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弟2章「兄ちゃん」

20
 モモとジローが、車で小一時間の実家に着いた頃は、すでにもう暗くなっていた。
「ただいま」と二人が大きな声で言いながら、うちの中に入っていく。
 ジローの父、トモカズが台所で背中を丸めて料理をしている。すし職人であるトモカズは、店を閉じてしまったので、このごろはその腕を日々家族のために振るうようになった。
「おなかはどうだ?」、と振り向いて、モモに話しかけた。
「パパがつくったピザ食べてきたけど、ちょっとなら食べられる」
「ピザなんかつくれるのか?」
「おじいちゃんたちのも持ってきたよ」
「じゃ、いただくかなあ」
「ごはん前なのにいいの?」
 トモカズはそんなことは気にせず、皿にかかったラップをはがして、冷たいピザを一切れ食べた。
「うまいなあ。モモも食うか?」
「うちで食べすぎて、気持ち悪いからいらない」
 トモカズとモモがそんなやりとりをしていると、ジローは居間に行く。銀髪の祖母のきほが洗濯物を畳んでいる。昨年は、二回入院したり、転んで腰を打ったりして、一時は寝たきりになったのだが、もうこの頃ではそんなことがあったとは信じられないほど、健康面では好調が続いている。
「おばあちゃん、ただいま。で、調子はどう?」
「おかえり。どっこも悪くないよ」
 きほは、昼間は庭の草取りをした、と自慢する。
「暑くなかった?」
「涼しくなってから、てぬぐいを頭にかぶってやったから、平気だったよ」
 きほは、もう絶好調のようだ。
 兄のイチローは、居間の真ん中で、おまるに座っている。
 イチローは重度の障害者である。言葉は発することはできず、手は利き手のほうしか使えず、一人で歩くことも、一人で食事することも、一人で排せつすることもできない。
「兄ちゃん、またおしっこばっかりしてるの?」
 イチローは笑顔だ。おしっこは、すでにイチローの存在を世に知らしめるための表現活動の一つになったかのようだ。尿意を訴えれば、家族の誰かがやってきて、手助けをする。イチローは一人でないことを確認することができる。
 テレビでは、NHKのニュースが流れている。この居間でのチャンネル決定権はイチローが握っている。イチローは、どういうわけか、幼少の頃からNHKが好きだ。わかっても、わからなくても、NHKがついていれば安心するらしい。ニュースキャスターが、末期的な内閣支持率の低さについて語っている。この八月の終わりに、衆議院選挙を控えるにもかかわらず、与党は迷走を続けているようだ。
 やがて、おしっこが出る音がする。
「やっと出たねえ」
 イチローは満面の笑みを浮かべる。尿意がなくても、尿意を訴えることもあるイチローは、狼少年のようだ。

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 イチローがオマルを使うようになったのは、五、六年前からだ。そのころから一人で立って歩けなくなった。重度の障害者は、老化が非常に早いのだ。オマルは、居間の中心にあるのだが、もう誰も気にしなくなっている。トモカズなどは、オマルのふたの上に、湯飲みを置き、ちゃぶ台がわりに使うほどだ。
 ジローが、イチローのパンツを履かせていると、ジローの母親のヨウ子が声をかける。
「悪いねえ」
「母ちゃんはいつもやってんだから、寝てて」
 居間の隅では、二つ折りにした座布団を枕に、ヨウ子が横になっている。根元から五㌢ほど伸びた白い髪と、その先の栗色に染めた髪のツートンカラーが目立つ。特に体のどこかが悪いというわけではないのだが、ヨウ子は家族以外のひとと会うことも、一人で外出することもなく、一日中寝てばかりいる。
 去年はほぼ寝たきりで、もう寿命かと思われたきほが復活すると、今度はヨウ子がかわりに寝てばかりいるようになった。つくづく、人生はプラスマイナスゼロである、とジローは思う。かつては常にプラスを求めていたジローである。プラスばかり求め、すべて失い、ゼロどころか、マイナスに陥ってしまうような経験も何度かした。不惑の年を迎えたジローは、プラマイゼロならよしとすることを、最近、ようやく覚えた。
 ヨウ子がこうなったのは、昨年の秋のことで、最初は軽い脳出血だった。ヨウ子は、安静のため入院を勧められたが、高齢のきほと障害者のイチローをかかえ入院はできないと帰ってきて、しかも翌日から店にも出た。
 それからは、思考も行動もスローになった。トモカズが気を遣い、午後二時から四時はヨウ子に昼寝をさせ、食事はトモカズの担当となった。
 日課のように晩酌をしていたヨウ子だが、何を食べても、おいしくないという。そのためか、ヨウ子の体重がそうとう落ち、標準の体型にはなった。これもプラマイゼロといえばそうだが、急激に痩せたためしわも増え、すっかり老けてしまった。
 その後、ヨウ子はまったく笑わなくなった。
「おーい、できたぞ」
 トモカズが招集をかける。おすそわけの野菜の天ぷらと冷ややっこがおかずだ。食費を抑えるため、実家での献立はかなり質素になっている。しかし、ほぼベジタリアン食で、健康にはよさそうだ。これもプラマイゼロだ。モモはトモカズを手伝い、皿を並べたり、盛りつけをしたりしている。
「ほんと、助かるねえ」
 ヨウ子がかろうじて聞き取れる小さな声でねぎらう。ヨウ子の張りのある声も、もう何カ月も失われている。
「モモ、うちでもそれっくらいやってみろよ」
 と、ジローが言うと、すぐにヨウ子にたしなめられた。モモは精いっぱいがんばっている、と。ジローは四十になっても、ヨウ子に子ども扱いされる。
 モモはヨウ子を味方につけ得意げに、ジローを指さして笑っている。

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 ジローは、育児の大きなテーマに、自立を掲げてきた。
 かつて、家事は、すべて専業主婦だった妻に任せ、育児もほとんど妻に任せ、いつも妻に依存していたジローである。
 一方、専業主婦は、収入がないため、夫に経済的に依存せざるをえない。
 依存しあい、もたれあえば、結局、共倒れになってしまう。
 リコンは、自立への一歩だった。ジローは、家事的自立、妻は経済的自立を目指すための。
 家事と仕事は二本の足のようだ。家事ができて、仕事で稼げて、ようやく自分の二本の足で立てるのだ。
 ジローには、人という字は、二人が支え合うというより、もたれあう、しかも、大きなほうが小さなほうを押しつけているように見える。
 人間は、人と間と書く。人と人が、自分の足で立ち、そこには消えようのない間がある。人は、母親から切り離されて生まれた瞬間から、一人だ。人は、人との間を愛で満たすために生きている。もたれあったら、その間にある愛も壊れてしまう。ゆえに家族といえども、もたれあってはならない。自立したもの同士しか、支え合えないのだ。
 そのために、ジローが家訓に掲げたのが、家事分担である。
「パパは、召し使いじゃないぞ」とはジローの口癖。「モモだって、うちのことちゃんとやってるもん」とはモモの口癖。
 ここ数年、台所はジローで掃除はモモ、と、なんとなく家事分担の秩序ができあがりつつある。ジローは口にこそ出さないが、家事の戦力になりつつあるモモに少しは感謝している。
 うちでは決して見せることのないモモのがんばりで、実家での夕食の準備が整い、モモの音頭で、いただきますを言って、質素だが、健康にはよさそうな夕食をそれぞれ食べ始めた。
 イチローは、箸を使えないので、どんぶりにごはんをよそい、その上に天ぷらと豆腐をのせてもらい、スプーンを使って食べる。こぼしてもいいように、どんぶりの下にトレーが置かれている。
「おかずにピザも食うか?」
 とトモカズが言うと、ジローとモモ以外は、同意した。イチローも元気よくハイと答えた。
「和食にはあわないよ」とジローが言っても、誰も聞かない。
 耳が遠いトモカズと、耳の遠いきほが、かみ合わないとんちんかんな話を続けているうちに、食卓はにぎやかになる。ジローもモモもよく笑ったが、ヨウ子だけは笑ってはいない。ヨウ子のちゃわんには、三口くらいしかごはんが入ってない。
「お母さん、食べてよ」、とジローが声をかける。
「わかってるよ」
 まだ食べ物がおいしくないようだ。これは、実によくない。
「晩酌はもうやらないの?」
 ジローは、あまり酒は飲まないのだが、ヨウ子の晩酌につきあうつもりはあった。
「もう飲む気にはならないよ」
 食べるものも飲むものもおいしくないとは、ジローにとって、これ以上悲しいことはない。

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 食事が終わると、きほは張りきって、六人分の食器を洗う。ヨウ子は、きほをねぎらい、また居間で寝っ転がる。
 ジローはあえて手伝わない。ここは、数少ないきほの活躍の場なのだ。きほの皿洗いが終わると、実家の面々がやや大げさに礼を言う。
 きほはまだ十分に感謝され、役に立っている。
 そして、ジローが言った。
「じゃ、そろそろやる?」
「今日はなにやるだいねえ?」
 きほは、女学校の頃からの映画ファンだ。
「洋画だよ」
 洋画のいいところは、字幕があるところだ。きほの耳がいくら遠くても、何を言っているかはわかる。
「楽しみだねえ。題は何ていうのだい?」
「冒険者たち、フランス映画、アラン・ドロンが出るよ」
「よさそうだねえ」
 ジローが数年前に買ったDVDで、ジローは何度も見ている。モモも二回はつきあわされて見たことがある。
 ジローとモモは、せっせと映画の準備をする。ジローがプロジェクターを準備している間、モモがスクリーンを設置する。うちからホームシアターセットは持ってきたのだ。二人は、ちょっとした出張映写技師だ。
 電気を消し、飲み物と菓子を用意して、いよいよホームシアターが始まる。ヨウ子は座布団を枕に横になり、きほとトモカズは座椅子に座った。モモは準備だけすると、キッチンへ行き、そこでテレビを見始めた。
 ジローとイチローは隣の座敷にいる。ふすまが開いているので、スクリーンが見える。ジローがイチローの世話を担当し、他の家族が映画に専念できるようにしたのだ。これも、映写技師の仕事の一つだ。
 悲しげなテーマ曲の口笛が流れる。モモはテレビを見ながら、それに合わせて、キッチンで口笛を吹いている。モモが見ているのは、お笑いタレントが、水の中に落ちたりするバラエティー番組だ。
 ジローは、結末を思い描き、すでにせつなくなってくる。暗闇に浮かび上がるスクリーンには、一昔前のフランスが映る。しだいに、ここにいながら、ここにいない気分になってくる。
 それにしても、映画の最中に、イチローが何度も尿意を訴えるのにはジローはまいった。せっかく映画の世界に入り込んでも、妄想がそのつど中断され、ジローは現実に引き戻された。
 それでも、スクリーンの中には、別世界がしっかりと存在して、見る者を引き込んでいく。これがテレビの小さな画面だったら、こうはならないだろう。
「これは、いい買い物をしたねえ」、とヨウ子が言う。
 大枚をはたいたかいがあった、とジローは思う。
 明日、モモもジローも特に予定はない。Nothing special is something special. 特に何もないことは、何か特別なこと。
 夜はまだたっぷりとある。
 今日も二本立てでもいいくらいだ。

24
 朝、ジローは布団で寝たままイヤホンでロハスなラジオ番組を聞いている。網戸越しに入ってくる朝の空気はひんやりとしている。タオルケットを首まで引き上げた。セミはもう元気よく鳴き出している。
 両隣に枕を並べる、きほとモモはよく眠っている。他の家族の面々もまだ起きそうもない。
 この実家のいいところの一つは、ラジオがよく入ることだ。ジローとモモが暮らすアパートは、鉄筋コンクリートの建物なので、うちの中まで電波が届かず、窓際にラジオを置くと、かろうじてローカルのAM放送が入るだけだが、ここならFM放送もよく聞こえる。
 小学生の頃も、ジローはラジオをよく聞いた。当時は、両親と兄と同じ部屋に寝ていて、いつまでも電気をつけておくことは許されず、寝付きの悪いジローは、毎晩、暗闇の中で孤独に耐えていた。そんなとき、ポケットラジオを手に入れた。とたんに、それが、夜の友となった。まわりが寝静まった頃、少年ジローは、布団の中に入ったまま、イヤホンをつけ、ラジオのスイッチを入れた。たいてい地元のラジオ局にチューニングを合わせていたのだが、時にハングル語や英語、何語かわからない言語の放送や、モスクワ放送局の日本語放送なども入ってきた。
 その小さなラジオ一つで、大嫌いだった暗闇が、まったく新しい空間となった。ケイタイもインターネットもない時代、少年ジローは、布団の中にいながら、世界とつながった。
 今、中年ジローは、FMラジオを聞きながら、あのころを思い出している。二千円もしないこの小さなラジオが、今もジローを、この田舎にいながらにして広い世界に連れ出していく。あのころの感動を思い出しつつ、ラジオに耳を傾けつつ、ジローはまた眠りに落ちていった。すると、夢とラジオが混じり合った、現実のような現実でない異空間に入っていく。ジローはこの感覚も好きだ。
 トモカズが台所に立ち、みそ汁をつくっている。もう昼近く、ブランチの時間だ。
 ジローはヨガマットの上で複雑なポーズをとり始め、体と宇宙と対話をさせているつもりでいる。モモはとうぶん起きる気配はない。
 きほは、今日も好調のようだ。外に出て、洗濯物を物干しざおにつるしている。
 イチローは早速、出るのか出ないのかわからないおしっこのために、オマルに座っている。そのそばで、ヨウ子が横になっている。イチローとヨウ子は、毎日、一日の大半はそう過ごしているのだろう。
「おい、できたぞ」
 トモカズの号令に、モモ以外の面々が食卓に集まってくる。
 ジローはトモカズのみそ汁が好きだ。具が多めで、ジローがつくるものより、味がどこかやさしい気がする。みそ汁とごはんと、余りもの、これが定番だ。トモカズがみそ汁をよそっている間、ジローが皿をならべ、きほがごはんよそう。
 イチローは、ヨウ子に連れられ、食卓にやってくる。
 モモ抜きで、ブランチだ。

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 ジローがテレビをつけると、国会議員が派手に論争していた。一日の始まりにはふさわしくないと、チャンネルを変えた。将棋だ。あまり興味はないが、静かさを選んだ。
「あんた、将棋やるだかね?」
 きほがジローに聞いた。
「やらないこともないけど」
 きほは、子どものころの話をした。夏になると、夕方、うちの前に腰掛けを置き、そこで将棋をやった、と。
「将棋できたの?」
「できないもんで、はさみ将棋やっただよ」
「たまにはモモとやってみたら?」
「いいねえ」
「ボケ防止になるよ」
「そうだねえ」
 ジローのみそ汁のおわんには、卵が入っていた。ゆで卵のように固まっている。それを箸で崩し、ごはんを入れて混ぜると雑炊のようになる。いわゆる、ねこまんま、ジローの好物だ。
「行儀が悪いよ」
 と、ヨウ子が言う。ジローは、聞き流す。子どものころからずっと言われ続けてきたことだ。
「お母さんこそ、ちゃんと食べなきゃ」
「食べてるから、心配ないよ」
 とは言うが、ちゃわんの中には、鳥のエサほどのごはんしか入っていない。
「おい、ちゃんと食べんと、薬飲めんぞ」
 と、トモカズがヨウ子に言う。
「わかってるよ」
 ジローには何の薬なのかはわからない。イチローは、そんなやりとりをよそに、どんぶりに入ったごはんに、おかずをトッピングしたものを黙々とスプーンで食べている。
「今日は、兄ちゃんとおばあちゃんと、ここにいるよ」
 と、ジローがヨウ子に言う。
「助かるよ。じゃ、頼むでね」
 トモカズとヨウ子は、毎日、店に行く。店は二人の体の一部のようなものなのだろう。休業中でも、何かとやることはあるようだ。トモカズが、この先、再開するかわからない店をあれこれいじっている姿を、ジローは容易に想像することができる。トモカズは大工仕事が得意なのだ。
 トモカズがジローに言うには、店に行っても、ヨウ子は何をするわけでもなく、店の奥の部屋でずっと横になっているそうだ。トモカズの気配が感じられれば、ヨウ子は安心するようだ。トモカズは、トイレに行くときしか一人になれない、とこぼしていた。トモカズが近くにいる店は、ヨウ子にとって、一番心休まる場所らしい。そんなヨウ子が以前のように人前に出て、社交的に振る舞うことを、もうジローは想像できない。店を切り盛りし、トモカズをうまく操縦し、きほとイチローの面倒を見て、まさにこの家の中心にいたヨウ子が、本当に存在したのかも疑わしく思えてきた。
 ブランチがすむと、トモカズとヨウ子は店に行った。今日もいろいろと忙しくなる、とトモカズは言いながら、出て行った。ヨウ子は、寝間着のような格好で、髪の毛を多少逆立たせたまま、トモカズが運転する車に乗って出て行った。

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 はやばやと再びシングルになったジローには、長年連れ添う夫婦関係など想像もできないのだが、この二人を見ていると、夫婦という絆も悪くないような気がしてくる。もちろん、ジローには再婚をする気などはさらさらないが。
 ジローが二人を見送り、うちの中に戻ると、きほが言った。「あの衆は、毎日、あっちで何やってるだかいねえ?」
 ジローにもよくわからない。何をするかより、誰とどこに身を置くかが問題なのだろう。少なくとも、ヨウ子は、店に行けば、よくなることはなくても、悪くなることはないようだ。現状維持だけでももうけもの、とジローは思っている。
「いろいろとあるみたいよ。それより、おばあちゃん、今日は晩ごはん、僕がつくるよ」
「そうかね。楽しみだやあ。手伝うでね」
「頼むよ」
 ジローは、モモを起こすのを忘れていたことを、そのときようやく思い出した。
 モモは、昼過ぎにブランチを食べ、テレビを見たり、夏休みの宿題をしたりしていたが、そのうち退屈したようだった。
 ジローは、きほに兄の面倒を頼み、何かあったらケイタイに電話するように言って、モモを車で連れ出した。
「よし、ちょっと出かけるぞ」
「どこ行くの?」
「ボウリング場」
「ボウリングするの?」
「ちがう。ピンポン、勝負だ」
 近くのボウリング場の隅に、三十分五百円の卓球台があるのだ。車を五分も走らせないうちに、二人はボウリング場についた。フロントで、ラケットとボールを借り、自販機でジュースを買い、早速、勝負を始めた。最後にプレイしたのは、一年ほど前、モモが中学生になり、卓球部に入ったばかりのころだ。その時は、どういうわけか、ジローがモモに勝ってしまい、モモをからかうと、モモはすねて、もう二度とやらない、と言った。
 しかし、今回は、さすがにモモも卓球部で一年過ごしていて、余裕の表情だ。
「じゃ、思いやり卓球からね」、とモモが言う。
「おうよ」
 思いやり卓球とは、相手の打ち返しやすいボールを打ち合うゲーム。点数より、ラリーを続けることに意義がある卓球だ。
 そして、ガチンコ卓球が始まった。ジローは完膚無きまでにたたきのめされた。
「もう、卓球、モモとやらない」
「負けるからでしょう?」
「そう」
「すぐすねる。根性ないなあ」
「なんとでも言え。もうやらないよ」
 二人は、卓球場をあとにして、自販機でアイスクリームを買い、わりと年配の方々が本気でボウリングをプレイしている姿に感銘を受けながら、立ったままアイスクリームをなめていた。
「パパ、このあと、どうする?」
 ジローは、実家で過ごすきほとイチローを思った。高齢者と障害者、あまり長い間、二人きりにしておくのは、心配だ。

27
 ジローはモモとボウリング場を出て、車に乗ると、言った。
「じゃ、文具でも見て、帰ろう。兄ちゃんとおばあちゃん待ってるから」
「いいねえ」
 二人は、文具好きだ。新製品をチェックするため、定期的に文具店に行く。
 百円くらいのペンをたった一本買うために、何度も試し書きをして、その書き味を論評しあい、ようやくレジに持っていく。
 新しい文具は、モモの勉強のやる気を起こさせるようだ。ジローが、文具店通いにモモをつきあわせるのは、たった数百円でモモの学習の動機づけになるからである。塾に行かせるよりよっぽど安上がりだ。
 ジローが何年も探し求めているものは、キャップ式ではなく、ノック式のインクの滑りがいいペンなのだが、いまだにピッタリと体の一部になるようなモノには巡りあってはいない。店頭で気に入って買ってみても、実際数週間使ってみると、たいてい不満が出てくるのだ。
 二人は、車の中で、最新ペン事情について、語り合いながら、文房具店に向かった。
 早く帰るつもりが、結局、長居してしまった。モモは蛍光ペンを一本、ジローに買ってもらい、もう一本ラメの凸ペンは自分の小遣いで買った。
「パパ、ありがと。帰ったらすぐ、これで勉強する」
「よし」
 ジローは今日も運命の出合いを果たすことができなかった。キャップ式なら滑りのいいのがあるのだが、ノック式になると、それが見つからない。文具は、日本のテクノロジーの中でも、もっとも進歩の速い分野の一つである。今後の各社のがんばりに期待することにした。
 いったん、実家に戻り、ジローはまた車で出かけていく。今度は、イチローと二人でだ。
 モモは、きほと二人で残り、さきほど買った文具の試し書きに宿題をやるとのこと。
 イチローは、一日に一回、必ず、遠足に行く。イチローの遠足とは、好物のコーヒーを近場の景色のいいところで飲むだけのことだ。いつもは、トモカズが連れて行く。たいてい、近くにある大池と呼ばれる貯水池のほとり、なかなかの眺めである。ジローもこれまで遠足には大池に行っていたのだが、最近は新たな場所を見つけ、そちらにばかり行くようになった。実家は、海からそう離れてはない。車で十五分も行けば、海岸に着くことができる。ジローが見つけた新しい場所は、発電用の風車が六基ほどまわる海辺の駐車場だ。車を降りなくても、海を見ることができる。
「兄ちゃん、今日も海いこう」
 と、ジローが声をかけると、イチローは笑顔になり、玄関までゆっくりと廊下を這っていく。イチローが一人で立って歩いていたのがいつか、ジローはもう思い出せなかった。
「おばあちゃん頼んだよ」
 ジローが玄関で叫ぶ。
「わかったよ」
 と、うちの奥からモモの声が返ってくる。

28
 車で海へ行く途中、ジローはコンビニに寄り、イチローのためにストロー付きの紙パックのカフェオレを買った。
 やがて、ゆっくりと回る風車が遠くに見えてきた。
「兄ちゃん、海、もうすぐだよ」
 と、ジローが助手席のイチローに声をかけると、イチローは機嫌がいいのか、指を鳴らした。
「あの風車で、電気作ってるんだよ。電気ってわかる?」
 イチローは、また指を鳴らして、うなずいた。
 海が見えてきた。ジローがエアコンを止め、窓を全開にすると、浜風が車の中を通り抜ける。ジローは海の匂いを嗅いだ。海岸沿いの駐車場に車を止めた。海は真正面だ。もう夕方近く、日差しもさほど強くない。浜風が眠気を誘うほど心地よい。
 ジローはストローをパックに差し、イチローに飲ませた。
 その時、駐車場に軽トラックが止まり、白髪の坊主頭の老人が車から出てきて、海岸まで下りていった。
「あのおじいさん、何するのかねえ?」
 イチローは、もちろん無言で、一瞬だけにっこりとして、ストローを吸い続ける。興味はなさそうだ。
 目の前の海岸の右前方はテトラポットが海の浅瀬に沈められている。テトラポットの手前は入り江になっていて、そこだけ波がおだやかだった。老人は、その波打ち際近くの砂浜に腰を下ろして、海をぼんやり眺めていた。
「兄ちゃん、ちょっとあのおじいさん見て」
 イチローは少し顔を上げ、一度うなずくと、またストローに集中した。
 老人は、手提げ袋を持っていて、そこからおにぎりを出して食べ始めた。
「あのおじいさんも遠足に来たのかなあ。兄ちゃんと同じだ」
 イチローはほぼ無反応。
 そして、老人は、突然Tシャツを脱ぎ、上半身裸になり、短パン一丁で海に入った。そして、波の静かな入り江を平泳ぎで、顔を水上に出したまま、亀のように、ひょうひょうと泳ぎだした。
「兄ちゃん、大変、おじいさん大丈夫かなあ」
 多少泳ぎは得意なジローは、何かあったらすぐに助けに行かねばならないと思うと、少し緊張してきた。老人は数分泳ぐと満足したのか、海から上がり、また砂浜に腰を下ろし、二個目のおにぎりを食べ始めた。
「あのおじいさんも、海見るの好きなんだねえ。ところで、兄ちゃん、海好きなの?」
 イチローは指を鳴らした。イチローがカフェオレを飲み終わっても、ジローはイチローの隣で、老人につられ、たそがれた気分に浸っていた。イチローは大して海を見るわけでもなく、おとなしく助手席に座っていた。
 この海岸の近くにファーマーズマーケットがある。地場野菜を帰りに買って、晩ごはんのおかずにしよう、とジローは考えながらも、時間はすっかり忘れ、ひたすらたそがれていた。

29
 ジローとイチローが、ナスとピーマンを買ってうちに戻ると、ヨウ子とトモカズも店から戻り、実家の面々が勢ぞろいしていた。
 モモは、扇風機の微風に吹かれ、座敷に横になり、腹にバスタオルをかけて、眠っていた。
 朝はゆっくり寝たにもかかわらずの昼寝。モモは本当によく眠る。それで、夜、理科の勉強を始めようものなら、また眠くなるだろう。
 きほは、今日も絶好調だったようだ。
「ジロー、庭のあそこんとこが、きれいになっただよ」
 きほが、自慢げに、南向きの窓から、玄関の脇のあたりを指さした。ジローたちが遠足に行っている間に、草がなくなり、すっきりとしていた。
「暑くなかったの?」
「涼しくなってからやっただよ」
「どれっくらい?」
「時計見てないで、わからんだよ」
 十分やそこらの短い時間ではとても終わる作業には見えなかった。熱中病には十分気をつけるようにと、ジローはきほに言った。
 トモカズは、炊飯器のスイッチを入れたところで、今日は台所をジローに譲り、居間でイヤホンをつけて、テレビのニュースを見始めた。トモカズの脇には、あいかわらずヨウ子が横になり、あいかわらずイチローがオマルに座っている。
 きほも、くたびれたと言って、モモの隣で、座布団を二つに折って枕がわりにして横になった。
 ジローはナスとピーマンを切って、大きめの深い鍋で炒め始めた。黒光りするこの鉄鍋は、取っ手はとっくの昔にとれてしまい、表面がでこぼこしているが、きほが嫁入りした頃には、いろりにかかっていたという。少なくとも六十年は使っている歴史ある鍋だ。ナスがしんなりしてきたら、酒、みりんを入れ、少し煮込んだ。砂糖を足し、最後にみそを溶いて、ナスとピーマンのみそ炒めできあがった。このうちでは、伝統的に作られている夏の定番だ。
 これだけでは物足りないので、ジローは冷蔵庫をのぞいた。桜エビとキャベツを見つけたので、炒めて、酒、塩こしょう、しょうゆで味付けして、皿に盛りつけた。
 ちょうどその時、玄関で誰かの声が聞こえた。隣に住む老夫婦の畑でとれたブロッコリーが届いたのだ。二人は、じいじ、ばあば、と呼ばれている。
  ジローが玄関で、ばあばを出迎えると、「もらってくれるかいやあ?」、とばあばが言う。
「じいじの畑でとれたの?」
「さっきとってきただよう」
 新鮮な野菜、おまけにタダ、こんなにうれしいことはない。ジローは丁重にお礼を言った。
 早速、そのブロッコリーを蒸して、おかずはそろった。
 白米は一合だけ、小さな鋳鉄の鍋で別に炊いておいた。実家のごはんは、ジローとモモにとってはやわらかすぎるのだ。米の硬さに関しては、ジローもモモも妥協することはない。

30
 ジローが声をかけると、全員が食卓に集まってきた。地元の新鮮な野菜のおかず。安上がりだが、家族そろって味わえば、おいしいスローフードになる。
 舌も体も喜び、魂にまで効くソウルフード、これをジローは目指している。
「ナスとピーマンも食えよ」
 どちらも、モモの苦手である。
「モモちゃん、何でも食べてえらいねえ」
 と、きほが声をかけると、モモはきほには笑顔を見せ、一瞬ジローをにらんでから、一口だけナスとピーマンを食べた。
「おい、うまいか」
「食べられる」
「なんだ、その言い方。母ちゃんも食べてよ」
「食べてるよ」
 ヨウ子も、ほんの一口だけ箸をつけた。
「おいしいよ」と、いちおう、ヨウ子はジローをねぎらうが、箸は今日も進まない。
 夕食後、ジローはイチローと風呂に入った。イチローの髪を二回洗い、イチローの体も、自分の体のように隅々までゴシゴシこすった。
 風呂から出れば、そろそろジローとモモは帰る時間だ。ジローはサザエさんのエンディングの歌を聞くときのようなもの悲しい気分に浸る。
「じゃまた来るよ」、とジロー。
 きほがはりきって、玄関まで、二人を見送りに出てくる。
「また来るよ、待っててね」
 と、モモが助手席の窓から顔を出して手を振る。
 日曜日の終わりのしんみりした気分に浸りながらハンドルを握るジローに、モモが今日はいかにきほが元気だったかを報告した。
「ずっと、草とりしてたよ。手拭い、頭に巻いて」
「それはすごい」
 きほが昨年はほとんど寝込んでいたこと思うと、それは信じられないことだ。あの頃は、このままもう起きてくることはない、とジローは思っていた。
 入退院を繰り返し、きほがうちで寝込んでいた頃、ヨウ子は「ろうそくのろうがほとんどなくなって、短くなった芯がぱたんと倒れたら、それで消えてしまいそうなほどの小さな火みたい」ときほの命を形容した。トモカズは「最終コーナーを回った」と言っていた。
 それが、この前の冬のことだ。春になり、暖かくなってくると、きほは朝目が覚めてから、寝間着から普段着に着替え、布団を畳むようになった。最初は、一日そんな日があると、次の日は寝込んだが、それを繰り返しているうちに、起きている日のほうが寝込んでいる日より増え、このごろでは寝込んでいる日がなくなった。
 きほは、ここ数年、自分の年齢がわからなくなってしまったようだ。
「私ぁ何歳になるだいやあ」
 きほが時につぶやく。
「もう九十だよ」
 と、ジローが教える。
「そんなになるわけないよ」
 きほは、ややきつめに言う。
「八十八くらいじゃない」
「そこらだねえ」
 きほは年をとるのをやめたのだ。

31
 世間では、百年に一度の不況などという言葉が頻繁に使われ始めた。正月には、職と住居を失ったひとたちが駆け込んだ年越し派遣村の様子が連日テレビで放映されていた。
 もともと、商売上手ではないヨウ子とトモカズである。重度の障害者のイチローと九十歳のきほの面倒を見ながらの営業は、効率のいいものではないだろう。配慮が行き届かないこともあるだろう。加えて、この不況、影響が出ないわけがなかった。
 葉桜の頃のある土曜日、トモカズとヨウ子はついに店を閉めた。もうこれ以上営業を続けたら、赤字が増えるだけというところまできて、決断したのだ。
 その日、ジローはそんな決断がされていたとも知らず、教え子の結婚式に出かけ、モモを実家に預けていた。ダークスーツにピンクのドレスシャツとネクタイという浮かれた格好で式と披露宴に出て、二次会は早めに切り上げ、引き出物を土産に、まだ浮かれた気分で実家に帰ると、まるでお通夜のような雰囲気だった。
「おじいちゃん、看板はずしたとき、目が真っ赤だったよ」
 モモが引き出物の箱の包装紙を早速破りながら、報告した。まさか、この浮かれた日に店を閉めるとは、これ以上の皮肉はないだろう。
 実家の面々は、これからあらゆる支出を切りつめ、年金だけで生計を立てなくてはならなくなった。
「どうにもならんだよ」
 それがヨウ子の口癖になっている。ヨウ子の思考は、すべての選択肢の最悪のものばかりを選んだ。一切プラスには向かわず、ひたすらマイナスを突き進んだ。
「このうちはちょうどいい柱がないだよ」
 その夜、ヨウ子のその言葉を聞き、ジローは実家の包丁をすべて新聞紙でくるみ茶だんすの奥に隠した。
 きほとトモカズとヨウ子とジローは食卓に集まり、家族会議を行うことになった。
 まずは借金がある。それは、きほの貯金とジローのボーナスからの援助で、ほぼ精算できるめどがついた。
「そのうち、電気も水道もガスも止められるよ」
 とヨウ子が言う。
「破産になったら、ジローにも迷惑がかかる。センセイもやれなくなる」
 ヨウ子の思考はさらにマイナスに進む。
 まったくそんなことはない、とジローが何度説明しても、ヨウ子は最悪のケースを当然のケースとしか考えない。
 ヨウ子の顔は、体重が落ちたせいで、ほおがこけ、ひとまわり小さくなった。目だけは大きく見えて、顔が縮んだ分、しわが増えた。その髪は、最後に染めてからずいぶんと経っているので、根本が白く、先のほうが黒い。髪が伸びすぎて、すかされてないせいか、実験に失敗して、その煙に包まれた科学者のように、逆立っている。とても人前に出られる状態ではない。ジローは、自分の母親ながら不気味だと思った。

32
 中学生になったモモは、ヨウ子にむこうに言っているように言われ、イチローのそばでお笑い番組を見ているが、もう何が話しあわれているかは見当がつく年齢だ。
「私ぁもう欲しいものもないだで、時々ちょっと小遣いがありゃいいだで」
 きほは、これまで比較的自由に使っていた年金を提供するといった。きほの夫は戦死したため、今も遺族年金が入るのだ。
「六月にはボーナス出るからまた援助するよ。だから心配ないって。海外旅行やめれば、いいだけだから」
 と、ジローが努めて脳天気に言う。
「今にお金なくなって、葬式代でも、ジローに迷惑をかけることになるだよ」
 と、ヨウ子はまだ最悪のケースを想定する。
 トモカズが、目を真っ赤にして、鼻をかんだ。
「そんな悪いほうばっかり考えるな」
 そのセリフの最後のほうが、もう声にならない。
「おばあちゃん、生きてるだけでも大仕事だよ。しっかりしてよ」
 ジローがきほに言う。
「わかってるよ。このごろは調子いいだで」
「おばあちゃん、正念場だよ。いい?」
 きほの遺族年金は、もうライフラインだ。
「おばあちゃんがどうかなりゃ、もう終わりだよ。破産するしかないよ」
 と、ヨウ子がうつむいて言う。ジローがどんな言葉をかけても、もうヨウ子には届かない。
「いよいよになったら、僕のアパートに転がりこめばいいよ」
「ジローが、やさしい息子だから、よけいつらくなるだよ」
 ジローは、完全にかける言葉を失った。このような状況で、がんばれと言ったら、相手はいとも簡単に死を選ぶだろう。がんばりきったひとに対して、がんばれというせりふほど、残酷に響く言葉はないようだ。
 ジローがモモのところに行くと、モモは膝を抱えてテレビを見ていた。そうとう落ち込んでるようだ。
「おい、テレビおもしろいか」
「ぜんぜん」
「そうか…。ま、元気出せ」
 ジローはモモに簡単に事情を説明した。
「わかった? もうぜいたくは敵だぞ」
「うん。でも、話に入れてくれなかったもん」
 モモの落ち込んでいる原因は、どうやら家族会議に入れてもらえなかったことだったようだ。ジローは笑ってしまった。
「おじいちゃんは、いてもいいって言ったのに」
「それで落ち込んでるわけ?」
「おじいちゃんだけが味方だよ」
 ジローが笑えば笑うほど、モモは不機嫌になっていった。
 今さらながら、ジローは貯金してこなかったことを後悔している。何に使ったかも覚えていないあのカネがあれば、今、ずいぶんと役に立つだろう。
 その初夏の夜は、壁に掛けた時計の秒針の動く音が聞こえてくるほど、静かだった。

33
 夜の道を走るジローの車は、うちに近づく。モモは、中学生になってから、助手席ではなく、後ろに座るようになった。
「ヨウ子ばあば、今日笑った?」
 ジローは、モモが車に揺られ眠りに落ちる前に聞いた。
「笑ってないよ」
「そっか、やっぱりなあ」
「もう笑わないの?」
「そのうち笑うよ」
「それ病気なの?」
「笑わない病」
「なおる?」
「笑うようになればなおる」
「おばあちゃん、お笑い番組見ないからなあ」
 ジローは噴きだした。
「おもしろいこと言うなあ」
 モモは不機嫌になり、口数が減った。もう眠くなる頃だ。
 沈黙の間、ジローは包丁を隠した夜のことを思い出していた。あのころに比べたら、ヨウ子は多少よくなっている。とにかく、トモカズの存在が大きい。ヨウ子は、トモカズがいれば生きていられるようだ。トモカズがヨウ子のそばにいるかぎり、包丁はもう隠さなくてもよさそうだ。
 朝、トモカズは、ヨウ子とイチローを連れて、閉店中の店に行く。片づけをしたり、いつかの営業再開に向けての大工仕事をしたりと、暇になることはない。
 ヨウ子は、店の奥の部屋で横になっている。誰に会うわけでもなく、何をするわけでもなく、イチローとじっとしている。
 もともと放浪癖のあるトモカズである。板前修業で、十七軒の店を渡り歩いたという。ところが、イチローが生まれ、根が生えた。ヨウ子と協力して育てなくては、イチローはこれまで生きてこられなかっただろう。
 ひとの役に立つようなことは、何一つできないイチローであるが、家族をつなぎとめるという大役を果たしている。ジローはイチローに感謝している。
 やがてモモは、朝寝とシエスタしたにもかかわらず、シートの背もたれを倒して、完全に眠りに落ちた。寝る子は育つ、ジローの願いだ。
 愛だ、とジローは思った。ヨウ子は、たしかに、愛によって生かされている。
 愛とは、特別なことではないようだ。ただそばにいたり、ともに食卓を囲んだり、同じものを見て感動を共有したり、そんな毎日繰り返すささいなことの中で、愛は育まれるのだろう。
 遠くに探しに行くと見失い、今ここにあっても気づかない、それが愛なのだ。
 ジローのこの夏のテーマは、家族がなんとかプラスマイナスゼロに近づくことだ。人生、プラスマイナスゼロなら、上等だ。そもそも、パイが増えもせず、減りもしないこの世界で、プラスをためこむことは、誰か他のひとをマイナスに追い込んでいるということだ。
 愛さえあれば、プラマイゼロで十分生きていける。プラマイゼロで満足する技術を、現代人は習得しなくてはならない。
「モモ、もうすぐうちだぞ」
 ジローが声をかけても、モモの目は閉じられたまま。起こすのに、また苦労するだろう、とジローは思った。

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