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第7章「記念日」

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 八月はいよいよ残すところあと二日。夏休みもついに終わり、しあさってには始業式が行われる。ジローは、毎年のことながら、悲しくなってくる。
 学校が始まるからではなく、夏が終わるからだ。ジローの少年時代、唯一の特技は、水泳だった。校内水泳大会ではヒーローになり、プールで鬼ごっこをすれば、ジローから逃げられる友達はいなかった。
 しかし、秋になれば、子どもたちの主戦場は、プールからグラウンドに移る。運動音痴のジローは、とたんにグラウンドの隅に追いやられてしまった。
 十四歳になったばかりのモモは、朝から同級生たちと、流れるプールに出かけていくことになっている。大きなドーナツ型のプールで、川のように水が流れている。モモが小学生の頃は、毎年、ジローが連れて行ったが、中学生になると友達と行くようになった。
 朝食は、シンプルにバター・トースト。
「これだけ?」
「ミネストローネもあるぞ」
 ニンニクとベーコンを炒め、タマネギ、にんじん、ジャガイモ、トマトを賽さいの目に切って放り込み、コンソメスープを足し、圧力鍋で、煮込んだスープ。
 モモは厚めのトーストの角を一口かじり、黙った。もう一口かじり、ひとこと。
「めちゃめちゃ、うまい」
 ジローは一人旅の最後に食べたトーストの味が忘れられず、研究したのだ。
 外がカリカリ、中がモチモチ、ということは、表面を素早く焼けばいい。中の水分が逃げないうちに。
 そして、到達した結論は、焼き網をガスコンロで熱し、パンを焼くことだった。トースターよりも高温なので、あっという間に表面に焦げ目をつけられる。片面を焼き、ひっくり返して、バターを乗せる。じわじわ溶けて、パンに染みこんでいく。少しでも目を離したら焦げてしまうので、気の抜けない仕事だ。
「ごちそうさま」
「一枚でいいのか?」
「いいよ。だって夜はパーティーでしょ」
「プールでも食いすぎるなよ」
「わかってるって」
 モモは歯を磨くと、ジローに小遣いをもらった。
「日焼け止め代も」
 ジローは仕方なくもう五百円追加した。
 友達が迎えに来た。
「いってきます」
「宿題は終わるのか?」
「明日ちょっとやれば大丈夫」
 モモが出ていった。
 ジローはモモの言葉を信じていない。おそらくモモの宿題は、明日は一日中机に向かわなくては、終わらないだろう。毎年のことだが。
 モモは、今日の夕方、実家のある町の駅まで電車で来て合流することになっている。
 今日のパーティーのメニューは、ヨウ子と相談して、寿す司しということになった。
 寿司職人のトモカズがひさしぶりに寿司を握るのだ。

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 店が営業していた頃は、毎週末、トモカズの寿す司しをジローとモモは食べていた。ジローの月曜日から金曜日までは、土曜日の寿司のためにあった。モモはいつもアボカド巻き、ジローはいつもちらし寿司。
 少年ジローも、土曜日は寿司と決まっていた。半日授業が終わると、急いでうちに帰り、トモカズにちらし寿司をつくってもらった。
 ところが、今は店が休業中、トモカズの寿司が食べられない。ジローは、回転寿司には一生行かないと心に誓っているので、寿司の禁断症状に苦しんでいた。
 寿司飯だけは、きほに教わり、手巻き寿司くらいは食べられるようになった。それはそれで美味なのだが、本当の寿司とはいえない。ジローにとっての寿司は、やはり、トモカズがつくる寿司なのだ。
 今夜は、ジローが寿司飯を担当する。実家の面々に食べさせるのは初めてのことなので、少し緊張している。ジローの寿司飯が、わが家の味として認定されるかどうかが試されるのだ。
 ジローは、実家に着くと、台所に立った。きほが近くで、ジローの動きを見ている。
 ごはんを炊くためのフランス製ほうろう鍋と飯台は持参した。早速、米を研ぎ、水を張った。すると、ヨウ子がやってきた。
「なんか手伝うことないかね」
「おばあちゃんもいるし、特にないよ」
 と、言って振り向いたジローは、驚いた。
「いつ美容院行ってきたの?」
「思い切って、昨日行ってきただよ」
「お父さんと?」
「美容院の前まで送ってもらって、あとは一人で行っただよ」
 ついこの前まで、トモカズは、ヨウ子のことをおばけと形容していた。こけた顔に大きな目、白髪交じりの髪が真ん中で分かれ、まるで鳥の翼のように両側に広がっていた。今は、ショートヘアになり、ちょっとしたシャンソン歌手のようだ。
「今夜、お父さんに染めてもらうだよ」
 一人での外出。おそらく、ここ数カ月で初めてのことだろう。ヨウ子のこの小さな一歩は、わが家の大きな飛躍だ、とジローは思った。トモカズはジローに言っていた。トモカズが店の再開にむけてトンカチやっているうちに、ヨウ子も快方に向かう、と。ジローはまるで信じていなかったのだが、その通りになりつつあることに驚いた。
 これが夫婦なのだろう。夫婦は、年をとるにつれて、当然、お互いセクシーではなくなっていく。セクシーでなくなればなくなるほど、心の絆が強まっていくにちがいない。
「お父さんは?」
「今、プリンの材料とお寿司のタネを買いに行ってるだよ」
 ついこの前まで、トモカズがどこに行くにもヨウ子はついていった。今、ヨウ子の目の前にいないトモカズは、ヨウ子の心の中にしっかりと存在している。
 独身主義のジローは、結婚も悪くない、と思ってしまった。

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 少し日が傾いてきて、暑さが峠を越えた頃、イチローが、コーヒー、と言った。これは、イチローの発音することができる数少ない単語の一つだ。もう遠足の時間だ。イチローは、一日に一度、近くの景色のいいところで缶コーヒーを飲むのが日課である。
「ジーが連れてってやるから、玄関まで行って、靴履いてて」
 イチローは、玄関までゆっくりとはっていく。ゆっくりに見えるが、イチローとしては急いでいるのだろう。
「兄ちゃん、今日も海行く?」
 イチローは、指を鳴らした。海へは、車で十分も走れば着く。
「お母さんも行くだやあ」
 と、ヨウ子が言って、ジローを驚かせた。ヨウ子がトモカズ以外と外出するのは、この数カ月で初めてのことだ。美容院へ足を一歩踏み出したことで、うちの外へ足を二歩も三歩も踏み出せるようになったのだろう。
 きほは、うちに残り、洗濯物を取りこみ、畳んでいるという。
「助かるやあ。お母さん、いつも悪いねえ」
「毎日やってるだで、どうってことないよ」
 きほには、他にも食器洗いや掃除などの仕事がある。
 昨年きほが寝込んだとき、食器や洗濯物がすぐ山になり、大変だったことをジローは思い出した。
「この家はおばあちゃんがいないとまわらないね」
「私ぁ、用がいっぱいあるだで」
 そういえば、この家できほがグータラしているところを、ジローは見たことがない。
  助手席にイチロー、後部座席にヨウ子、ジローはまずコンビニを目指した。イチローのために缶コーヒー、自分にはミネラルウオーターを買った。ヨウ子は、もったいないからいらない、と言った。
 国道に出て、しばらく走り、南に折れ、田んぼや工業団地を抜けると、やがて風車が回っているのが見えてきた。
「兄ちゃん、いつもジーとこんないいところ来てただね。昔はあんな風車もなかったのにねえ」
 いつもの海も見えてくる。堤防沿いの駐車場に、海を正面にして車を止めた。窓を全開にすると、波の音が聞こえ、浜風が車内を通り過ぎていく。ジローとイチローには見慣れた風景だが、ヨウ子は中学生の時に遠足に来て以来だという。
「そこのとこから降りれるよ」
 ジローは、駐車場の脇にあるスロープを指さした。最近できたようだ。車椅子でも、砂浜のところまでいける。なかなか好ましい税金の投入法だとジローは思っている。一日も早く日本から段差がなくなることを願うばかりだ。
「ちょっと行ってくるでね」
 ヨウ子は、車から出て、スロープを降りていった。
「兄ちゃん、カー、出てっちゃったよ。大丈夫かなあ」
 ジローは、イチローの缶コーヒーを開け、ストローを差した。
 ヨウ子は足を止めず、波打ち際に向かって、砂浜を横切っていく。その背中がみるみる小さくなっていく。

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「コーヒー、飲む人いますか?」
「アイ」
 助手席のイチローが元気よく答え、ジローは左手でストローの刺さった缶コーヒーをイチローの口にあてがう。
「兄ちゃん、カー、あんな遠く行っちゃったよ」
 イチローはひたすらコーヒーを吸う。ヨウ子もひたすら砂浜を歩いていき、さらに小さくなっていく。
「兄ちゃん、カー、あんなちっちゃくなっちゃったよ。見える」
「アイ」
 イチローはろくに見もせず、答えた。
「兄ちゃん、いつかカーもいなくなるでね。わかる?」
 イチローはストローをくわえたまま、うなずく。
「先に、バーがいなくなって、次にトーがいなくなって、カーがいなくなって、モモが大きくなってお嫁にいくと、最後はジーと二人だよ」
 ジローは、老人ジローと老人イチローが暮らす様子を想像してみる。
「ジーがお出かけのときは、モモに来てもらって、面倒見てもらうか」
 イチローは、笑顔になって、「アイ」と元気よくいう。
「兄ちゃん、モモが好きなの?」
 イチローは照れているのか、笑顔のままだ。
「そういえば、兄ちゃんは、若い女の子のボランティア好きだもんねえ」
  そのときは、モモはおばさんになっているだろう。ジローは一人、笑った。
「みんな年齢順にいってもらわなきゃ、困るね。兄ちゃんも先に死んでよ」
 そのとき、後ろから車が来た。ジローの車と隣の車の間に駐車しようとしたのだが、中途半端な隙間しかないので、迷っているようだった。運転手は、タンクトップを着たマッチョな坊主頭、おそらくビーチ好きなことで知られるブラジル人だろう。上腕の筋肉の盛り上がったところに入れ墨も入っている。
 ジローは、その外国人がちょっと怖そうだったので、急いで、イチローの缶コーヒーをカップホルダーに収めると、エンジンをかけ、いったんバックして、左に寄せて、隣の駐車スペースを十分確保した。マッチョは、そこにするりと駐車した。マッチョが、車を降りると、こちら側にまわり、ジローのそばまで来て、車窓から中をのぞき込むようにして、頭を下げた。
 見かけによらず、やさしそうな青年だった。
 ところが、その瞬間、イチローが息をのみ、ひきつけを起こさんばかりに驚いた。これは、イチローにはよくあることで、ジローは何の反応もしなかったのだが、マッチョもイチローに負けないくらい驚いた。
「兄ちゃん、大丈夫だよ」
 と、ジローはイチローの肩をたたき、マッチョに笑顔を見せて、頭を下げた。それから、笑いが止まらなくなった。マッチョも苦笑いしながら、後ずさりして、車から釣りざおを出し、砂浜に降りていった。その後も、しばらくジローは笑っていた。

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 さて、ヨウ子は、まだ歩いていく。もう豆粒くらいに小さくなった。ジローは、もしかしたら、そのまま海に入っていってしまうかもしれないと、恐ろしくなった。
「兄ちゃん、カー大丈夫かなあ?」
 イチローは、笑顔だ。万が一、ヨウ子が海に入っても、走っていき、海に飛び込めば、助けられる自信がジローにはあった。だてに長年、水泳を続けてはいない。
 ヨウ子は立ち止まると、前かがみになって、発泡スチロールのふたのようなものを拾った。そして、また歩き出し、ようやく波打ち際の近くまでたどり着くと、発泡スチロールを下に敷いて、腰を下ろしたようだ。砂浜の起伏があって、ヨウ子の頭だけが、かろうじて見えた。その頭が見えなくなったら、ジローは走ろうと思っていた。
 イチローはコーヒーを飲み干した。ヨウ子はまだ海を眺めていた。
 ジローは、ヨウ子をずっと強い人間だと思っていた。障害者のイチローが生まれたときも、うろたえなかったという。障害者の介護だけの人生はごめんだ、と店の切り盛りに加え、ママさんコーラスにも参加し、コンサートにも展覧会にも出かけ、と芸術を断固として生活の一部としていた。ジローの芸術至上主義は、母譲りだ。
 そんなヨウ子が、ずいぶんと小さくなってしまったのを見ていたら、ジローの目から涙がにじみ出てきた。
「兄ちゃん、なんだか泣けてくるねえ」
 イチローは、海を見ているのか見ていないのか、うつむき加減でにこやかな顔をしている。
「兄ちゃん、わかる?」
「アイ」
 イチローは、わかってもわからなくても質問にはいつも元気よく返事をする。まわりが、どんな状況でも、いつも笑顔だ。
 しばらく座ってたたずんでいたヨウ子が、立ち上がると、うろうろと何かを探しているようだった。どうやらヨウ子が海の中に入る可能性はないと、ジローは確信して、ペットボトルの水を飲んだ。そして、先ほどのマッチョの驚いた顔を思い出して、また一人で笑った。
 ヨウ子の姿が、少しずつ大きくなって、帰ってくる。
「兄ちゃん、カー、帰ってくるよ。よかったねえ」
 イチローは無言でうなずく。
「ただいま。これ、モモちゃんに、と思って」
 と、ヨウ子は白い貝殻のかけらをジローに手渡した。
「ありがとよ」
「海はいいねえ」とヨウ子。
「タダだしね。ね、兄ちゃん、海好き?」
「アイ」
「ほんとはコーヒーさえあればどこでもいいんじゃないの?」
「アイ」
 イチローの返事はいつも元気だ。
「そんなことないよね。兄ちゃんは何でもわかってるだよね」
 イチローは、ヨウ子の言葉に指を鳴らした。

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 海に入っていくこともなく、無事に車に戻ってきたヨウ子は、子どもの頃、遠足でこの海に来たことを話した。弁当のおにぎりに砂がついてしまったことや、帰りに農家で飲ませてもらった井戸水がしょっぱかったことをよく覚えているという。
「さっき、筋肉もりもりの外国人が来てね」
 と、ジローが話した。
「それで、その外国人が窓からのぞき込んで、お礼を言ったんだけど、そのとき、兄ちゃんがすごく驚いてね、そしたらその外国人はもっと驚いたよ」
 イチローが、思い出したのか、声を出して突然笑った。
 すると、ヨウ子も笑った。たしかに、笑った。ジローは、もう一度最初から話した。
「ね、兄ちゃん、怖そうな外国人が来てね…」
 ヨウ子が、また笑った。イチローもつられて笑うと、ヨウ子はもっと笑った。
 ジローは、ヨウ子が最後に笑った時を思い出せなかった。
「さ、帰って、プリンをつくらなくちゃね」
 と、ヨウ子が言った。ジローも寿す司し飯を作らねばならない。
「兄ちゃん、帰ろう」
 ジローがエンジンをかけると、イチローがシーと言った。
「帰り道で、もらさないでよ」
「アイ」
 車が走り出すと、ヨウ子は遠足のことをまた話した。
「学校から、ここまで歩いてきただよねえ」
 十㌔はあるだろう。子どもにはきつかったに違いない。
「ひさしぶりに海を見れてよかったやあ」
「タダだしね」
「もう、やめただよ」
 ヨウ子が唐突に話し出した。
「何でも悪い方に考えるのをやめただよ」
 これまでのヨウ子は、目の前の分かれ道を、すべて悪い方ばかり選んできた。
「もうどうにもならんだよ」
 と、ヨウ子が何度も言った。ジローが家中の包丁を隠した夜もあった。
「心配するのもやめただよ。困ったら、お父さんもいるし、ジローもいるし、おばあちゃんだっているし」
「ま、兄ちゃんもいるしね」
 イチローが指を鳴らした。
「ケセラセラだよ」
 ジローは英語を思い出した。
 Whatever will be, will be.
 ハンドルを握りながら、ジローは訳した。直訳すると「何でもなるようになる」。何ごとも、なるようにしかならないから、先の心配をするより、今を生きろ、ということか。
 思い通りにならない人生、今を生ききった結果、思いがけないこともあるかもしれない。
 ジローは、ヨウ子の新しい哲学が気に入った。

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 パーティーの準備が始まった。ジローは白米を炊きあげた。ずっしりと重い、フランス製ほうろう鍋を使った。この鍋は、うちから持ってきたのだ。
 酢、砂糖、塩をボウルの中でかき混ぜる。
 ジローの様子を、シャリ炊き歴六十年以上のきほが見ている。ジローが鍋のふたをとると、湯気があがり、つやのある白米が姿を現す。きほがご飯をのぞき込んだ。
「上手に炊けたねえ。硬さもちょうどいいよ」
 寿す司し飯のごはんは、やや硬めなのだ。寿司酢をまわしかけ、飯台に移す。素早く、しゃもじでご飯と寿司酢を合わせ、隅に寄せて、山にした。
「手つきがいいねえ」
「子どもの頃から、おばあちゃんがやるの見てたからさ」
「ここで、十分待つだよ」
 きほがお茶を二人分入れて、ジローとキッチンの椅子に座った。この家では、夏でも熱い緑茶だ。茶こしを使って、大きな湯飲みで飲む。
 ジローはケータイについているキッチンタイマーをセットした。その脇で、ヨウ子もプリンの用意を始めた。卵、砂糖、牛乳をボウルに入れ、かき混ぜる。
 ジローはレシピを聞こうとも思ったが、やめておいた。やはり、ヨウ子のプリンは、ヨウ子しかつくることができないほうがいい。
 キッチンは狭いので、トモカズはまだ入れない。待っている間、イチローと居間でテレビを見ていた。
 きほが、トモカズとイチローにもお茶を持っていく。
「父ちゃん、しっかり兄ちゃんの世話しててよ」
 と、ジローが言うと、トモカズは右手を挙げて、答えた。
 タイマーが鳴った。
「おばあちゃん、十分たったよ」
「じゃ、シャリを広げて、うちわであおぐだよ」
 ジローが山になったシャリをしゃもじで崩して、広げた。湯気とともに酢のにおいが立ち上る。
 きほがうちわで風を送り、ジローがしゃもじでシャリをほぐしたり、ひっくり返したりする。ジローがシャリを一つまみ味見する。
「おいしいと思うけど……」
 きほもシャリを一つまみ口に入れた。
 間。ジローは少し緊張する。
「上等だよ。もうこれで、私がいなくても、大丈夫だねえ」
 ジローは、この家の味を伝承したことを喜んだ。遺産相続のようなものだ、とも思った。
 一方、ヨウ子はプリンの素である液体を、巨大なドーナツをつくるような型に流しこみ、湯気の上がる蒸し器に入れた。
 シャリもほどよく冷めた。
「父ちゃん、出番だよ」
 いよいよ、トモカズが出てきて、寿司を握る。
 久しぶりのトモカズの寿司である。ジローはそれを食べて大きくなった、といっても過言ではない。
 そのとき、ジローのケータイが鳴った。モモから、駅まで迎えに来て、と。

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 駅が見えてきた。ハンドルを握ったまま、ジローは徐行しつつ、フロントガラス越しに、モモを探す。
 駅前のバス停に、長い手足が夏服からのぞく少女が立っていた。一瞬、ジローは、その少女がモモだとはわからなかった。
 ジローの知らぬ間に、モモはずいぶんと背が伸びていた。いつも、うちの中で見ているだけだと気がつかなかったようだ。ジローは、一瞬、モモの幼年期の終わりを感じた。
「トナカイか?」
 車に乗り込んだモモの鼻が赤く日焼けしていた。
「背中も赤くなったよ」
「ヘンなお兄さんが話しかけてこなかったか?」
「そんなことあるわけないじゃん」
 車に乗ると、モモはいつものモモだった。
「今日はパパが奇跡を起こすぞ」
「どうせくだらないことでしょ」
「ま、見てろって」
「何の奇跡?」
「ま、見てろって」
 ジローとモモが実家に着くと、トモカズが迎えに出てきた。
「アボカドある?」
「買っておいたぞ」
 モモとトモカズは、イチローがいる居間でサイダーを飲んでいる。トモカズがモモのために買っておいたのだろう。ジローならば買い与えない飲み物だ。
「モモ、ごはん前に、調子に乗って飲みすぎるなよ」
 ジローが言うと、モモは「はいはい」とあしらい、トモカズと顔を見合わせている。
「バカうまいなあ」とトモカズ。
「バカうまだね」とモモ。
 ヨウ子のプリンが蒸し上がった。粗熱をとって、冷蔵庫で冷やせばできあがりだ。
「いいにおい」
 と、モモが言った。バニラエッセンスのにおいだ。モモがものめずらしさに台所に行くと、まずヨウ子の髪型に驚いた。
「ヨウ子ばあば、かっこよくなったね」
「そうかねえ」
「ぜったい、かっこいいよ。プリン、モモも作りたい」
 ヨウ子がモモに作り方を説明した。カラメルには、インスタントコーヒーを使うのだそうだ。二人は、次のパーティーの時に一緒に作ると約束した。ジローは、わが家のプリンの味の伝承はモモに任せることにした。
 いよいよ、トモカズが台所に立った。
「兄ちゃん、もうすぐお寿す司しができるよ。トーが今作ってるよ」
 イチローは指を鳴らし、声を出して笑った。このうちでは、トモカズ以外、みな寿司が大好物だ。トモカズは、寿司だけは食べる気が起こらないそうだ。
 ジローはトモカズの横に立ち、その様子を見ていた。やってみろ、と言われ、寿司を握ってみたが、うまくいかなかった。
 こちらの伝承は、まだまだ時間がかかりそうだ。
「店ができたら、また教えてやるぞ」
「じゃ、冬休みに頼むよ」
 こちらも、男と男の約束をした。

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 食卓の中央の大きなおけに、寿司がずらりと放射状に並んだ。マグロの赤、イカの白、卵焼きの黄、かっぱ巻きの緑、ガリのピンク、鮮やかな光景。
「まだ、シャリがあるから、なくなったらまた握ってやる」
 と、トモカズが言うと、きほとヨウ子が拍手をした。ジローにとっては、手巻き寿司以外の久しぶりの本格的な寿司だ。トモカズ以外はみな食卓についた。
「おじいちゃんはお寿司食べないの?」とモモが聞く。
「俺はいらんなあ」
 この家で、トモカズだけがただ一人、寿司を食べない。
 寿司が一番の好物であるジローは、この家に生まれてきたことへの感謝を忘れたことはない。きほもヨウ子もイチローも寿司は大好物である。
  モモはまだハンバーグや焼き肉のほうが好きなようだ。寿司が、わが家のソウルフードであることがわかる日が必ず来る、とジローは信じている。
 トモカズの寿司より美味しい料理は、いくらでもあるだろう。しかし、我が家の味、代々受け継いだ遺産、それを食べれば家族の魂に栄養が届き、家族を一つにする食べ物、つまりソウルフードは、寿司以外には考えられない。
「まずは乾杯だね」とヨウ子が言った。ジローはグラスをヨウ子ときほに渡し、缶ビールを注いだ。
「あんたも飲みないよ」
「車、運転するから、麦茶だよ」
「ビールなんて、何カ月かぶりだよ」
 乾杯の音頭は、ヨウ子だ。
「じゃ、モモちゃん、お誕生日おめでとう。かんぱい」
 麦茶とビールで乾杯だ。イチローはグラスを持てないので、指を何度も鳴らした。
 ヨウ子が、イチローのどんぶりに、しょうゆをつけた寿司を入れた。
「おじいちゃんは、おなか、すかないの?」とモモ。
「やっぱり、すくなあ」
 ジローが、寿司をほおばりながら、立ち上がって、冷凍庫を開けた。
「讃岐うどんあるよ」
「じゃ、それいただくかなあ」
 冷凍の讃岐うどんは、コシが残っていて、なかなか美味だ。
 ジローは、立ったまま、ちょくちょく寿司をつまみながら、トモカズのためにうどんをゆで、冷水でしめた。油揚げを短冊に切って軽く煎って、うどんの上にのせ、大根おろしとポン酢と刻みネギをトッピングした。ぶっかけうどんだ。
 トモカズがうどんを食べ始めると、寿司がなくなった。
「おじいちゃん、もっとつくって」と、モモが言う。
「ちょっと待ってろ。じいじに、うどんくらい食わせろ」
 トモカズが急いでうどんをすする。
「モモもうどん食べる」
 そのうどんがモモにはやけにおいしそうに見えたのだろう。
「じいじのなくなっちゃうだろ」
「お寿司食べればいいじゃん」
 トモカズのうどんはモモが食べてしまった。

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 追加の寿司をトモカズが握っているとき、ヨウ子が言った。
「ハッピーバースデー、歌うの忘れたねえ」
 ヨウ子が音頭をとり、ハッピーバースデーを歌った。ジローとトモカズは歌うふり、モモは自分のために歌い、ヨウ子はママさんコーラスで鍛えた声を発し、きほは思いあまって声がかすれ、イチローはただにこにこしている。
「おばあちゃん、パパとじいじ、ちゃんと歌ってなかったよ」
 と、モモはヨウ子に言いつけた。ジローとトモカズは、ヨウ子ににらまれた。
「おいしいやあ」
 きほがしみじみと言った。
「お母さん、どう?」、とジローが聞く。
「おいしいよ」
「ほんとにおいしいと思うようになったの?」
「このごろは、本当においしく食べられるようになっただよ」
  ジローは、向かいのモモと目が合うと、食卓の上でハイタッチをした。
 ここで、パーティー恒例のミニコンサートの時間となった。
 まずは、バイオリン演奏。モモとジローは、週一回、バイオリンのレッスンに通っている。モモが小学校二年生のときに一緒に習い始めた。モモのほうが上達は速く、この頃ではジローはレッスン中、モモの背後でバイオリンを構えるだけで、邪魔にならないようにほぼ立っているだけ。モモが、ちょうど今習っている曲を弾いた。この夏休み、練習をさぼっているので、何度かつまづいたが、そんなことはかまわず、ヨウ子ときほが大きな拍手を送った。続いて、そのバイオリンで、ジローが、もっとも簡単な曲の部類に入る「むすんでひらいて」を弾いた。これはイチローが幼少の頃から好きだった曲で、イチローは体を揺すりながら聞いていた。
 イチローも歌う。いつも「アイ」と元気よく返事をするので、アイアイという猿の歌だ。イチローが歌える唯一の歌である。「アイアイ」とジローが歌うと、「アイアイ」とイチローが応える。
「お猿さんだよ。はい」
「アイアイ」
 息も合ってなくて、間も長すぎたりするが、兄弟でなんとか一曲歌い終えた。
 きほとヨウ子が立ち上がって大きな拍手をすると、イチローは満面の笑みで応える。
 トリは、きほだ。直立不動の気を付けの姿勢で、ヨウ子が菓子箱のふたの厚紙に書いた歌詞を見ながら歌った。「時計台の鐘」という歌。ヨウ子の子守歌に、きほがよく歌ったらしい。きほは、女学校では、唱歌のお手本を代表で歌ったというのが自慢だ。この歌が、当時は美人で評判の若きシングルマザーだったきほの、うっとりとさせる声で歌われたことを、ジローは想像した。
「デザートは?」
 と、モモが言うと、ジローも甘いものがほしくなった。
「もうプリン冷めたかやあ」
とヨウ子が心配しながら、冷蔵庫を開けた。

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 ヨウ子が、大きな皿を、プリンの入った大きなドーナツ状の型に逆さまにしてかぶせ、一気にひっくり返した。型をとるとプリンが姿を現す。上にはカラメルソースがのっていて、プリンはまだ少し生温かかった。
「おいしそう。味見する」
 とモモが言う。
「パパが切ってやるぞ」
「じゃ、上の茶色いのはとって」
「なんで?」
「苦いからいらない」
 なぜ、子どもは苦いものが嫌いなのだろう。ピーマン、ゴーヤ、コーヒーなど、決してモモは口に入れない。
「ヨウ子ばあが、張り切ってつくったんだから、勇気を持って、苦いのも食え」
 ジローが切り分けて、包丁を水平にして、そこにプリンをのせて、慎重にそれぞれの皿に移していく。
「あ、食べれた」とモモ。
「当たり前だ」
「だから、この苦いのも。おばあちゃん、おいしいよ」
「うれしいやあ」
 プリンのカラメルソースは、寿す司しの脇のガリのようなものなのだろう。それだけでは、あまり食べたくはないが、寿司と一緒に食べると何倍もおいしく感じる。
「モモ、つらい日もあるから、楽しい日はめちゃめちゃ楽しいんだぞ。このほろ苦いカラメルソースがあるからこそプリンの甘さがうまいんだって」
「なら、お寿司は?」
「ガリか?」
「パパだって、お寿司にわさび入れてないじゃん」
「そうきたか」
 トモカズは、ジローに握る寿司にはわさびを入れない。もう四十をすぎたジローだが、いまだに子ども扱いだ。
「食べれないことはないぞ。しかし、わさび入りの寿司を食べたこともないな」
 ジローは話題を変えた。
「おばあちゃん、今日はお母さんと兄ちゃんと海に行って来たよ」
 ジローが、きほに報告した。
「あ、そうそう、忘れていた」と、ヨウ子がモモのために拾ってきた貝殻を持ってきた。
「ああ、きれい、おばあちゃん、ありがとう」
 モモの喜びように、ジローは感心した。もしジローが同じものをあげても、ここまでリアクションはしない。これも成長、とジローは思った。
「兄ちゃん、海きれいだったね?」
 弟の問いかけに、イチローは笑顔になる。そして、ジローは、今がチャンスだと思った。海辺の駐車場での様子を、きほに話した。当然、ヨウ子の耳にも入る。マッチョな外国人の乗った車がやってきて、ジローの車を動かして、彼が駐車できるようにしたら、その外国人が、運転席の窓から中をのぞき込んで、礼を言おうとした、と。
「私ぁ、海はどうも好かんやあ。山の方がいいねえ。海は怖いだよ。あんたのおじいちゃんが、海で死んだからかいやあ」
 と、きほがトンチンカンなことを言い出し、話の腰を折る。

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 ジローはめげずに、この話のクライマックスに進んだ。
「大きな体の外国人の男の人が来てね、車の窓からいきなり中をのぞいて頭を下げたもんだから、兄ちゃんが、ビックリしてね、それを見た外国人が、もっとビックリしてさ」
 トモカズもきほも、笑った。もちろん、ヨウ子も笑った。
「ほんと、兄ちゃん、あんときはビックリしたねえ」
 ジローはしつこく繰り返す。
「兄ちゃんがビックリしたもんだから、外国人がもっとビックリしてさあ」
 ヨウ子が、また笑った。
 モモが、一瞬、驚いた表情を見せ、笑顔になった。
「パパ、すごい。おばあちゃん笑った」
「キセキ起こすって言ったろ」
 ジローとモモは、テーブル越しに、また両手の平をあわせた。
「ソウルフードって知ってる?」
 と、ジローが教師口調で、ソウルフードについて説明した。
「おばあちゃん、わかった?」
「それが、わからんだよう」
 ヨウ子がまた笑う。きほはまったく聞いていなかったのだ。
 きほの指導の下でジローがつくったシャリ、そのシャリでトモカズが握った寿す司し、デザートにヨウ子がつくったプリンは、腹だけでなく、魂をも満たす、まさにソウルフードだ。
「お寿司おいしかったね」
 と、モモが言った。
 ヨウ子が答える。
「またお店始まったら、いつでも食べれるよ」
 モモは、またテーブルの向かいのジローとハイタッチした。これまでヨウ子が決して口にすることのなかった店の再開を、ヨウ子の口から聞くと、ジローはそれが実現すると確信した。
「涼しくなる頃には、店ができるでな。今度はよくなるぞ」
 トモカズは誇らしげに、大工仕事の進しん捗ちょく状況を語った。店はさらに小さくなるが、居心地はよくなるらしい。
「甘いもの食べたから、コーヒーがほしいね」
 と、ジローが言った。
「新しい店ができたら、何杯でもコーヒーをいれるよ」
 ヨウ子のコーヒーもまた飲めるようになるらしい。とりあえず、ジローは今日のところは緑茶でがまんした。
「そろそろ、帰るよ。明日で夏休み、終わりだから」
「明日ね、モモのベッドが届くんだよ。パパからの誕生日プレゼント」
 モモがヨウ子に自慢する。
「自分の部屋ができるだね」
「宿題終わるまで、そのベッドで寝られないぞ」
 玄関でみなに見送られ、車に乗ると、ジローは急に夏の終わりを感じた。
 今日はヨウ子の笑顔が戻った記念日、明日はモモの部屋ができる記念日、そしてジローの小さな世界が変わり始める記念日にもなりそうだ。
 夏の終わりを悲しんでいたジローだが、秋も待ち遠しくなった。           (完)

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