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弟5章「ソウハツ」

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 ジローはケチである。時折、とんでもないものに、とんでもないカネをかけることもあるが、基本的にケチである。
 ジローは、モモに勉強を教えるが、これもケチなためである。塾に通えば、今時、毎月何万円もとられるが、ジローが教えればタダだ。時に、ジローにも理解できない問題もあるが、そんなときは、ジローは「他の子もできないから、気にするな」などと、無責任に言い放つ。
 夏休みも終盤となり、モモの宿題も追い込みの段階に入ったようだ。
 その夜も二人は夕食を終えると、ダイニングテーブルで夕食の余韻にひたったまま、テレビをしばらく見ていた。ジローはふとキッチンに立つと、なんとなくポップコーンを作った。夕飯前、キッチンの棚の奥にたまたま見つけたのだ。ガラス鍋があったので、乾燥したトウモロコシを入れ、油をまわしかけ、ふたをして、弱火にかけた。
「モモ、今にパンパンなるぞ」
「そのポップコーンいつの?」
「そうとう古い」
「賞味期限は?」
「見ない方がいい。ま、心配するな」
 賞味期限切れの食材は、ジローのうちにはいくらもある。
 やがて、最初のポップコーンが爆はぜ始めた。ガラス鍋の底から白いポップコーンが次々と生まれ出る。ジローが鍋をゆすると、さらにポンポン白いポップコーンが湧き出てくる。
「すごい、すごい。おもしろい」
 モモも大喜びだ。ジローは、どんぶりにポップコーンを盛り、塩を振った。そして、味見、というより毒味をした。
「うまい。食べてみ」
「だって腐ってるもん」
「だから、大丈夫だって。ま、食え」
 モモは恐る恐る一口食べると、悔しそうに「おいしい」と言った。ジローはまだ熱いポップコーンの山の頂上にバターの塊を落としてみた。
「あ、溶けてく。なくなってく」
 モモの関心は高まる。ちょっとカロリーは高くなるが、コクは出るだろう。
「よし、これ食べながら、勉強すっぞ」
「いいねえ」
 テレビを消し、ポップコーンの山が半分ほどの高さになると、モモはようやく宿題の問題集を開いた。今日は、数学だ。グラフを読んだり、コンパスで円を書いたり、文章を式に表したり、なかなか忙しそうだ。
 ジローは、ときどきヒントを与えるだけで、モモを放っておき、自分は複雑系の本を読む。
「わからない」、とモモ。
「わかるまで考えろ」、とジローが本から目を離さず答える。
「考えても、わからない」
「うるさい」
 二人は不機嫌になり始める。しばらく、沈黙が続くと、モモがあくびをした。朝ゆっくりと目覚めたにもかかわらず、眠たくなったようだ。こうなると、モモの思考はさらに鈍り、モモの機嫌も加速して悪くなる。相乗効果で、ジローもさらに不機嫌となる。

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 ジローはモモが手こずっている問題に目を通す。本気にならなければ、解けそうもない。
「でも、答えあるんだろ?」
「あるに決まってんじゃん」
「いいなあ、子どもの問題には答えがあって」
「なに当たり前のこと言ってんの? 早く教えて」
「もっと、考えろって」
「あ、わかんないんでしょう?」
「わかるに決まってんだろ」
 ジローはモモを無視して、複雑系の本を読む。
 学校の勉強では「こうすればああなる」の事例を頭の中に蓄積させる。つまり、一つの原因が一つの結果を生む。すべての問いに、答えが用意されている。
「子どもの勉強と、おとなの勉強の違い、何だかわかるか?」
「わかるわけないじゃん」
「それはな、子どもの勉強には答えがあるけど、おとなの勉強には答えがないってこと」
「はいはい。でも、パパは解けないから、わけわかんないこと言ってんじゃないの?」
 ジローは、しかたなくモモが手こずる問題を解き始めた。
「けっこう、むずかしいなあ」
「解答と解説、見る?」
「うるさい」
 結局、ジローが解くのに、三十分ほどかかってしまった。
「パパ、本番のテストだったら、時間足りなくなっちゃうよ」
「うるさいって」
 問題の解説をして、いちおうの義務を果たしたジローは、複雑系の要点をメモ用紙にまとめることにした。
 法則があってものごとが動くのではない。ものごとが動いて、法則が生まれるのだ。その新しい法則の下で、ものごとが動き始め、また新しい法則が生まれる。ゆえに、法則はわかったと思った瞬間、見失ってしまう。
 ジローがひかれたのは「創発」という言葉だ。ものごとが相互作用しつつ動いて、新しい現象が、下から上、ボトムアップで、出現することだ。
 学校の勉強では現象のむこうにある法則を見つけさせる。既存の法則の下でものごとが動く世界観を教える。教師がつくった校則の下に生徒たちが動くようなトップダウンの世界観を。
「創発って知らないだろ?」
「ソウハツ、何それ?」
 ジローが、メモ用紙に図を描いて説明しようとすると、モモが言った。
「また今度ね。シャワー浴びて寝る」
 親の思い通りには動かないのが、子どもだ。子どもは、さまざまなものに出会い、刺激を受け、親の思いもしない成長をすることがある。これもソウハツだ、とジローは思った。
 思い通りにいかないのが人生、しかし思いがけないことがあるのも人生。人事を尽くし、ソウハツを待つ。ジローは明日を待つことにした。

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 その夜のホームシアターの上映作品に、ジローは「ジュラシック・パーク」を選んだ。
 あのスティーブン・スピルバーグ監督の超スペクタクル大作で、なんと恐竜が出てくるというもの。まったくジローの好みではない。
 モモとジローが出張映写技師として、実家で上映してきた作品は、これまでジローの選んだものだったが、たいてい特撮も殺人も熱いラブシーンもなく、登場人物が少なく静かな映画。
 前回、次は何がいいか、ジローが聞いたときに、ヨウ子が言った。
「たまには兄ちゃんが喜びそうなものも見せてやらなきゃ、かわいそう」
 それで「ジュラシック・パーク」にしたのだ。
 その映画は、もう十年以上前、イチローが最後に映画館で見た映画である。当時、まだイチローはすいすい歩けたので、ヨウ子と手をつなぎ、バスに乗って、映画館のある隣街まで行ったのだ。
 ヨウ子はイチローを連れて、自分の行きたい展覧会やコンサートにもよく出かけていた。
 イチローはその映画がそうとう気に入り、パンフレットをずっと大事にしていて、誰か来るたびにそれを見せていたのを、ジローは覚えている。そのパンフレットは、ボロボロになり、いつしかなくなってしまった。
 パンフレットも、映画を楽しむための必需品である。
 ジローは、その上映に備え、インターネットオークションで、そのパンフレットを見つけ、競り落として手に入れていた。
 DVDは、田舎のレンタルビデオ店には置いてなかったので、これもインターネットで中古品を見つけて取り寄せた。
 これで、すべてがそろった。
 車にホームシアターセットを積み込み、ジローとモモは実家へ向かった。
 車の中は食欲をそそる匂いが立ちこめる。ジローが作ったカレーの入った鍋もあるのだ。実家に着くと、まずは晩ごはんだ。
「夏はカレーがいいなあ」
 と、トモカズが言った。
「兄ちゃんもカレー好きなの?」
 イチローは指を鳴らす。
「明日の分もあるから助かるよ」
 と、ヨウ子が言う。
「あさっても大丈夫だよ」
 と、ジローが言う。カレーはついたくさん作りすぎてしまう。このカレーは、いたって普通のカレーだ。市販のルーで、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ。豚小間切れを煮込んだもの。
 夕食後、ジローはイチローにあのパンフレットを見せた。
「兄ちゃん、これ覚えてる?」
 イチローは指を鳴らす。忘れるわけがない。
 モモがスクリーンを設置し、ジローが映写機を調節する。
「今日は何やるだいねえ」
 と、きほが言う。
「恐竜の映画だよ」
「たまにゃあ、そういうのもいいねえ」
 電気を消すと、蚊取り線香の煙が映写機の光に照らされた。
 ヨウ子が手をたたく。
「兄ちゃん、よかったねえ」

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 ジローは、イチローが子どもの頃、高見山という相撲取りが大好きだったことを思い出した。テレビ中継を見て、勝てばうれしくて泣き、負ければつらくて泣いた。
 ハワイ出身の高見山は、愛あい嬌きょうがあり、とにかく負けっぷりがよかった。コロンと気持ちよく転がされた。
 ヨウ子はイチローと相撲も見に行ったことがある。バスツアーだったが、きっと会場は広く、駐車場からも遠く、当時は車椅子も使ってなかったので、想像を絶する労力を要しただろう。
 その日の高見山は、きわどい勝負で負けてしまった。イチローは涙を流した。
 しかし、物言いがついて、判定が翻り、一転、勝ちになった。イチローはまた涙を流した。一つの勝負で、二回も泣けるとは、わざわざ行ったかいがあったというものだ。
 そんな高見山も引退してしまい、イチローのお気に入りもなくなってしまったのだが、恐竜が、高見山以来のイチローのお気に入りになったのだ。
「ほい、あの怪獣は大きいねえ」
「おばあちゃん、怪獣じゃなくて、恐竜だよ」
 と、モモが教える。
 スクリーンには、首の長い恐竜がのっしのしと歩いている。
「兄ちゃん、出てきたよ。恐竜が。あれが好きなの?」
 イチローは指を鳴らす。
「おおすごいねえ」
 と、モモも引き込まれていく。
 ジローはそんな子どもだましの特撮にはだまされないつもりだ。
 恐竜の血を吸った蚊が、琥こ珀はくに閉じこめられ、何千万年もたってから、科学者がその血から恐竜のDNAを取り出し、恐竜をクローン再生したという設定。孤島にそんな恐竜を放し、テーマパークを建設中だ。
 主人公は恐竜学者、ヒロインは古代植物学者。二人とも、研究者として、テーマパークを訪れた。そして、なぜかマルコムという数学者も出てくる。
 ティラノザウルスも出てきて、とにかくその動きがリアルだ。スクリーンも大きく、なかなか迫力がある。ジローは、依然、冷めている。
 マルコムは言う。地球での生息期間を全うして絶滅した恐竜を再生させるのは、研究一筋で倫理的責任を考えない科学者の自然に対するレイプである、と。
 ジローには、マルコムが主人公となった。
 マルコムは、カオス理論について語る。北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで雨が降る。つまり、複雑なシステムでは、初期のわずかなズレが、後に大きなズレとなり、とりかえしのつかないことになりうるのだ。
 手の甲に、水滴を垂らす。その動きは、予測できない。その動きは直線ではなく、非線形、これは予測不可能。
 百パーセントコントロールするというテーマパークの科学者に、マルコムは言う。
「百パーセントの確率を保つことは不可能だ」
 ブラボー、とジローは一人つぶやいた。

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 夏の夜のホームシアターは、クライマックスを迎えた。
 スクリーンの中では、恐竜たちが暴れ出した。はらはらドキドキ、手に汗握るパニック映画。
 主人公たちは、もうダメかと思わせては、なんとか逃げ延び、今度こそダメかと思わせては、またなんとか逃げ延びていく。
 ジロー以外は、割と真剣に映画に引き込まれているようだ。イチローは、ストローで日本茶をすすりながら、スクリーンをたまに見上げている程度だ。
「兄ちゃん、見てる? ほんとに恐竜好きなの?」
 イチローは、「アイ」と手まで挙げて、返事をする。
 ジローは座布団を二つ折りにして、横になった。スクリーンはその位置からは見にくいが、もう気にしなかった。ジローにはわかっている。主人公はどんなことがあっても死なない、と。ヒロインも大丈夫だ。脇役が一人か二人犠牲になるだけだろう。同情されそうもない人物が。
 ハリウッド映画は、基本的にそうなっている。主人公がいて、憎たらしい敵がいて、主人公は危ない場面を切り抜け、敵は殺され、最後にヒロインとハッピーエンド。
 ディズニー映画にも、このストーリーが適用され、子どもの頃から、悪役が死んでスカッとする快感を植えつけられる。
 正義の味方、アメリカ大統領がいて、どこかの国に憎たらしい独裁者がいて、苦戦の末、その独裁者は殺され、国民はハッピーエンド。こう考えなくては、あれほどの戦争を続けられないだろう。
 ジローは結末の予想がつくと、眠くなってきた。イチローのお茶が湯飲みに入っていることを確認すると、目をつぶった。
「兄ちゃん、見といてよ。後で教えてよ。頼むよ」
 と声をかけて、ジローはしばし眠った。
「パパ、終わったよ」
 と、モモがジローを起こす。
「主人公、死ななかっただろ? ピンチは何度もあったけど」
「なんでわかるの?」
「そんなのわかるって」
 ジローは映写機を片づけ、モモが電気をつけた。
「よかったやあ」
 横になっていたヨウ子が上体を起こした。
「兄ちゃん。お母さんと見に行ったの、覚えてる?」
 と、ヨウ子が言うと、イチローは二回も指を鳴らした。
「お相撲も行ったんでしょ? 兄ちゃんと。よく行けたねえ」
「兄ちゃんも歩けたし、お母さんもまだ若かっただよ。そういえばいろんなとこ行ったねえ」
 イチローも思い出したのか、笑みを浮かべている。
「ありがとねえ。もう一度、兄ちゃんにジュラシック・パーク見せてあげたかっただよ」
 ヨウ子の言葉に、映写技師としてジローは充実感を覚えた。
「おもしろかったのに。パパ寝ちゃってさ」
 と、モモが言うが、ジローはまったく後悔はしていない。
 帰りの車の中でのこと。モモが突然言った。
「あ、大事なの忘れてた」

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 モモの夏休みの宿題で、理科の自由研究が残っていたのだ。
 ジローとモモは、昨日のカレーのブランチを食べ終え、昨夜から引き続き、話し合う。
「何、研究したらいいの?」
「いいの、あるぞ。おいしいコーヒーの研究。お湯の温度、豆をひく荒さ、豆の量、ドリップの湯量と速さ。これらのどの組み合わせが一番おいしいか。これならパパが共同研究者になってやるぞ」
「いやだ。だってコーヒー飲めないもん。どれがおいしいかなんてわかんないよ」
 ジローは黙り、モモの宿題の一覧表のプリントを手にして、眺めた。
「施設見学のリポートでもいいって書いてあるぞ」
「じゃ、研究しなくていいの?」
 科学館などを見学してリポートにまとめても可、とある。
「じゃ、車で行こう」
 モモが安易に提案する。今日は一日、特に仕事も予定もない。
「どこに?」
「パパ好きなところでいいよ」
 ジローは科学館にはまったく興味がない。動物園は暑そうだし、水族館も少し飽きている。
「やっぱり研究にすれば?」
「何を研究にすればいいの?」
「こっちが聞きたいよ」
 ジローがノートパソコンを立ち上げ、インターネットで検索すると、自然史博物館というのを見つけた。車で、一時間半。
「よし、ここに行く」
「何があるの?」
「恐竜の骨」
「いいねえ」
 昨夜、DVDでジュラシック・パークの恐竜を見ただけに、興味をそそられる。
 ジローたちは、まず図書館に寄った。予習をするためだ。
 館内は、やんわりと冷房がかかっていて、とても静かだ。受験生が、本を読まず、勉強していたりする。
「いいか、テーマのないリポートはないぞ」
 と、ジローがささやく。
「だいたい、テーマって何?」
「それがわかれば苦労しないって」
 まず、恐竜関係の本をテーブルに積み上げ、見学のテーマを決めることにした。モモが図鑑をめくっている向かいで、ジローはジュラシック・パークの原作本を読み始めた。
「何をテーマにしたらいいか、わからないよ」
 モモがささやく。
「なんで恐竜をリポートしようと思ったんだ?」
「パパが行くって言ったから」
「じゃなくてさ」
「兄ちゃんが恐竜好きだから」
「そんな動機だめだ」
「じゃ、パパはなんで恐竜の骨を見に行きたいの?」
「兄ちゃんが恐竜好きだから」
 二人は、とりあえず、図鑑と文庫本を借りて、車で出発した。
 一時間半ほど走ると、海が見えてきた。ジローがモモに声をかけて、起こす。
「そこら走ってていいよ」
「うるさい。起きろ」
 モモは図鑑とノートとペンを持って、ジローは文庫本を持って、自然史博物館の中に入った。

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 学校の体育館ほどもある展示室。薄暗く、とても静かだ。
 いきなり、七㍍のトリケラトプスが出迎える。頭に角が生えている、立体的な全身骨格標本だ。
 その隣にも七㍍のステゴザウルスの骨がこちらを向いている。背中を縦に二列、板状の骨が何枚も並んでいる。
「でかい」とモモ。
「でかすぎる」とジロー。
 人間が存在するはるか前、この地球上にはそんな大きな生き物が歩いていたのだ。
 ジローがふと見上げると、縦長の展示室の背骨のように三十㍍ほどのディプロドクスの骨格標本がそびえ立っている。
「こりゃ、シロナガスクジラよりでかいぞ」
 モモはもう言葉を失っている。
 壁の恐竜の説明板を読むと、一億五千万年ほど前に、こんな巨大な生物が存在していたという。ジローはしばし考える。
「百年が百五十万回で、一億五千年だぞ」
「人間はいつからいるの?」
「二百五十万年前」
「全然ダメじゃん」
「ま、ダメだな。地球の歴史を一年にすると、人間の誕生は大みそかの午後らしいぞ」
「もう一回最初から言って」
 モモはノートにその数字を書いていく。
「人間、ほんと、ダメじゃん」
「まあ、ダメだな」
 ジローには人間のどこがダメなのかはよくわからなかったが、人間、自分がダメだと思わなくては謙虚さも生まれないだろうと思った。
 だいたい、自分はダメだと思っていたほうが、間違いはないものだ。
 ガランとした展示室に骨だけがあるので、見ているものは想像力をかきたてられる。
 人間が作ったものは何一つない大地、これだけの大きな草食動物がいたということは、生えている木や葉も大きかっただろう。足音が聞こえてきそうだ。
 ジローは隅の椅子に腰を下ろし、骨を見上げている。モモは一頭ずつ恐竜の前に立っては、説明をノートに写していく。
 たまにはスケールの大きなものに接することが人間には必要だ。人間がいかにちっぽけな存在かを自覚し、自然の一部、長い歴史の一点にすぎないことを思い出し、謙虚になるためにも。
 新しくても六千五百万年前の恐竜の大きさに比べたら、人間の悩みなどいかに小さいことか。今も、食べず笑わず、起きず、家族以外とは誰とも会わないヨウ子こそ、ここに来るべきだとジローは思う。
 モモがやってきた。
「終わったか?」
「まだまだ。説明、書き写したら、絵も描かなきゃ」
「で、テーマは決まったのか?」
「パパ、考えといて」
 モモはまた次の恐竜のところにいってしまった。
 テーマとは、これを乗り越えなくては前に進めないが、簡単には乗り越えられないもの。
 ただ座っているだけのジローだが、頭の中は結構忙しい。

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 初めて恐竜の骨の化石を見つけた人物は何を思ったのだろう。ジローは、ベンチに座り、三十㍍もの長さのディプロドクスの全身骨格を眺めながら、そのことを考えていた。モモは展示室内を歩きまわり、メモをとったり、スケッチしたりしている。
 今でこそ、その姿をよく知られた恐竜だが、実は誰もその姿を見たものはいない。最初に恐竜の骨の化石を見つけた人物は、それが恐竜の化石とは知るよしもない。やけに大きな骨を見つけ、さぞ驚いたことだろう。
 どんな分野においても、先駆者は偉大だ。とてつもなく大きな生物が地球上にいたなどと言っても、最初は信じてもらえず、笑われただろう。今、ここに、これだけの恐竜の全身骨格が立ち上がるまでに、何人の科学者や発掘者が、どれだけの時間と労力をかけてきたのだろう。
 ジローは謙虚にならざるをえなかった。恐竜もすごければ、化石の破片と破片の間を埋めた、研究者たちの想像力もすごい。図鑑では、誰も見たことがない恐竜が、躍動感あふれる体に色まで着いて描かれている。
 モモが戻ってきた。
「パパ、スタディルームってのがあるらしいから、そこ行くよ」
 展示室から出ると、売店の横に小さな図書室があった。そこがスタディルームなのだ。
「もう、ここでリポート終わらせちゃうから」
 モモがノートのメモとスケッチを元にリポートを書き始めた。こうなると、モモは止まらない。
 ジローは文庫本を開く。ジュラシック・パークの原作、カオス理論の数学者マルコムのせりふを中心に飛ばし読んでいく。
 マルコムは警告を発し続ける。恐竜を現代科学でよみがえらせ、管理しようとする考えそのものが間違っている、と。
 予測不可能性、これがキーワードのようだ。
 ビリヤードの球は、入射角と反射角、球を突く強度、それで予測が付くはず。しかし、最初のほんのわずかのズレが、後に大きなズレとなり、そんな単純なものでさえ、予想もコントロールもできない。
 マルコムは言う。人間がたとえ滅んでも、何億年かかろうと生物は生き延び、また繁栄するだろう、と。今、危機的なのは、地球ではなく、人間だ、とも。
 人間は、飛行機は造れても空をつくれない。船は造れても海をつくれない。人間は、地球を滅ぼすことも救うこともできない。しかし、自分たちを救うことくらいはできるかもしれない。
「なるほど」と思わずジローの口からこぼれた。
「何が?」とモモ。
「船や飛行機を造れる人間は、海つくれるか? 空つくれるか?」
「忙しいから、変なこと聞かないで」
 モモはスタディールームにあった子ども用の色鉛筆を借りて、恐竜のスケッチの色を塗り始めた。もうこうなるとモモは止めることができない。閉館時間まで、二人はそこにいて、モモの宿題は無事に終わった。

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 いよいよ、水泳部は明日が大会、最後の練習となった。選手たちは、ウォーミング・アップが終わると、フォームをチェックしながらゆっくり泳いだ。
「じゃ、ダッシュの前に、サブトラクションいこう」
 マネジャーが笛を吹き、選手たちが泳ぎ始める。
「先生、サブなんとかって何?」
 今日もジローの監督術の見学にきている古田が言った。
 サブトラクションとは、引き算という意味である。
「人生、何でも数が多けりゃいいってもんじゃないんだな」
 選手は、速く泳ごうとすると、手を速く回し、その結果、水をかく回数が増えてしまいがちだ。水をかく回数が増えれば、当然、疲労度も増す。これでは、いいタイムが出ない。
 かといって、かく回数を減らしすぎれば、疲労度は減るが、スピードも落ち、当然タイムも下がってしまう。その選手によって、最も速く泳ぐための水をかく回数は違う。これは、誰も教えることはできない。選手が、自分の体と水と対話して、つかむしかない。ジローと古田は、選手の泳ぎを見ながら、プールサイドを歩いていく。
「わかった?」
「ま、理屈はわかったけど」
 選手たちが、一本泳ぐと、マネジャーがタイムを読み上げていく。
「じゃ、部長から」
 と、ジローが言うと、選手が一人ずつ、水をかいた回数とタイムの秒数を足した数を言う。
 マネジャーがまた笛を吹き、二本目を泳ぎ始める。
「この数を減らしてく練習。わかった?」
「わかったけど。陸上でも使えるかなあ」
「使えないと思う」
 少し落胆する古田にジローは大好きなエピソードを話した。
「勇気を持ってゆっくり泳げ、って知ってるか?」
 古田は首を横に振る。
 それは、北京オリンピックでのこと。あの北島選手が、準決勝で、ライバルに負けた後、コーチが北島選手にかけた言葉。
 準決勝では、あの北島でさえ、焦ったのか、かく回数が増えてしまい、結果、タイムが伸びず、二位になってしまったのだ。
「世界一速い男を決めるレースの前に、ゆっくり泳げなんて言えるか?」
 北島選手は、決勝では、コーチの指示通り、勇気を持ってゆっくり泳ぎ、かく回数を減らし、見事、世界新記録を叩きだし、金メダルを獲得した。
「先生は、北島と同じことしてるってこと?」
「悪いか? 何でも計算通りだ」
「はいはい」
 最後に短い距離のダッシュ、リレーの引き継ぎの飛び込み練習で終わった。
 一時間もかからなかった。
「先生、もう終わりなの?」
「勇気を持って、練習も減らすんだって。勇気だ、勇気」
「これも計算通りって言うんでしょ?」
「当たり前だ。超回復理論知らないなんてことないよな?」
 古田は、また首を横に振った。

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 ジローには苦い思い出がある。教師になりたての頃、努力と成果は正比例すると信じていた。努力をすればするほど、成果が上がる、と。当然のように大会直前まで、ハードな練習を続けた。結果、マジメな選手ほど記録が伸びず、練習で手を抜く選手ほどベスト記録を連発した。
 実は、マジメな選手は、マジメに練習に取り組んだゆえに、疲労が蓄積し、その疲労が抜けないまま、大会のレースを泳いだのだ。これでは、いい記録が出るはずがない。一方、練習で手を抜いた選手は、ほどよく疲労も抜け、絶好のコンディションでレースに臨んだのだろう。
 その後、ジローは超回復理論を知った。練習を積むと、疲労が蓄積し、いったん体力が落ちる。しかし、休養をとると、疲労が抜け、体力が回復するのだが、体はまた痛めつけられては大変と、前の状態より強くなるまで回復する。これが、超回復理論だ。休養がなしでは、体力は落ちる一方で、超回復は起こらない。超回復のため休養は、積極的休養と呼ばれている。
  古田に、ジローはその理論がさも常識であるかのように説明した。
「さすが先生、これも計算通りだったんだ」
「あほ、いつも計算通りだ」
 練習の終わりのあいさつ後、プールサイドに並んだ選手たちに、ジローは問いかけた。
「で、今夜は?」
「早く寝る」、と絶好調をキープしているマッチョな男子部員が答える。
「他には?」
「はい、ごはんいっぱい、おかず少なめです」
 部長が答えた。彼女も調子は上々、もともとの泳力もあり、明日は活躍が期待されている。
「そう、いよいよ、今夜はごはん超大盛りで頼むよ」
 ジローは最後に古田にもしゃべらせたが、月並みなことしか言えず、解散となった。
「もっと気の利いたこと言えよ。お疲れさま、明日はがんばってじゃ、記録は出ないな。崖っぷちの男子チームが県大会行けなかったら、古田のせいだ」
  別れ際、ジローが言った。
「そりゃ、ひどいよ。明日も応援に行くからさ」
「来るのか? じゃ、バナナ」
「はいはい、差し入れでしょ。で、ごはんいっぱいって何?」
「カーボローディングだ」
 これは栄養摂取法の一つ。大会が近づくと、食べる米の量を減らして体が炭水化物に飢えた状態にし、大会直前、一気に炭水化物をとる。すると、飢えていた分、体はいつもより多く炭水化物を蓄えることができる。
「つまり、ガソリンタンクを大きくして、燃料をたくさん入れるって感じかな」
「すげえ、これも計算通りだ。なんでそんなにいろいろ知ってるの?」
「体育の先生に頭を下げれば教えてくれるぞ。タダで」
「で、男子、県大会行けそう?」
「差し入れにかかっている。責任重大だぞ」
 ジローは車に乗り、古田とここで別れた。自信はなかった。 

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 練習後、昼まで時間があったので、ジローは実家に行った。大事なことの前には、仏壇の前で手を合わせるように、と幼少の頃からヨウ子にきつく言われているのだ。
 実家では、あいかわらずヨウ子は横になって、高校野球を見ていた。トモカズは、そのそばで老眼鏡をかけ、新聞を見ていた。きほは、台所で皿を洗っていた。イチローは不在、すでに通所施設に出かけていた。
「ほい、お土産」
 通りがかりのパン屋で、あんパンを買ってきたのだ。トモカズの好物である。
「お金使わせて悪いねえ」
 とヨウ子が言う。
「パンが安売りしてたからさ」
 ジローはうそをついた。そして、仏壇の前に正座して、水泳部のことをお願いすべく、手を合わせた。特に崖っぷちの男子チームのことは念入りに頼んだ。
「えらいねえ。明日は大会かね」
 ヨウ子は、ジローが仏壇の前に座るたびに、幼少の頃からほめ続けてきた。仏壇の前に座る習慣を定着させようと思ってのことだろう。見事、困ったときの仏頼みほどには定着した。
「困ったときだけ拝んだって御利益はないよ」
 と言いながら、皿洗いを終えたきほが、お茶を持ってきた。
「やらないよりいいよね?」
「どうだかやあ」
 テレビでは、勝利した高校が校歌を歌い、敗北した高校の選手たちは、涙を流し、甲子園の土をかき集めている。
 いつ見ても感動的なシーンだとジローは思う。明日、男子チームが入賞できず県大会出場を逃したら、同じような光景を見ることになるのだろうか。
「あれだけ泣くんだから、ほんとにあの子たちはがんばってきたんだねえ」
 ヨウ子がつぶやいた。もらい泣きしている。目標が達成できなかったら、それまでの努力は無駄になるのだろうか。決して目標を達成しなくてもいいわけではないが。ジローも思わず、もらい泣きしそうになる。
「どうだね。生徒さんたちの調子は?」
「まあがんばってるけどね」
「さっき仏様に手を合わせたからきっと大丈夫だよ」
 仏様だけが根拠のこの「大丈夫」という言葉に、ジローは妙に励まされた。
「そういえば、兄ちゃん、高見山が勝っても泣いて、負けても泣いてたねえ」
「名古屋まで兄ちゃんを連れてっただよねえ」
 ヨウ子が思い出して言った。
「勝っても涙、負けても涙、甲子園と同じだ」
 高見山は、番付こそ、関脇止まりだったが、大記録を残している。幕内連続出場は堂々の歴代一位である。
「勝っても負けても、毎日、ベストをつくせばいいだよ」
 ヨウ子の言葉にジローの腹は決まった。
 ヨウ子とトモカズは、これから店に行くという。店が開店でも閉店でも毎日行く。まさに高見山だ。明日も高見山だ。

85
 ジローは朝五時半にベッドを出た。こんなに早く起きるのは、一年で、ほんの数日、水泳大会のあるときくらいだ。
 実は、ほとんど眠ってはいない。遠足前夜の小学生のように。
 すぐにキッチンに立ち、朝食と弁当を用意した。昨夜のうちに、ベーグルを焼いておいたので、サンドイッチにするだけだ。ドーナツ型で、もちもち食感のパンであるベーグルは、パン切り包丁で、上下半分に切る。朝食用には、クリームチーズ&ジャム、弁当用にはポテトサラダとカリカリベーコンにケチャップ少々。
 スポーツバッグにベーグル弁当を入れ、テーブルの上にベーグル弁当を置き、いざ出陣である。ベーグルを食べながら、車を運転して、会場に着くと、駐車場には、すでに古田がバナナを持って待っていた。
 ジローは会場脇の日陰に部員を集合させた。そして、ジローを中心にヨガが始まった。レースの朝はこれをするのが、このチームの恒例の儀式である。
「五秒吸って」
 とジローが言うと、力を抜いて立っている選手たちが胸を張って空気を吸い込む。
「二十秒息を止めて」
 二十秒の沈黙。
「十秒吐いて」
 ジローは選手たちとともに息をゆっくりと吐いていく。
 それからジローがいくつかのポーズをとり、選手たちがまねしていく。
「おい、古田もマジメにやれ。負けたら古田のせいだ」
「そりゃひどいよ」
 古田は硬い体を不器用に伸ばし始めた。
「先生、これなに?」
「ヨガだ。大会前はいつもやる」
 続々と他のチームも会場に到着し、それぞれストレッチをしたり、先生の話を聞いたりしているが、ジローのまわりだけ異質な空気が漂っている。
 ヨガが終わると、選手たちは腰を下ろし、目をつぶる。
「じゃ、好きな風景を思い浮かべて。大きく息を吸って、長く吐いて」
「先生、これ何?」
「古田うるさい。邪魔すんな。負けたら古田のせいだぞ。これはイメージトレーニングだ」
 これもこのチームはいつも大会前に行う。ジローは次に会場内の雰囲気を思い出させ、プールサイドに立ち、自分の泳ぎを、第三者の目で見ているイメージを浮かべさせる。
 それから、水の温度や重さ、実際に泳ぐイメージ、スタートで飛び込むイメージ、ターンするイメージなどを促す。
 最後にストップウォッチで経過時間を測りながら、本番のレースをイメージして、イメージトレーニングは終わる。
「ま、いちおう、やれることはすべてやってきたから、これでダメなら僕のせい。思い切っていこう。今日の作戦は、前半から積極的に攻めて、後半勝負。苦しくなったら、チャンス。ライバルも苦しいんだから」
 そして、ジローは選手をウォーミングアップに送り出した。

86
 ジローは、プールサイドで、マネジャーを呼んだ。
「じゃ、いつものよろしく。一年マネにも教えておいて。選手に絶対にバレるなよ」
「まかせて、先生」
 横にいた古田が聞く。
「ヨガとか、イメトレとか効果あるの?」
「そんなのわからないよ」
「え、なのにやるの?」
「心配するな。少なくとも選手たちは効果あると信じてる」
「そうなんだ。で、さっきのマネジャーに言ったのは何?」
「歴代マネ秘伝の作戦だ」
 二人のマネジャーはストップウォッチ片手にプールサイドに立っている。ウォーミングアップ会場のプールでは、スタートダッシュの練習が始まった。
 選手が、飛び込んで、短い距離をトップスピードで一、二本ダッシュする。ジローはその様子をプールサイドで眺めている。
 すると、マッチョがダッシュを終え、プールから上がり、ジローのところにやってきた。
「先生、やべえ、ベスト出た」
「ほんとか?」
「ほんとだって、マネに聞いてみてよ」
 マネがストップウォッチのタイムを見せる。
「すげえ。絶好調だな。プールサイド走って転ぶなよ」
「じゃ、もう一本行ってくる」
 マッチョが意気揚々と飛び込み台の方に歩いていった。その後もダッシュを終えた選手が、次々に好記録を報告に来る。
「みんな調子いいみたいだね」
 さきほどからジローにつきまとっている古田が言う。
「ま、秘伝だからね」
「教えてよ。それ何?」
「絶対、誰にも言わないか?」
「言わないよ」
「墓場に持ってくか」
「言うわけないよ」
 ジローはマネジャーに指示したのだ。大会当日のウォーミングアップでのダッシュのタイムを測るとき、ストップウォッチをほんの少し早く押せ、と。やけにいいタイムが出たのは、そのためだ。さきほど、マネジャーとジローがそのタイムに驚いたのは、もちろん、演技。これは、このチームで、代々、上級生マネジャーから下級生マネジャーに伝わり、決して選手たちに知られることのない秘伝中の秘伝なのだ。
「じゃ、さっきの全部演技だったの?」
「そう。選手に自信を持たせるための作戦だ」
 今日は負ける理由が見つからない、とジローは先ほど選手たちに話し、開会式へと送り出した。チーム状況は、女子チームは上々。部長が好調ならば、三位に入り、表彰台に上りそうだ。リレーチームも確実に入賞し県大会に進むだろう。
 とにもかくにも男子が問題なのだった。エース以外は、個人種目での入賞の可能性はない。
 なんとか力を合わせ、四人で四種目泳ぐメドレーリレーの入賞を目指していたのだが、準エースの脱退で、その可能性も低くなってしまった。
「ソウハツって知ってるか?」
 ジローが古田に聞いた。

87
 ジローは、ロビーの自動販売機で缶コーヒーを二本買い、古田とベンチに座った。
 大会が始まるまで、あと十五分ほどあるが、ジローにはもうすべきことがなかった。
「ま、飲め」
「ブラックだ。苦手なんだよね」
「うるさい。人生の苦みに比べたら、こんなの甘い甘い。がまんして飲め」
 そして、ジローは複雑系科学の話をした。
「つまり、ものごとは思い通りにコントロールできないってことでしょ?」
「そう。古田もセンセイだからわかるだろ」
「オレ、部活の指導でそうとうまいってたんだよね」
 古田がため息をつく。ジローは細かいことはきかず、古田の肩を叩いた。
「犬に芸仕込んだことあるか?」
「お座りくらいなら」
「エサで釣れば、犬はすぐ覚えるだろ」
「うん」
 古田は、一口、コーヒーを飲んだ。
「甘いか?」
「苦いよ」
「じゃ朝顔を育てたことあるか? ま、他の花でもいいけど」
「それっくらいあるよ。小学校の時だけど」
「芽を出せって言えば、芽を出したか? 咲けって言えば、咲いたか?」
「咲くわけないよ」
 ここで間。二人は同時にコーヒーを一口飲んだ。
「でも、生徒に咲けって言って咲かせちゃうセンセイもいるよね」
 古田がまたため息をつく。
 「いる…、いや、いるように見えるだけじゃないか」
 また間。
「そうか。先生、わかったよ」
「何が?」
「こっちが、水あげたり、棒を立てたり、雑草とったりすると、朝顔は自らの力で咲くってことだ」
「自らの力か…」
 教師のできることは小さいが、生徒のできることは大きい。なにしろ、教師は一人だが、生徒は圧倒的多数だ。
 教師の指示でトップダウンで動くのではなく、生徒たちが自ら支え合い、励まし合い、競い合い、ボトムアップで動く。そのときは、教師の思惑をはるかに越えて、生徒たちは成長するだろう。これが、ソウハツだ。
「教師は、なめられたっていいんだぞ。生徒に超えられてなんぼ。自分以下の生徒を育てて、どうする? 踏み台になれ」
「だから、先生は生徒になめられてるのか」
「なめられてんじゃないって。なめさせてやってんだって。これも、計算通りだぞ」
 どうやら、古田は生徒になめられればなめられるほど、高圧的になり、反感を買い、やることなすこと裏目に出て、悪循環に陥っていたようだ。
「ちょっと気が楽になったよ。先生のとこ来てよかったよ」
 ジローは腕時計を見た。
「行くぞ。コーヒー飲み干せ」

88
 ジローがこの学校に転勤してきて、チームの顧問になったとき、まずモットーを決めた。それは、Do Our Bestである。
 競泳の一番の目標は、自己ベストを出すことだ。たとえ、レースでビリになったとしても、自己ベストを更新できれば、ジローも選手も喜ぶ。逆に、優勝したとしても、自己ベストが出なければ、くやしいものだ。
 優勝をねらう選手も、参加することに意義がある選手も、目標は同じ、ベストを更新することである。だから、早い選手も遅い選手も同じチームでともに練習することができる。
 たとえ、男子チームが入賞できなくて、県大会出場を逃したとしても、ベスト記録を出すことができれば、勝ったも同然。
 この夏休み中の練習を振り返れば、チームの誰もが、ベスト記録はまず更新するだろう。
 全員がベスト記録を更新すれば、まさにDo Our Bestしたことになる。この夏の目標は、それで達成したことになる。
 と、思うジローは、レース前すでに弱気になっていた。Do Our Bestもたしかに大切なことだが、負けたときの言い訳をすでに用意しているよう気なもしていた。
 本大会最初のレースは、まず女子メドレーリレー。部長を中心によくまとまった女子チームは、順当に入賞し、県大会出場権獲得第一号となった。その次が、男子メドレーリレーだ。本大会で、ジローがもっとも気にかけているレースである。
 ジローは、招集所にいた男子メンバーのところに行った。
 四種目を泳ぐ四人がジローを囲んで立っている。彼らの表情は、ジローの目には、緊張しているようには見えなかった。
 もちろん、ジローは緊張していた。いつものことだ。
「フジヤマのトビウオの指、知ってるか?」
 敗戦後、世界新記録を何度も塗り替え、日本を励ました古橋廣之進のことだ。
「トビウオは知ってるけど、指までは知らないよ」
 と、マッチョが言うと、他のメンバーもうなずく。
 古橋は、幼少期の事故で、指の一部を失っていた。当然、水をかけば、そこから漏れるので不利である。しかし、そのハンディがあったからこそ、古橋は人一倍練習し、その結果、世界一のスイマーとなれたのだ。
 ジローはさらに続けた。
「全体は部分の総和じゃない。わかるか?」
 彼らは首を横に振った。
「チームが一つになれば、実力以上の力を発揮できるぞ。一かける四が四以上にな」
 たしかに男子チームは部員が一人減った。しかも、主要メンバーが。しかし、その穴を埋めるべく、残ったメンバーは今まで以上に泳ぎ込んできた。そのジローの言葉にマッチョが応える。
「俺たち絶対に県大会行くよ」
 彼らはまだ諦めていない。
「よし、トビウオになれ」
 スターターがピストルを天に向かって突き上げた。会場が、一瞬、静まり、ピストルの音が鳴り響いた。

89
 男子チームのエースが好スタートを切り、ターンをして、ジローの予想通り、二位で帰ってきた。
 続いて、一年生の平泳ぎが飛び込む。急きょ、リレーに起用された選手だ。ここで、最もタイムが落ち、順位も下がることをジローは覚悟している。もっとも大きなプレッシャーを感じているのは、まさしく彼だ。もともと遅かったというのもあるが、大幅に自己ベストを更新して、バタフライの副部長に引き継いだ。
 副部長は平泳ぎ専門の選手、バタフライ専門の準エースが抜け、その代役である。バタフライは、もっとも負荷のかかる泳ぎである。後半の疲労にどれだけ耐えられるかが勝負だ。
 順位もスピードもさらに落ちて、副部長がターンする。前半はよくまわっていた腕が、後半になると、鈍くなってきた。疲労が極限に達しつつあるようだ。ゴールがなかなか近づかない。
 他の三人のメンバーが副部長にむかって大きな声をかける。
  最終泳者のマッチョが飛び込み台に上がった。
 副部長は、順位を入賞圏外にまで落としてしまった。
 応援席で、ジローは叫び続ける。その横でマネジャーと古田も、魂の込もった声援を送る。
 副部長がなんとか泳ぎ切って、つないだ。とにかく、泳ぎ切らないことには、リレーは成立しない。
 そして、すべては自由形のマッチョに託された。この夏、一番熱かった男である。マッチョでダメなら、諦めもつく。
  マッチョがいきなりトップスピードで出ていく。
 マッチョの課題は、持久力である。スピードはあるが、そのスピードを維持するスタミナに不安がある。ターンをしてから、がくんとタイムが落ちるが、そこからどれだけ我慢できるかが、今日のすべてを決める。
 以前は、最初だけ飛ばして、後半はがたがたになるレースをしていたマッチョである。
 マッチョは二人を抜き、入賞圏内にまた順位を押し上げた。
 後半、一人でも抜かれたら入賞は逃す。
 ターン後、マッチョのスピードがやや落ちるが、まだ諦めていない泳ぎだった。
 レースはタッチの差の混戦となり、肉眼では最終順位はわからなかった。
 マッチョも自己ベストを大きく更新、チームの記録もジローの予想よりも数秒速かった。
 問題は順位だ。
 電光掲示板に、入賞チームが発表されると、マッチョが、両拳を突き上げ、雄たけびを上げる。男子チームはギリギリ入賞することができたのだ。その次のチームとはわずか0・5秒差だった。誰かがひとかきでも手を抜けば負けただろう。
 ジローは、さすがにマネジャーを抱きしめることはできず、嫌がる古田を抱きしめて、全身で喜びを表現した。
 彼らは、ジローが実は諦めていた入賞を果たし、「全体は部分の総和以上」であることを、証明して見せたのだ。

90
 続いて、エースが、順当に個人競技で二種目準優勝。ライバルに負けてしまったが、タイムは来シーズンの全国大会参加標準記録に迫り、高校最後の夏こそ、その標準記録を突破してジローをインターハイに連れていく可能性が高まった。
 ジローは、プールサイドで、レースを終えたばかりのエースを出迎えた。エースは表彰台に上がり、賞状ももらってきた。
「来年こそ、あいつに勝って、インターハイ出場だ。頼むよ」「はい、がんばります」
「そう、コーチを信じて、がんばれ。死ぬ気だぞ、死ぬ気」
 エースは、スイミングクラブの鬼コーチの下で、日々、厳しい練習を積んでいる。
「沖縄そばとタコライス、おごってやるからさ」
 来年のインターハイは沖縄で開催されるのだ。ジローはどうしても行きたかった。いや、行かなくてはならなかった。
「僕の言うことなんか聞いてたら遅くなるから、コーチの言うことだけ聞いておけよ」
「わかりました。死ぬ気でがんばります」
 エースは常に謙虚で素直だ。
 その後、部長が女子平泳ぎに出場し、まず二百㍍のレースで三位に入り、表彰台に上った。
 実はそのレース、彼女は百五十㍍の最後のターンまで、トップだった。そこで、次の百㍍では優勝だ、とジローが言った。
「そんなの無理ですよ。私、後半、バテますから」
「無理じゃない。今朝のダッシュのタイムなら、勝てるぞ。表彰台の一番高いとこ、頼むよ」
「いちおう、がんばります」
 部長は、謙虚なのか、弱気なのか、あまり闘志が表に出ない。
 彼女をレースに送り出すと、また古田と観客席に並んで立った。ピストルが鳴り、百㍍平泳ぎのレースが始まった。
 平泳ぎは、調整の難しい泳ぎである。手をかくときには推進力となるが、前に伸ばすときには抵抗になる。足も、曲げて引きつけるときには、抵抗になる。水と油のような正反対のものを融合させなくてならない。
 また、かく回数も、多すぎても少なすぎてもいけない。
 スイマーは水の中では誰の助けも借りられず、その調整をしながら孤独にたたかう。
 部長はトップで飛び出し、五十㍍のターン後もトップをキープした。最後の二十五㍍のところで、両脇の選手が迫ってきて、ほぼ三人並んでゴールタッチまで争った。肉眼では誰が優勝したかわからない。観客は電光掲示板の発表を待つ。一位と二位の差は、瞬きよりも短い百分の五秒差。電光掲示板の一番上には、部長の名前が光っていた。
 ジローはまた古田を抱きしめた。気づけば、最高の結果で大会は終わった。
 閉会式後、ジローは部員全員にアイスをおごった。古田にはブラックコーヒーをおごった。
「俺もアイスがよかったのに」
「今飲めば甘いぞ」
「先生、すごかったね」
「だから計算通りだ」
「やっぱり苦いよ」
「うるさい」

91
 昨日の水泳大会では、ジローの目の前で、まさにソウハツが起こった。
 ジローの思惑通り部員たちが動いたのではなく、その思惑をはるかに越えて、部員たちが相互に影響を与えあって、チーム力を発揮したのだ。トップダウンではなく、ボトムアップ。
 その原動力は、準エースの脱退だった。主力選手が減った分、危機感にあおられ、結果、チーム力が高まった。
 十から一を引いたが、九ではなく、十を超えたのだ。
 ジローは、これで、この夏の仕事は終了とした。
 気がかりだった準エースだが、昨日の朝のメドレーリレーだけを会場まで見にきたという。マネジャーは、彼に気づいたが、ジローには黙っていた。スポーツドリンクも差し入れたという。
 アルバイトがあるので、男子の入賞を見届けて、すぐ帰ったようだ。結局、準エースが来たことを知らなかったのは、ジローだけだった。
 もう夏休みも残りわずか。ジローは、八月三十一日まで、完全休養のため、予定を入れないという予定を立てた。
 一日中、生産的なことは一切しないで、非生産的に時間の浪費を楽しむ。これぞステイケーションの真髄。
 そんなジローとは対照的に、昨今の女子中学生はなかなか忙しい。モモは、宿題が終わっていないのにもかかわらず、連日、友達と、県庁所在地やプールなどに出かけている。
 中学生ともなれば、一日、父親とうちにいたら、間がもたないのだろう。モモは、たまにうちにいても、テレビの前で、リモコンを片手に、ソファの上で横になり、ぐうたらしている。
 ジローは、自分のことは棚に上げ、モモは時間を浪費すべきではない、と思っている。
「おい、モモ、いい加減にしろ。時間がもったいないだろ」
 ブランチ後、ソファに寝転がって動かないモモに、ジローがややきつく言う。
「自分だって、いつもぐうたらしてるくせに」
「あほ、パパがぐうたらしてるときは、頭の中フル回転で忙しいんだって」
「モモも頭ん中、フル回転。女子中学生もなかなか大変」
 その午後、モモはまた母親と出かけることになっていた。
 昼ごはんも食べてない昼過ぎに、モモの母親が迎えに来た。隣街の巨大ショッピングモールへ行くのだそうだ。新学期に向けてのお買い物らしい。
「モモ、おみやげよろしく」
「じゃ、お小遣いちょうだい」
「なら、いい」
 玄関には、真っ黒で大きな丸いサングラスを額に上げ、今日もキメているユリ子が待っている。
「では、モモをお借りします」
「どうぞ、無期限レンタルで、ごゆっくり」
 ジローは気が変わり、予定を入れないという予定を変更して、予定を立てた。

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