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弟4章「お盆休み」

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 お盆が近づいてきた。世間がお盆休みに入る前に、ジローは生徒会本部のメンバーに集合をかけた。毎年恒例の夏休み企画、民主主義実践強化訓練だ。ジローは、生徒会顧問でもある。
 学校行事には、教師主導のものもあれば、生徒主体のものある。学校祭や球技大会などは、生徒会本部が中心となって、千人近くの人間を動かすのだ。
 これは、瞬速仕事師のジローをもってしても、なかなかの労働である。連日のサービス残業で、晩ごはんも、ついついスピードメニューになりがちだ。
 たしかに、大きな行事を成功させれば、大きな達成感を味わい、生徒たちは大きな成長を遂げるのだが、いかんせん時間がかかりすぎる。
 ジローは生徒会顧問を十年以上続けているのだが、この時短にも、ずいぶんと苦心してきた。
 そして、ジローがたどり着いた結論は、民主主義だった。
 民主主義が一番速い。
 もし、ジローが専制的リーダーだったら、行事の全体像だけでなく、それに要する作業のすべてを把握し、事細かに指示を出さなくてはならない。
 この専制主義では、リーダーの資質が問われる。
 もちろん、ジローは自らの資質に幻想を持っていない。
 一方、民主的リーダーは、メンバーの討議で導き出された結論を尊重する。メンバー全員が、討議に関わるので、全員がその全体像を把握し、全員がその決定に責任も感じる。
 こちらは、たとえリーダーが優秀でなくとも、メンバー全員が動く。結果、速くなるのだ。
 完全なリーダーの下での専制主義は、もっとも速いだろう。しかし、人間とは不完全なもの。もし、リーダーが優秀でなかったら、指示を待つメンバーは動かず、仕事はいつまでたっても終わらないだろう。また、そのリーダーが暴走すれば、メンバー全員も暴走し、収拾がつかなくなるだろう。
 その日、ジローはモモの朝ごはんをつくりながら、モモの弁当もつくって、出勤してきた。そして、午前中に水泳部の練習を終えると、調理室に向かった。
 生徒会本部のメンバーたちが、午前中に何をつくるか、討議をして、役割分担もして、もう昼食が用意されているはずだ。会費は、一人三百円。すでに、ジローは、朝のうちに会計長の生徒に払ってある。
 今ごろモモがうちで弁当を食べているはずだ。ジローがつくった弁当は、韓流のっけ弁。白いごはんの上に、豚ひき肉を炒め、コチュジャンとしょうゆとみりんで味付けてしてのっけ、さらに、モヤシとにんじんとニラをごま油で炒め、塩で味付けしてのっけた弁当。彩りもよく、上の具のごはんへの染みこみ具合が絶妙な弁当。
 さて、調理室では、男子五人だけが、まだ昼食を準備していた。メンバー十二人のうち、男子は五人のみ、彼らが調理を担当することになったようだ。
「で、女子は料理しないの?」
「しません」と、副会長が言う。
「で、女子は何やってるわけ?」

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 午前中の会議で、料理に自信のない男子生徒たちは、料理を女子に押しつけようとしたらしい。それはフェアではない、と女子生徒会長が怒り、それなら男子が料理をして、女子が生徒会室の掃除をするということになったという。
「ま、それは男子が悪いな。何のために、家庭科の授業を男女一緒にやってると思ってんだ。昔は、女子は調理実習で男子は本棚づくりとか別だったんだぞ」
 そんな教育を受けたジローは、家事はオンナがしてくれるものと大きな勘違いをしてしまったことがある。
「料理できないオトコはだめだ」
「え、先生はできるんですか?」と、すかさず、副会長が聞いてくる。
「当たり前だ」
「高校生のときもできたんですか?」
 ジローは一瞬記憶をたぐり寄せる。
「できなかった」
「じゃ、大学生のとき一人暮らしで」
「いや、インスタントラーメンばかり食ってた」
「じゃ、社会人になってから」
「いや、第一次独身時代は、毎晩、外食だった」
 彼らここで気づいた。
「バツイチになってから…」
「ま、必要に迫られてということもあるが、better late than neverだ。意味わかるか?」
 ジローは、パソコン担当の二年生男子にきく。彼の学力は、この中で一番高い。
「六十の手習い」
「そうだ。人生に遅すぎるということはないぞ。それに、料理できる男子はモテるらしいぞ」
「おれ、料理がんばるよ」と、副会長。
「じゃ、先生はモテモテですか?」
 シャイな一年生男子がおそるおそる聞く。
「当たり前だ」
 彼らが買ってきてあったのは、焼きそばの食材だった。
「焼きそばなんか、失敗するほうがむずかしいだろ。それで、女子が喜ぶか?」
 彼らは首を横に振る。
「料理ってのは、ひとを喜ばせなくちゃならない」
 そこで、調理室に常備してある小麦粉を借りることにして、ジローの得意の広島風お好み焼きをつくることになった。
「おい、デザートは?」
「もう冷蔵庫の中にありますよ」
 副会長は、やや得意げだ。
 牛乳と混ぜるだけでできるフルーチェ。
「それだけか?」
「トマトも切ります」と一年生男子が、トマトを切る。調理室の切れの悪い包丁で押し切ろうとするので、トマトがつぶれ、まな板が水っぽくなる。
「包丁の先で、切れ込みを入れて、そこから切れば、つぶれないだろ」
 ジローが実演すると、彼らは手をたたく。
「急げ、料理で女子を驚かせてやれ。僕が見ててやるから」
「先生は、手伝ってくれないんですか」と副会長。
「甘えるな」とジローは笑顔だ。

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 男子チームは、見事に、その料理で女子を驚かせ、喜ばせることに成功した。
 そうとう散らかっていた生徒会室も、女子のおかげですっかり片づき、机の上に積み上げられていた書類の山も消えた。
 今、生徒会本部メンバー十二人がその机を囲んで座った。
「では、恒例のしゃべり込みを始めます」
 と、女子生徒会長が言う。
 ジローは、生徒会室は学校における民主主義の牙城だと考えている。学校というところは、実に民主主義の実践が難しいところだ。職員会議は、どんなに議論を尽くしても、最後は校長の意向で決まる。教室でも、もし教師が、授業をするかどうか生徒の多数決をとったら、たいていの授業はつぶれ、生徒の学力は落ちるだろう。だから、時に、教師は有無をいわせず教えなくてはならない。
 ジローは、今日、民主主義を教えるためにここに来ている。メンバー全員が参加して、一つの結論に達するまで、自由に、対等に、しゃべり込む。これが、民主主義の基礎づくりだ。
 三年生が引退し、新執行部が発足したばかりのこの生徒会室で、民主主義が確立され、教師の指示がなくとも、メンバー全員が、自ら考え、自ら動くようになることを、ジローは期待している。ジローの仕事の軽減と時短も大いに期待している。
「先生、お題をお願いします」
 ジローが、調理室で皿洗いを手伝いながら思いついたお題を発表する。
「ドラえもんのキャラで、生徒会長にすべき人物は誰か? のび太、ジャイアン、スネ夫、静香、出来杉の五人で。ただしドラえもんの助けは借りない。多数決で決めるのもダメ」
 生徒たちは笑った。ジローは、ふざけているようだが、いたって真面目である。
 まず、生徒会長の指示で、AとBの二つのグループに分かれた。それぞれのグループで結論を出し、あとで合流することになった。
 会長のいるAグループは生徒会室に残り、副会長のいるBグループは、生徒会室の前のホールに椅子を出して、丸くなって座った。
 ジローはBグループのそばに椅子を置いて座った。こちらのほうが、生徒会室の中より風通しがよさそうだからだ。
 メンバーたちが、黙って考えて始める。セミの声が、ジローの耳によく届く。たまに吹き抜ける風が心地よい。
 副会長が最初に自分の意見を発表した。
「オレは、ジャイアンにしたんだよね。リーダシップがあっていいかなと思って」
「それはないな」と二年生のパソコン担当の男子が反対する。「オレは、静香ちゃんが一番。静香ちゃんのためならオレはがんばれるし」
「それ、下心じゃないですか」
 と、会計担当の二年生女子。他の女子もうなずく。
「私はやはり、出来杉君かな。頭いいから」
 議論は冒頭から熱くなる。

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 乱暴なジャイアンは武力の象徴、バイオリンを弾く静香は芸術の象徴、優等生の出来杉は知性の象徴、金持ちの家に生まれたスネ夫はカネの象徴。では、のび太は何の象徴か? 議論は深まっていく。
「じゃ、のび太の特徴を言っていこうよ」
 副会長の提案に、メンバーたちが次々に発言する。
 なまけもの。甘ったれ。泣き虫。核家族の一人っ子。他力本願。あやとりが上手。取りえがない。
「だけど、将来、静香と結婚するし、有名なロボット学者になるんだよなあ。ある意味、うらやましい。今はイジめられて大変だけど」
 パソコン担当の切り口にメンバーたちが感心する。
「体力もないし、芸術的センスもないし、お金もないし、頭脳もないし、私ってのび太」
 会計担当の二年女子が言う。
「しかも、ドラえもんのいないのび太」
 パソコン担当がそう言うと、会計担当は開き直る。
「どうせ、私はのび太ですよ。でも、みんなのび太なんじゃないの?」
 ジローも、実に自分がのび太であることを日々思い知らされている。
「ジャイアンはどっちのジャイアン? テレビそれとも映画」
 パソコン担当によると、毎週金曜日に放送される「ドラえもん」のジャイアンは意地悪だが、毎春公開の映画のほうのジャイアンは、強さとやさしさを兼ね備えているのだそうだ。
「先生、どっちのジャイアンなんですか?」
 副会長が聞くが、ジローはすぐには答えられない。
「映画のジャイアンは年一回だから、毎週のジャイアンが、ホントのジャイアンだよ」
 会計担当の意見に、みな同意した。ジローは立ち上がり、生徒会室の中のAグループに「映画じゃなくてテレビのジャイアンでよろしく」と伝えた。
 二時間などあっという間に過ぎていく。結局、Bグループでは、のび太を生徒会長に推すことになった。あえて、頼りないリーダーを立てることにより、メンバーにのびのびと個性を発揮させるのがねらいだ。
 生徒会室で両グループが合流した。Aグループは、ジャイアンを一番に推していた。女子生徒会長の強い意向が働いたようだ。彼女は、絶対に譲らない、と宣言し、議論が始まった。
「のび太は、何の取りえもない普通の子。誰の中にも弱いのび太がいるはず。そんなのび太をみんなが支えていく。最後に勝つのは、のび太。将来は、静香と結婚できるし」
 パソコン担当が自信を持って、そう切り出した。
「やっぱり会長は、リーダーシップでしょ。のび太は、決まるものも決まらないし、実行力がなさそう。ジャイアンは、たしかに性格悪そうだけど、やるときはやりそうじゃない」
 生徒会長の片腕的存在の一年女子が切り返す。なかなか弁が立つ。議論は真っ向から対立だ。

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 ディベートとディスカッションは違う。ディベートは、二つのグループが、あるトピックに対して、賛成側と反対側に分かれて討論し、どちらが、説得力があるかを競う。賛成側のグループに入ったら、自分の意見がたとえ反対でも、賛成の意見を言わなくてはならない。ディベートは、勝ち負けのある言葉のゲーム。目的は、論理的な話術で、相手を論破すること。
 ジローも数年前に生徒会の合宿で、メンバーたちにディベートをやらせたことがある。そのときは、おにぎり対サンドイッチでたたかった。議論は深夜まで続き、翌朝も続けられた。
 ディベートでは、結論はそれぞれのグループで決まっている。決して揺るがない。議論は尽くしても尽くしても、平行線。
 たしかに、そのときのメンバーたちはしゃべり込んだ。遠慮しがちな下級生にも発言機会が十分に与えられ、全員が議論に参加することができた。
 しかし、結局、両グループともいがみあったまま、勝敗はつかずに終わってしまった。
 それは、ジローにとっては少し苦い記憶として残っている。
 そんなことを思い出しながら、ジローは議論を聞いていた。これは、ディベートではなく、ディスカッションだ。勝ち負けはない。全員一致で、一つの結論を出すのが目的である。
 いったん、議論を中断し、休憩となった。ジローが購買の自動販売機で、好物のバナナオレを買っていたら、生徒たちにせがまれ、全員分おごることになってしまった。これも、民主主義への投資と、ジローは自分を納得させた。
 議論が再開すると、出来杉の頭脳とスネ夫のカネも捨てがたいという意見も出た。
「私は何度も言うけど、絶対にジャイアン。ここは譲れない」
 会長の語気が荒くなった。その勢いは止まりそうにない。ジローは交通整理をすることにした。
「ものごとは、声の大きさや肩書きで決まっちゃダメなんじゃないかなあ。会長が絶対に譲らないとか言ったら、ルール違反だよ」
 途中で、バナナオレのストローを二回ほど吸って、穏やかにそう言った。
 会長は自分がジャイアンになって暴走していたことを認めたのか、しばらく聞き役となった。
 執行部に入ったばかりの一年生たちが、先輩に促され、意見を言い始めると、今度は静香の人気が上がってきた。
 ジャイアンにひとがついていくのは、怖いから。一方、静香についていくとしたら、その優しさや誠実さや感性に引かれてのことだろう。
 議論は三時間を超え、ようやく、全会一致で、静香生徒会長が誕生した。
「今日は意地張ってごめんなさい。今は納得できたし、スッキリした」と会長が言うと、他のメンバーも笑顔で納得する。
 この小さな一歩は、生徒会本部の大きな飛躍、日本の民主主義への一歩でもあることを、ジローは確信していた。

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 月末に大会を控えた水泳部も、さすがにお盆休みはとる。ほんの三日ほどだが。
 お盆休みの前は、恒例の一日練習である。いつもは午前中だけの練習なのだが、この日は午前午後と二回練習して、十㌔ほど泳ぐ。この夏、一番きつい練習である。この日をピークとして、徐々に練習量は大会が近づくにつれて減っていく。
 一日練習を明日に控え、練習後、プールサイドでミーティングが開かれた。とりあえず、明日の昼食をどうするかだ。
「先生、カレーよろしくお願いしますね」
 女子のエースである部長が言う。ジローのカレーも恒例なのだ。ミーティングの結果、明日は全員、ごはんと飲み物を持参することになった。デザートは、毎年、一日練習をのぞきに来る卒業生の差し入れに期待だ。
 そして、もう一つの議題を話し合った。この日も練習をサボった準エースのことである。
「おれは、明日の一日練習いっしょに泳がなかったヤツとはリレー組みたくない」
 準エースのライバル的存在のマッチョな男子が言う。
「明日来なかったら、もう決断するしかないんじゃない?」
 部長が、男子エースの意見を求める。彼はただうなずいた。
 そして、ジローはケータイをとりだし、準エースにかけた。留守番電話になっていたので、そのことを告げた。
 その翌朝、ジローが卓上コンロとカレーの入った鍋を二つ持って、プールに行くと、選手たちはストレッチを始めた。
 準エースはいなかった。
 ストレッチの間に来るかもしれない、とジローはかすかな期待を持った。彼が今日来れば、リレーメンバーに入り、男子のリレー県大会出場は確実だ。
 ストレッチが終わった。ジローが練習メニューを説明し、全員でプールへあいさつをした。
 ジローは部員を集合させた。
「ま、男子リレーはあいつ抜きで、組むことにしたから」
 ジローは、一年生部員の名前を呼び、彼が返事をすると、言った。
「おい、リレーで平泳ぎ行くぞ」
「はい。がんばります」
 彼は覚悟はしていたようだ。
「一番、遅いってことは、一番、速くなるってことだぞ」
 午前の練習が始まった。午後の練習を軽くするため、午前の練習のほうがきつかったが、選手たちはお互いに声をかけあいながら、長距離を泳ぎ切った。
 選手たちがクールダウンして、着替える間、ジローはプールサイドの机に卓上コンロを置き、二つのカレーの鍋を交互に温めた。一つは、豚ひき肉とタマネギとほうれん草のカレー。もう一つは、鶏胸肉とタマネギとトマトが入ったカレー。市販のルーを使えば簡単だ。時間をかけない割に美味だ。
 部員たちが白米だけ入った弁当箱を持って、プールサイドの日陰に集まって、座った。部長が、手を合わせるように言う。
「じゃ、先生、いただきます」
 他の部員も唱和して、カレーパーティーが始まった。

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 ジローは、ブランチの後のデザートに、梨をむいていた。
 モモは思い出して、怒り出した。
「結末、言われちゃったよ。どうなるか楽しみにしてたのに」
 モモが読書感想文のために読んでる「こころ」のことだ。卓球部顧問は国語教師で、何を読んでいるか聞かれ、そのときに言われてしまったという。
「あの先生は、友達の好きな人と結婚して、その友達が自殺しちゃったんでしょ」
 まったくその通りである。
「それで、先生も自殺しちゃう」
「え、そうなの?」
「あ、そこまでは知らなかったのか」
「また、言われちゃったよ。もう読む気なくした」
「待て。ここでやめたらもったいないぞ。名作読破できるのに」
 ジローも、今、こころを読んでいるが、それは三回目である。もちろん、あらすじは知っているが、退屈はしない。
「旅だってさ、ガイドブックの写真見て、何があるか知ってても、行けば楽しいだろ?」
「それはそうだけど」
「読書はな、旅みたいなもんなんだって」
「旅?」
「好きなところには何度も行くだろ。同じところにいっても、自分はいつも同じとはかぎらないから、毎回、新しい自分と対話できるんだなあ」
「誰が言ったの?」
「パパの考えだって」
「うそだ」
「で、こころのどこがおもしろいんだ?」
「散歩するとこ。先生と、電車乗って降りて、また散歩するんだよ」
 歩きつつ語る、語りつつ歩く。ジローはもうずいぶんとしてないことだ。
「モモ、散歩行くぞ」
「暑いからいやだ」
 その日も猛暑が予想されていた。
「たしかに、そうだな」
 ジローはモモと最後に歩いたのはいつだろうと、記憶をたどったが、忘れてしまった。
「パパ、あの先生、何の先生?」
「何って、そりゃ、人生の先生じゃね」
「パパは何で先生になったの?」
「そりゃ、人生を教えるために決まってるだろ」
「絶対、うそ」
 実は、ジローにもよくわからない。もう熱血教師ではなく、熱すぎず冷たすぎず常温教師に成り下がってはいるが、ただこの仕事は嫌いではない。
 そんな話をしているうちに、ドアチャイムが鳴った。
 モモは、今日、いとこたちと会うことになっている。モモの母親が迎えに来たのだ。大きなサングラスをヘアバンドのようにして、今日もまぶしい彼女に、ジローはモモを引き渡した。
「で、その後、ストーカーは?」
「おかげさまで、大丈夫。その節はお世話になりました」
「いえいえ」
「パパ、じゃ、いってくる」
「おう、いってこい」
ジローは、ぽっかりとその日は暇になった。

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 シュフにとって、一人の時間は、めったにない貴重な時間だ。自分の、自分による、自分のためだけのお一人様タイム。
 ジローは、軽自動車に乗り込み、まず、お気に入りの喫茶店を目指した。山のほうに向かい、茶畑の中を登っていく。
 三十分も走ると、突然、見落としそうな小さな喫茶店が現れる。自家焙ばい煎せん珈琲と看板にある。
 駐車場から茶畑の裾野を見下ろせる。店内はまったくの異空間だ。天井が高く、小さな絵が程よく飾られ、内装はログハウス調、静かにバロック音楽が流れ、外国に来たかのようだ。
 ジローがいつも飲むのは、クリスタルブレンド。無口なマスターがドリップしたやや濃いめのコーヒーが、やや小振りの白いカップに入って出てくる。
 シュフとは、日常の専門家である。日常を見直し、その家事の技を研ぎ澄ますには、このような非日常も必要なのだ。
 北欧のインテリアの雑誌をめくりつつ、コーヒーを味わう。
 一度モモを連れてきたことがあるが、さっさと飲み終え、そわそわし出した。モモにとって、喫茶店は飲み物を飲むところ、飲んでしまえばそこにいる意味がないのだろう。この店は、やはり、お一人様にかぎる。
 ジローは雑誌に飽きると、文庫本を取り出した。こころだ。モモが言っていた電車で散歩に行く場面が本当にあって、驚いた。散歩しながら、金がひとを変える、と先生は言う。金で裏切られたことがあるのだ。モモがこれをおもしろいとは、おもしろい。
 ジローは喫茶店を出ると、髪を切りたくなり、美容院に電話して、すぐ予約をとった。
 三十分後には、ジローは髪を洗ってもらっていた。ジローより少し年下の彼女とは、もう八年のつきあいである。
「この夏はモモちゃんとどっか行くんですか?」
 顔に布をかぶせられたジローに彼女が聞く。モモも彼女に髪を切ってもらっている。
「今年は、ただうちでダラダラしてますよ」
「それも、いいですね。うらやましいですよ」
 彼女はジローの主治医のようなものだ。ジローは、いたって従順である。
「じゃ、今日はちょっと冒険して、アシメにしちゃいましょう」
「ああ、はい」
 ジローはリコン直前、彼女に言われ、勇気を出して髪型をかえ、メガネもかえ、ついでに生き方もかえた。
「生徒さん、びっくりしますよ」
 生徒は教師の変化に敏感だ。少しの変化で大げさに反応する。あまり生徒と会わない夏休みでよかった、とジローは思った。
 外していたメガネをかけて、前の鏡を見ると、前髪が左右長さが違う。髪の上のあたりは、ツンツン立っている。
「かっこよくなりましたねえ」
 それはジローにはよくわからないが、彼女に髪を切ってもらうと、間違いなく気分が前向きになる。そのとき、ポケットの中のケータイが振動した。メールが届いたのだ。

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 美容院を出てから、ケータイを開いた。
「ごぶさたしています。帰省しました。先生のうちにおじゃましてもいいですか?」
 メールはジローの教え子の古田からだった。前々任校で、ジローが顧問をしていた生徒会の本部役員の一人だ。当時、ジローはリコンほやほやで、彼にはベビーシッターをよく頼んだ。
 ジローが何を食べたいか聞くと、魚というので、魚屋で鰹かつおを買って帰った。
 ヒグラシが鳴き始めたころ、ジローは晩ごはんの準備にとりかかる。やがて、古田がやってきた。バイクで来たという。
「いちおう、これお土産。人気のお菓子だよ」
 生のマスカットが入った和菓子。なかなか買えないという。
 古田は、キッチンでジローの隣に立ち、近況を報告した。今も東京の私立中学で、技術科を教えている、と。幸いなことに、これまでは毎年契約を更新する講師だったのだが、来春からは正規教諭になれそうだという。
「それは、めでたいな。このご時世」
「で、今年が勝負なんだよね」
 古田は、現在、陸上部の顧問をしているが、競技経験もなく、苦労しているらしい。
「先生が部活してるところ、見学させてほしいんだよね」
「そんなの参考になるわけないだろ? やめとけ。専門の先生に頼んでやるぞ」
 他の専門の先生の指導を見ても、まねできないので、役に立たない、と古田が言う。
「今うちもごたごたしてるんだって。来ても学ぶことはないぞ」
 ジローはなんとか古田に見学を諦めさせようとする。
「それなら、なおさら、見学したいんだよね。うちの陸上部はもっとごたごたしてるからね」
 ジローはしゃべりながらも、手を休めることはない。みそ汁とサラダを作り終え、いよいよ鰹に金串を四本刺した。
「何すんの?」
「あぶる」
 コンロの火に、扇状に串刺した鰹をかざす。
「古田、氷水をボウルに用意しろ。早く」
 鰹があぶられて白くなると、氷水につけた。そして、伝家の宝刀を取り出した。
「すごい、刀みたいだね」
 ジローが父親から譲り受けた刺身包丁だ。料理人の魂の入ったまさに刀である。金串も父にもらった。刺身は、一切れずつ、一太刀で切る。包丁を前後させると、細胞が破壊され、水分が出てきてしまうからだ。
 鰹をオニオンスライスの上に並べ、ネギを散らし、ポン酢をかけた。
「先生、この部屋、暑いね」
「我慢しろ。扇風機そっちむけていいから」
 魚好きな古田はまず鰹に箸をのばした。
「先生、これ、マジうまい」
「当たり前だ。で、ホントに見学来るのか?」
「お願いします」
「やめとけって」
 古田は次の練習を見学に来ることになった。

70
 今年も八月十五日正午、水泳部員たちが、練習を終え、プールサイドに並んだ。いつものプールへの礼だ。
 ジローの隣には、見学に来た古田も立っている。
「ありがとうございました」と部長がプールに向かって言うと、他の部員が唱和する。そして、ジローと向かいあうと、ジローが一言ねぎらった。
「古田も、何か言えって」
「いきなり、ですか?」
 古田は、見学のお礼と、練習の雰囲気の良さをほめ、大会でベストが出るようがんばってほしい、と言った。それから、ジローが部員に問いかけた。
「で、今日は何の日だ?」
 と、ジローが問いかけると、男子部員の一人が言う。
「原爆の日」
「ちがうって、戦争終わった日だろ」
 と、隣の男子部員が言う。
「そう。平和じゃなかったら、スポーツはできないんだから。はい、黙とう」
 ジローの指示で、全員がうつむいて、目を閉じた。セミの声が、一斉に耳に入ってくる。
 そして、お互いに礼をして、練習は終了した。
「先生、いいチームだね」
「たまたま、今日は知らないお客さんが来たから、いいとこ見せよう、とがんばったんじゃないか」
「みんな励ましあってさ。上級生は自分が一生懸命泳ぎながらも、下級生の泳ぎ見て、注意したりしてたでしょ」
 チームは、ジローの予想以上に、団結が深まっていた。
 準エースが抜けてから、マッチョが責任を感じて、男子チームを率先しつつ、自らをも追い込んで泳ぐ。男子チームは、準エースが抜けた穴を埋めようと、必死だ。
 急きょ、リレーメンバーとなった一年生男子は、一本一本、気合いを入れ、別人のようなフォームで泳いでいた。
 ジローがほとんど諦めていた県大会出場を、彼らは諦めてはいなかったのだ。
 競泳は、リレーはあるが、基本的に個人競技である。水の中に入れば一人だ。誰の力も借りることはできない。だからこそ、仲間の存在が必要で、チームスポーツなのだ、とジローは思う。人間は、一人でがんばれるほど強くはないからだ。
「先生が、何も言わなくても、みんな声掛けあって、手抜かないで、がんばってるよね。どうやって、指導したの?」
 それはミーティング後の初練習だからだろう、とジローは思う。特に何もしていない。
「だから、たまたまだって。いつもこんなじゃないよ」
「いや、絶対、何か秘密があると思うんだよね」
「そんなのないから、他の部活見に行け」
「いや、また見学させてよ」
「意味ないぞ。また来たって」
「もしかしたら、黙とうがいいのかなあ」
「そんなの一年に一回しかできないだろ。もう来るな」
「じゃ、先生、明日、差し入れ持ってくるから」

71
 黙とう後、ジローが急いで帰ると腹をすかせたモモが待っていた。そうめんと豚しゃぶサラダの昼食を十分で用意して、十分で食べ終え、モモを車に乗せ、窓を全開にして、実家に向かった。
「今日は、わかってるか?」
「戦争終わった日だから、墓参りでしょ」
「わかってりゃいい。うちの伝統行事だから。ま、靖国神社参拝に行くようなもんだな」
「そうなんだ」
「いや、それとは違う」
「ふーん」
「やっぱり全然違うから」
 実家では、きほが一人で、よそ行きの格好をして待っていた。日傘とハンドバッグを持って、車に乗った。助手席に座っていたモモは後部座席に移り、きほに助手席を譲った。
「悪いねえ。モモちゃん、後ろでいいの?」
「全然いいよ。後ろのほうが広いしね」
 と、モモは、大きな声で、きほに言った。
「パパ、兄ちゃんは?」
「店にいる。兄ちゃんも連れてくぞ」
 店に立ち寄ると、トモカズが頭にタオルを巻いて、材木を切っていた。それは新しい店のカウンターになるらしい。モモは、トモカズの作業を近くで観察するため、車を降りた。
 ジローは店の裏にまわった。そこにはちょっとした座敷があり、そこでヨウ子は横になって、テレビで高校野球を見ていた。この夏は、ヨウ子は甲子園の全試合を見ているようだ。ヨウ子の近くで、イチローがストローで緑茶を飲んでいた。
「兄ちゃん、おしっこしたら、お墓行くよ」
 イチローは、笑顔になり、指を鳴らした。たとえ近場でも、イチローは外出が大好きなのだ。
「いいねえ、兄ちゃん。お出かけだって」
 と、ヨウ子は上体を起こして、用意してあった献花用の花束をジローに渡した。
「どう、高校野球は?」
 ヨウ子は、上体を起こして、午前中に行われた試合がいかにエキサイティングだったか、説明した。
「やっぱりスポーツはいいねえ」、とジロー。
「スポーツが一番いいだよ」
「タダだしね」
「ありがたいよ」
 それから、ジローは、今うちにある食材が何か聞き、それで適当に晩ごはんのおかずをつくることにした。今日も、もらいものの野菜があるようだ。
「晩ごはん作ってくれるなら助かるやあ。じゃあ、兄ちゃんも、いってらっしゃい」
 ヨウ子は、二人を見送ると、また横になった。
 ジローはイチローの手を引き、きほの待つ車に戻り、モモも乗り込んで、ラジオで高校野球を聞きながら、墓参りに出発した。
「モモ、おばあちゃんの話聞いておけよ」
 毎年この日は、きほが戦争の時の話をする。

72
 当時、なかなかの美人だったらしいきほは、ジローの祖父次雄に一方的に求婚され、このうちに嫁いでくることになった。
 まだ婚約期間中のこと、次雄のもとに召集令状が届いた。次雄は、この結婚はなかったことにしようと、きほに言った。
 いったん、戦地へ行けば、生きて帰ることは難しい。天皇のために命を捨ててこその日本男児である。生きて帰ることを期待してはならない時代でもあった。
 しかし、きほは結婚を決意する。簡単な結婚式を済ませ、次雄は出征していった。
  次雄は陸軍将校で、船舶砲兵として輸送船に乗り込み、南方と日本を行き来していた。次雄の任務は、船の上から敵機を撃つ高射砲の指揮である。
 輸送船は、徴用した漁船を改造してつくったものもあり、すぐに米軍機によって沈められた。高射砲の命中率も高くなかったようだ。
 次雄を乗せた船が、たまたまこの町の前の、浜の沖を航行していたとき、敵機に沈められたこともある。そのとき、次雄は泳いで陸までたどりつき、重油まみれの外がい套とうを羽織ったまま、ずぶ濡れで、夜中にうちまで歩いて帰ってきて、きほを驚かせたこともあるという。
 瀬戸内海の因いんの島しまという小さな島に、次雄が南方から帰ってきたとき、きほは一番きれいな着物を着て、汽車と小さな船を乗り継いで、因島までわたった。
 それが、二人が会った最後である。その因島で、きほはヨウ子を身ごもった。つかの間の新婚生活の後、次雄は死地へ旅立っていった。
 ヨウ子が生まれてから百日後、きほはヨウ子と写真館で写真をとって、戦地へ軍事郵便で送った。
 ヨウ子の誕生日から次雄の戦死した日までの日数は、百日とない。次雄は自分の娘の顔を見ることはできなかった。
 あの八月十五日、きほはこれで次雄が帰ってくると思い、うれしくてたまらなかったという。次雄の死を知ったのは、終戦後一年以上たってからのことだった。
 以上が、ジローが知るすべてだが、この話のダイジェストを、墓地に着くまでの間に、きほがモモに話す。モモは、わりと真剣に聞いている。
 ジローは、以前、次雄が戦地からきほに宛てて書いた軍事郵便を読んだことがある。そのほとんどが、きほへの恋文だった。ひげを今のばしていると書いたはがきもあった。しかし、今度帰る時は、そのひげをそっていくが、理由は、接吻のジャマになるらしいから、と。よくもそのような手紙が検閲を通ったものだ。勇気ある行動だったにちがいない。ジローは、次雄を、兵士としてではなく、一人の女性を愛する一人の男性として尊敬している。
 やがて、墓地に着いた。次雄が眠るのは、宗派を問わない市民墓地で、隣の墓には十字架が刻まれてあり、反対側には南無阿弥陀仏、向かいには南無妙法蓮華経もある。

73
 車を降りると、ジローがイチローの手を引き、モモがきほと腕を組み、墓と墓の間の砂利の上を歩いていった。
 日差しが強く、日陰がないので、ジローはさっさと墓参りをすませたかったのだが、イチローもきほも歩みは遅く、時間がかかりそうだ。わずか、数十㍍の距離だが、イチローにとってははるかな道のりで、その首筋に汗の玉が噴きだしてきた。
「イッチニ、イッチニ」
 ジローは、イチローの両手を引き、後ろ向きに歩いていく。片手をつなぐより、このほうが安定するので、イチローの歩みが速くなる。モモは、水道のところまで行き、そこに置いてある手おけに水を入れ、ひしゃくと一緒に持ってきた。
 きほが、葉っぱの多い花を、墓に供え、モモが水をかける。
「上からもかけてやってよ。パパのおじいちゃんが喉乾くだろうから」
 と、きほがモモに言う。おじいちゃんといっても、今のジローより十歳も若いときにこの世を去っている。
 モモは背伸びして、墓の真上から水を滴らせる。きほもジローもひしゃくを受け取り、水をかける。イチローは、砂利の上にしゃがみ、額に汗をかきながら、まぶしそうな顔をしている。
 きほとモモとジローは墓の前に並んで立つと、手を合わせた。イチローも、まねして、しゃがんだまま手を合わせた。
「モモちゃん、みんな死んじゃったら、このお墓頼むでねえ」
「うん、だいじょうぶ」
「これで、安心だやあ」
「モモ、パパもここに入るから、そんときはよろしく」
「はいはい」
 ジローには、一つだけ、イチローに頼みたいことがあった。
「兄ちゃん、ジーより、先にお墓入ってよ。わかった」
「アイ」
 イチローは元気よく笑顔で答えた。
「これで、ジーも安心だ。兄ちゃん、先に死んでよ、頼むよ」
 兄はアイと元気よく返事して、指を鳴らし、「コーヒー」と言った。
「じゃあ、コーヒーでも飲みに行くかね。おばあちゃんがごちそうしてやるで」
 次の四人の目的地は、ファミリーレストランだ。障害者用駐車スペース、広いトイレ、入り口のスロープ、最近のファミリーレストランはなかなか利用しやすくなっている。
 イチローは、ようやく車に乗り込むと、何度も指を鳴らした。外食は、イチローにとっては、一大イベントなのだ。
「モモは何食うの?」
「アイス」
「おばあちゃんは?」
「あのお好み焼きみたいな丸いの分けて食べるだやあ」
 ピザのことだ。
「モモ、こういうのが、平和っていうんだぞ。覚えとけ。ほんと、ありがたいなあ」
「こういうのって何?」
「こういうのは、こういうのだって」
 終戦日、四人は、まさに平和を生きていた。

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