying to understand people long ago. Now I just let them try to understand me.
 ジローがスヌーピーのセリフを黒板に書いた。
「はい、これ訳して」
 その英文が書かれた下敷きを持っていた女子生徒をジローが指名した。
「昔、人々を理解しようとするのをあきらめた。今は…」
 ジローがletの使い方を教える。まだ一年生にはあまりなじみのない使役動詞だ。
 そして、その後ろに座っていた男子生徒が続きを訳す。
「今彼らに私を理解させる」
 ここでジローだけが笑う。
 おもしろさというのは、言葉で説明するのは難しい。説明すればするほど、おもしろくなくなってしまうものだ。
「たとえば、新入生の頃は、他の生徒のことを理解しようと努力しただろ。したよね?」
 前列の生徒がうなずく。
「だけど、今は、まわりに自分を理解するよう努力させてあげてるって感じかなあ。letが効いてるよね」
 沈黙。
「なぜもうわかろうと努力しないんですか?」
 その文の後半を訳した生徒が少しズレた質問をした。
「そこがスヌーピーらしさなんだよなあ」
 ズレた質問をした男子は英語はわかっている。しかし、そのユーモアがわかっていない。
 日本では、その姿をよく知られたスヌーピーだが、その性格はあまり知られていない。
「スヌーピーのどんなところが好きなの?」
 ジローがスヌーピーの下敷きを持っていた女子生徒に聞く。
 沈黙。
「僕はスヌーピーを尊敬してるんだよね」
 尊敬という言葉が、大げさなのか、数人の生徒が笑う。
「ひとを気にしてくよくよするより、自分は自分って悟ってるとこがさ。大した自分じゃないけど、そんな自分をけっこう気に入ってるとこも」
 また沈黙。
 ジローのスヌーピーへの敬愛が生徒たちに伝わらない。
「とりあえず、テキストを読もう。きっと後でわかるよ」
 まず、作者のチャールズ・シュルツの生涯を読んでいく。
 少年時代の彼は、シャイで、クラスメートともうまくなじめない。ガールフレンドもいない。スポーツは好きだが、どれもうまくできない。勉強も特に優れているというわけではない。
「He accepted everything.とあるよね。accept 受け入れる。これがむずかしい。ねえ?」
 と、ジローはさきほどのズレる質問の男子に視線を送る。
「じゃ、すべてをあきらめたってことですか?」
「acceptしたからって、あきらめたとは言えないんじゃないか?」
 友達が多く、モテモテで、文武両道、それは誰もが願うことだ。しかし、誰もができることではない、とジローが話していると、ここでチャイムが鳴った。
「続きは明日。予習よろしく」

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 ジローはチャイムが鳴ると、acceptと黒板に書いた。
「この意味は?」
「受け入れる?」
 ジローと目があった最前列の女子生徒が答える。
「彼はすべてを受け入れた、と訳す。で、どういうこと?」
 ズレる質問の男子に聞いた。
「すべてをあきらめたって昨日言いましたけど」
 ジローはスヌーピーの漫画を一つ紹介した。
 犬小屋の屋根にいるスヌーピーにルーシーという少女が話しかける。彼女はなかなかの辛口。
Sometimes I wonder how you can stand being just a dog.
「時々、私は疑問に思う、どうして耐えられるか。このstandは立つじゃなく、耐える。ただ犬でいることに。わかる?」
 英語は前から訳す。たとえ変な日本語になっても。英語と人生は前にしか進まない。ジローの教育方針だ。
 スヌーピーは実は閉所恐怖症で、自分の犬小屋にさえ入ることができない。それで、いつも屋根の上にいるのだ。
 ジローの話にうなずく少人数の生徒たち、心地よく冷えた教室、授業は順調に進む。
「よくも、あんたはただあんたでいることに耐えられるね、と。これほどの侮辱はないよね。そこでスヌーピーの決めぜりふ」
You play with the cards you're dealt. Whatever that means.
 ジローは黒板に一から十五の番号を書き、全員にその訳を板書するように指示した。
 難しいとかわからないとか、苦情が続いたので、ジローはヒントを与えた。ポーカーゲームのこと。dealtはカードを分けるという動詞の過去分詞であること。whateverの用法。
 一番成績のいい男子生徒がまず訳を板書した。
「あなたは配られたカードで遊ぶ。それが何を意味しても」
 訳は正しいかと言えば、まことに正しい。
「先生、間違ってますか?」
「間違ってないけどさあ…」
 一番できる彼がそんなことを言われ、他の生徒たちは萎縮してしまい、チョークが動かない。
「ためらうなって。ここで、間違った答えを書いて、失うものは何だ? それを教えてくれ」
 ポーカーは、たとえ手札がどんなに弱くても、勝つことができる。ポーカーフェイスで相手に感情を読ませず、掛け金をつりあげる。相手が自信を失い、勝負を下りたら、相手のそれまでの掛け金はこちらのものになる。これでも、勝ちは勝ちだ。
「分けられたカードで勝負するしかないんだよ。たとえどんなカードが来てもね」
 この訳が、ジローは一番気に入った。さえない自分、だけどそんな自分をまるごと受け入れて、配られたカードで勝負する。そんな等身大のキャラクターが世界中で共感されるのだ、とまとめた。acceptの単語一語だけをめぐっているうちに、無情にもチャイムが鳴る。
 ジローは、後悔はしてない。
「じゃ、続きは明日。予習よろしく」
 分けられたカードで…。
 この言葉がジローの中にいつまでも残った。

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 夏期講座に備えて、ジローはうちでソファに横になり、シエスタの前に、改めてスヌーピーの漫画を読み返してみた。
「オトナのくせに漫画ばっかり読んで。モモが漫画を読めば、絶対に文句いうくせに」
 と、モモに責められながらも、ジローは全巻読み通した。
「これも仕事なんだなあ」
「漫画が仕事なの?」
「英語の漫画がね。ま、この深さは、中学生にはわかんないだろうなあ」
「そんなの、わかるし」
「おう、そうか、そうか。で、感想文の本、何読むんだ?」
「こころだし」
「え、漱石?」
「そう。おもしろいし」
 ジローはモモに中学二年で「こころ」を読んだと自慢したことがある。父親より優秀だと疑ったことのないモモは、負けじと読み始めたのだろう。
「いつ買ってきた?」
「さっきだし。はい、お金」
 ジローはその代金を請求され、小銭入れを出して渡した。
「パパの本があったのに…」
「古くて汚いからやだ」
 夕食まではたっぷり時間がある。モモも隣のソファに横になり、それぞれの本を開く。
「わかるか?」とジロー。
「わかるし」
 モモが眠りに落ちるのは、ジローよりも早かった。ジローはソファから立ち上がると、本棚からこころを探し出してきた。ジローは中二で読んだあと、三十歳になったときも読んだ。四十になった今読むと三回目だ。
 鎌倉の海で海水浴をしている主人公。そこで先生と知り合う。何かを教わったわけではないのだが、なんとなく先生と呼ぶようになる。
 『悲しみよ こんにちは』の南仏のまぶしい海もいいが、明治の鎌倉の海も負けてはいない。ただ海で泳ぐ。ただ語る。そんなことが娯楽だった明治が、ジローはうらやましい。
 ジローも多少シエスタをして、今夜も沖縄料理をつくった。
 豚ひき肉を炒め、塩こしょう、ケチャップ、そしてチリパウダーで味付けして、チリミートをつくる。
 あとは、白米を炊いて、その上にチリミートをのせ、細く切ったレタス、さいの目に切ったトマト、チーズをトッピングして、タコライスができあがった。
 モモを起こす。しつこく起こす。ジローは食事が冷めるのは許せない。料理は、時間のコントロールでもある。食べる時間から逆算して、料理にとりかかり、できあがると同時にいただきますを言うのが理想だ。できたてであることは、最良のスパイスでもある。
 ようやく不機嫌そうに目覚めたモモがテーブルにつく。
「何これ?」
「ま、食え」
 食に関して保守的なモモがおそるおそる一口スプーンで口に運ぶ。
「うまい」
 ジローは、メキシコ料理のタコスを、沖縄でアレンジしたのが、タコライスだと説明した。
「で、モモ、聞いてるのか?」

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 アメリカには行ったことがないジローだが、アメリカには高校生の頃から興味があった。それで、大学でアメリカ文学を専攻したのだ。ジローはアメリカ映画もよく見る。地味な映画が好きだ。たとえば「普通の人々」。あの名優ロバート・レッドフォードが監督した作品。精神科医にかかる少年が主人公。一見、普通に見える家族だが、みな心を病んでいる。そんな悩むひとことこそが、「普通の人々」なのだ。
 補習最終日、テキストに、まず、スヌーピーの飼い主チャーリーが出てきた。チャーリーは、スヌーピーを幸せにすることが幸せだ。一方、スヌーピーは、チャーリーがいてもいなくても、とりあえずおいしいものがあれば幸せだ。
I'm depressed again.とチャーリーがつぶやく。「またウツになって」と。精神科医にかかっている。その医者は毒舌少女ルーシー。当然有料、毎回チャーリーは五セント払う。ろくなアドバイスをもらえないのだが、ウツになる度に通っている。
 アメリカでは、風邪で内科にかかるように、ウツで精神科医にかかるのだろう。これが「普通の人々」なのだ。
 次に登場はライナス。いつも毛布を手放せない。安心毛布だ。
「なんで、その子は毛布をいつも持っているんですか?」
 一番前の女子生徒が質問するのも無理はない。
 ジローは言葉に詰まった。実は、ジローも小学校高学年まで、安心毛布ならぬ安心パジャマをいつも抱いて寝ていたからだ。それは、もともとヨウ子の寝間着で、ボロボロで汚かったが、肌触りが好きだった。
「ライナスは、親指くわえてるよね。これは、心理学者フロイトによれば、おっぱい不足。ライナスの小さいとき、お母さんは忙しかったんじゃないか」
 ジローは、幼い頃、よく爪をかんでいたことも思い出した。これも指しゃぶりと同じなのだろうか。
「先生も子どもの時、ライナスみたいだったんですか?」
 いつもズレた質問をする生徒が、珍しくまったくズレない質問をしてきた。
「そんなの忘れたよ」
 ジローは、さっさと次のトピックに移る。
「スヌーピーは小説も書くぞ。It was a dark and stormy night. 暗い嵐の夜だった、その書き出しで始まる長編を書いて送っては、ボツになり続けてる」
「それは知りませんでしたよ」
 スヌーピーの下敷きを持っていた女子の瞳が輝く。
「書き出しがいつも同じと酷評され、満を持して書き出しを変えたことも。暗い嵐の昼だった、と。当然、またボツ」
 ジローは、ここは笑うところだと思うのだが、誰も笑わない。とりあえず、続けた。
「それでも、すべて受け入れて、決してめげない。登場人物は、みんな恋してるけど、みんな片思い。それでも? めげない」
 現状は受け入れて、決してめげない。ボツになっても、書き続ける。ジローは心に刻んだ。
「先生、続きは?」
「じゃ、冬の補習で」
 これで夏の補習は終了した。

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 この日はこれを食べると決まっている。
 ジローは午前の仕事を終えると、スーパーによって、食材を買って、うちに帰った。
 いつものように空腹のモモが待っている。
「お昼、何?」
「今日、何の日か知ってるか?」
 モモはわからない。
 ジローは答えを教えず、早速、料理にとりかかる。
 キャベツを千切りにして、焼きそばをフライパンで炒める。味付けは、ソース少々。小麦粉を水で溶き、ドロドロとサラサラの中間ぐらいにする。
 炒めた焼きそばを、いったん皿に取り、水で溶いた小麦粉をフライパンに広げる。その上に、キャベツをどっさりとのせ、モヤシ、焼きそば、豚三枚肉をのせ、軽く塩こしょうする。
「あ、原爆の日だ」
 キッチンをのぞき見たモモが正答した。
 五年前の八月のこの日、二人は広島にいた。戦後六十年ということで、原水爆禁止世界大会に行ってみたのだ。
 小さな政府、大きな格差の現在の日本を築いたパフォーマンス上手の首相が式典で、あまり威勢よくない口調でしゃべっていたのをジローは覚えている。
 モモは、そのころ、ジローの執筆の取材を兼ねた戦跡巡りによくつきあわされた。広島もその一環だった。
 ジローの祖父は、戦中、広島にいたことがある。瀬戸内海に浮かぶ因いんの島しまというところにも。その足跡をたどったのだ。
 因島にも小さな船でわたった。何もないところで、次の船まで二時間ほどあって、炎天下、絶望的な気持ちになっていたら、お好み焼き屋を見つけ、そこに逃げ込んだ。そして、その近くで祖父がいた宿舎があったことを知った。この地で、きほがヨウ子を身ごもり、今、ジローがいて、モモもいるのだ。
「いいか、うちらがここにいるのも、この島のおかげだぞ」
 とジローはモモに言った。
 ジローの祖父は、娘のヨウ子の顔を見ることなく、戦死したのだ。
 水溶き小麦粉をもう一度回しかけ、両手にへらを持ち、勇気を持って、ひっくり返す。
 少し、キャベツがはみ出たが、成功した。後は、最後に、またへらでお好み焼きを持ち上げ、その下に溶き卵を入れ、それが固まればできあがる。広島風お好み焼き用ソースをかければ、ちゃんとあの味が出る。
 広島でも、お好み焼きを食べたが、因島でのお好み焼きが一番おいしかった。
「パパ、思い出すねえ。あの島のお好み焼き」
「平和に感謝して、食えよ」
「はいはい、いただきます」
 それにしても、ジローがこれをつくれるようになるまでには、何度失敗したかわからない。
 料理人のトモカズが言う。「失敗しなきゃ、うまくできない」と。たまたま成功しても、次がうまくいくとはかぎらない。人生、失敗から学ぶことは多いのだろう。ジローはそう理解している。

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 連日の猛暑、熱帯夜も続いていた。
 それでも、ジローはクーラーのスイッチを入れなかった。窓という窓を開け放ち、二つある扇風機を、首振りをさせず、モモとジローのそれぞれの方に向ければ、なんとかしのぐことができた。
 どうしても暑いときは、玄関を入ったところのフロアに移動すればいい。そこは、ジローが風の交差点と呼んでいる場所だ。すべての窓から入った風がここで出合う。ヨガをここで行うと、ジローは効果が倍増するのを感じた。パワースポットなのだ。モモもよくヨガマットの上に横になる。仰向けになって、手足の力を抜き、決まって「シャバ・アーサナ」と言う。ヨガの死体のポーズという意味だ。
 夏の夜は長い。朝寝をして、シエスタもするので、ジローはなかなか寝つけない。モモも昼近くまで寝るので、夜は目がさえている。
 時間的余裕がある八月こそ、ジローは大いに読み、大いに書き、ブンガク的に過ごそうと毎年七月末に決意するのだが、いざ八月になると、大いに時間を浪費してしまう。これも毎年のことで、もうこんな自分にも慣れていた。
 その夜もDVDを見終わり、モモがヨガマットの上で死体になり、ジローが食器を洗っていると、ジローのケータイが鳴った。
「おっ、ママからだぞ」
「モモも出る」
「もしもし、どうしたの?」
 と、ジローが明るく出ると、ジローの前妻、パニックに陥ったユリ子の声にならない声が聞こえる。
「あのね、あのね…」
 すぐに電話に出ようとするモモを、ジローが掌を見せて制した。
「今ね、ヘンな男の人がついてきて、うちの近くにまだいるみたい」
 ようやくおびえるユリ子から聞き出した話だと、車で、仕事から帰宅途中にビデオレンタル店に寄って、うちに向かうと、ずっと一台の車に跡をつけられ、うちの前まで来たという。先ほど、玄関先で、見知らぬ男に、トイレを貸してほしいと背後から突然声をかけられたそうだ。あわてて、ドアを閉め、鍵をかけ、今電話をしているところだ、と。
「二階に上がってきたけど、まだ下でなんだか音がするみたい」
 ユリ子は両親と住んでいるが、その両親はともに老齢で、とてもストーカー退治などできそうもない。もちろん、パニック状態のユリ子も何の役にも立たない。ジローはすぐに車の鍵を手にして、ユリ子に言った。
「今から様子見に行くから。一回、切るよ」
「お世話になります」
 泣きそうな声だ。
「モモも行く」
「ダメ、じゃま」
 ジローはきつい口調で言った。
「モモは何の役にも立たないし、何かあったら被害者が一人増えるだけ」

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 食い下がるモモを振り払い、ジローはすぐに車に乗り込んだ。何か武器になる棒のようなものを探したが、見つからず、しかたなくクイックルワイパーの柄を持っていった。
 十分もたたないうちに、ユリ子のうちの前まで来ると、隣の空き地にスポーツカーが止まっていて、ジローが来たことに気づくと、男が慌てて車の中に入った。そして、去っていった。
 ジローは車を道の脇に止め、ライトを消し、しばらく待った。三分もしないうちに、また同じところにスポーツカーが戻ってきた。ジローは車の向きを変え、ヘッドライトでその車を照らした。とたんに、スポーツカーが動き出した。
 ジローは車を追った。車間を詰め、車のナンバーを読み取ろうとする。ちょうど信号待ちで、真後ろにつけ、ようやく読みとり、何度も暗唱した。
 ジローはなおも追跡した。むこうはそうとうのスピードで逃げていく。そして、ついにジローの軽自動車はまかれてしまった。それから、ジローは空き地に戻り、男が戻ってくるのを待った。もう戻ってはこないはずだ。むこうはそうとう焦っているだろう。ジローはそのことをケータイでユリ子に伝えた。
「ほんと、ありがとう」
「明日からどうすんの? もう来ないと思うけど」
「どうしよう…」
「使えるオトコはいないの?」
「こういうとき頼りになるオトコはいないんだよねえ」
「しばらく、ここで様子見てから帰るよ。モモもパニクってるから」
「私からモモに電話しとく」
「そうして。なんかあったらまたケータイにかけて。すぐに飛んでくるから」
「ほんと、ありがとう」
 ジローがうちを出てからまだ三十分もたってない。その間、ジローは恐怖をまったく感じなかったことに気づいた。そんな度胸がどこから出てきたのだろう。ようやく、緊張から解放され、疲れと眠気がやってきた。とりあえず、モモの待つうちに戻った。
 モモは、英雄の凱がい旋せんを熱烈に迎えた。氷を入れた麦茶を持ってきた。
「ママ、もう大丈夫かなあ」
「大丈夫だよ。あいつ、ビビりまくって、逃げてったから」
「モモも行きたかったなあ」
「マジ、ドキドキだったぞ」
「パパ、すごいねえ」
「やるときは、やるよ。パパだって」
「ママもパパがいて、うれしいようね。で、なんで離婚したの?」
「突然、言うなって。世界一頼りになるベビーシッターが困っていたら、助けるのは当然だろ。もう寝るぞ」
 英雄は、ケータイを枕元に置き、それが鳴らないことを祈りつつ、眠りについた。
 その後、ケイタイが鳴ることはなく、ストーカーはその日以降もう二度と現れることはなかった。

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 夏は、来客の多い季節である。高校を卒業したジローの教え子たちが、夏休みに帰省して再会すると、ジローのところでも行こう、となるからだ。
 この夏、どこかに出かけることは諦め、うちがリゾート、今はバカンス、ステイケーションと決めたジローがいつもうちにいるので、客が例年以上に来るようになった。
 お盆シーズンになると、まず水泳部OGたちがやってきた。昼頃、女子ばかり五人が、ジローのうちに集合した。彼女たちは、現役時代、マネジャーとメドレーリレーのメンバーとして活躍をした。気配りは足りなくても、ムードは盛り上げるマネジャー、バテても最後まで諦めないバタフライ、賢く器用な文武両道のバック、おっとりとしていつも笑顔の平泳ぎ、キャプテンとして自分に厳しくひとにやさしい自由形、と個性豊かな五人組だ。女子大生ともなると、化粧も覚えるようだ。ジローは、高校時代の風紀検査のように注意をした。コロッケにソースをかけすぎて食べられなくなるような厚化粧はやめろ、と。
 まずはメシ、冷蔵庫の中にある食材を見渡し、作れるものを考えた。
 料理長ジローの指示で、全員が一斉にキビキビと働き、作業が分担され、効率よく進む。そうめんをゆで、例のチャンプルーにして、野菜をテキトーに切って、小麦粉と卵とキムチと混ぜ、チヂミを焼き、麦茶のグラスもテーブルに並んだ。隣の自分の部屋にいたモモも合流して、それぞれ小皿にとって、高校野球を見ながら、テキトーに食べた。
 お互いに担当した料理を自画自賛しあい、なかなかおいしいランチとなった。
「パパがつくる昼ご飯よりおいしいよ」とモモが、彼女たちをねぎらう。
「ジローセンセイがいなきゃ、こんなにおいしくできなかったよ」、と自由形がジローをねぎらう。ジローは、モモにピースサインを見せる。
 こんなテキトーなメニューのランチが済むと、テーブルの上が片づけられ、クーラーのスイッチが入った。今日集まった目的は、食べるためだけではない。
「じゃ、銀行よろしく」、とジローがバタフライに言う。
「やっぱり、私だよね」、とバタフライが、プレイヤーとしての楽しみを犠牲にして、みながモノポリーを楽しめるように銀行役を引き受けた。
 モノポリーとは、世界的に有名なボードゲームである。不動産を買い占め、金持ちになることを競うゲームだ。破産したらゲームオーバー。これは資本主義社会の縮図とも言うべきリアルなゲームで、とても、一時間や二時間で終わらない。今日は、夜までたっぷりとプレーするために、彼女たちはここに集まった。ジローが誘ってもモモは乗り気ではなかったが、彼女たちに誘われると、二つ返事でこのゲームには参加することに決めた。

43
 とにかくアグレッシブに買い占めることばかり考えるジローに対抗して、女子たちは団結して、それを阻止しようとする。強欲になればなるほど、ジローは孤立していき、思うようにカネも不動産も集まらない。
「モモもそっちの味方か?」
 ジローのビジネスに非友好的なモモにジローが毒づいた。
「だって女子だもん」
 彼女たちが、みな拍手した。
 堅実にたたかうバック、交渉に長たけた平泳ぎ、無欲でカネがなぜか集まってくるマネジャー、やたらとジローに対抗する自由形、ただなんとなく駒を進めるモモ。
 二時間を超えた頃から、不動産の動きが激しくなり始めて、ゲームはエキサイティングになっていく。
 カネは、持てば持つほど、欲しくなる。カネは、カネを持てば持つほど、集めやすい。勝つためにはカネだ。カネでカネを釣る。格差がなくては、カネは動かない。水は高いところから低いところへ流れるが、カネは逆に低いところから高いところへしか流れない。革命でも起こらないかぎり。モノポリーでは、幸い、革命は起こらないので、カネに専念できる。ジローは、自分がそんなことを本気で考え出していることに、ふと驚きながらも、自分をもうコントロールできなくなり、ひたすら貪欲になっていく。
 なぜか、あまりやる気のないモモが、女子連合の全面バックアップを受け、トップを走っていた。強欲ジローは、四面楚そ歌か、それでもカネに対する執着は絶対に捨てない。
 不運が続き、平泳ぎが破産した。高校野球は、最後の試合が、ナイターとなっていた。腹も減ってきた。平泳ぎが、晩ごはんをつくることを提案した。
 続いて、ジローも破産して、平泳ぎを助手にして、キッチンに立った。
 ジローがいなくなった社会では、残りのメンバーは、お互い債権を放棄したりしながら、和やかにゲームをすすめている。
 食材はもうあまり残されていなかった。平泳ぎが玉ねぎとわかめのみそ汁をつくり、ジローは白米を炊きおにぎりをつくった。具は、梅干しと、平泳ぎのうちでよく入れるというシーチキン。のりはなし。
 夕食の準備ができると、モノポリーのメンバーたちは、金もうけにもう飽きたらしく、勝者なしでゲームを終わりにした。
 おにぎりとみそ汁と麦茶だけの夕食だが、他に食材がないためか、彼女たちの誰もがそのおいしさに感動していた。
「センセイ、おいしい」
 なんでこんなシンプルなものがこんなにおいしく感じられるのか、ジローも驚いた。
「みんなで食べるからおいしいんだよ」とモモが言うと、彼女たちはまた拍手した。
 バックの提案で、次に集まるのは冬で、今度は鍋をすることになった。
 ごはんさえあれば、カネは必要以上いらない、とジローは、その時は本気で思い、三つ目のおにぎりをほおばった。

44
 ジローは、八月にしてはめずらしく、早起きをした。ヨガもしないで、六時半には、キッチンに立った。
 サンドイッチ用の耳のない食パン二枚で、昨夜仕込んでおいたポテトサラダと、カリカリに焼いたベーコンを挟んで、ホットサンドメーカーにセットして、スイッチを入れた。数分後、直角二等辺三角形のホットサンドが二つできあがる。三辺がきっちりと閉じられている。続いて、チーズとハムをパンで挟み、ホットサンドメーカーにセットする。数分後、またホットサンドが焼き上がる。
 そして、モモを起こす。ホットサンドは、モモの朝食と昼食の弁当だ。
「いいにおい」
「おう、うまいぞ」
 モモは今日から三泊四日のキャンプに出かけることになっている。朝食が済むと、ジローは大きなリュックを背負ったモモを駅まで車で送っていった。いちおう、入場券を買って、ホームまで付き添った。
 ホームに向かう階段を上りながら、モモがジローに聞いた。
「パパは、今日から、何してるの?」
「ま、じいじたちと過ごすよ」
 ホームに出ると、同じ駅から乗り込む同学年の女子中学生が一人いた。やがて電車がやってくると、二人は一緒に乗った。
 モモの行き先は、長野県だ。キャンプといっても、飯ごう炊さんしてテントに泊まるというキャンプではなく、安民宿に泊まり、宮沢賢治を読み、解釈して、「人体交響劇」という前衛劇のような表現をするワークショップに参加するのだ。四日かけて、一つの物語と徹底的に向き合うらしい。その主催は、ものがたり文化の会という渋い名前の全国組織で、全国の支部が夏に長野に集まる。ちゃんと引率してくれる先生がいて、実は、その先生には、ジローが小学生の頃は英語を教わっていた。教育ママのヨウ子にジローはそこに通わされていたのだ。英語から物語表現へと活動内容は変わったが、その先生ならば、とジローはモモをその会に通わせている。実はジローには、その表現活動が前衛的すぎて、よくわからないのだが、モモは楽しそうに通って、日々、表現を磨いている。
「じゃ、いってらっしゃい。土産はいいぞ」
 電車のドアのところに立つモモに、ジローはホームから声をかけた。
「土産買うほどおこづかいもらってないし」
「ま、楽しんでこい。パパもテキトーにやってるから」
「酒飲むなよ」
「嫌いだし」
「お弁当、ありがとう」
「パパの朝ごはんのついでだって」
 電車のドアが閉まった。モモの大きなリュックサックが遠ざかっていく。
 ジローは、いちおう、右手を振った。そして、電車が見えなくなると、その右手を握りしめて、一言つぶやいた。
「自由だ」

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 自由初日の午後、ジローのうちに、男たちが三人やってきた。団塊世代の男たち。この春、彼らが定年退職するまで、同じ教職員組合に属していた同志だ。
 ジローは、かつては学生運動の闘志だった彼らから六〇年代後半の学生運動の話を聞くのが好きだった。宴会のたびに聞くその武勇伝を楽しみにしていた。ジローには、その話がどういうわけか懐かしく、そして切なく思えるのだった。おそらく、前世、その時代に青春時代を過ごし、たたかいに挫折し、自殺したのだろう。ジローは、本気で、そう信じていた。
 実は、壮大な計画を持つ男たちである。その計画とは、コミュニティーをつくることである。過疎地の畑付き古民家を共同購入して、そこをラブ&ピースなアートの発信地にするのだ。男たちは本気である。
 しかし、資金も行動力も不足している現状では、コミュニティー計画は当分のあいだ実現することはない。そのため、とりあえず月に一回集まって、読書会を開くことになったのだ。
 無教会主義というものをジローは聞いたことがある。教会の建物がなくとも、祈る心があれば、そこが教会になる、と。同志が集まれば、今ここがコミュニティー。これは読書会のテーマにもなっていた。
「どこにでも、コミュニティーつくれるってのがいいなあ」
「ここでも、喫茶店でも、道ばたで立ち話しても、冬なら鍋を囲んでも」
「広大な土地を持たなきゃいけないなんて、所有から解放されてないんだよ」
 などと三人が語るところを、ジローは容易に想像できる。
 同志の一人が言う、所有からの解放、これはなかなかの思想である。
 たとえば、別荘。たしかに別荘は欲しいが、その購入はほぼ不可能だ。たとえ、万が一、手に入ったとしても、維持管理が大仕事だ。そこで、所有からの解放、非所有主義である。全国に別荘を持っている、と妄想する。たった一カ所だと飽きてしまうので、思い切って全国のペンションを自分の別荘にしてしまうのだ。別荘を買うために大金を出すのではなく、使うときだけカネを払う。維持管理は、別荘のオーナーに任せる。そのオーナーの生計は、自分が行かないときに来る他の客が払う金でまかなう。すると、別荘を買うカネがずいぶんと浮くので、他のことにも有意義に使うことができる。なんてステキな非所有主義、これで別荘だけでなく、山も湖も、美術品も、かなりのものを自分のモノにすることができる。
 ジローは、この非所有主義を知り、レンタルビデオ屋のDVDはすべて自分のモノのような気がしてきた。あんなにたくさんのDVDはうちに置けないので、レンタルビデオ屋に置いておく。保管料として、見るときにだけ、レンタル料とも呼ばれるカネを払うのだ。

46
 さて、ジローたちがこの読書会でもうすぐ読み終えるのは、「スモール・イズ・ビューティフル」。あの頃、アメリカで書かれた名著である。あの頃とは、もちろん六〇年代後半、若者たちが世界を変えられると本気で思っていた頃のことだ。
 毎回、どこまで読んでくるかと、各章ごとのリポーターを決めてある。すべて読んでなくとも、少なくとも自分の担当の章だけは読んでおき、多少のコメントはできるようにしておく。
 最初にやって来たのは、今川。彼は、この春まで、ジローと同じ学校で、同じ英語教師として働いていた。定年後は、絵を描いたり、歌を歌ったり、なかなかの芸術至上主義者、もちろん、学生時代は学生運動に参加し、ヘルメット学生を相手にやるかやられるかの日々を過ごした。そんな青春時代の反動か、学校ではもっとも温厚な教師の一人だった。
「お邪魔します。うちでとれたから、これ食べてよ」
 と、立派なゴーヤを持って、うちに上がってきた。今年は豊作だという。
 ジローは、両手でそのゴーヤをめでながら、自然の産み出した複雑な凹凸に感動した。
「こんなのつくっちゃうんだから、自然は偉大ですね」
 今川は、ジローの発言の意図がわからないようだった。
 ジローは、早速ゴーヤを縦半分に切り、わたを取って、半月状に切って、ボウルに入れ、塩をふった頃、残りの二人も、菓子や野菜を持参して、やってきた。演劇部顧問だった加藤、団塊世代にしては珍しく無口な大山。三人の共通した特徴は、太っていないこと、手ぶらでジローのところにこないこと、そして、いまだ社会変革の夢を捨てていないことだ。
 男たちがダイニングテーブルについて、本を開くと、ジローは定位置のキッチンに一番近い椅子から立ち上がった。コーヒーをいれるためだ。
 今日も暑いなど、どこの誰が病気だの、語りあっているうちに、読書会が、さざ波のように始まる。テーブルのそばには扇風機が二つ置かれ、ともに首を振っている。ジローがエアコンのスイッチを入れようとすると、三人はそろって扇風機でいいと答えた。
 湯を沸かし、豆をひき、ドリップしながらも、ジローは時折振り向いて、会話に加わる。
 いつも、章ごとにリポーターが決まっているので、それぞれがアンダーラインを引いた文章を読み上げたり、自分の哲学を述べたり、話が脱線して、六〇年代後半の武勇伝を語ったり、どこまでが雑談で、どこまでが本論か、わからないまま、読書会は続く。
 四人分のコーヒーをいれると、ジローはテーブルにつき、自分の分担のリポートを始めた。

47
 そば好きなジローだが、この本のテーマをおいしい手打ちそば屋にたとえて、理解していた。おいしい手打ちそば屋は、店主が一人で営む小さい店で、その日売る分をその日打ち、売り切ったら閉店となる。営業は昼だけ。心を込めて打つそばはおいしくて、当然、評判になる。ところが、やがて、店主に魔が差してしまう。もっとそばを大量につくって、もっとカネをもうけよう、と。それまでは、そばを打つためにそばを打つそば至上主義者だったのだが、今度はカネのために打つようになってしまう。とりあえず、もっとそばをたくさんつくるために、店を大きくして、そば打ち職人を雇った。残念ながら、その職人の腕は店主ほどではない。最初のうちは客が増え、売り上げも上昇するが、しだいに味が落ちたと、悪評が立ってしまう。味が落ちれば、客は減る。店の改装資金の借金に加え、そば打ち職人の給料も払わなくてはならない。そして、ついに、店は畳まざるを得なくなってしまう。
 小さいうちはうまくいくが、欲が出て、もっと大きくしようとすると、結局、すべてを失ってしまう…。
 巨大信仰、でっかいことはいいことだ。これに対抗するのが、まさにスモール・イズ・ビューティフル。
「このコーヒー、素人のうちでいれたにしてはおいしいね」
 と、今川がジローをねぎらう。
「そのそば屋の話、コーヒー屋でも言えるかも」
 ジローは、こだわりのマスターがネルドリップでコーヒーをいれる店を想像してみた。もし、機械で大量にいれたら、それなりの味しか出ないだろう。やはり、店は小さいほうがいい、と思った。
 続いて、今川がリポートする。
「現代人は自分を自然の一部と見なさず、自然を支配、征服する任務をおびた、自然の外の軍勢だと思っている」
 と、今川が引用した部分には、ジローもアンダーラインを引いていた。
「自然との戦いなどと口にするが、その戦いに勝てば、自然の一部である人間がじつは敗れることを忘れている」
 ジローは今川の言葉にうなずいた。
「それを、四十年も前に言ってたってとこがすごいなあ」
 と、加藤が言うと、大山とジローは黙ってうなずく。
 戦争の原因は、貪欲と嫉妬心。必要なのは、永続性と平和。問題は、人類の「失敗」ではなく、「成功」によって、引き起こされる。欲望には限りがなく、物質世界では満たされない。市場は、質を交換可能な量に転化する、個人主義と無責任を制度化したもの。自然は限度を知っているが、人間は限度を知らない。
 今川の指摘した部分の多くを、ジローは見落としていた。
「そんなこと書いてありましたっけ?」
 と、ジローが言うと、今川は付箋の張ってあるページを開き、引用部分を示した。
「同じ本でも、読む人が違うと、拾うところが違うんですねえ」
「それが、読書会の目的だって」

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 この本の第四章は原子力についてである。続いて、大山がリポートした。大山の家は原発からほんの三㌔のところにある。若い頃、原発に反対する発言を繰り返し、隣人が冷たくなったという経験を持っている。
「今日、人類には放射性物質を造る力はあるが、いったん造ったが最後、その放射能を減らす手だてがまったくない、と書いてあるんだよ。つまり、自分ではどうしていいかわからない問題の解決を子孫に押しつけてる、とも書いてあるよ」
「まさに、パンドラの箱」
 と、ジローが言った。
「箱の中にまだ一つ残ってるからさ。予知が」と今川がいう。
「先のことはわからないから、希望を持てる…」
「そう思いたいね。要は、どうやってエネルギーを造るかより、どうやってエネルギー消費を減らすかだよ」と大山。
 加藤もリポートを用意してあったらしいのだが、言いたいことはもうほとんど言われてしまったなどといって、読書会は第二部に移ることになった。男たちは腹がすきすぎていた。
 三人がスーパーに食材を買いに行っている間、ジローはフランス製ほうろう鍋ル・クルーゼの二十㌢のココット・ロンドで、白米を三合炊いた。水は六三○㏄、沸騰したら、弱火で九分、火を止めて十分ほど蒸らす。その間に、酢六○㌘、砂糖六○㌘、塩一五㌘をあわせて、すし酢をつくる。
 白米を蒸らしてから、ようやく重いふたをとり、すし酢を回しかける。鼻をつく酢の匂いが、湯気とともに立ちのぼる。
 テーブルの上には、ジローの自慢の高級天然木の飯台が置かれている。両親の店が休業中で、すしを食べられなくなったため、しかたなくそれを買い、自分で酢飯だけはつくるようにしたのだ。ジローは回転ずしには一生行かないと決めている。
 白米を飯台に移すと、しゃもじで、切るように混ぜ、隅に寄せた。ここで、十分待つ。
 その間に、すし酢が熱い米に染みこんでいく。ここはまだあおいではいけない。
 酢飯の作り方は、実家で教わってきた。幼い頃から祖母のきほが酢飯をつくるのを見てきたジローは、その記憶を頼りに、教えを実行してみたら、だいたい同じ味になった。
 団塊の男たちが買い出しから戻ってきた。これから行われる手巻きずしパーティーには十分すぎるほどの食材が、買い物バッグの中にはあった。余った食材は、いつもジローが場所代としていただく。
「あ、酢飯の匂いだね」
 と、加藤が言う。この三人の中では、加藤が一番料理には疎い。ということで、ジローは、加藤に単純作業を依頼、酢飯を、飯台一面に広げ、うちわであおぎ、冷ます作業だ。
 ジローは急いで、フライパンで、形のあまりよくない卵焼きをつくり、今川と大山にキッチンを譲った。ふたりは並んでキッチンに立ち、お互いに声を掛け合いながら、手際は悪いながらも協力して、ネタを用意していく。ジローは手が空いたので、皿や箸を選び、テーブルに並べ始めた。

49
 男たちは誰一人として、手を休めない。ここでのホームパーティーの原則は、働かざる者食うべからずだ。
 準備ができた。四人のうち、ただ一人加藤だけが酒を飲む。早速、五〇〇㏄の缶ビールを開けた。ジローは、飲もうと思えば飲めるのだが、酔っぱらって、洗い物をするのも面倒なので、今日は飲まないことにした。今川と大山は、自動車を運転して帰らなくてはならない。ということで、ビールと麦茶で、まずは乾杯だ。
 テーブルの中央には、酢飯の入った飯台、まわりには、マグロ、イカ、たくあん、しそ、キュウリ、卵焼き、納豆、マヨネーズとあえたツナなどネタがのった皿が並ぶ。
「じゃ、オレから先にちょっといただくよ」
 と、今川が左手にのりをのせ、右手ですし飯をすくってのせ、マグロを巻いて、一口食べた。
「のりがパリっとしてて、おいしいなあ」
 続いて、大山も加藤もまねして、のりでシャリとネタを巻いていく。
 加藤は、自分がつくる気はまったくないにもかかわらず、ジローに作り方を詳しく聞く。
「絶対に大事なことは、ごはんを上手に炊くことなんですよ。ここがダメなら全部ダメ」
 加藤は、ジローにさんざん熱く語らせ、自分は笑顔で黙って聞いている。聞き上手なのだ。
 男たちは、食べつつ語り、語りつつ食べ、次の本をどうするかも話題に上げた。
「マルクスの娘婿にさ、なんとかっていうのがいてね」
 と、加藤が缶ビール片手に、語り出した。
「なんとかじゃ、わかんないねえ」
 と、今川が言う。
「パソコンで調べればわかるよ」
 と、大山がいうので、ジローはテーブルの上の皿を寄せて、パソコンを置き、早速インターネットで検索をかけた。やがて、ポール・ラファルグ『怠ける権利』という本がヒットした。
「紹介文で、高貴で神聖な怠ける権利を宣言しなければならぬって書いてありますよ」
 とジローが説明すると、全会一致で、次回の本はそれに決まった。怠ける権利、なんと美しい響き、ジローはその場で早速ネットで四冊注文した。
 次回は、スモール・イズ・ビューティフルにけりをつけ、その本を配ることになった。リポートが始まるのは、次のまた次からだ。
 いつしか、飯台の酢飯は、三合、もうすべてなくなった。
「さっきのコーヒーおいしかったから、もう一杯コーヒーいれてくれる?」
 と、今川。
「さっきのおいしかったからね」
 と、大山が続くので、ジローはまたコーヒーをいれる。湯を沸かし、豆をひき始めた。
 加藤は陽気に二本目の缶ビールも飲み干した。
 網戸越しに、ヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。あたりはようやく暗くなり始めた。

50
 男たちは、腹が満たされ、話のネタもつきると、全員が立ち上がり、片付けを始めた。パーティーは、買い出しから始まり、片づけまでで完結する。生徒たちを引率して、どこかで宿泊すれば、教師が必ず言うセリフは、「来たときよりも美しく」である。ここでも、それがルールだ。
 大山が食器を洗い、今川が布巾で拭くと、ジローの指示で、加藤が食器をそれぞれの収納場所に置いていく。今日もあまった食材は、すべてジローのものになった。ジローは新しくなって容量の増えた冷蔵庫に食材を収納して、テーブルを拭くと、男たちが「来たときよりも美しく」なった。
 そして、男たちはまたテーブルにつくと、それぞれ財布を出した。まず、今日のパーティー代を精算した。一人千円ちょっとだった。そして、ジローが小ぶりのブリーフケースを持ってきて、中から封筒を出して、配った。男たちは、それぞれの封筒の中に月収の百分の一を封筒に入れていく。実は、この男たち、日本を変えるために、ここに集まっている。誰もが本気だ。
 特に団塊の世代の三人は、学生運動時代に目指した社会変革の夢を、四十年以上、今も諦めないで、追い続けている。
「〝いいかげん〟がよいかげん。それが長続きするコツだよ」と今川。
「熱心なヤツでも、燃え尽きて、離れていったのもいたなあ」と加藤。
「そうそう」と大山。
 ジローは、そろそろ日本が変わると思っている。本気で。
 ジローが集金袋を回収し、領収のサインをした。この金は、男たちも属す、日本を変えるための組織を支援する活動資金に充てられる。ジローは、その支援活動の会計を担当している。
 国を変えるには、とにもかくにも、カネがいる。団塊の男たちは、たとえ年金生活者となっても、決して多くない月収の百分の一は社会変革のために費やすことを決してためらわない。
「しかし、定年になったらさ、話し相手を探さなきゃいけないくなったから、面倒だよな」
 と、今日は十分語った今川が、大山と加藤に同意を求める。二人は、うなずく。
「定年後は、やることいっぱいあるからってさ、断ったんだよ。学校に残って数時間授業やるように頼まれてもさ」
 と、今川が続けた。
「多少の束縛は、人生には必要なのかもしれないなあ」
 と、加藤が言う。
「孫の面倒もいいけどさ、孫は来てよし、帰ってよし、だからなあ」
 男たちのうち、大山だけは、孫が二人もいる。ジローは、自分の孫を想像した。モモが働いている間、ベビーシッターとして孫を思いっきり甘やかす。シングルグランドファーザー、想像するだけでも、楽しくなる。
 男たちは、来月集まる日にちを決めて、帰っていった。
 まだ、夜はたっぷりある。ジローは、またつぶやいた。
 自由だ、と。

51
 ジローにはささやかな夢がある。それは、一人、居酒屋にふらりと行ってみることだ。
 知らない町の駅にふらりと降りて、その近くにある小さい店に立ち寄る。七人も座ればいっぱいになるようなカウンターの中央に、その町に暮らす常連たちが居座っていて、その隅にひっそりと座り、常連たちの会話に耳を傾け、時にあわせてほほ笑んだりしながら、一人、ちびりちびりと飲むことを想像してみたりする。
 団塊世代の男たちが去り、一人、自由な時間を前にして、作戦を練ってみた。
 茶畑の真ん中のこの田舎には、そんな店は一軒もない。
 さすがに、これから電車に乗って出かけるのもおっくうだ。
 仕事帰りに、週に何日も、居酒屋に立ち寄るオトコはいるだろう。
 仕事帰りにはスーパーに寄るくらいのジローは、少し、うらやましくなったりもする。
 かつて、ジローの両親の店もそんな店の一つだった。
 夕方になると、カウンターで、刺し身をさかなに飲んでいく常連も珍しくなかった。
 さて、この自由な夜をどうしてくれよう。ジローの目の前には、まぶしいほどの無限の選択肢が放射状に広がっている。
 短パンではなく、ジーンズを履き、Tシャツではなく、襟のあるポロシャツを着て、ビーチサンダルではなく、スニーカーを履き、髪に微量の整髪料をつけ、うちを出た。
 まだ、夜は始まったばかりだ。
 車に乗って、結局、ジローが行き着いたのは、ファミリーレストランだった。飲み放題のコーヒーを注文し、一冊の本を持ち込み、ボーっとすることだった。明るい店内には、若きカップル、中年のカップル、語り合う女性客、ひとり食事するサラリーマンなど、見ていて飽きることはない。
 ジローは、ヘミングウェイの短編を思い出した。老人が一人、カフェで長居する話。若いウェイターは迷惑がっている。妻がいる。初老のウェイターは老人に共感している。彼も眠れない夜を過ごす派なのだ。
 ジローは、複雑系科学の本を開いた。今日のページには、因果関係を疑うとあり、理解が難しい。
 ふつう、原因があって結果がある。原因をつきとめれば、同じ結果を再現することも、阻止することもできる。こうすればああなる、と。
 試合に勝った日に、ひげをそらなかった。だから、次の試合も、ひげをそらなければ勝てる…。これは極端だが。
 一つの問いに一つの答えを求める勉強にわれわれは慣れすぎている。自然界や実社会での現象のどれも、たった一つの原因で起こることはありえない。
 ジローがここまで理解するのに、三十分かかってしまった。
 コーヒーはすでに三杯飲み干し、もう飲めない。
 体が冷えてきた。ジローにはこの店内はクーラーが効きすぎている。
 ジローは席を立った。

52
 ジローは次の店に移動した。
 最近できたコーヒーのチェーン店。ここは、雑誌や新聞が何種類も置かれ、コーヒーと一緒に豆菓子もついてくる。どうやら、朝来れば、トーストと卵もおまけでついてくるらしい。
 ファミレスのクーラーで冷えた体を温めようと、ホットココアを頼んだ。
 雑誌に一通り目を通すと、この夏、政権交代の記事ばかり。
 いよいよ、団塊世代の同志たちの社会変革の夢が現実に近づくのだ。まずは、半世紀続いた政権党を権力の座から引きずりおろすことから始めなくてはならない。
 ジローは持ってきた本をまた開く。こうすれば、ああなる。この思考に何度裏切られてきたことか。がんばれば、成果が出るはず。しかし、がんばらなくても成果が出たり、がんばればがんばるほど悪くなったり、人生はそう単純ではない。
 労働者が団結して力を合わせれば、社会を変えられるはずだ。強者より、弱者のほうが圧倒的に数が多い。ゆえに、団結こそ力になる。しかし、ことはそう単純には進まない。
 実際、ジローの属すクミアイは少数である。ジローは、同僚に加入を呼びかけても、呼びかけても、フラれ続けてきた。
 一つの結果は、複数の原因によってもたらされ、一つの原因が、複数の結果をもたらすこともある。
 豆菓子のしょっぱさと、ココアの甘さが、心地よいハーモニーを醸し出す。塩を入れればしょっぱくなり、砂糖を入れれば甘くなる。料理も、そう単純ではない。塩と砂糖の配分だけでも、ずいぶんと味が変わる。
 季節、素材の状態、食べる人の好みや体調、料理の仕方、食器や盛りつけ、食べる場所の雰囲気、誰と食べるか、無限の要素が一つになり、初めて美味は生まれるのだ。
 ジローは、以前、同僚に誘われ、陶芸家を訪ねたことがある。その陶芸家の言葉を覚えている。偶然と必然の融合、これが芸術。自然が介在すると、思い通りにはいかない。やれることはすべてやって、あとは自然にすがるしかない。
 その陶芸家は、一週間、松のまきを燃やし続けるという。家族総出で、交代で眠り、二十四時間休みなく。
 人間は、コントロールすることで進歩しようとしてきた。自然をコントロールし、他者をコントロールして。コントロールができなければ、暴力的な手段さえ使って。
 ジローは、モモをコントロールできず、自分さえコントロールできない。
 はたして、人間はコントロールできるのか。人間のすることは、すべて、偶然と必然の融合なのではないのか。
 端から見れば、そんなジローはとても暇そうに見えるだろう。しかし、今、ジローはまったく暇ではない。ボーっとすればするほど、頭の中は超多忙になる。
 閉店間際に店を出て、帰りに缶ビールを買った。ひさしぶりの晩酌だ。まだ、夜は長い。

53
 自由第二夜、ジローのうちに、また他の男たちがやってきた。昨年、ジローが担任したクラスの卒業生三人だ。そのクラスは、就職・短大・専門学校コースで、男子が五人しかいなかった。その五人とジローの六人が、男組なる組織を結成した。
 体育会系女子が多いそのクラスでは、当然、主導権は彼女たちに握られていた。そこで、男子の団結を強める必要性から、ジローが男組を提唱したのだ。残念ながら、男子の結束は固かったものの、女子に対する影響力はほとんどなく、卒業まで、クラスは体育会系女子の意向に沿って運営されていった。
 その男組は、今も活動を続けている。時々、ジローのうちに集まり、男の料理を食べる。男の、男による、男のためのホームパーティーだ。会話のほとんどは、とても女子には聞かせられないようなものばかりである。
「お邪魔します。お、いい匂い。さすがセンセイ」
 元バスケットボール部男子が、先頭で、入ってきた。なかなか要求の多い男子だ。
「申し訳ないっす」
 元サッカー部主将が気を利かせて、二㍑入りペットボトルの烏龍茶を差し入れた。
「お邪魔します」
 声が小さいのは、元卓球部男子。
「ま、味見してみろ」
 と、ジローが鍋から汁を小皿にすくい、バスケに渡す。
「やべえ、これ」
 サッカーも卓球も味見をして、「やべえ」と言う。
 やべえは、彼らのほめ言葉の最上級である。
「二日かけたからな」
 バスケの執しつ拗ようなリクエストの豚の角煮だ。昨夜三時間蒸して、脂を抜き、今朝からトロトロになるまで煮込んでおいた。
「よし、仕事だ」
 ジローの号令で、三人がまず手を洗い、餃子作りに取りかかる。タネはジローが仕込んである。テーブルの上のボウルを囲み、全員、スプーンを片手に、タネを市販の餃子の皮で包んでいく。皮が足りなくなったが、強力粉があったので、水で溶いて皮をつくり、ひたすら包んだ。包み終わった餃子は、半分をフライパインで焼き、もう半分を卓上コンロの上の鍋で水餃子にした。
 白米が、フランス製ほうろう鍋ル・クルーゼで炊きあがった。ジローは電気炊飯器を信用していない。以前は持っていたのだが、処分してしまった。
 ジローはふたを開け、湯気が上がるつややかな白米にしゃもじを入れ、天地返しをした。茶わんによそい、男たちに分ける。
 この白米も「やべえ」と評された。
「なんで、こんなにうまいの?」、とバスケ。
「ごはんだけで、三杯はいける」、とサッカー。
「おいしい」と一言、卓球。
 それしか言えないのかと、卓球が二人に即座に責められる。
 白米は瞬く間になくなった。
「センセイ、もう炭水化物なんかないの?」、とあいかわらず注文の多いバスケ。

54
 冷蔵庫の中には大した食材がなかったので、男たちは仕方なくジローの書いたメモを持ってスーパーに買い出しに行った。
 食材がそろうと、今日一日動きの鈍い卓球が、ジローの細かい指示に従い、あんかけ焼きそばをつくった。
「これうまいぞ。よくやった」
 と、ジローは味見をして、卓球をねぎらう。この焼きそばも、「やべえ」と形容された。
 卓球は、いわゆる、いじられキャラである。つまり、からかわれるタイプということだ。たいてい、バスケがいじり始め、サッカーも便乗する。
「で、アンちゃん、どうなったの?」
 アンちゃんとは、高校時代、卓球がひそかに思いを寄せていた女子だ。卓球と同様、アニメが好きなようである。
「そうそう、それ聞こうと思ってたんだよねえ」、とサッカーが早速便乗する。
「いくときゃ、いかなきゃ、何も始まらないぞ。いってダメなら、次いきゃいいってわかるんだから、ダメでも前進なんだぞ」
 と、ジローも説教で参戦した。
「センセイ、たまにゃ、いいこと言うじゃん」
 バスケがからかう。
「たまか?」
「じゃ、ときどき」
「ときどきか?」
「いや、いつも、です」
「よし」
 そして、ついに卓球に白状させたところ、実は卒業式の直後、卓球はアンにすでに告白していた。面と向かってではなく、メールで、だったが。返信メールは、いまだ届いていないらしい。つまり、フラれたのだ。
「よくやった」
 ジローは椅子を卓球の隣に寄せ、卓球の肩を抱いた。
「その勇気すごくね?」
 めずらしく、バスケがやさしい声で言った。
「見直したよ」、とサッカー。
「その度胸がありゃ、カノジョできる日は近いな」
 バスケが熱く語り出した。
「これは、負けじゃないぜ。むしろ勝ちといえる」
 サッカーが右拳を握って、突きあげた。
 卓球の勇気と、サッカーとバスケのやさしさに、ジローの胸も熱くなった。焼きそばもなくなると、デザートだ。
「よしアイスロボⅢの出番だ」
 と、ジローはこれからかき氷を作ることを宣言した。この夏、アイスロボⅢの二回目の登場である。
「センセイ、かけるのあるの?」、とバスケ。
「心配するな。たしか、冷蔵庫に練乳がある。カルピスかけてもうまいぞ」
 バスケがそれらの賞味期限を調べた。すでに一年以上過ぎていた。
「ま、気にするな。大丈夫だ」
 卓球がすぐに椅子から立ち上がり、キッチンに立った。
「お、えらいぞ。ちょっと変わってきたねえ」
 その後も、男たちは女子の話題ばかりで盛り上がった。ジローも年齢を忘れ、その話題を終始リードした。

55
 次の日は、水泳部の練習があった。ジローが立てた練習メニューは、泳ぐ距離はさほどでもないのだが、ダッシュを繰り返すというかなり強度なものだった。
 プールサイドの黒板に、マネジャーがメニューを書くと、当然、選手たちからはブーイングの声が上がる。
「でも、早く帰れるぞ」
 と、ジローが言うと、それもそうだ、と一人が言い出し、他の選手たちもやる気になったようだった。
 スポーツの指導者がよく言うことは、練習量は裏切らないということだ。努力をすればするほど、よりよい成果が出る、と。しかし、現実は、努力しても負けたり、努力をしなくても勝ったりすることもある。これが現実だ。
 時に指導者は、究極の選択を迫られる。実力のない努力家を起用するか、努力をしない実力者を起用するか。もちろん、勝つためには、後者を起用するしかない。しかし、それは、練習量が選手を裏切り、努力が報われないことを認めることにもなってしまう。
 ジローが監督を務める水泳部も、今、その究極の選択を迫られていて、チーム内は揺れていた。もちろん、ジローの心の内も揺れていた。
 月末には地区大会があり、それに入賞すれば、県大会に進むことができる。それは、チームの大きな目標である。
「センセイ、どうすんの?」
 と、しっかり者の女子マネジャーが、八月に入り何度も言う。男子チームのことだ。さすがのジローも、最近、そのことではストレスを感じてはいる。
 次の地区大会では、県大会に確実に出場できるのは、ジローの予想ではエースだけ。そのエースを中心に、ベストメンバーでリレーチームを組めば、ぎりぎり入賞して、他三人、あわせて四人の男子が県大会に出場できるだろう。残念ながら、個人種目で勝算のある男子はエース以外にはいないので、このリレーチームの編成は、かなり重要になってくる。
 エースの次に速い準エースが問題なのだった。練習をサボるのだ。たまに練習に参加したとしても、一時間以上遅刻してくる。他の選手が疲れているころに、練習に合流し、得意げに速く泳ぐ。当然、他の選手はおもしろくない。プールの雰囲気も険悪となる。
 しかし、準エースに頼らなくては、リレーでの地区大会入賞は難しいだろう。この日も準エースは練習をサボった。ジローは何度もケータイにかけたが、応答はなかった。
 そんな状況での、短時間練習は、気分転換にもなったようだ。中には、練習後カラオケにでも行こう、という選手もいた。
 監督としての結論はまだ出していない。人生は、思い通りにはならないが、思いがけないことも起こる。こちらが思ってもみなかった答えが、むこうからやってくることを、特に水泳部では、何度も経験している。ジローは、積極的静観を決めた。

56
 まだ、昼までに一時間はある。ジローは、街の一番大きなスーパーへと車を飛ばした。モッツァレラチーズとゴルゴンゾーラチーズは、いつも行く小さなスーパーには売ってないからだ。
 ジローは食材を買い込み、うちに戻ると、ベランダのミントを摘んで、ハーブティーをつくり、冷蔵庫で冷やしておいた。バジルも摘んで、ニンニク、オリーブオイル、松の実、パルメザンチーズ、塩を混ぜ、すり鉢ですり、ペーストをつくった。
 翌日にはモモが帰ってくるというこの日、最後のシングルデーである。午後は、しっかりと有給休暇の申請をしてある。
 ジローは久しぶりに、短パンではないジーンズと靴下を履いた。洗面台の鏡の前に立ち、帽子をかぶっていたせいで、寝てしまった髪を濡らし、少しワックスをつけて、立体感のあるヘアスタイルにした。
 今日の午後は、シングル・アゲイン・クラブ(以下SAC)が開催されることになっていた。
 SACは、もう一度シングルになった独身主義者の集まりである。お互い慰め合うのではなく、お互いを高めあうことを目的としている。
 といっても、活動内容は、ただ参加者がおのおの料理をつくり、レシピを教えあい、食べては語り、語っては語ることだ。
 そのメンバーは、いまのところ、ジローを含め、二人である。
 やがて、ドアチャイムが鳴った。ジロー以外の唯一のメンバー、シングルマザーのユキノが到着した。入道雲の白より白いワンピースを着ていた。
 ジローは、彼女のサラダのようなところが気に入っている。化学調味料などの過剰な味付けがされてないオーガニック野菜のような女性である。素材そのものの味が伝わるようなナチュラル・ビューティーの持ち主だ。
 ジローは、シングルマザーが好きである。同じシングルペアレントということで、共感できることも多いからだ。
 ユキノは、結婚に幻想を抱かず、所帯じみてなく、男にこびず、自分の足で立ち、太陽に照らされて光る月ではなく、自ら輝く太陽のような独身主義者。
 つられて、ジローも独身主義者となった。独身主義者は、男女の関係を築くとき、法律や家制度で相手を所有しようとしない。よりかかるのではなく、よりそう関係が理想だ。
 人間関係というのは、いったん成立すれば、ずっと続くようなものではない。会うたびに、お互いが試され、時には緊張感も伴うもの。いったん結婚すれば君は永遠に僕のもの、というわけにはいかないのだ。
 もちろん、誰かを好きになったら、その関係はずっと続いてほしいものだ。しかし、そのために相手を所有しようとしたら、かえって関係を終わらせてしまう。
 家事や育児や家計の必要性から続く関係もあるだろう。しかし、それはSACの目指す関係ではない。
 今、二人がここにいる理由は、二人がここにいたいからだ。その他に理由は、何もない。

57
 前菜は、モッツァレラチーズとトマトとレタスのサラダパスタだ。
 ジローがキッチンに立つと、隣にユキノが立って、必要なときに必要なだけ、さりげなく手を貸す。ジローがチーズと野菜を切って、ボウルの中に、氷水で冷やしたスパゲティと一緒に入れた。その間、ユキノが、ドレッシングをつくる。オリーブオイル、蜂蜜、ワインビネガー、岩塩、四色ペッパーを、二人で味見しながら、混ぜる。最後に、ドレッシングと野菜とスパゲティをあえて、できあがりだ。
 二人は、丸テーブルの時計でいうと三時と六時の位置に座った。向かい合うわけでなく、ともに同じ方向を向くわけでなく、時間と空間を共有しやすい心地よい距離感だ。
「ジロー君、いつもこんなにおいしいの食べてんの?」
「今日は調子いいみたい」
「モモちゃんも幸せだね」
「モモは、こういうの好きじゃないみたい」
 ユキノがジローの膝に手を置き、笑った。それは、ユキノにとっては大した意味のない自然な行為でも、ジローにとってはなかなかの刺激だ。
 湯はパスタ鍋の中で、沸騰したままなので、食べている間に、次のパスタをゆでている。
 二品目は、ベランダで育てたバジルのペーストを使った。パスタとついでに一緒にゆでたスティック状のジャガイモに、そのペーストをあえる。
「ペーストは、たくさん作ったから、瓶に詰めて、お土産で持っていって」
 ジローはまたユキノを喜ばせる。ユキノに見つめられ、ジローは照れて、皿に視線を落とす。
 最後は、かびの生えたチーズ、ゴルゴンゾーラを使った。ニンニクのみじん切りをオリーブオイルで炒め、生クリームを注ぎ、チーズを溶かし、ギザギザの太いマカロニのようなペンネとあえる。
「手際いいね」
「そう?」
「私はそんなに要領よくできないから」
 ジローはほめられて伸びるタイプだ。ユキノが来るたびに、料理がうまくなっていく。
「もうおなかいっぱい」
「じゃ、デザートにしよう。ミントティー冷やしておいたから」
 ユキノが、ジローを制して、立ち上がった。
「いいの。あとは私がやるから」
「じゃ、ミントティー冷蔵庫から出さなきゃ」
 立ち上がろうとするジローの両肩に、ユキノが手をのせ、背後から言った。
「ジロー君は、立たなくていいの。あっちのソファにでも座っててくれればいいから」
 デザートはユキノの担当だ。
 アイスロボⅢの出番は今日はなさそうだ。
 座っていれば食べ物が運ばれてくるということは、ジローがもう何年も経験していないことだった。デザートに期待をふくらませ、胸が高鳴るという言い古された現象が、本当に胸のあたりで起こっていることに驚いた。

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 残念なことに、ユキノは、晩ごはんの支度があるからと、まだ明るいうちに帰っていった。
 ジローは、その夜、ぽっかりと穴が空いたように暇になった。明日はモモが帰ってくるため、ジローの最後のシングルナイトである。
 その夜、花火大会が予定されていた。電車で三駅ほどいったところの河川敷で行われるのだが、人混みの嫌いなジローは、毎年近くの山の頂上まで車で登り、モモをつきあわせて、その遠い花火を眺めた。ラジオを聞きながら、麦茶を飲みながら、菓子を食べまくりながら。
 天気はよさそうだった。予定通り花火大会は行われるだろう。
 ジローが誰を誘おうか考えると、一人しか思い浮かばなかった。襟のあるシャツとジーンズと靴下を脱ぎ捨て、短パン、Tシャツ、サンダルのいつもの格好に着替え、ジローは実家へと車を飛ばした。
 実家では、ちょうど夕飯時だった。
「おなかはどう?」
 と、ヨウ子が、おかえりを言った後に、聞いた。ジローは、もちろん、空腹だ、と答えた。
「ちょうど、ナスとキュウリとシラスをもらっただよ」
 と、ヨウ子が言う。テーブルの上の新聞紙の包みを開くと、形はいびつだが、ツヤとハリのある野菜たちが姿を現した。
「ほんとうに、ありがたいよ」
 と、ヨウ子が言う。店の収入が途絶えた今、かつての店の常連客が野菜を時々届けてくれるのだ。
「じゃ、これでおかずつくるよ」
 ヨウ子は、それを聞くと、安心したのか、居間で横になった。居間には、たばこをふかしながらテレビのニュースを見るトモカズと、オマルに座るイチローもいた。
「なんか手伝うかね」
 と、きほがエプロンをつけて台所にやってきた。
「じゃ、野菜でも切ってて」
 ジローは、一人でも簡単にできるのだが、あえて、きほに頼んだ。本当の不幸は、誰からも必要とされないこと、と聞いたことがある。
「おばあちゃん、ごはん食べたら、花火見に行こう。粟ケ岳の頂上まで車で上れば、川の向こうに遠い花火が見下ろせるよ」
「そりゃ、よさそうだやあ」
「だから、すぐに行けるように、支度しておいて」
「そうするでね」
 早速、ジローは、ナスを網の上で焼きながら、キュウリを薄く切り、塩をふった。ショウガをすり下ろし、汗をかいたようなキュウリを手ぬぐいで包んで絞った。ショウガは、焼きナスの薬味に使う。キュウリは、酢、砂糖、シラスとあえ、塩で味を調え、うりもみにした。
 ジローは居間のトモカズを台所に呼んだ。
「ちょっと、うりもみ、味見て」
「もうちょっと、砂糖だなあ」
 この家の伝統の味は、やや甘めである。
「で、どうなの、このごろ?」
 ジローが、トモカズに小声で話しかける。ジローの質問に、トモカズの反応がない。

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 トモカズはもともと耳が遠いのだ。もう一度、声をかけると、ようやく答えた。
「まあ、あと三カ月やそこらは、かかるなあ」
 ヨウ子の様態である。
「まだ、一人にしとけないでな。オレが見えるとこにいにゃあ、いかんだで。たばこを買い行くにもついてくるから、まったくまいっちゃうよ」
 すると、居間から、ヨウ子がキツい口調で言った。
「聞こえてるでねえ」
「これだで、まいっちゃうなあ」
 ジローもトモカズも笑った。
 会話の最中にトモカズが、片耳に手を当てて、何度も聞き返すので、ジローはトモカズの耳の調子を尋ねた。
「オレ、こっちの耳が聞こえんくなっちゃっただよ」
「で、もう片方は?」
「それが、こっちの感度がよくなったから、電話がよく聞こえるようになったなあ」
 ジローにとっては、片耳が聞こえなくなったら一大事だが、トモカズにとってはそうでもないようだ。かえって、電話が前より聞こえるようになって、便利になった、と喜んでいる。
「じゃあ、得したねえ」
「まあ、そんなとこだなあ」
 ジローは、あらためて、人生はつくづくプラスマイナスゼロであることを思いながら、うりもみに砂糖を多めに入れて、かき混ぜ、トモカズに再度味見を頼んだ。
「これで、おばあちゃんのと同じ味になったなあ」
 ジローと、ジローの祖母、両親、兄の五人がテーブルに着いた。白いごはんと、おかずは焼きナスとうりもみと冷ややっこだけ。イチローには、ラーメンのどんぶりにごはんを入れ、その上におかずをのせた。トモカズとジローのごはんは大盛り、きほはふつう盛り、そして、ヨウ子の茶わんには鳥のエサ程度。
「兄ちゃん、おいしい?」
 ジローが聞くと、イチローはスプーンをすすめる右手を休め、指を鳴らした。
「こういうおかずがが一番いいなあ」
 と、トモカズが言う。
「いい味だよ。ね、お母さん」
 と、ヨウ子が、きほに言った。
「あんた、男だに、よくやるねえ。昔は男やもめにゃうじがわくって言ったもんだに」
 ここのところ、経済的事情から、この家の食卓に肉や魚が上らないことがよくあるが、戦争をくぐり抜けたきほにとっても、貧しい幼少期を過ごしたトモカズにとっても、大したことではないようだ。毎日米を食べられるだけでもありがたいのだろう。粗食は、家計だけでなく、体にもやさしそうだ。これもプラマイゼロ、いや、むしろプラス、とジローは思った。
 夕食後、トモカズがしきりにヨウ子に薬をきちんと飲むようにと言った。
「わかってるで、いいよ」
 と、ヨウ子が面倒くさそうに答える。
「ちゃんと食べなきゃ、薬飲めんぞ。薬は食後に飲むんだから」
 トモカズは、子どもに対するような口ぶりだ。

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 ヨウ子の食欲はいまだに戻っていないようだ。薬を飲むためにしかたなく食事をしているのだろう。食後のお茶を飲むと、ジローは、きほを連れ出した。
 一時間もたたないうちに、山道を、ジローが運転する軽自動車は上っていった。コンビニに寄り、和菓子とペットボトルの緑茶も買い込んだ。高度が上がるにつれて、道幅が狭くなる。対向車はまったく出合わない。こんな時間に、山に来るような物好きはまずいないだろう。
 きほは、女学校の遠足で、この山頂まで歩いて登ったのだそうだ。ここに来るのは、実に七十年ぶりくらいのことだ。きほは、話し上手で、いきいきとその時の様子を話す。ジローは何度も聞いたことがあるのだが、あまり退屈することはない。
 やがて、眼下の町の夜景が広がった。
「ほい、きれいだやあ」
 と、きほが言うが、ハンドルを握るジローは見ることができない。よそ見運転などしたら、崖から落ちてしまう。
「なんだか、おっかないねえ」
 頂上には、屋上に展望台がついた売店と駐車場がある。売店はすでに営業を終え、駐車場にも車はない。
「着いたよ」
 ジローは車を、花火大会が行われている方向に向けて止め、窓を全開にした。この高度だと蚊はいない。煎餅の袋を開けた。
「おばあちゃん、団子もあるよ」
「この夜景だけでも十分きれいだやあ。宝石箱をひっくり返したみたいってよくいうけど、ほんとそんな感じだねえ」
 煎餅の次に団子を食べ始めると、フロントガラス越しの夜景の底に小さな水中花のような花火がポツポツと上がった。
「あれは仕掛け花火っていうだよ」
「へえ、そうなの」
 もちろん、ジローは知っている。
「あれやあ、近くで見たら、大きなしだれ柳だねえ」
 続いて、スターマインが上がる。色とりどりのドーナツ型の花火がうち上がる。
「近ごろじゃ、ああいうのもあるだねえ」
「近くだと、人混みで大変だから、ここから見るのが一番いいよ。夜景もいっしょに見れるし」
「長生きはしてみるもんだねえ」
 ジローは、いつかここからの花火をきほに見せたい、とずっと思っていた。
「後で、音がなるだねえ」
 ジローは、音速と光速のことを説明しようと思ったが、面倒になってやめた。
「来年は、お母さんも連れてこよう」
「また一年、長生きしにゃいかんねえ」
「来年なら、お母さんも元気になってんじゃない?」
「なってもらわにゃ、困るやあ」
  最後の仕掛け花火は、ナイアガラだった。きほは、ナイアガラというマリリン・モンローの映画を見たことがあるという。
「ジローのおかげで、今日はいい保養をさせてもらったやあ」
 ジローにとっても、なかなか悪くない保養になった。

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