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弟1章「冷蔵庫」

 見上げる青空の中央を飛行機が進み、白い直線を引いていく。ジローはその飛行機雲にそって、背泳ぎでゆっくり進む。太陽が熱く、まぶしいが、水の中では、それがかえって心地よい。
 ジローは反転し、うつぶせになり、今度はクロールで泳ぐ。息継ぎで、顔を上げると、入道雲が立ちのぼっているのが見える。水の底には、自分の影が映っている。その影を追いかけるように、指先を左右交互に水面に突き刺し、遠くへ遠くへと腕を伸ばす。
 十年も前だったら、ジローはまだ泳ぎにスピードを求めていただろう。また泳ぐ距離にもこだわっただろう。泳ぐ距離を設定して、それが終わるまで、プールから上がらなかっただろう。
 しかし、このごろは、心地よい疲労が残るくらい泳ぐと、飽きてしまう。泳ぐことで、カロリーが消費され、多少体重が落ちることも期待するが、この程度の泳ぎでは、減量効果はほとんどないはずだ。
 今やジローが泳ぐのは、水と一体化して、太古の生物が海に抱かれていた記憶を呼び覚ますためであるかのようだ。効率よく呼吸しながら、最小限の労力で、水に体を預け、水の力を借りながら、ゆったりと前に進む。スピードを求めるためでもなく、痩せるためでもなく、ただ泳ぐために泳ぐ。
 こんな気持ちで泳げるようになったのは、昨年、四十歳になったことと関係があるのかもしれない。三十代最後の日々のカウントダウンが始まったときの焦りが、不惑の年を迎えると、不思議とふっと消えた。振り返ってみれば。二十代最後のカウントダウンでも同じような焦りを感じたのだが、焦ったところで何も得るものがなかったことを思い出したのだ。
 ジローは、仰向けで水に浮かび、すっかり脱力していくと、リゾート気分に浸る。ここはまるで南の島のホテルのプール、何の目的もなく、ただ漂っている…。
 実は、ジローが泳いでいるのは、ジローの勤務する高校のプールだ。ジローは水泳部の監督なのだ。中学時代、他に入るクラブがなくて、しかたなく水泳部に入っていただけで、学生時代に本格的な水泳の競技経験はまったくなかったのだが、たまたま初任校で、他に担当する教師がいなかったため、水泳部の監督を任せられ、それ以来ずっと水泳部を担当しているのだ。個人競技だったり、休日の練習試合がなかったり、オフシーズンがあったりと、ジローは水泳という競技がかなり気に入っている。
 水泳部の練習は、午前中で終わる。そして、部員達がプールから上がると、今度はジローがこの五十メートルプールを独り占めして泳ぐ。これも、水泳部監督を続ける、大きな理由の一つである。
 ジローは空腹を感じた。プールから上がると、短パン、Tシャツ、ビーチサンダルというリゾート風の格好に着替えた。
 すると、プールサイドに夏服の制服姿の女子高生が現れた。


 彼女は、この夏、水泳部を引退した三年生部員だ。まだ日焼けした肌は、他の生徒に比べると、目立つほど黒い。
「先生、相談があるんだけど」
 彼女は三コースの飛び込み台に座った。ジローは四コースの飛び込み台に腰を下ろした。
「恋?」
「まさか、進路だって。これから、三者面談あるからさ」
 三年生は、長い夏休みが始まる前、卒業後の進路目標を決めるため、親子で担任教師と面談をすることになっている。
「で、どうしたいわけ?」
「私、映画の仕事をしてみたいんだよね」
「そんなの今からでもバイトでできるぞ。チケットのもぎりとか、ポップコーン売るとか」
「そんなんじゃなくて、監督の補佐したり、撮影の助手したり、字幕翻訳とかでもいいし」
 ジローは、一瞬、考えるために黙った。
「ねえ、先生、どうすればいい?」
 高校入学時の将来の夢は、宇宙飛行士になることだった彼女である。宇宙から地上に降りてきたことは、彼女にとっては大きな進歩だと、ジローは言った。
「先生、バカにしてるでしょ?」
 ジローはクビを横に振り、彼女が去年の夏休み、一日体験ナースという研修会に参加するため、練習を休んだことを思い出した。
「じゃ、ナースだ」
 そして、一気に話した。まず、看護学校へ行く。今の学力ならば、十分に合格できる。そして、国家試験に合格して、ナースになったら、病院で他の人には見られない世界を見る。それから、もう一度話をしよう、と。
「ええ、なんか違うような?」
「人生、回り道が一番近道なんだって。わかるか?」
「私、映画館の仕事でもいいから、映画に携わりたいんだって」
「おう、それなら、看護学校に行っている間に、シネコンでバイトすればいい。映画、見に行ってやるぞ。ポップコーンも買ってやるぞ」
「なんだかなあ」
「だから、ナースの目で世界を見ることによって、それが生きてくるんだって」
「先生、私の夢、あきらめさせようとしているでしょう?」
「そういうわけじゃなく回り道が近道だったりするからさ。それも夢への一歩だろ」
「うそばっかり」
「まずはカネと言ってるだけだ」
「カネ?」
「そうだ。人生、カネだぞ」
「人生は愛だとか何とか、授業で言ってなかった?」
「時代が変わった。今、人生はカネだ」
「なんだか、夢がないなあ」
「夢で腹いっぱいになるか?」
「そりゃ、そうだけど……」
「だから、恩師の言うことを信じて、看護学校行け」
「はいはい」
「それで国家試験受かったら、ゆっくり映画のことを話そう」
「うん。なんだか、吹っ切れた。じゃ、面談行ってくるね」
「おう、行ってこい」
 プールサイドで、ジローは彼女を送り出すと、空腹感にせかされ、すぐに駐車場に向かった。

 軽自動車を飛ばせば、十五分で教職員住宅のアパートに着く。
「ただいま」
「遅い」
「すまん」
「おなか空いた」
「今つくる」
 うちでは、娘のモモが待っていた。ジローはモモと二人で暮らし、もう八年目になる。モモは、中学二年生で、卓球部の練習を終え、ジローより先に帰ってきていたのだ。
 夏休み中、二人は、たいてい毎日、昼食をうちで食べている。
 ジローは湯を沸かし、そうめんをゆで始めた。時間差で、もやしも入れ、ゆで上がると、ザルにとって、流水で冷やし、水を切り、塩を振って、手でもんだ。フライパンに、油を引いて、そのそうめんを十五秒ほど炒め、皿に盛った。トッピングに、刻みネギと紅ショウガ。モモの好物であるトマトもスライスして添えて、昼食の準備ができた。
 開け放たれた窓から、ここちよい風が入ってきて、ダイニングルームを通り抜けていく。このアパートは、田んぼと川と茶畑に囲まれているせいか、風通しはいい。クーラーは来客時のみ、とジローは家訓に定めている。
「おい、できたぞ。麦茶頼む」
「もうできたの?」
 モモが冷蔵庫から麦茶を出してきて、二つのグラスに注いだ。
 二人はダイニングテーブルのところに座り、いただきます、と声をそろえた。
「パパ、おかずは?」
「ない。足りなきゃ、おやつになんかつくる」
「デブになるからいい。何これ?」
「ま、食え」
 モモは初めてのその料理をおそるおそる口に運んだ。
「これ、おいしいねえ。味付けは何?」
「塩」
「だけ?」
 ジローが頷き、一口食べる。
「たしかにうまい」
 ジローは、これは沖縄料理であることを説明した。
 全便満席でも赤字必至の空港が近くにできて、そこから、朝出発すれば、昼には沖縄に着くという。昨日テレビのニュース番組でそう言っていた。さすがにそう簡単に沖縄へは行けそうもないので、せめてものソーミンチャンプルーだ。
 ジローがモモと二人で暮らすようになってから、これまで毎年夏は飛行機でどこかに出かけて、バカンスを過ごしてきた。バカンスといっても、長くてもせいぜい五日ほどだが。
 しかし、今年の夏は、バカンスを断念せざるをえなかった。百年に一度と言われる不況のためだ。ジローは地方公務員なので、急激に収入が減ることもなく、夏のボーナスも出たのだが、実家の面々がその不況の影響をもろに受けてしまったのか、ジローの両親が営む小さな飲食店は、この春、閉店することになってしまった。
 そのため、この夏はバカンス代を実家の財政援助にそっくりまわすことにしたのだ。


 
 ジローは、これまで貯金してこなかったことを後悔している。カネを残すか、思い出を残すか。後者を常に選んできた。カネは天下の回りもの、月給は毎月使い切り、ボーナスが出れば、日本経済を応援するなどと言って、散財してきた。
 もし貯金がせめて同年代の同僚並みにあれば、もっと実家の財政援助をして、両親の店の存続に貢献できたかもしれないのだ。
「沖縄を想像しながら、食べてみろって」
 ジローは、想像のバカンスで、せめて食卓の上はハレの場にしたいと思った。
「はいはい」
 二人は、沖縄に行ったことがある。モモが小学校二年生の夏休みに。二人とも初めての沖縄で、そこがあまりにもいいところなので、冬休みにも行った。二回目の沖縄では、本島から座間味島にわたり、小さな船で荒海に出て、船酔いとたたかいながら、ザトウクジラも見てきた。
「晩ごはんも、沖縄料理、ゴーヤチャンプルーにしよう」
「ゴーヤって、ブツブツのある緑の?」
「そう。ニガウリともいう」
「絶対に食べない。あの形、絶対に無理。苦そうだし」
「人生の苦みに比べたら、ゴーヤの苦みなんて、甘いくらいだ」
「はいはい」
 これまで、モモに野菜を食べさせることに、料理の労力の半分以上を注ぎこみ、モモの許容範囲を徐々に広げてきたジローだが、このゴーヤはなかなかの強敵のようだった。
 食後、ジローは、小さなまな板をテーブルに置き、ペティナイフで、梨をむいた。皿もフォークも使わず、切りわけたそばから、モモは梨を手づかみで食べていく。
「パパのも残せって」
「わかってるって」
 モモが三切れほど食べると、ようやくジローも一切れだけ口に運んだ。
「モモばかり食べるなら、もう梨切ってやんないぞ」
「じゃ、モモがやる」
 モモがペティナイフを引き継いだ。その日、二人で、梨を二つ食べた。モモが一個半、ジローが半分といったところだ。
 デザートを終えると、モモは勉強道具を持って、自転車で出かけていった。友だちと勉強をするのだ、といって。
 ジローは、午後、有給休暇をとってある。ソファに移動して、文庫本を開いた。『悲しみよ こんにちは』、夏になると読みたくなる本で、夏のバイブルでもある。主人公セシルは高校生、四十歳の鰥やもめである父親と南仏の別荘で夏を過ごすという物語。鰥という漢字は、この本以外では見たことがない。フリガナをふるとすれば、シングルファーザーだ。四十を過ぎてもまだ若々しく、女性を惹ひきつける父親と、十八歳の娘は、お互いの恋を語りあったりして、享楽的な日々を送る。
 ジローは、行ったこともない南仏のリゾートを想像しながら、本を閉じ、まぶたも閉じた。シエスタ、至福の時。なるほど、昼寝は夏の季語になるわけである。

 ジローにとって一年のうちの十一カ月、つまり九月から翌年の七月までは、この八月の一カ月間のためにある。八月は、バカンス月間だ。バカンスの語源は真空だ、ということをジローは疑ってはいない。何かするための八月ではない。何もしないための八月である。
 この八月のため、ジローは労を惜しまず、準備を進めてきた。雑務をすべて七月中にすませ、八月の仕事はほとんど午前中にセッティングして、有給休暇を余すことなく申請した。
 こんなことができるのも、ジローが職場で要職についていないからでもある。
 学校という労働現場には、二種類の職員がいる。家事をしなくてはならない職員と、家事から解放されている職員だ。
 そこには、大きな違いがある。家事をする職員は、午後五時の定時になれば、一分でも早く帰ることを考える。一方、家事から解放されている職員は、帰る時間を気にする必要がない。上にしてみたら、どちらに仕事をまかせたくなるかと言えば、当然、後者となる。
 ジローも以前は後者だったのだが、シングルファーザーとなった今は、断固たる前者、一分どころか一秒でも早くうちに帰ることばかり考えている。「あんたは男なのにオトコじゃない」と同僚に形容されたこともあるジローは、ゆえに、ここ数年、干されているのだ。
 それに、実は、ジローの仕事は非常に速い。瞬時に、複数の作業の優先順位を決め、最短距離を最短時間で進むことができる。しかし、この事実は、同僚に知られることはない。ジローは、誰よりも仕事が速いため、当然、いつも何ごとにおいても、とりかかるのが誰よりも遅い。すると、まわりの同僚がいつまでも動き出さないジローを待ちきれなくなり、ジローがとりかかる前に、ジローの作業を奪い、終わらせてしまう。その結果、せっかくのその瞬速仕事術を披露することなく、ジローが「まったく使えないヤツ」という評価に終わってしまうのだ。
 これはこれで、ジローは甘んじて受け入れている。他人ができることは、他人にまかせることも、仕事を速くこなすテクニックの一つだからだ。
 この瞬速仕事術は、日々の家事の中から身につけたものだ。まず、一家の大黒柱であるシュフたるもの、いつまでも職場に残ることはできない。常に時間内に仕事を終わらせようとする習慣がつく。時間内にすべて終わらないときは、優先順位を定め、取捨選択をする。シュフたるもの、一秒でも早くキッチンに立ち、一秒でも早く夕食を用意しなくてはならない。
 うちの玄関のドアを開けると、モモはすぐ空腹を訴える。キッチンではもっとも効率のいい手順で、複数の作業を同時進行させる。こちらを煮込んでいる間に、あちらを炒めたり、湯を沸かしている間に、皿を並べたり、炊きあがった米を蒸らしている間に、もう使わないボウルや鍋を洗う。これを、職場で応用すれば、たいていのオトコより速く仕事を進めることができるのだ。

 ジローはパソコンの正しい使い方も知っている。パソコンの登場によって、事務作業の時間は飛躍的に短縮された。パソコンとは、仕事を速くこなし、のんびりする時間をつくる機械なのだ。ジローはその目的にかなったパソコンの使い方で、日々、ぼんやりする時間を生みだしている。
 ところが、パソコンによって生まれた時間は、なぜか、多くの場合、さらなる作業をすることに費やされてしまうようだ。
 こうなると、パソコンは仕事を増やす道具である。もはや、楽するための道具ではなく、苦労するための道具に成り下がっているのだ。
 ジローは、よく金魚のことを思う。金魚は、小さな水槽に入れられていたら、小さいままでいて、大きい水槽に移されると、大きくなるのだそうだ。また、大きい水槽の中でも、金魚がたくさんいたならば、大きくならないという。身の丈を知っている金魚はエラい、とジローは感心する。その一方、人間は身の丈を知るということがない。なぜ、人間は常にますます仕事量を増やすのだろう。せっかくパソコンで仕事を早く終えることができたなら、早くうちに帰って、ダラダラすべきである。このように考えるジローは、同じシュフである一部の同僚には支持されているが、職場ではもちろん少数派に属している。
 なぜ、人間は身の丈を知ることができないのだろう。海に潜ろうとする鳥はいないだろうし、空を飛ぼうとする魚はいないだろう。しかし、人間は海も潜れば、空も飛び、月にだって行ってしまう。必要以上に、エネルギーを使い、ついには原発までつくってしまう。
 そんなことをいつも考えていた日々はひとまず終わり、今は八月、学校は夏休みである。
 たそがれ時には、網戸越しにヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。カナカナカナ……。
「ただいま。おなか空いた」
 と、モモが帰ってきて、ジローの至福のシエスタは中断された。
「まだ、明るいじゃないか。晩ごはんは早いって」
 ジローはもう一度目をつぶる。
「パパ、何かつくってよ」
 モモはジローの体を揺する。ジローは、体がソファと一体化して、なかなか起きあがることができない。目をつぶったまま、モモに訊いた。
「で、勉強してきたのか?」
「ぜんぜん」
「やっぱりな。友だちと勉強しようというのが甘いんだって」
「はいはい」
「しゃべって、菓子食って、終わりってとこじゃないのか?」
「なんでわかったの?」
「パパをなめるな」
 モモは、いちおう反省しているようだった。
 ようやく起きあがったジローはキッチンに立つ。モモは、扇風機を自分の方だけに向け、ジローが横になっていたソファに横になり、早速テレビをつける。
「いいなあ、モモは。かわってほしいよ」
「親でしょ」

 ジローは、玄米一合と水二七○㏄と塩少々を圧力鍋に入れ、火にかけた。圧力がかかってから、弱火で二十分、火を止め、圧力が自然に抜けるのを待つ。その間に、おかずをつくる。まずみそ汁とサラダをつくり、もらいもののゴーヤを刻み、塩を振った。ゴーヤがしんなりしてきたら、手拭いで茶巾絞りにして、水を切った。
「パパ、ごはんなに?」
「ゴーヤチャンプルー」
「だから、ムリって言ったでしょ」
「なんで?」
「苦いもん」
「当たり前だ、ニガウリなんだから。だけど、苦み抜いたから安心しろ」
「どうだか」
 これは、モモの口癖である。少し挑戦的な口調に、いつもジローは不快になる。
 ゴーヤは、ネギとシーチキンとシメジと、朝から水切りしておいた木綿豆腐をいっしょに炒め、最後に溶き卵を入れ、しょうゆとみりんで味付けした。
 モモがゴーヤチャンプルーをハンガースト並みに拒否したときのことも考え、おかずをもう一品つくることにした。あまりおいしそうなものをつくると、ゴーヤを食べなくなるので、とりあえずジャガイモで一品作った。鉄のフライパンに油を引き、ニンニクを炒め、続いて千切りにしたジャガイモをじっくりと炒め、しょうゆを最後に少し垂らした。それだけを、小さい皿に盛った。
「モモ、ごはんできたぞ。テーブルの上、片づけて、拭いとけ」
「パパやってよ」
「パパは召使いじゃない」
「はいはい」
「ただ座ってりゃ、テーブルの上にごはんが出てくると思ってんだろ?」
「はいはい、思ってません」
 圧力鍋で炊いた玄米にごま塩をかけ、僕たちは声をそろえて、「いだだきます」と言った。
「だから、ジャガイモから食うなって。ゴーヤ食ってみ」
「いや。嫌いだもん」
「とにかく、ゴーヤ食ってみって」
「あとで食べるって」
モモはリモコンでビデオをつけ、録りだめしたお笑い番組を再生した。
「パパ、麦茶」
「はいはい、召使いが今用意します」
 ジローの椅子は、キャスターがついている。座ったまま、冷蔵庫の前まで滑らせて、麦茶の入ったピッチャーを中から取りだした。麦茶をグラスに注ぐと、少しぬるいような気がしたが、モモも何も言わないので、気にせず、ビデオを見て笑いながら、箸をすすめた。
 モモは結局、ゴーヤチャンプルーを二口だけ食べた。しかし、ジローの見たところ、ゴーヤはモモの口には入っていなかった。ゴーヤを避けて、卵と豆腐とシーチキンだけを口に運んだようだ。
 食後、ジローは、またテーブルの上に、小さなまな板を置き、ペティナイフで梨をむいた。梨は冷蔵庫に入れておいたのだが、これも少しぬるいような気がした。

 デザートを食べながら、ビデオでさんざん笑ったあとで、ジローは皿を洗った。
 その間、モモはダイニングテーブルを布巾で拭いた。そこで勉強をするためだ。昼間、勉強をするといって出て行き、勉強しないで帰ってきたため、多少、反省の念をジローに見せることにしたのだろう。
 ジローは、片付いたテーブルの上に、パソコンを置いて、立ち上げた。日記がわりのブログを更新するのが、日課なのだ。
 ジローの隣で、モモは問題集を開いた。理科だ。夏休み前のテストで一番できが悪かった。地震、電気、磁力あたりが、わからないようだ。問題を解きはじめ、二問も解くと、すぐにジローに質問をする。
「パパ、わかんない。教えて」
「だから、すぐにわからないとか言うなって」
「だってわかんないんだもん」
「もうちょっと考えてみろ」
「考えたよ。さっきからずっと」
「考えるのめんどくさいだけだろよ」
「わかんないんじゃない?」
「簡単だって」
 ジローが問題集を手にとると、地震の問題だった。初期微動継続時間から、震源地までの距離を求めなくてはならない。地震の伝わる速度と時間から、方程式を使えば答えにたどり着くだろう。ジローは、それだけ教えて、あとは問題集をモモに手渡した。実は、ジローにもそれを解くのは面倒だった。
 モモがあくびをする。眠くなってきたようだ。思考力は当然鈍る。ここで怒ったところで、逆効果だろう。今夜中には答えにはたどり着きそうにない。
 モモが、問題の難しさと眠さとたたかっている間に、ジローはブログを更新し終えた。そして、新書を開いた。『複雑系とは何か』、ジローも多少理科の勉強をしようと、毎日少しずつ読んでいる本だ。
 モモの目が充血している。
「モモ、起きろ」
「起きてるって」
「じゃ考えろって」
「眠いんだって」
 ジローは、モモに説教を始める。実社会では、答えのない問題のほうが多い。大人が取り組んでいるのは、常に答えのない問題だ。中学生の勉強など、どんな問題にもすべて答えが用意されていて、しかも先生に聞けば、教えてもらえる。
「つまり、そんな問題なんて、簡単すぎるくらい簡単なんだって。わかる?」
「わからない。難しいものは難しいもん」
 モモがふらふらと立ち上がった。
「ちょっとソファで寝るから、あとで起こして」
 モモはソファに横になった瞬間、熟睡してしまった。
 ジローはため息をつく。後で起こせと言ったモモを、後で起こすと、必ず不機嫌になる。また、起こさなければ起こさないで、なぜちゃんと起こさなかったのかと、この場合も不機嫌になる。どちらにせよ、お互い、不快な思いをするのだ。
 毎回のことながら。


 人間が他の人間をわかることはありえない。絶対に。
 もう何年も前に、スクールカウンセラーが、ジローの学校の教員向けの研修会で言った。
 わかったという幻想があるだけという。
 しかし、わからなくても、わかろうとし続ける。そこから、本当の対話が始まる。たとえわからなくても、決して諦めない。これが、愛だ、とも。
 ジローはそんな言葉をずっと覚えている。
 わからないところから、なにごとも始まるのだ。わかってしまったら、そこで終わりだ。
 そもそも、わかるとは、多面的なものごとの一面だけ見て、自分の都合のいいように解釈して、安心しているだけ、なんてことが非常に多い。
 ジローはそんなことを思いつつ、一人、理科の勉強を続ける。理科系の本は、人生の早い段階で数学を捨てた超文系のジローにとって、わからないことだらけだ。わかっても、わからなくても、前へ、前へ、とりあえずページをめくる。
 現代人は、ものごとの背景には、不変の法則があると考えている。その法則をつきとめれば、ものごとはすべてわかり、ものごとの動きも予想できるはずだ、と。ところが、ものごとは、そう単純ではなく、容易には理解できないし、予想通りにも動かないし、法則も見つかりそうで見つからない。AとBを合わせればCになる。理論的には、そうなるはずだ。しかし、世界には、AとB以外に無数の他の要素があり、いつもCになるとはかぎらない。複雑なのだ。
 現実では、法則があって、ものごとが動くのではない。ものごとが動いて、法則が生まれるのだ。そして、その新しい法則の下で、ものごとが動き、また新たな法則が生まれていく。これが繰り返される。だから、法則はつかまえたと思っても、そのうち姿を消してしまう。
 ジローは、覚えたばかりの知識をモモと共有しようと、モモを起こそうとした。しかし、何度体を揺すっても、何度声をかけても、モモは目を覚まさない。
 しかたなく、ジローは麦茶を飲もうと、冷蔵庫を開けた。さまざまな食材の臭いが混ざった、ぬるい空気が鼻を突いた。
 麦茶は、ぬるかった。冷凍庫を開けると、まだ冷気は残っていたが、氷は溶けかかっていた。温度調節のダイヤルを回してみたり、コンセントを抜き差ししてみたりして、しばらく待ったが、冷蔵庫は正常に動き出さないようだ。
「モモ、大変だ、大変だ」
 ようやく目を覚ましたモモに事情を説明する。
「パパ、どうすんの?」
「わからない」
「冷たい麦茶もう飲めないの?」
「わからないって」
 モモは事態の重要さに、ようやく目が覚めたようだった。
「パパ、わからないしか言えないの?」
 ジローは、思わずもう一度「わからない」と言いそうになった。
 それからは冷蔵庫のことばかり気にかかり、長い長い夜を過ごすことになる。

10

 翌朝、朝はいつもギリギリまで寝ているジローだが、これまで目覚めたことのないような早い時間に目が覚め、すぐに冷蔵庫の前に行く。寝ている間に、自然治癒していることを祈りつつ、冷蔵庫のドアを開けた。昨夜と同じ臭いが、さらにぬるくなっている。冷凍庫の中のものは、すべて液状になっていた。
 ジローが久しぶりに味わった絶望感だった。
 こんな日に限って、ジローには仕事があった。午前中がプールでの水泳部の練習、午後が赤点をとった生徒たちの補習だ。
 牛乳と卵と野菜とベーコンは腐っていなかったので、簡単な朝食をつくり、モモを起こす。
「冷蔵庫、なおったの?」
「こわれたまま。腐ってないもので朝ごはんはつくったから安心しろ」
「中のもの腐るの?」
「今日もきっと三十度は軽く超えるから、まちがいなく腐る」
 モモのナイフとフォークの動きが鈍った。
「だから、それは腐ってないから、安心して食え」
 出勤前に、ジローは町の電気屋に電話して、昼休みにうちまで来てくれるよう頼んだ。
 そして、モモが中学へ卓球部の練習に出かけ、ジローも水泳部の練習に出かけた。
 その日、ジローは、身は職場に置きつつも、心はそこにあらず、頭の中には冷蔵庫のことしかなかった。
 プールサイドで、ストップウォッチを握り、選手たちの泳ぎのタイムを測りながらも、考えることは冷蔵庫のことばかり。
「うちの冷蔵庫壊れちゃったみたいでさあ」
 と、選手たちがスタートすると、その間に隣でストップウォッチを握る女子マネジャーに愚痴をこぼす。
「それは大変だね」
「ほんと大変なんだって。わかる?」
 ジローは、この悩みを、誰かに話して、無性に共感してもらいたくなる気持ちを抑えられない。
「うん」
「うちに帰って、冷たい麦茶飲もうとしても、ぬるいわけ」
「それは困る」
「そう、困るなんてもんじゃない」
「うん」
 女子マネジャーにしてみれば、練習の合間に、まったく水泳と関係のない冷蔵庫の愚痴を聞かされるほうが困るだろう。
 彼女は、適当に相づちをうちながらも、選手たちの泳ぎから目を離さない。
 さすがに、ジローも、おやじギャグを若い女子社員に強要する上司のような振る舞いをしている自分に気づき、選手たちのタイムをとり、激励の言葉をかけることに専念しようとした。
 目の前の仕事に没頭して、冷蔵庫のことを忘れようとするのだが、やはり無理だった。
 練習が終わると、すぐに駐車場に走り、軽自動車を飛ばした。うちに帰ると、モモがすでに帰ってきていて、扇風機の前に座ったまま、空腹を訴えた。

11

 冷蔵庫の野菜室を開けると、野菜はまだ大丈夫そうだった。トマトをとりだし、さっと洗った。完熟の赤が鮮やかだ。
 湯を沸かし、パスタをゆでる。その間に、ニンニクを細かく刻み、ボウルに入れる。オリーブオイルを垂らし、岩塩と四色ペッパーをミルで砕いてかけ、ワインビネガーと蜂蜜を加える。甘さ、辛さ、酸っぱさ、しょっぱさ、そしてコク、それらをシュフの勘で配合すると、とろけるようなうまみが出る。ボウルの中で、さいの目に切ったトマトとあえる。
 パスタがゆで上がったら、ざるにあげ、冷水にとって、パスタをしめ、先ほどのボウルに入れ、トマトとあえる。皿に盛りつけ、いったん、ベランダに出て、バジルを摘む。指でちぎって、トッピングして、冷製トマトパスタができあがった。
「モモ、できたぞ」
「くさってない?」
「安心しろ。トマトは完熟だったし、乾麺が腐るわけないだろ」
 二人とも、昼のバラエティー番組を見ながら、パスタを音を立てないように慎重に食べる。いつかしゃれたイタリアンレストランで食べるときに恥をかかないようにと、ふだんから練習しているのだ。ちょっと気を抜けば、ジローもそばのようにすすってしまう。
 パスタを食べ終わると、電気屋と約束の時間になった。量販店ではなく、町の電気屋がやってきた。ジローは、これまで、エアコンの取り付けや、洗濯機の設置や、テレビの調整など、何かとずいぶん世話になっている。
 電気屋がいうには、修理するなら持っていくが、直るかどうかはわからない、と。
「何年使ってるんです?」
 ジローは、モモが生まれる直前、新婚の頃、同じような真夏に、大学生時代に使っていた小さめの冷蔵庫が壊れ、新妻の要望でこの大きな冷蔵庫を買ったことを思い出した。
「もう十五年くらいですね」
 とジローは感慨にふける。
「そりゃ十分もとはとりましたね。天寿を全うされたみたいですよ」
 電気屋が感心してそう言うと、ジローには一つの歴史の終わりに思えた。この十五年、たしかにいろいろあった。
 ジローは、家電は何でも修理して限界まで使う主義だ。この冷蔵庫もできるものなら修理して使いたいが、仮に修理に出したら、その間冷蔵庫のない生活が待っていることを、一瞬、想像してみた。それは、日々キッチンに立つシュフにとっては、とんでもないことだと思った。
「カタログ持ってますか?」
 電気屋は、いったん車に戻り、カタログを持ってきた。即決だった。夕方には新しい冷蔵庫が来ることになった。
「どんなの、どんなの?」
 モモがやってきた。カタログを見て、製氷機がついていて、自動的に氷がつくられることを知って、興奮していた。この十五年の間に、家電界において、人類はそこまで進歩したのだ。ジローも多少興奮してきた。

12
 午後の補習の間も、ジローの頭の中にあるのは、新しい冷蔵庫に対する期待と、古い冷蔵庫の中にある食材に対する不安の二つだけだった。
 ジローは、一学期の成績で赤点をとった六人の生徒たちの指導を担当していた。三百人ちかくいる中のたった六人の選ばれし者たち、なかなかのメンバーである。ジローは、高校英語を教えることは諦め、中学英語の基礎からもう一度教えていた。ずいぶんと簡単なことを教えているつもりなのだが、その生徒たちが相手だと、それも難しいことだった。まず、選ばれし者たちは、基本的にひとの話を聞かないからだ。そもそもひとの話を聞く習慣さえあれば、赤点など取らない。
「だから、ひとの話を聞けって」
 もうジローは何度も口にしている。
 ただでさえ話を聞かない選ばれし者たち、英語となると、完全に耳を閉ざしてしまう。そこで、ジローは適当に雑談を交えて、生徒たちの注意をこちらに向けさせなくてはならない。
「人類、最大の発明、なんだか知ってるか?」
 ジローが問いかける。この手の生徒たちは、クイズにはよく食いつく。
「ケイタイ」、と坊主頭の野球部の生徒が答える。
「ま、それもすごいけど、まだある」
「パソコン」、バレー部の女子が言う。
「それも、すごいけど、他に?」
 テレビ、自動車、飛行機、次々とあがる。原発などという生徒もいる。
「まだ、すごいの忘れてる? それは……」
 ここで、間を置く。
「冷蔵庫だ」
 ジローは、生徒たちに、冷蔵庫のない暮らしを想像させた。冷たいものが飲めない。アイスもない。食べ物は腐り、保存できない。
 生徒たちが悲鳴を上げる。
「わかるか? 冷蔵庫の偉大さが」
 うなずく生徒たち。
「で、昨日、うちの冷蔵庫が壊れた」
 また、悲鳴。続いて、爆笑。
「いつもそこにあって当たり前のものが、一日でもなくなると、どんなに大変か、わかるか?」
 と、生徒たちは、珍しく耳を傾けうなずいている。
「失って、初めて、その大切さがわかる。でももう遅い……、そんな具合にね」
 突然、最近ガールフレンドにフラれたというサッカー部男子が悲鳴に近い声をあげると、まわりが騒ぎ出した。
「今ないものを嘆くな。今あるものに改めて感謝することも大事だ。ま、君たちはうちに冷蔵庫があるだろ。それだけでも感謝しろ」
 そのサッカー部男子は、隣の野球部男子に、まだオレという友だちがいるじゃないか、と慰められる。
 ところが、バレー部女子が、逃がした魚は大きいなどといってからかう。
 ジローは、収拾がつかなくなる前にこの話題をようやく断ち切って、本題に戻った。

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 生徒たちが追試験のために勉強していた教材は食べ物についての英文解釈だった。
「季節の食べものを、近くからとってきて食べる、それがスローフードってこと。わかる?」
 わかったのか、わからなかったのか、よくわからない返事が返ってくる。
「スローの反対語は?」
「クイック」
 と野球部員。
「惜しい。はやいは英語で?」
 ここで、ファーストと出てこないのが、選ばれし者たちだ。
 工場で作ったものを冷凍して、全国、いや世界中に運んで、一年中同じ味の料理を、バイトの学生あたりが簡単に調理して出すような食べものがファーストフード、これはスローフードの反対だと説明した。
「では、ファーストフードといえば?」
「先生、マックでしょ」
 この学校の近くにあるマクドナルドのハンバーガーは、一つ百円と安く、運動部の生徒たちの学校帰りの栄養源となっているようだ。
 選ばれし者たちは、どのハンバーガーがうまいかで、また盛り上がってしまった。
 なんとか、ジローは、脱線した生徒たちを本線に戻し、英文解釈を続けた。
 内容は、イタリアで発祥したスローフード運動のことだった。ローマにマクドナルドのイタリア第一号店がオープンしたとき、イタリア人たちは怒ったという。
「なんで、怒るの? マック食べれて、ラッキーじゃん」
「じゃ、子どもがマックばっかり食べて、イタリア料理食べなくなったら、イタリア人としては困るだろ」
 この町でも、日曜日の朝、マクドナルドの前の道が渋滞することがある。子どもに親がせがまれるのだろう。目的は、おまけ付きのハッピーセットだ。ハンバーガーを買うと、上映中のアメリカ映画のキャラクターのおもちゃがついてくる。早く行かないと、品切れになってしまう。映画のチケットもハンバーガーも両方売りまくるという作戦。よくできている。
「この町の子がこの町の名物、芋汁とかイノシシ鍋とか食べなくなったら困るだろ?」
 とジローが言うと、「両方食べればいいじゃん」とチキンナゲットが好物のバレー部女子。
「そこらへんから、旬のものをそのつどとってきて、食べれば、冷蔵庫もいらないなあ」
 と、ジローがつぶやくと、そんなのムリムリ、と失恋ホヤホヤの生徒に言われてしまった。
「そうだ、今、うちの食材が刻一刻と腐敗しつつある」
 生徒たちは大笑いする。教師の失敗談ほど、生徒たちを喜ばせるものはない。
「先生、補習なんてやってる場合じゃないよ。早く帰ってなんとかしなきゃ」
 坊主頭が気を利かせて言う。実は、彼は早くグラウンドに行きたいのだ。
 たしかに、補習どころではない。ジローは、冷蔵庫内の食材の腐敗の進み具合だけが気にかかる。そこで、宿題を多めに出して、補習は早めに切り上げた。

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 新しい冷蔵庫は、古いものよりやや背が高く、銀色に輝いてそびえ立っている。電力消費量は減ったのに、容量はかなり増えた。ジローが腐った食材を、ずいぶん苦労して、処分したせいもあり、中はすきすきだ。冷蔵庫を開けると、鼻の奥までツンと届く冷気に包まれる。
「モモ、冷蔵庫があることを、当たり前と思うな」
「ありがたいねえ」
 夕食後、ジローは荘厳な佇まいの冷蔵庫の前に立ち、モモを隣に立たせた。
「手をあわせろ」
「はいはい」
 二人は、神々しい冷蔵庫に、手をあわせ拝んだ。
「これからもよろしくお願いします。冷蔵庫様。はい、続けて」
「これからお願いします、冷蔵庫さん」
「様」
「はいはい、冷蔵庫様」
 その時、ちょうど、ガラガラと音がした。早速、製氷機が動きはじめたのだ。冷凍庫を開けると、氷ができていた。
「神だ」、とモモが言った。
 たしかに、そうかもしれない、とジローも思ってしまった。
 さて、その神の値段は、十二万五千円だった。
 バカンスはあきらめたジローだったが、近場で海辺の民宿にでも二、三日滞在するプチバカンスぐらいは考えていた。しかし、この出費で、それさえも完全にあきらめることになった。
「よし、モモ、この夏は、ステイケーションだ」
「何それ?」
 ジローが最近覚えた言葉で、ステイとバケーションを組み合わせてできた造語だ。遠くへ出かけて、特別なことをするのではなく、うちでのんびりしたり、近場で楽しんだり、経済的に至福の時を過ごすという意味だ。
 旅とは、単なる移動ではなく、出会いと発見を求める行為である。ならば、ステイケーションは、どこにもいかない旅である。
 モモはできたての氷を一つ口に入れて味わいながら、ジローのその説明を聞いていた。
「ま、いいんじゃない」
 中学生ともなれば、多少、家計事情についても理解ができるようになったのだろう。
「だけど、誕生日プレゼントは買ってよね」
 八月の終わりにモモは生まれた。
「何がほしいんだ?」
「ベッド」
 そんなに高いものでもないだろう。ベッドがあれば、リビングにモモが布団を敷いて寝ることもなくなり、リビングはリビングらしくなるだろう。そこにヨガマットも敷ける。ベッド導入も悪くない、とジローは思った。
「じゃ、あまり高くないの買ってやる。ベッドの下に収納があって、部屋片づくぞ」
 それを聞いて気分が良くなったモモは、グラスを二つ用意して、氷をどっさり入れ、麦茶を注いだ。
「ま、パパ、かんぱーい」
 と、モモが言うので、ジローはグラスを合わせた。
 その夜、モモは暇さえあれば、冷蔵庫を開けて、その前に立って涼んでいたので、そのたびにジローは叱らなくてはならなかった。

15
 ここはリゾート、今はバカンス。ジローは、この夏のテーマをそれに決めた。多少の妄想力を駆使すれば、在宅リゾ・バカ計画は実行可能だ。
 とりあえず、いつもより時間はあるのだから、少しはうちの中をきれいにすることに時間を割くことにした。やはり、汚くて散らかっていては、リゾートとは呼べない。
 まず、裸足で歩いても、ざらざらと感じない頻度で、床に掃除機をかけることにした。一日、三回うちで食べるということが増えるので、キッチンはどうせ汚れるとはいえ、シンクやコンロのまわりのステンレスがくすまない程度に、ファミリーレストランなどに行くたびに使わず持ち帰ってはため込んできたウェットティッシュのおしぼりで拭いた。これまでためたウェットティッシュは、このひと夏分くらいはある。
 夜、照明は、天井の蛍光灯ではなく、シェード付き電気スタンドにしてみた。夜は、当たり前のことだが、暗いのだ。わざわざ、部屋の隅々まで照らす必要はない。照明とは、そもそも、影をつくるためのものらしい。
 夜、うちの中に暗い部分が増え、多少散らかっていても目立たなくなり、居心地はよくなった。
 アロマポットにアロマオイルを垂らし、ろうそくをつけると、ふだん嗅ぐことのない匂いが漂い、ぐっと異国情緒が出てくる。網戸越しに、心地よくぬるい夜風が入ってくると、トロピカルな妄想が広がっていく。
 この夏、新しい冷蔵庫を導入後、氷は潤沢にあるので、ドリンクには、これでもかとたくさん氷を浮かべられる。
 モモは足を伸ばしてソファに横向きに座り、カルピスに氷をいくつも入れたグラスをゆらして、風鈴のような音を出した。
「パパ、なんかいいねえ」
「その音は、夏休みの音だなあ」
 涼風を送る扇風機がゆっくりと首を振り、その風を待つジローを心地よくじらす。ジローはリクライニングチェアに座り、足をオットマンにのせている。そして、モモのまねをして、麦茶の入ったグラスを揺らし、氷とグラスで涼しい音を出す。
「リゾバカだなあ」
「なにそれ?」
「だから、リゾートでバカンス気分だってことだって」
「リゾバカって、なんかいいねえ」
 なんかいいは、このうちではほめ言葉の最上級である。とにかく、いい。そこには理由はいらない。
 夜十時を過ぎた頃、モモの勉強が一段落つき、いよいよDVDナイトが始まる。ホームシアターセットは、以前、ジローが女性雑誌に定期的に書いていたときに稼いだ原稿料で買ったものだ。その連載を終えた時、自分へのご褒美として。
 基本的に、ジローは教師の仕事で生計を立て、予備収入である原稿料は使い切ってしまう。芸の肥やしとして、投資するのだ。教師としての収入から貯蓄しなかったことは後悔しているが、原稿料を使い切ったことに関しては、いっさい後悔はしていない。

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 ジローが、ホームシアターセットのスクリーンを垂らし、プロジェクターをセットしている間、モモはまた氷をたくさん入れたグラスを二つ用意した。またもや、ジローは麦茶、モモはカルピス。
「パパ、なんかお菓子ないの?」
 そういえば、ない。ジローは冷蔵庫の上でほこりをかぶった箱を見つけた。その中には、電動かき氷機アイスロボⅢが入っている。
「ちょっと待ってろ」
「で、今日は何見るの?」
 最近、近所のビデオレンタルショップで、DVD一枚を百円で借りることができる。実に安上がりなので、ジローはDVDをレンタルし、返しに行くときまた三枚借りてくる。
 ジローたちが好きな映画は、二人が呼ぶところのジャパニーズゆるゆるムービーだ。特撮はなく、誰も死なず、濃厚なラブシーンもなく、登場人物が少なく、大したストーリーではないが、景色がよくて、食べ物がおいしそうな映画。モモも小学生の頃からその手の映画をさんざん見させられ、同じ好みを植えつけられている。
「今日のはオキナワン・ムービー。もちろん、ジャパゆるだぜ」
「いいねえ」、とモモはジローとハイタッチする。
 モモがソファに座り、カルピスを一口飲むと、予告編が始まった。
 やはり、映画の画面は大きい方がいい。そして、映画は暗いところで見るのがいい。部屋が暗ければ、画面だけが視界に入り、日常の細々としたモノも見なくてすみ、異空間に感情移入しやすく、自然、集中力も高まる。
 予告の間に、ジローはアイスロボⅢに氷を入れ、スイッチを入れた。ガラスの皿にかき氷を盛りつけた。シロップは、冷蔵庫の中に何年か眠っていた練乳のチューブを見つけた。賞味期限は当然切れていたが、味見すると大丈夫だったので、それをたっぷりとかけた。
 レンタルDVDの予告は、けっこう長いので、本編が始まる前に、ミルクかき氷ができあがった。
 モモとジローは、サクサクとスプーンをかき氷に突き立て、ここちよい扇風機の微風にあたりながら、至福のDVDタイムが始まった。
 翌日は休日で、予定といえば、モモもジローも朝からまったく予定がないという予定だ。何が起こるかわからない、おそらく何も起こらない一日。
 働き者の日本人は、何かし続けることは大得意だ。しかし、何もしないということが、大の苦手らしい。
 せっかくの休日に、どこかに出かけても、のんびりすることができず、すべての観光スポットを早足でまわり、ぎっしりとスケジュールを埋め、混んだ電車に乗ったり、渋滞の中運転したり、仕事以上に疲れて帰ってくる。
 これでは、疲れるための休日になってしまう。
 何もしないでいられるとは、一種の才能なのかもしれない。
 今宵は、二本立てでも大丈夫だろう。

17
 もうこれ以上眠れないほど眠った朝の心地よい目覚め、ジローはベッドの枕元にあるアラームを切った携帯電話で時間を見る。もう十時だ。昨夜は遅くまでDVDを見ていたので、リビングに布団を敷いて寝ているモモはまだ起きてこないだろう。
 今日は八月最初の日曜日で、水泳部の練習もない。
 ジローは、ベッドを出ると、床にヨガマットを広げた。リゾートの朝は、ヨガで始まる。ヨガマットの上に、脱力して立ち、大きく息を吸って、長く息を吐く。一連のポーズをとり、自分の体に向かいあい、無心を目指す。今、自分が無心を目指しているのだという意識さえ忘れるほどの無心を。そして、そんなことは無理だと悟り、邪念と煩悩から逃れられないまま、ヨガを終える。腹が減ってきた。
 ジローはリビングに行き、モモに声をかけるが、まだ寝ていると言うので、シャワーを浴びることにした。
 そして、朝には遅く、昼には早い食事、ブランチの用意を始めた。ベランダに出て、バジルを摘む。この夏は豊作で、虫もついていない。
 小さなすり鉢に、バジルの他に、ニンニク、パルメザンチーズ、塩を入れ、オリーブオイルをたっぷりたらし、小さなすりこ木を当てて、ペーストをつくる。キッチンに続くリビングでまだ眠るモモに声をかけると、もうすぐ起きると答えた。
 パスタをゆで始める。ペースト作りはなかなかの労力を使う。ちょくちょく手を休めながら、窓際に置いたポケットラジオを聞いている。天気予報では、今日も暑くなるらしい。交通情報によると、行楽地に向かう道路では、すでに渋滞が始まっているようだ。今日も出かけることはないジローは、少し優越感に浸る。
 ラジオからは、引き続き、行楽地にいるリポーターからの元気な声が届く。
 八月の日曜日、海も山も、なかなかのにぎやかさのようだ。
 渋滞の中ハンドルを握るお父さん、海で真っ赤に日焼けして砂山をつくっているお父さん、ジローは、心の中で、暑中お見舞いを申しあげた。
 シュフにとっては、テレビより、ラジオのほうが好ましい。それは、目を奪われないからだ。キッチンに立っているとき、手を休めることなく、耳を傾けることができる。テレビだと、目を奪われるたびに、いちいち手を休め、振り向かなくてはならない。これでは、効率が悪い。家事も仕事も、効率は最優先させなくてはならない。余暇を最大限確保し、こちらは非効率的に過ごすために。
 さらにいうと、ジローは携帯音楽プレーヤーよりもラジオのほうが好きだ。ジローも大容量のものを持っている。その中には二千曲近く入っている。それでも、ラジオのモノラルスピーカーから流れる、音質の悪い音楽のほうがいいのだ。それは、次にどんな曲が流れるか、予測がつかないからである。
 ジローは行き先が決まっている旅行より、行く当てもない旅を選ぶ。

18
「パパ、おなか空いた」
「先に、おはよう、だろ」
 ようやくモモが目を覚ました。そして、すぐテレビをつけた。これで大人の至福のラジオ時間も終わりとなった。あと二分でパスタがゆであがる頃、ジローは、スティック状に切った皮付きのジャガイモを投入した。
「もうすぐできるぞ」
「何が?」
「緑のパスタ」
「朝からパスタ?」
「もう昼だぞ」
 モモは冷蔵庫から麦茶を出して、自分でコップに注いで飲み始めた。
「パパ、幸せだねえ」
 ジローは一瞬何のことかわからなかったが、すぐに冷蔵庫のことだとわかった。モモは、コップに氷を入れ、カランカランと鳴らしている。冷蔵庫がある生活、しかも製氷機付きの冷蔵庫がある生活、これほどの幸せ、そうざらにはない。
「おい、いい加減に、冷蔵庫のドア占めろ。ありがたいのはわかったから」
 ジローがちょっと油断すると、モモは冷蔵庫のドアを開けて涼み始める。
「おい、麦茶、パパにもくれ」
 モモがグラスに注いだ麦茶を、ジローは立ったまま飲み干し、やがて冷蔵庫が生活の一部になっても、この感謝の気持ちだけは忘れないようにしようと心に誓った。
 パスタ鍋の中のざるを持ち上げ、ゆで上がったパスタとジャガイモの湯を切り、ボウルに入れ、バジルペーストと混ぜる。これで、緑のパスタができあがりだ。
「パパ、赤いのは?」
「白いのもいっちゃう?」
「いいねえ」
 ジローは立ったまま、また残った湯でパスタをゆでながら、バジルジェノベーゼを食べ、いつものトマトのパスタ、続けてシンプルな白いパスタも作った。ニンニクスライスをオリーブオイルで炒め、パスタとあえ、塩で味付けをしただけのもの。大人の味にするなら、たかの爪も入れるが、モモは辛いものが苦手なので省略した。たかの爪はなくてもけっこういける。
 緑のパスタ、赤のパスタ、白のパスタ、三枚皿が並んだ。
「これで、マルガリータだ」
「何それ?」
「赤白緑の三色のピザ、マルガリータと、色が同じってこと」
「じゃあ、昼ご飯は、ピザにしよう」
 と、モモが提案した。
 もう昼近いので、昼というより、おやつにということなるが、ジローは同意した。
 ジローにとって、食後のコーヒーは重要だ。夏でもホットコーヒーだ。豆を手動ミルでひき、細口ケトル使い、ペーパードリップでいれる。
「モモ、コーヒー飲むか? 牛乳と砂糖たっぷりのカフェオレにしてさ」
「麦茶でいい」
「氷入れすぎで、ゲリになるぞ」
 そんなジローがうちでいれるコーヒーの味は、いつもいまいちだ。何かが足りないか、何かが多すぎるのだろう。さほどまずくはないのだが、喫茶店のコーヒーの味からはほど遠い。

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 ジローはホームベーカリーで、ピザ生地を仕込んだ。強力粉、塩、砂糖、サラダ油、水、ドライイーストを入れ、ボタンを押せば、四十五分で、生地ができあがる。
 これで三枚分できるので、実家にも持っていくことにした。ピザは、実家の面々の好物でもある。
 ホームベーカリーがせっせと働く音を聞きながら、いまいちなコーヒーを味わっていると、ジローの妄想が始まった。イタリアはどんなところなのだろう。イタリア人は、パスタとピザばかり食べているのだろうか。世界一の美男美女がいるというのは、本当なのだろうか。
 スローフード発祥の土地、イタリアは、ジローの憧れの国だ。
 かつて、ローマにイタリア初のマクドナルドがオープンしたとき、誇り高きイタリア人が立ち上がった。世界中一年中同じ味のハンバーガーを武器に、イタリアに上陸してきたアメリカンファーストフード帝国を相手にして。ファーストフード、速い食べ物に対抗して、スローフード、遅い食べ物。地元の旬の食材を、手作りでじっくり料理して、気の合う仲間とワインを飲みながら、三時間くらいかけてゆっくり味わうという戦術で、超大国にガチンコ勝負を挑んだのだ。かたつむりのシンボルマークの旗を掲げて。
 その第三次世界大戦ともいえるたたかいに、ジローはこの日本から参戦しているつもりだ。
 マクドナルドには、モモが小学校二年の時から、一度も連れていったことはない。モモといっしょに「スーパーサイズ・ミー」という映画を見て以来のことだ。その映画監督自ら、一カ月間、マクドナルドのものばかり食べるという人体実験のドキュメンタリー。途中、命に関わるとドクターストップがかかっても、監督はマクドナルドの商品を食べ続ける。飲み物もマクドナルドの商品のみ。Lサイズよりはるかに大きなスーパーサイズを勧められたら、断らないとルールを自らに課してまで。
 マクドナルドは子どもを引きつけるのが得意だ。遊具を設置している店舗もあれば、人気キャラクターのおもちゃつきのハッピーセットもある。
 マクドナルドの高脂肪で糖分過多な商品の誘惑に子どもは勝てないだろう。そして、親まで連れてくるリピーターになる。
 実際、モモも、ディズニー映画のキャラクターのおまけが欲しくてたまらないことがあって、ジローにせがんだことがある。ジローは、もちろん、無視。それで、モモは、ジローに隠れ、母親に連れていってもらった。
 後で、モモが持っていたおもちゃに、Mという字が刻印されているのをジローは見たが、たまに母親と会うときくらいは、許そう、とそのときは黙っていた。
 ピザ生地の発酵を待つジローのまぶたが、いつしか重くなってきた。ソファに移動して、横になり、目をつぶる。モモはとっくに眠っていた。
 シエスタは、もう日課に近いものになっている。

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