弟1章「冷蔵庫」

 見上げる青空の中央を飛行機が進み、白い直線を引いていく。ジローはその飛行機雲にそって、背泳ぎでゆっくり進む。太陽が熱く、まぶしいが、水の中では、それがかえって心地よい。
 ジローは反転し、うつぶせになり、今度はクロールで泳ぐ。息継ぎで、顔を上げると、入道雲が立ちのぼっているのが見える。水の底には、自分の影が映っている。その影を追いかけるように、指先を左右交互に水面に突き刺し、遠くへ遠くへと腕を伸ばす。
 十年も前だったら、ジローはまだ泳ぎにスピードを求めていただろう。また泳ぐ距離にもこだわっただろう。泳ぐ距離を設定して、それが終わるまで、プールから上がらなかっただろう。
 しかし、このごろは、心地よい疲労が残るくらい泳ぐと、飽きてしまう。泳ぐことで、カロリーが消費され、多少体重が落ちることも期待するが、この程度の泳ぎでは、減量効果はほとんどないはずだ。
 今やジローが泳ぐのは、水と一体化して、太古の生物が海に抱かれていた記憶を呼び覚ますためであるかのようだ。効率よく呼吸しながら、最小限の労力で、水に体を預け、水の力を借りながら、ゆったりと前に進む。スピードを求めるためでもなく、痩せるためでもなく、ただ泳ぐために泳ぐ。
 こんな気持ちで泳げるようになったのは、昨年、四十歳になったことと関係があるのかもしれない。三十代最後の日々のカウントダウンが始まったときの焦りが、不惑の年を迎えると、不思議とふっと消えた。振り返ってみれば。二十代最後のカウントダウンでも同じような焦りを感じたのだが、焦ったところで何も得るものがなかったことを思い出したのだ。
 ジローは、仰向けで水に浮かび、すっかり脱力していくと、リゾート気分に浸る。ここはまるで南の島のホテルのプール、何の目的もなく、ただ漂っている…。
 実は、ジローが泳いでいるのは、ジローの勤務する高校のプールだ。ジローは水泳部の監督なのだ。中学時代、他に入るクラブがなくて、しかたなく水泳部に入っていただけで、学生時代に本格的な水泳の競技経験はまったくなかったのだが、たまたま初任校で、他に担当する教師がいなかったため、水泳部の監督を任せられ、それ以来ずっと水泳部を担当しているのだ。個人競技だったり、休日の練習試合がなかったり、オフシーズンがあったりと、ジローは水泳という競技がかなり気に入っている。
 水泳部の練習は、午前中で終わる。そして、部員達がプールから上がると、今度はジローがこの五十メートルプールを独り占めして泳ぐ。これも、水泳部監督を続ける、大きな理由の一つである。
 ジローは空腹を感じた。プールから上がると、短パン、Tシャツ、ビーチサンダルというリゾート風の格好に着替えた。
 すると、プールサイドに夏服の制服姿の女子高生が現れた。


 彼女は、この夏、水泳部を引退した三年生部員だ。まだ日焼けした肌は、他の生徒に比べると、目立つほど黒い。
「先生、相談があるんだけど」
 彼女は三コースの飛び込み台に座った。ジローは四コースの飛び込み台に腰を下ろした。
「恋?」
「まさか、進路だって。これから、三者面談あるからさ」
 三年生は、長い夏休みが始まる前、卒業後の進路目標を決めるため、親子で担任教師と面談をすることになっている。
「で、どうしたいわけ?」
「私、映画の仕事をしてみたいんだよね」
「そんなの今からでもバイトでできるぞ。チケットのもぎりとか、ポップコーン売るとか」
「そんなんじゃなくて、監督の補佐したり、撮影の助手したり、字幕翻訳とかでもいいし」
 ジローは、一瞬、考えるために黙った。
「ねえ、先生、どうすればいい?」
 高校入学時の将来の夢は、宇宙飛行士になることだった彼女である。宇宙から地上に降りてきたことは、彼女にとっては大きな進歩だと、ジローは言った。
「先生、バカにしてるでしょ?」
 ジローはクビを横に振り、彼女が去年の夏休み、一日体験ナースという研修会に参加するため、練習を休んだことを思い出した。
「じゃ、ナースだ」
 そして、一気に話した。まず、看護学校へ行く。今の学力ならば、十分に合格できる。そして、国家試験に合格して、ナースになったら、病院で他の人には見られない世界を見る。それから、もう一度話をしよう、と。
「ええ、なんか違うような?」
「人生、回り道が一番近道なんだって。わかるか?」
「私、映画館の仕事でもいいから、映画に携わりたいんだって」
「おう、それなら、看護学校に行っている間に、シネコンでバイトすればいい。映画、見に行ってやるぞ。ポップコーンも買ってやるぞ」
「なんだかなあ」
「だから、ナースの目で世界を見ることによって、それが生きてくるんだって」
「先生、私の夢、あきらめさせようとしているでしょう?」
「そういうわけじゃなく回り道が近道だったりするからさ。それも夢への一歩だろ」
「うそばっかり」
「まずはカネと言ってるだけだ」
「カネ?」
「そうだ。人生、カネだぞ」
「人生は愛だとか何とか、授業で言ってなかった?」
「時代が変わった。今、人生はカネだ」
「なんだか、夢がないなあ」
「夢で腹いっぱいになるか?」
「そりゃ、そうだけど……」
「だから、恩師の言うことを信じて、看護学校行け」
「はいはい」
「それで国家試験受かったら、ゆっくり映画のことを話そう」
「うん。なんだか、吹っ切れた。じゃ、面談行ってくるね」
「おう、行ってこい」
 プールサイドで、ジローは彼女を送り出すと、空腹感にせかされ、すぐに駐車場に向かった。

 軽自動車を飛ばせば、十五分で教職員住宅のアパートに着く。
「ただいま」
「遅い」
「すまん」
「おなか空いた」
「今つくる」
 うちでは、娘のモモが待っていた。ジローはモモと二人で暮らし、もう八年目になる。モモは、中学二年生で、卓球部の練習を終え、ジローより先に帰ってきていたのだ。
 夏休み中、二人は、たいてい毎日、昼食をうちで食べている。
 ジローは湯を沸かし、そうめんをゆで始めた。時間差で、もやしも入れ、ゆで上がると、ザルにとって、流水で冷やし、水を切り、塩を振って、手でもんだ。フライパンに、油を引いて、そのそうめんを十五秒ほど炒め、皿に盛った。トッピングに、刻みネギと紅ショウガ。モモの好物であるトマトもスライスして添えて、昼食の準備ができた。
 開け放たれた窓から、ここちよい風が入ってきて、ダイニングルームを通り抜けていく。このアパートは、田んぼと川と茶畑に囲まれているせいか、風通しはいい。クーラーは来客時のみ、とジローは家訓に定めている。
「おい、できたぞ。麦茶頼む」
「もうできたの?」
 モモが冷蔵庫から麦茶を出してきて、二つのグラスに注いだ。
 二人はダイニングテーブルのところに座り、いただきます、と声をそろえた。
「パパ、おかずは?」
「ない。足りなきゃ、おやつになんかつくる」
「デブになるからいい。何これ?」
「ま、食え」
 モモは初めてのその料理をおそるおそる口に運んだ。
「これ、おいしいねえ。味付けは何?」
「塩」
「だけ?」
 ジローが頷き、一口食べる。
「たしかにうまい」
 ジローは、これは沖縄料理であることを説明した。
 全便満席でも赤字必至の空港が近くにできて、そこから、朝出発すれば、昼には沖縄に着くという。昨日テレビのニュース番組でそう言っていた。さすがにそう簡単に沖縄へは行けそうもないので、せめてものソーミンチャンプルーだ。
 ジローがモモと二人で暮らすようになってから、これまで毎年夏は飛行機でどこかに出かけて、バカンスを過ごしてきた。バカンスといっても、長くてもせいぜい五日ほどだが。
 しかし、今年の夏は、バカンスを断念せざるをえなかった。百年に一度と言われる不況のためだ。ジローは地方公務員なので、急激に収入が減ることもなく、夏のボーナスも出たのだが、実家の面々がその不況の影響をもろに受けてしまったのか、ジローの両親が営む小さな飲食店は、この春、閉店することになってしまった。
 そのため、この夏はバカンス代を実家の財政援助にそっくりまわすことにしたのだ。


 
 ジローは、これまで貯金してこなかったことを後悔している。カネを残すか、思い出を残すか。後者を常に選んできた。カネは天下の回りもの、月給は毎月使い切り、ボーナスが出れば、日本経済を応援するなどと言って、散財してきた。
 もし貯金がせめて同年代の同僚並みにあれば、もっと実家の財政援助をして、両親の店の存続に貢献できたかもしれないのだ。
「沖縄を想像しながら、食べてみろって」
 ジローは、想像のバカンスで、せめて食卓の上はハレの場にしたいと思った。
「はいはい」
 二人は、沖縄に行ったことがある。モモが小学校二年生の夏休みに。二人とも初めての沖縄で、そこがあまりにもいいところなので、冬休みにも行った。二回目の沖縄では、本島から座間味島にわたり、小さな船で荒海に出て、船酔いとたたかいながら、ザトウクジラも見てきた。
「晩ごはんも、沖縄料理、ゴーヤチャンプルーにしよう」
「ゴーヤって、ブツブツのある緑の?」
「そう。ニガウリともいう」
「絶対に食べない。あの形、絶対に無理。苦そうだし」
「人生の苦みに比べたら、ゴーヤの苦みなんて、甘いくらいだ」
「はいはい」
 これまで、モモに野菜を食べさせることに、料理の労力の半分以上を注ぎこみ、モモの許容範囲を徐々に広げてきたジローだが、このゴーヤはなかなかの強敵のようだった。
 食後、ジローは、小さなまな板をテーブルに置き、ペティナイフで、梨をむいた。皿もフォークも使わず、切りわけたそばから、モモは梨を手づかみで食べていく。
「パパのも残せって」
「わかってるって」
 モモが三切れほど食べると、ようやくジローも一切れだけ口に運んだ。
「モモばかり食べるなら、もう梨切ってやんないぞ」
「じゃ、モモがやる」
 モモがペティナイフを引き継いだ。その日、二人で、梨を二つ食べた。モモが一個半、ジローが半分といったところだ。
 デザートを終えると、モモは勉強道具を持って、自転車で出かけていった。友だちと勉強をするのだ、といって。
 ジローは、午後、有給休暇をとってある。ソファに移動して、文庫本を開いた。『悲しみよ こんにちは』、夏になると読みたくなる本で、夏のバイブルでもある。主人公セシルは高校生、四十歳の鰥やもめである父親と南仏の別荘で夏を過ごすという物語。鰥という漢字は、この本以外では見たことがない。フリガナをふるとすれば、シングルファーザーだ。四十を過ぎてもまだ若々しく、女性を惹ひきつける父親と、十八歳の娘は、お互いの恋を語りあったりして、享楽的な日々を送る。
 ジローは、行ったこともない南仏のリゾートを想像しながら、本を閉じ、まぶたも閉じた。シエスタ、至福の時。なるほど、昼寝は夏の季語になるわけである。

 ジローにとって一年のうちの十一カ月、つまり九月から翌年の七月までは、この八月の一カ月間のためにある。八月は、バカンス月間だ。バカンスの語源は真空だ、ということをジローは疑ってはいない。何かするための八月ではない。何もしないための八月である。
 この八月のため、ジローは労を惜しまず、準備を進めてきた。雑務をすべて七月中にすませ、八月の仕事はほとんど午前中にセッティングして、有給休暇を余すことなく申請した。
 こんなことができるのも、ジローが職場で要職についていないからでもある。
 学校という労働現場には、二種類の職員がいる。家事をしなくてはならない職員と、家事から解放されている職員だ。
 そこには、大きな違いがある。家事をする職員は、午後五時の定時になれば、一分でも早く帰ることを考える。一方、家事から解放されている職員は、帰る時間を気にする必要がない。上にしてみたら、どちらに仕事をまかせたくなるかと言えば、当然、後者となる。
 ジローも以前は後者だったのだが、シングルファーザーとなった今は、断固たる前者、一分どころか一秒でも早くうちに帰ることばかり考えている。「あんたは男なのにオトコじゃない」と同僚に形容されたこともあるジローは、ゆえに、ここ数年、干されているのだ。
 それに、実は、ジローの仕事は非常に速い。瞬時に、複数の作業の優先順位を決め、最短距離を最短時間で進むことができる。しかし、この事実は、同僚に知られることはない。ジローは、誰よりも仕事が速いため、当然、いつも何ごとにおいても、とりかかるのが誰よりも遅い。すると、まわりの同僚がいつまでも動き出さないジローを待ちきれなくなり、ジローがとりかかる前に、ジローの作業を奪い、終わらせてしまう。その結果、せっかくのその瞬速仕事術を披露することなく、ジローが「まったく使えないヤツ」という評価に終わってしまうのだ。
 これはこれで、ジローは甘んじて受け入れている。他人ができることは、他人にまかせることも、仕事を速くこなすテクニックの一つだからだ。
 この瞬速仕事術は、日々の家事の中から身につけたものだ。まず、一家の大黒柱であるシュフたるもの、いつまでも職場に残ることはできない。常に時間内に仕事を終わらせようとする習慣がつく。時間内にすべて終わらないときは、優先順位を定め、取捨選択をする。シュフたるもの、一秒でも早くキッチンに立ち、一秒でも早く夕食を用意しなくてはならない。
 うちの玄関のドアを開けると、モモはすぐ空腹を訴える。キッチンではもっとも効率のいい手順で、複数の作業を同時進行させる。こちらを煮込んでいる間に、あちらを炒めたり、湯を沸かしている間に、皿を並べたり、炊きあがった米を蒸らしている間に、もう使わないボウルや鍋を洗う。これを、職場で応用すれば、たいていのオトコより速く仕事を進めることができるのだ。

 ジローはパソコンの正しい使い方も知っている。パソコンの登場によって、事務作業の時間は飛躍的に短縮された。パソコンとは、仕事を速くこなし、のんびりする時間をつくる機械なのだ。ジローはその目的にかなったパソコンの使い方で、日々、ぼんやりする時間を生みだしている。
 ところが、パソコンによって生まれた時間は、なぜか、多くの場合、さらなる作業をすることに費やされてしまうようだ。
 こうなると、パソコンは仕事を増やす道具である。もはや、楽するための道具ではなく、苦労するための道具に成り下がっているのだ。
 ジローは、よく金魚のことを思う。金魚は、小さな水槽に入れられていたら、小さいままでいて、大きい水槽に移されると、大きくなるのだそうだ。また、大きい水槽の中でも、金魚がたくさんいたならば、大きくならないという。身の丈を知っている金魚はエラい、とジローは感心する。その一方、人間は身の丈を知るということがない。なぜ、人間は常にますます仕事量を増やすのだろう。せっかくパソコンで仕事を早く終えることができたなら、早くうちに帰って、ダラダラすべきである。このように考えるジローは、同じシュフである一部の同僚には支持されているが、職場ではもちろん少数派に属している。
 なぜ、人間は身の丈を知ることができないのだろう。海に潜ろうとする鳥はいないだろうし、空を飛ぼうとする魚はいないだろう。しかし、人間は海も潜れば、空も飛び、月にだって行ってしまう。必要以上に、エネルギーを使い、ついには原発までつくってしまう。
 そんなことをいつも考えていた日々はひとまず終わり、今は八月、学校は夏休みである。
 たそがれ時には、網戸越しにヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。カナカナカナ……。
「ただいま。おなか空いた」
 と、モモが帰ってきて、ジローの至福のシエスタは中断された。
「まだ、明るいじゃないか。晩ごはんは早いって」
 ジローはもう一度目をつぶる。
「パパ、何かつくってよ」
 モモはジローの体を揺する。ジローは、体がソファと一体化して、なかなか起きあがることができない。目をつぶったまま、モモに訊いた。
「で、勉強してきたのか?」
「ぜんぜん」
「やっぱりな。友だちと勉強しようというのが甘いんだって」
「はいはい」
「しゃべって、菓子食って、終わりってとこじゃないのか?」
「なんでわかったの?」
「パパをなめるな」
 モモは、いちおう反省しているようだった。
 ようやく起きあがったジローはキッチンに立つ。モモは、扇風機を自分の方だけに向け、ジローが横になっていたソファに横になり、早速テレビをつける。
「いいなあ、モモは。かわってほしいよ」
「親でしょ」

 ジローは、玄米一合と水二七○㏄と塩少々を圧力鍋に入れ、火にかけた。圧力がかかってから、弱火で二十分、火を止め、圧力が自然に抜けるのを待つ。その間に、おかずをつくる。まずみそ汁とサラダをつくり、もらいもののゴーヤを刻み、塩を振った。ゴーヤがしんなりしてきたら、手拭いで茶巾絞りにして、水を切った。
「パパ、ごはんなに?」
「ゴーヤチャンプルー」
「だから、ムリって言ったでしょ」
「なんで?」
「苦いもん」
「当たり前だ、ニガウリなんだから。だけど、苦み抜いたから安心しろ」
「どうだか」
 これは、モモの口癖である。少し挑戦的な口調に、いつもジローは不快になる。
 ゴーヤは、ネギとシーチキンとシメジと、朝から水切りしておいた木綿豆腐をいっしょに炒め、最後に溶き卵を入れ、しょうゆとみりんで味付けした。
 モモがゴーヤチャンプルーをハンガースト並みに拒否したときのことも考え、おかずをもう一品つくることにした。あまりおいしそうなものをつくると、ゴーヤを食べなくなるので、とりあえずジャガイモで一品作った。鉄のフライパンに油を引き、ニンニクを炒め、続いて千切りにしたジャガイモをじっくりと炒め、しょうゆを最後に少し垂らした。それだけを、小さい皿に盛った。
「モモ、ごはんできたぞ。テーブルの上、片づけて、拭いとけ」
「パパやってよ」
「パパは召使いじゃない」
「はいはい」
「ただ座ってりゃ、テーブルの上にごはんが出てくると思ってんだろ?」
「はいはい、思ってません」
 圧力鍋で炊いた玄米にごま塩をかけ、僕たちは声をそろえて、「いだだきます」と言った。
「だから、ジャガイモから食うなって。ゴーヤ食ってみ」
「いや。嫌いだもん」
「とにかく、ゴーヤ食ってみって」
「あとで食べるって」
モモはリモコンでビデオをつけ、録りだめしたお笑い番組を再生した。
「パパ、麦茶」
「はいはい、召使いが今用意します」
 ジローの椅子は、キャスターがついている。座ったまま、冷蔵庫の前まで滑らせて、麦茶の入ったピッチャーを中から取りだした。麦茶をグラスに注ぐと、少しぬるいような気がしたが、モモも何も言わないので、気にせず、ビデオを見て笑いながら、箸をすすめた。
 モモは結局、ゴーヤチャンプルーを二口だけ食べた。しかし、ジローの見たところ、ゴーヤはモモの口には入っていなかった。ゴーヤを避けて、卵と豆腐とシーチキンだけを口に運んだようだ。
 食後、ジローは、またテーブルの上に、小さなまな板を置き、ペティナイフで梨をむいた。梨は冷蔵庫に入れておいたのだが、これも少しぬるいような気がした。

 デザートを食べながら、ビデオでさんざん笑ったあとで、ジローは皿を洗った。
 その間、モモはダイニングテーブルを布巾で拭いた。そこで勉強をするためだ。昼間、勉強をするといって出て行き、勉強しないで帰ってきたため、多少、反省の念をジローに見せることにしたのだろう。
 ジローは、片付いたテーブルの上に、パソコンを置いて、立ち上げた。日記がわりのブログを更新するのが、日課なのだ。
 ジローの隣で、モモは問題集を開いた。理科だ。夏休み前のテストで一番できが悪かった。地震、電気、磁力あたりが、わからないようだ。問題を解きはじめ、二問も解くと、すぐにジローに質問をする。
「パパ、わかんない。教えて」
「だから、すぐにわからないとか言うなって」
「だってわかんないんだもん」
「もうちょっと考えてみろ」
「考えたよ。さっきからずっと」
「考えるのめんどくさいだけだろよ」
「わかんないんじゃない?」
「簡単だって」
 ジローが問題集を手にとると、地震の問題だった。初期微動継続時間から、震源地までの距離を求めなくてはならない。地震の伝わる速度と時間から、方程式を使えば答えにたどり着くだろう。ジローは、それだけ教えて、あとは問題集をモモに手渡した。実は、ジローにもそれを解くのは面倒だった。
 モモがあくびをする。眠くなってきたようだ。思考力は当然鈍る。ここで怒ったところで、逆効果だろう。今夜中には答えにはたどり着きそうにない。
 モモが、問題の難しさと眠さとたたかっている間に、ジローはブログを更新し終えた。そして、新書を開いた。『複雑系とは何か』、ジローも多少理科の勉強をしようと、毎日少しずつ読んでいる本だ。
 モモの目が充血している。
「モモ、起きろ」
「起きてるって」
「じゃ考えろって」
「眠いんだって」
 ジローは、モモに説教を始める。実社会では、答えのない問題のほうが多い。大人が取り組んでいるのは、常に答えのない問題だ。中学生の勉強など、どんな問題にもすべて答えが用意されていて、しかも先生に聞けば、教えてもらえる。
「つまり、そんな問題なんて、簡単すぎるくらい簡単なんだって。わかる?」
「わからない。難しいものは難しいもん」
 モモがふらふらと立ち上がった。
「ちょっとソファで寝るから、あとで起こして」
 モモはソファに横になった瞬間、熟睡してしまった。
 ジローはため息をつく。後で起こせと言ったモモを、後で起こすと、必ず不機嫌になる。また、起こさなければ起こさないで、なぜちゃんと起こさなかったのかと、この場合も不機嫌になる。どちらにせよ、お互い、不快な思いをするのだ。
 毎回のことながら。


 人間が他の人間をわかることはありえない。絶対に。
 もう何年も前に、スクールカウンセラーが、ジローの学校の教員向けの研修会で言った。
 わかったという幻想があるだけという。
 しかし、わからなくても、わかろうとし続ける。そこから、本当の対話が始まる。たとえわからなくても、決して諦めない。これが、愛だ、とも。
 ジローはそんな言葉をずっと覚えている。
 わからないところから、なにごとも始まるのだ。わかってしまったら、そこで終わりだ。
 そもそも、わかるとは、多面的なものごとの一面だけ見て、自分の都合のいいように解釈して、安心しているだけ、なんてことが非常に多い。
 ジローはそんなことを思いつつ、一人、理科の勉強を続ける。理科系の本は、人生の早い段階で数学を捨てた超文系のジローにとって、わからないことだらけだ。わかっても、わからなくても、前へ、前へ、とりあえずページをめくる。
 現代人は、ものごとの背景には、不変の法則があると考えている。その法則をつきとめれば、ものごとはすべてわかり、ものごとの動きも予想できるはずだ、と。ところが、ものごとは、そう単純ではなく、容易には理解できないし、予想通りにも動かないし、法則も見つかりそうで見つからない。AとBを合わせればCになる。理論的には、そうなるはずだ。しかし、世界には、AとB以外に無数の他の要素があり、いつもCになるとはかぎらない。複雑なのだ。
 現実では、法則があって、ものごとが動くのではない。ものごとが動いて、法則が生まれるのだ。そして、その新しい法則の下で、ものごとが動き、また新たな法則が生まれていく。これが繰り返される。だから、法則はつかまえたと思っても、そのうち姿を消してしまう。
 ジローは、覚えたばかりの知識をモモと共有しようと、モモを起こそうとした。しかし、何度体を揺すっても、何度声をかけても、モモは目を覚まさない。
 しかたなく、ジローは麦茶を飲もうと、冷蔵庫を開けた。さまざまな食材の臭いが混ざった、ぬるい空気が鼻を突いた。
 麦茶は、ぬるかった。冷凍庫を開けると、まだ冷気は残っていたが、氷は溶けかかっていた。温度調節のダイヤルを回してみたり、コンセントを抜き差ししてみたりして、しばらく待ったが、冷蔵庫は正常に動き出さないようだ。
「モモ、大変だ、大変だ」
 ようやく目を覚ましたモモに事情を説明する。
「パパ、どうすんの?」
「わからない」
「冷たい麦茶もう飲めないの?」
「わからないって」
 モモは事態の重要さに、ようやく目が覚めたようだった。
「パパ、わからないしか言えないの?」
 ジローは、思わずもう一度「わからない」と言いそうになった。
 それからは冷蔵庫のことばかり気にかかり、長い長い夜を過ごすことになる。

10

 翌朝、朝はいつもギリギリまで寝ているジローだが、これまで目覚めたことのないような早い時間に目が覚め、すぐに冷蔵庫の前に行く。寝ている間に、自然治癒していることを祈りつつ、冷蔵庫のドアを開けた。昨夜と同じ臭いが、さらにぬるくなっている。冷凍庫の中のものは、すべて液状になっていた。
 ジローが久しぶりに味わった絶望感だった。
 こんな日に限って、ジローには仕事があった。午前中がプールでの水泳部の練習、午後が赤点をとった生徒たちの補習だ。
 牛乳と卵と野菜とベーコンは腐っていなかったので、簡単な朝食をつくり、モモを起こす。
「冷蔵庫、なおったの?」
「こわれたまま。腐ってないもので朝ごはんはつくったから安心しろ」
「中のもの腐るの?」
「今日もきっと三十度は軽く超えるから、まちがいなく腐る」
 モモのナイフとフォークの動きが鈍った。
「だから、それは腐ってないから、安心して食え」
 出勤前に、ジローは町の電気屋に電話して、昼休みにうちまで来てくれるよう頼んだ。
 そして、モモが中学へ卓球部の練習に出かけ、ジローも水泳部の練習に出かけた。
 その日、ジローは、身は職場に置きつつも、心はそこにあらず、頭の中には冷蔵庫のことしかなかった。
 プールサイドで、ストップウォッチを握り、選手たちの泳ぎのタイムを測りながらも、考えることは冷蔵庫のことばかり。
「うちの冷蔵庫壊れちゃったみたいでさあ」
 と、選手たちがスタートすると、その間に隣でストップウォッチを握る女子マネジャーに愚痴をこぼす。
「それは大変だね」
「ほんと大変なんだって。わかる?」
 ジローは、この悩みを、誰かに話して、無性に共感してもらいたくなる気持ちを抑えられない。
「うん」
「うちに帰って、冷たい麦茶飲もうとしても、ぬるいわけ」
「それは困る」
「そう、困るなんてもんじゃない」
「うん」
 女子マネジャーにしてみれば、練習の合間に、まったく水泳と関係のない冷蔵庫の愚痴を聞かされるほうが困るだろう。
 彼女は、適当に相づちをうちながらも、選手たちの泳ぎから目を離さない。
 さすがに、ジローも、おやじギャグを若い女子社員に強要する上司のような振る舞いをしている自分に気づき、選手たちのタイムをとり、激励の言葉をかけることに専念しようとした。
 目の前の仕事に没頭して、冷蔵庫のことを忘れようとするのだが、やはり無理だった。
 練習が終わると、すぐに駐車場に走り、軽自動車を飛ばした。うちに帰ると、モモがすでに帰ってきていて、扇風機の前に座ったまま、空腹を訴えた。

11

 冷蔵庫の野菜室を開けると、野菜はまだ大丈夫そうだった。トマトをとりだし、さっと洗った。完熟の赤が鮮やかだ。
 湯を沸かし、パスタをゆでる。その間に、ニンニクを細かく刻み、ボウルに入れる。オリーブオイルを垂らし、岩塩と四色ペッパーをミルで砕いてかけ、ワインビネガーと蜂蜜を加える。甘さ、辛さ、酸っぱさ、しょっぱさ、そしてコク、それらをシュフの勘で配合すると、とろけるようなうまみが出る。ボウルの中で、さいの目に切ったトマトとあえる。
 パスタがゆで上がったら、ざるにあげ、冷水にとって、パスタをしめ、先ほどのボウルに入れ、トマトとあえる。皿に盛りつけ、いったん、ベランダに出て、バジルを摘む。指でちぎって、トッピングして、冷製トマトパスタができあがった。
「モモ、できたぞ」
「くさってない?」
「安心しろ。トマトは完熟だったし、乾麺が腐るわけないだろ」
 二人とも、昼のバラエティー番組を見ながら、パスタを音を立てないように慎重に食べる。いつかしゃれたイタリアンレストランで食べるときに恥をかかないようにと、ふだんから練習しているのだ。ちょっと気を抜けば、ジローもそばのようにすすってしまう。
 パスタを食べ終わると、電気屋と約束の時間になった。量販店ではなく、町の電気屋がやってきた。ジローは、これまで、エアコンの取り付けや、洗濯機の設置や、テレビの調整など、何かとずいぶん世話になっている。
 電気屋がいうには、修理するなら持っていくが、直るかどうかはわからない、と。
「何年使ってるんです?」
 ジローは、モモが生まれる直前、新婚の頃、同じような真夏に、大学生時代に使っていた小さめの冷蔵庫が壊れ、新妻の要望でこの大きな冷蔵庫を買ったことを思い出した。
「もう十五年くらいですね」
 とジローは感慨にふける。
「そりゃ十分もとはとりましたね。天寿を全うされたみたいですよ」
 電気屋が感心してそう言うと、ジローには一つの歴史の終わりに思えた。この十五年、たしかにいろいろあった。
 ジローは、家電は何でも修理して限界まで使う主義だ。この冷蔵庫もできるものなら修理して使いたいが、仮に修理に出したら、その間冷蔵庫のない生活が待っていることを、一瞬、想像してみた。それは、日々キッチンに立つシュフにとっては、とんでもないことだと思った。
「カタログ持ってますか?」
 電気屋は、いったん車に戻り、カタログを持ってきた。即決だった。夕方には新しい冷蔵庫が来ることになった。
「どんなの、どんなの?」
 モモがやってきた。カタログを見て、製氷機がついていて、自動的に氷がつくられることを知って、興奮していた。この十五年の間に、家電界において、人類はそこまで進歩したのだ。ジローも多少興奮してきた。

12
 午後の補習の間も、ジローの頭の中にあるのは、新しい冷蔵庫に対する期待と、古い冷蔵庫の中にある食材に対する不安の二つだけだった。
 ジローは、一学期の成績で赤点をとった六人の生徒たちの指導を担当していた。三百人ちかくいる中のたった六人の選ばれし者たち、なかなかのメンバーである。ジローは、高校英語を教えることは諦め、中学英語の基礎からもう一度教えていた。ずいぶんと簡単なことを教えているつもりなのだが、その生徒たちが相手だと、それも難しいことだった。まず、選ばれし者たちは、基本的にひとの話を聞かないからだ。そもそもひとの話を聞く習慣さえあれば、赤点など取らない。
「だから、ひとの話を聞けって」
 もうジローは何度も口にしている。
 ただでさえ話を聞かない選ばれし者たち、英語となると、完全に耳を閉ざしてしまう。そこで、ジローは適当に雑談を交えて、生徒たちの注意をこちらに向けさせなくてはならない。
「人類、最大の発明、なんだか知ってるか?」
 ジローが問いかける。この手の生徒たちは、クイズにはよく食いつく。
「ケイタイ」、と坊主頭の野球部の生徒が答える。
「ま、それもすごいけど、まだある」
「パソコン」、バレー部の女子が言う。
「それも、すごいけど、他に?」
 テレビ、自動車、飛行機、次々とあがる。原発などという生徒もいる。
「まだ、すごいの忘れてる? それは……」
 ここで、間を置く。
「冷蔵庫だ」
 ジローは、生徒たちに、冷蔵庫のない暮らしを想像させた。冷たいものが飲めない。アイスもない。食べ物は腐り、保存できない。
 生徒たちが悲鳴を上げる。
「わかるか? 冷蔵庫の偉大さが」
 うなずく生徒たち。
「で、昨日、うちの冷蔵庫が壊れた」
 また、悲鳴。続いて、爆笑。
「いつもそこにあって当たり前のものが、一日でもなくなると、どんなに大変か、わかるか?」
 と、生徒たちは、珍しく耳を傾けうなずいている。
「失って、初めて、その大切さがわかる。でももう遅い……、そんな具合にね」
 突然、最近ガールフレンドにフラれたというサッカー部男子が悲鳴に近い声をあげると、まわりが騒ぎ出した。
「今ないものを嘆くな。今あるものに改めて感謝することも大事だ。ま、君たちはうちに冷蔵庫があるだろ。それだけでも感謝しろ」
 そのサッカー部男子は、隣の野球部男子に、まだオレという友だちがいるじゃないか、と慰められる。
 ところが、バレー部女子が、逃がした魚は大きいなどといってからかう。
 ジローは、収拾がつかなくなる前にこの話題をようやく断ち切って、本題に戻った。

13
 生徒たちが追試験のために勉強していた教材は食べ物についての英文解釈だった。
「季節の食べものを、近くからとってきて食べる、それがスローフードってこと。わかる?」
 わかったのか、わからなかったのか、よくわからない返事が返ってくる。
「スローの反対語は?」
「クイック」
 と野球部員。
「惜しい。はやいは英語で?」
 ここで、ファーストと出てこないのが、選ばれし者たちだ。
 工場で作ったものを冷凍して、全国、いや世界中に運んで、一年中同じ味の料理を、バイトの学生あたりが簡単に調理して出すような食べものがファーストフード、これはスローフードの反対だと説明した。
「では、ファーストフードといえば?」
「先生、マックでしょ」
 この学校の近くにあるマクドナルドのハンバーガーは、一つ百円と安く、運動部の生徒たちの学校帰りの栄養源となっているようだ。
 選ばれし者たちは、どのハンバーガーがうまいかで、また盛り上がってしまった。
 なんとか、ジローは、脱線した生徒たちを本線に戻し、英文解釈を続けた。
 内容は、イタリアで発祥したスローフード運動のことだった。ローマにマクドナルドのイタリア第一号店がオープンしたとき、イタリア人たちは怒ったという。
「なんで、怒るの? マック食べれて、ラッキーじゃん」
「じゃ、子どもがマックばっかり食べて、イタリア料理食べなくなったら、イタリア人としては困るだろ」
 この町でも、日曜日の朝、マクドナルドの前の道が渋滞することがある。子どもに親がせがまれるのだろう。目的は、おまけ付きのハッピーセットだ。ハンバーガーを買うと、上映中のアメリカ映画のキャラクターのおもちゃがついてくる。早く行かないと、品切れになってしまう。映画のチケットもハンバーガーも両方売りまくるという作戦。よくできている。
「この町の子がこの町の名物、芋汁とかイノシシ鍋とか食べなくなったら困るだろ?」
 とジローが言うと、「両方食べればいいじゃん」とチキンナゲットが好物のバレー部女子。
「そこらへんから、旬のものをそのつどとってきて、食べれば、冷蔵庫もいらないなあ」
 と、ジローがつぶやくと、そんなのムリムリ、と失恋ホヤホヤの生徒に言われてしまった。
「そうだ、今、うちの食材が刻一刻と腐敗しつつある」
 生徒たちは大笑いする。教師の失敗談ほど、生徒たちを喜ばせるものはない。
「先生、補習なんてやってる場合じゃないよ。早く帰ってなんとかしなきゃ」
 坊主頭が気を利かせて言う。実は、彼は早くグラウンドに行きたいのだ。
 たしかに、補習どころではない。ジローは、冷蔵庫内の食材の腐敗の進み具合だけが気にかかる。そこで、宿題を多めに出して、補習は早めに切り上げた。

14

 新しい冷蔵庫は、古いものよりやや背が高く、銀色に輝いてそびえ立っている。電力消費量は減ったのに、容量はかなり増えた。ジローが腐った食材を、ずいぶん苦労して、処分したせいもあり、中はすきすきだ。冷蔵庫を開けると、鼻の奥までツンと届く冷気に包まれる。
「モモ、冷蔵庫があることを、当たり前と思うな」
「ありがたいねえ」
 夕食後、ジローは荘厳な佇まいの冷蔵庫の前に立ち、モモを隣に立たせた。
「手をあわせろ」
「はいはい」
 二人は、神々しい冷蔵庫に、手をあわせ拝んだ。
「これからもよろしくお願いします。冷蔵庫様。はい、続けて」
「これからお願いします、冷蔵庫さん」
「様」
「はいはい、冷蔵庫様」
 その時、ちょうど、ガラガラと音がした。早速、製氷機が動きはじめたのだ。冷凍庫を開けると、氷ができていた。
「神だ」、とモモが言った。
 たしかに、そうかもしれない、とジローも思ってしまった。
 さて、その神の値段は、十二万五千円だった。
 バカンスはあきらめたジローだったが、近場で海辺の民宿にでも二、三日滞在するプチバカンスぐらいは考えていた。しかし、この出費で、それさえも完全にあきらめることになった。
「よし、モモ、この夏は、ステイケーションだ」
「何それ?」
 ジローが最近覚えた言葉で、ステイとバケーションを組み合わせてできた造語だ。遠くへ出かけて、特別なことをするのではなく、うちでのんびりしたり、近場で楽しんだり、経済的に至福の時を過ごすという意味だ。
 旅とは、単なる移動ではなく、出会いと発見を求める行為である。ならば、ステイケーションは、どこにもいかない旅である。
 モモはできたての氷を一つ口に入れて味わいながら、ジローのその説明を聞いていた。
「ま、いいんじゃない」
 中学生ともなれば、多少、家計事情についても理解ができるようになったのだろう。
「だけど、誕生日プレゼントは買ってよね」
 八月の終わりにモモは生まれた。
「何がほしいんだ?」
「ベッド」
 そんなに高いものでもないだろう。ベッドがあれば、リビングにモモが布団を敷いて寝ることもなくなり、リビングはリビングらしくなるだろう。そこにヨガマットも敷ける。ベッド導入も悪くない、とジローは思った。
「じゃ、あまり高くないの買ってやる。ベッドの下に収納があって、部屋片づくぞ」
 それを聞いて気分が良くなったモモは、グラスを二つ用意して、氷をどっさり入れ、麦茶を注いだ。
「ま、パパ、かんぱーい」
 と、モモが言うので、ジローはグラスを合わせた。
 その夜、モモは暇さえあれば、冷蔵庫を開けて、その前に立って涼んでいたので、そのたびにジローは叱らなくてはならなかった。

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 ここはリゾート、今はバカンス。ジローは、この夏のテーマをそれに決めた。多少の妄想力を駆使すれば、在宅リゾ・バカ計画は実行可能だ。
 とりあえず、いつもより時間はあるのだから、少しはうちの中をきれいにすることに時間を割くことにした。やはり、汚くて散らかっていては、リゾートとは呼べない。
 まず、裸足で歩いても、ざらざらと感じない頻度で、床に掃除機をかけることにした。一日、三回うちで食べるということが増えるので、キッチンはどうせ汚れるとはいえ、シンクやコンロのまわりのステンレスがくすまない程度に、ファミリーレストランなどに行くたびに使わず持ち帰ってはため込んできたウェットティッシュのおしぼりで拭いた。これまでためたウェットティッシュは、このひと夏分くらいはある。
 夜、照明は、天井の蛍光灯ではなく、シェード付き電気スタンドにしてみた。夜は、当たり前のことだが、暗いのだ。わざわざ、部屋の隅々まで照らす必要はない。照明とは、そもそも、影をつくるためのものらしい。
 夜、うちの中に暗い部分が増え、多少散らかっていても目立たなくなり、居心地はよくなった。
 アロマポットにアロマオイルを垂らし、ろうそくをつけると、ふだん嗅ぐことのない匂いが漂い、ぐっと異国情緒が出てくる。網戸越しに、心地よくぬるい夜風が入ってくると、トロピカルな妄想が広がっていく。
 この夏、新しい冷蔵庫を導入後、氷は潤沢にあるので、ドリンクには、これでもかとたくさん氷を浮かべられる。
 モモは足を伸ばしてソファに横向きに座り、カルピスに氷をいくつも入れたグラスをゆらして、風鈴のような音を出した。
「パパ、なんかいいねえ」
「その音は、夏休みの音だなあ」
 涼風を送る扇風機がゆっくりと首を振り、その風を待つジローを心地よくじらす。ジローはリクライニングチェアに座り、足をオットマンにのせている。そして、モモのまねをして、麦茶の入ったグラスを揺らし、氷とグラスで涼しい音を出す。
「リゾバカだなあ」
「なにそれ?」
「だから、リゾートでバカンス気分だってことだって」
「リゾバカって、なんかいいねえ」
 なんかいいは、このうちではほめ言葉の最上級である。とにかく、いい。そこには理由はいらない。
 夜十時を過ぎた頃、モモの勉強が一段落つき、いよいよDVDナイトが始まる。ホームシアターセットは、以前、ジローが女性雑誌に定期的に書いていたときに稼いだ原稿料で買ったものだ。その連載を終えた時、自分へのご褒美として。
 基本的に、ジローは教師の仕事で生計を立て、予備収入である原稿料は使い切ってしまう。芸の肥やしとして、投資するのだ。教師としての収入から貯蓄しなかったことは後悔しているが、原稿料を使い切ったことに関しては、いっさい後悔はしていない。

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 ジローが、ホームシアターセットのスクリーンを垂らし、プロジェクターをセットしている間、モモはまた氷をたくさん入れたグラスを二つ用意した。またもや、ジローは麦茶、モモはカルピス。
「パパ、なんかお菓子ないの?」
 そういえば、ない。ジローは冷蔵庫の上でほこりをかぶった箱を見つけた。その中には、電動かき氷機アイスロボⅢが入っている。
「ちょっと待ってろ」
「で、今日は何見るの?」
 最近、近所のビデオレンタルショップで、DVD一枚を百円で借りることができる。実に安上がりなので、ジローはDVDをレンタルし、返しに行くときまた三枚借りてくる。
 ジローたちが好きな映画は、二人が呼ぶところのジャパニーズゆるゆるムービーだ。特撮はなく、誰も死なず、濃厚なラブシーンもなく、登場人物が少なく、大したストーリーではないが、景色がよくて、食べ物がおいしそうな映画。モモも小学生の頃からその手の映画をさんざん見させられ、同じ好みを植えつけられている。
「今日のはオキナワン・ムービー。もちろん、ジャパゆるだぜ」
「いいねえ」、とモモはジローとハイタッチする。
 モモがソファに座り、カルピスを一口飲むと、予告編が始まった。
 やはり、映画の画面は大きい方がいい。そして、映画は暗いところで見るのがいい。部屋が暗ければ、画面だけが視界に入り、日常の細々としたモノも見なくてすみ、異空間に感情移入しやすく、自然、集中力も高まる。
 予告の間に、ジローはアイスロボⅢに氷を入れ、スイッチを入れた。ガラスの皿にかき氷を盛りつけた。シロップは、冷蔵庫の中に何年か眠っていた練乳のチューブを見つけた。賞味期限は当然切れていたが、味見すると大丈夫だったので、それをたっぷりとかけた。
 レンタルDVDの予告は、けっこう長いので、本編が始まる前に、ミルクかき氷ができあがった。
 モモとジローは、サクサクとスプーンをかき氷に突き立て、ここちよい扇風機の微風にあたりながら、至福のDVDタイムが始まった。
 翌日は休日で、予定といえば、モモもジローも朝からまったく予定がないという予定だ。何が起こるかわからない、おそらく何も起こらない一日。
 働き者の日本人は、何かし続けることは大得意だ。しかし、何もしないということが、大の苦手らしい。
 せっかくの休日に、どこかに出かけても、のんびりすることができず、すべての観光スポットを早足でまわり、ぎっしりとスケジュールを埋め、混んだ電車に乗ったり、渋滞の中運転したり、仕事以上に疲れて帰ってくる。
 これでは、疲れるための休日になってしまう。
 何もしないでいられるとは、一種の才能なのかもしれない。
 今宵は、二本立てでも大丈夫だろう。

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 もうこれ以上眠れないほど眠った朝の心地よい目覚め、ジローはベッドの枕元にあるアラームを切った携帯電話で時間を見る。もう十時だ。昨夜は遅くまでDVDを見ていたので、リビングに布団を敷いて寝ているモモはまだ起きてこないだろう。
 今日は八月最初の日曜日で、水泳部の練習もない。
 ジローは、ベッドを出ると、床にヨガマットを広げた。リゾートの朝は、ヨガで始まる。ヨガマットの上に、脱力して立ち、大きく息を吸って、長く息を吐く。一連のポーズをとり、自分の体に向かいあい、無心を目指す。今、自分が無心を目指しているのだという意識さえ忘れるほどの無心を。そして、そんなことは無理だと悟り、邪念と煩悩から逃れられないまま、ヨガを終える。腹が減ってきた。
 ジローはリビングに行き、モモに声をかけるが、まだ寝ていると言うので、シャワーを浴びることにした。
 そして、朝には遅く、昼には早い食事、ブランチの用意を始めた。ベランダに出て、バジルを摘む。この夏は豊作で、虫もついていない。
 小さなすり鉢に、バジルの他に、ニンニク、パルメザンチーズ、塩を入れ、オリーブオイルをたっぷりたらし、小さなすりこ木を当てて、ペーストをつくる。キッチンに続くリビングでまだ眠るモモに声をかけると、もうすぐ起きると答えた。
 パスタをゆで始める。ペースト作りはなかなかの労力を使う。ちょくちょく手を休めながら、窓際に置いたポケットラジオを聞いている。天気予報では、今日も暑くなるらしい。交通情報によると、行楽地に向かう道路では、すでに渋滞が始まっているようだ。今日も出かけることはないジローは、少し優越感に浸る。
 ラジオからは、引き続き、行楽地にいるリポーターからの元気な声が届く。
 八月の日曜日、海も山も、なかなかのにぎやかさのようだ。
 渋滞の中ハンドルを握るお父さん、海で真っ赤に日焼けして砂山をつくっているお父さん、ジローは、心の中で、暑中お見舞いを申しあげた。
 シュフにとっては、テレビより、ラジオのほうが好ましい。それは、目を奪われないからだ。キッチンに立っているとき、手を休めることなく、耳を傾けることができる。テレビだと、目を奪われるたびに、いちいち手を休め、振り向かなくてはならない。これでは、効率が悪い。家事も仕事も、効率は最優先させなくてはならない。余暇を最大限確保し、こちらは非効率的に過ごすために。
 さらにいうと、ジローは携帯音楽プレーヤーよりもラジオのほうが好きだ。ジローも大容量のものを持っている。その中には二千曲近く入っている。それでも、ラジオのモノラルスピーカーから流れる、音質の悪い音楽のほうがいいのだ。それは、次にどんな曲が流れるか、予測がつかないからである。
 ジローは行き先が決まっている旅行より、行く当てもない旅を選ぶ。

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「パパ、おなか空いた」
「先に、おはよう、だろ」
 ようやくモモが目を覚ました。そして、すぐテレビをつけた。これで大人の至福のラジオ時間も終わりとなった。あと二分でパスタがゆであがる頃、ジローは、スティック状に切った皮付きのジャガイモを投入した。
「もうすぐできるぞ」
「何が?」
「緑のパスタ」
「朝からパスタ?」
「もう昼だぞ」
 モモは冷蔵庫から麦茶を出して、自分でコップに注いで飲み始めた。
「パパ、幸せだねえ」
 ジローは一瞬何のことかわからなかったが、すぐに冷蔵庫のことだとわかった。モモは、コップに氷を入れ、カランカランと鳴らしている。冷蔵庫がある生活、しかも製氷機付きの冷蔵庫がある生活、これほどの幸せ、そうざらにはない。
「おい、いい加減に、冷蔵庫のドア占めろ。ありがたいのはわかったから」
 ジローがちょっと油断すると、モモは冷蔵庫のドアを開けて涼み始める。
「おい、麦茶、パパにもくれ」
 モモがグラスに注いだ麦茶を、ジローは立ったまま飲み干し、やがて冷蔵庫が生活の一部になっても、この感謝の気持ちだけは忘れないようにしようと心に誓った。
 パスタ鍋の中のざるを持ち上げ、ゆで上がったパスタとジャガイモの湯を切り、ボウルに入れ、バジルペーストと混ぜる。これで、緑のパスタができあがりだ。
「パパ、赤いのは?」
「白いのもいっちゃう?」
「いいねえ」
 ジローは立ったまま、また残った湯でパスタをゆでながら、バジルジェノベーゼを食べ、いつものトマトのパスタ、続けてシンプルな白いパスタも作った。ニンニクスライスをオリーブオイルで炒め、パスタとあえ、塩で味付けをしただけのもの。大人の味にするなら、たかの爪も入れるが、モモは辛いものが苦手なので省略した。たかの爪はなくてもけっこういける。
 緑のパスタ、赤のパスタ、白のパスタ、三枚皿が並んだ。
「これで、マルガリータだ」
「何それ?」
「赤白緑の三色のピザ、マルガリータと、色が同じってこと」
「じゃあ、昼ご飯は、ピザにしよう」
 と、モモが提案した。
 もう昼近いので、昼というより、おやつにということなるが、ジローは同意した。
 ジローにとって、食後のコーヒーは重要だ。夏でもホットコーヒーだ。豆を手動ミルでひき、細口ケトル使い、ペーパードリップでいれる。
「モモ、コーヒー飲むか? 牛乳と砂糖たっぷりのカフェオレにしてさ」
「麦茶でいい」
「氷入れすぎで、ゲリになるぞ」
 そんなジローがうちでいれるコーヒーの味は、いつもいまいちだ。何かが足りないか、何かが多すぎるのだろう。さほどまずくはないのだが、喫茶店のコーヒーの味からはほど遠い。

19
 ジローはホームベーカリーで、ピザ生地を仕込んだ。強力粉、塩、砂糖、サラダ油、水、ドライイーストを入れ、ボタンを押せば、四十五分で、生地ができあがる。
 これで三枚分できるので、実家にも持っていくことにした。ピザは、実家の面々の好物でもある。
 ホームベーカリーがせっせと働く音を聞きながら、いまいちなコーヒーを味わっていると、ジローの妄想が始まった。イタリアはどんなところなのだろう。イタリア人は、パスタとピザばかり食べているのだろうか。世界一の美男美女がいるというのは、本当なのだろうか。
 スローフード発祥の土地、イタリアは、ジローの憧れの国だ。
 かつて、ローマにイタリア初のマクドナルドがオープンしたとき、誇り高きイタリア人が立ち上がった。世界中一年中同じ味のハンバーガーを武器に、イタリアに上陸してきたアメリカンファーストフード帝国を相手にして。ファーストフード、速い食べ物に対抗して、スローフード、遅い食べ物。地元の旬の食材を、手作りでじっくり料理して、気の合う仲間とワインを飲みながら、三時間くらいかけてゆっくり味わうという戦術で、超大国にガチンコ勝負を挑んだのだ。かたつむりのシンボルマークの旗を掲げて。
 その第三次世界大戦ともいえるたたかいに、ジローはこの日本から参戦しているつもりだ。
 マクドナルドには、モモが小学校二年の時から、一度も連れていったことはない。モモといっしょに「スーパーサイズ・ミー」という映画を見て以来のことだ。その映画監督自ら、一カ月間、マクドナルドのものばかり食べるという人体実験のドキュメンタリー。途中、命に関わるとドクターストップがかかっても、監督はマクドナルドの商品を食べ続ける。飲み物もマクドナルドの商品のみ。Lサイズよりはるかに大きなスーパーサイズを勧められたら、断らないとルールを自らに課してまで。
 マクドナルドは子どもを引きつけるのが得意だ。遊具を設置している店舗もあれば、人気キャラクターのおもちゃつきのハッピーセットもある。
 マクドナルドの高脂肪で糖分過多な商品の誘惑に子どもは勝てないだろう。そして、親まで連れてくるリピーターになる。
 実際、モモも、ディズニー映画のキャラクターのおまけが欲しくてたまらないことがあって、ジローにせがんだことがある。ジローは、もちろん、無視。それで、モモは、ジローに隠れ、母親に連れていってもらった。
 後で、モモが持っていたおもちゃに、Mという字が刻印されているのをジローは見たが、たまに母親と会うときくらいは、許そう、とそのときは黙っていた。
 ピザ生地の発酵を待つジローのまぶたが、いつしか重くなってきた。ソファに移動して、横になり、目をつぶる。モモはとっくに眠っていた。
 シエスタは、もう日課に近いものになっている。

弟2章「兄ちゃん」

20
 モモとジローが、車で小一時間の実家に着いた頃は、すでにもう暗くなっていた。
「ただいま」と二人が大きな声で言いながら、うちの中に入っていく。
 ジローの父、トモカズが台所で背中を丸めて料理をしている。すし職人であるトモカズは、店を閉じてしまったので、このごろはその腕を日々家族のために振るうようになった。
「おなかはどうだ?」、と振り向いて、モモに話しかけた。
「パパがつくったピザ食べてきたけど、ちょっとなら食べられる」
「ピザなんかつくれるのか?」
「おじいちゃんたちのも持ってきたよ」
「じゃ、いただくかなあ」
「ごはん前なのにいいの?」
 トモカズはそんなことは気にせず、皿にかかったラップをはがして、冷たいピザを一切れ食べた。
「うまいなあ。モモも食うか?」
「うちで食べすぎて、気持ち悪いからいらない」
 トモカズとモモがそんなやりとりをしていると、ジローは居間に行く。銀髪の祖母のきほが洗濯物を畳んでいる。昨年は、二回入院したり、転んで腰を打ったりして、一時は寝たきりになったのだが、もうこの頃ではそんなことがあったとは信じられないほど、健康面では好調が続いている。
「おばあちゃん、ただいま。で、調子はどう?」
「おかえり。どっこも悪くないよ」
 きほは、昼間は庭の草取りをした、と自慢する。
「暑くなかった?」
「涼しくなってから、てぬぐいを頭にかぶってやったから、平気だったよ」
 きほは、もう絶好調のようだ。
 兄のイチローは、居間の真ん中で、おまるに座っている。
 イチローは重度の障害者である。言葉は発することはできず、手は利き手のほうしか使えず、一人で歩くことも、一人で食事することも、一人で排せつすることもできない。
「兄ちゃん、またおしっこばっかりしてるの?」
 イチローは笑顔だ。おしっこは、すでにイチローの存在を世に知らしめるための表現活動の一つになったかのようだ。尿意を訴えれば、家族の誰かがやってきて、手助けをする。イチローは一人でないことを確認することができる。
 テレビでは、NHKのニュースが流れている。この居間でのチャンネル決定権はイチローが握っている。イチローは、どういうわけか、幼少の頃からNHKが好きだ。わかっても、わからなくても、NHKがついていれば安心するらしい。ニュースキャスターが、末期的な内閣支持率の低さについて語っている。この八月の終わりに、衆議院選挙を控えるにもかかわらず、与党は迷走を続けているようだ。
 やがて、おしっこが出る音がする。
「やっと出たねえ」
 イチローは満面の笑みを浮かべる。尿意がなくても、尿意を訴えることもあるイチローは、狼少年のようだ。

21
 イチローがオマルを使うようになったのは、五、六年前からだ。そのころから一人で立って歩けなくなった。重度の障害者は、老化が非常に早いのだ。オマルは、居間の中心にあるのだが、もう誰も気にしなくなっている。トモカズなどは、オマルのふたの上に、湯飲みを置き、ちゃぶ台がわりに使うほどだ。
 ジローが、イチローのパンツを履かせていると、ジローの母親のヨウ子が声をかける。
「悪いねえ」
「母ちゃんはいつもやってんだから、寝てて」
 居間の隅では、二つ折りにした座布団を枕に、ヨウ子が横になっている。根元から五㌢ほど伸びた白い髪と、その先の栗色に染めた髪のツートンカラーが目立つ。特に体のどこかが悪いというわけではないのだが、ヨウ子は家族以外のひとと会うことも、一人で外出することもなく、一日中寝てばかりいる。
 去年はほぼ寝たきりで、もう寿命かと思われたきほが復活すると、今度はヨウ子がかわりに寝てばかりいるようになった。つくづく、人生はプラスマイナスゼロである、とジローは思う。かつては常にプラスを求めていたジローである。プラスばかり求め、すべて失い、ゼロどころか、マイナスに陥ってしまうような経験も何度かした。不惑の年を迎えたジローは、プラマイゼロならよしとすることを、最近、ようやく覚えた。
 ヨウ子がこうなったのは、昨年の秋のことで、最初は軽い脳出血だった。ヨウ子は、安静のため入院を勧められたが、高齢のきほと障害者のイチローをかかえ入院はできないと帰ってきて、しかも翌日から店にも出た。
 それからは、思考も行動もスローになった。トモカズが気を遣い、午後二時から四時はヨウ子に昼寝をさせ、食事はトモカズの担当となった。
 日課のように晩酌をしていたヨウ子だが、何を食べても、おいしくないという。そのためか、ヨウ子の体重がそうとう落ち、標準の体型にはなった。これもプラマイゼロといえばそうだが、急激に痩せたためしわも増え、すっかり老けてしまった。
 その後、ヨウ子はまったく笑わなくなった。
「おーい、できたぞ」
 トモカズが招集をかける。おすそわけの野菜の天ぷらと冷ややっこがおかずだ。食費を抑えるため、実家での献立はかなり質素になっている。しかし、ほぼベジタリアン食で、健康にはよさそうだ。これもプラマイゼロだ。モモはトモカズを手伝い、皿を並べたり、盛りつけをしたりしている。
「ほんと、助かるねえ」
 ヨウ子がかろうじて聞き取れる小さな声でねぎらう。ヨウ子の張りのある声も、もう何カ月も失われている。
「モモ、うちでもそれっくらいやってみろよ」
 と、ジローが言うと、すぐにヨウ子にたしなめられた。モモは精いっぱいがんばっている、と。ジローは四十になっても、ヨウ子に子ども扱いされる。
 モモはヨウ子を味方につけ得意げに、ジローを指さして笑っている。

22
 ジローは、育児の大きなテーマに、自立を掲げてきた。
 かつて、家事は、すべて専業主婦だった妻に任せ、育児もほとんど妻に任せ、いつも妻に依存していたジローである。
 一方、専業主婦は、収入がないため、夫に経済的に依存せざるをえない。
 依存しあい、もたれあえば、結局、共倒れになってしまう。
 リコンは、自立への一歩だった。ジローは、家事的自立、妻は経済的自立を目指すための。
 家事と仕事は二本の足のようだ。家事ができて、仕事で稼げて、ようやく自分の二本の足で立てるのだ。
 ジローには、人という字は、二人が支え合うというより、もたれあう、しかも、大きなほうが小さなほうを押しつけているように見える。
 人間は、人と間と書く。人と人が、自分の足で立ち、そこには消えようのない間がある。人は、母親から切り離されて生まれた瞬間から、一人だ。人は、人との間を愛で満たすために生きている。もたれあったら、その間にある愛も壊れてしまう。ゆえに家族といえども、もたれあってはならない。自立したもの同士しか、支え合えないのだ。
 そのために、ジローが家訓に掲げたのが、家事分担である。
「パパは、召し使いじゃないぞ」とはジローの口癖。「モモだって、うちのことちゃんとやってるもん」とはモモの口癖。
 ここ数年、台所はジローで掃除はモモ、と、なんとなく家事分担の秩序ができあがりつつある。ジローは口にこそ出さないが、家事の戦力になりつつあるモモに少しは感謝している。
 うちでは決して見せることのないモモのがんばりで、実家での夕食の準備が整い、モモの音頭で、いただきますを言って、質素だが、健康にはよさそうな夕食をそれぞれ食べ始めた。
 イチローは、箸を使えないので、どんぶりにごはんをよそい、その上に天ぷらと豆腐をのせてもらい、スプーンを使って食べる。こぼしてもいいように、どんぶりの下にトレーが置かれている。
「おかずにピザも食うか?」
 とトモカズが言うと、ジローとモモ以外は、同意した。イチローも元気よくハイと答えた。
「和食にはあわないよ」とジローが言っても、誰も聞かない。
 耳が遠いトモカズと、耳の遠いきほが、かみ合わないとんちんかんな話を続けているうちに、食卓はにぎやかになる。ジローもモモもよく笑ったが、ヨウ子だけは笑ってはいない。ヨウ子のちゃわんには、三口くらいしかごはんが入ってない。
「お母さん、食べてよ」、とジローが声をかける。
「わかってるよ」
 まだ食べ物がおいしくないようだ。これは、実によくない。
「晩酌はもうやらないの?」
 ジローは、あまり酒は飲まないのだが、ヨウ子の晩酌につきあうつもりはあった。
「もう飲む気にはならないよ」
 食べるものも飲むものもおいしくないとは、ジローにとって、これ以上悲しいことはない。

23
 食事が終わると、きほは張りきって、六人分の食器を洗う。ヨウ子は、きほをねぎらい、また居間で寝っ転がる。
 ジローはあえて手伝わない。ここは、数少ないきほの活躍の場なのだ。きほの皿洗いが終わると、実家の面々がやや大げさに礼を言う。
 きほはまだ十分に感謝され、役に立っている。
 そして、ジローが言った。
「じゃ、そろそろやる?」
「今日はなにやるだいねえ?」
 きほは、女学校の頃からの映画ファンだ。
「洋画だよ」
 洋画のいいところは、字幕があるところだ。きほの耳がいくら遠くても、何を言っているかはわかる。
「楽しみだねえ。題は何ていうのだい?」
「冒険者たち、フランス映画、アラン・ドロンが出るよ」
「よさそうだねえ」
 ジローが数年前に買ったDVDで、ジローは何度も見ている。モモも二回はつきあわされて見たことがある。
 ジローとモモは、せっせと映画の準備をする。ジローがプロジェクターを準備している間、モモがスクリーンを設置する。うちからホームシアターセットは持ってきたのだ。二人は、ちょっとした出張映写技師だ。
 電気を消し、飲み物と菓子を用意して、いよいよホームシアターが始まる。ヨウ子は座布団を枕に横になり、きほとトモカズは座椅子に座った。モモは準備だけすると、キッチンへ行き、そこでテレビを見始めた。
 ジローとイチローは隣の座敷にいる。ふすまが開いているので、スクリーンが見える。ジローがイチローの世話を担当し、他の家族が映画に専念できるようにしたのだ。これも、映写技師の仕事の一つだ。
 悲しげなテーマ曲の口笛が流れる。モモはテレビを見ながら、それに合わせて、キッチンで口笛を吹いている。モモが見ているのは、お笑いタレントが、水の中に落ちたりするバラエティー番組だ。
 ジローは、結末を思い描き、すでにせつなくなってくる。暗闇に浮かび上がるスクリーンには、一昔前のフランスが映る。しだいに、ここにいながら、ここにいない気分になってくる。
 それにしても、映画の最中に、イチローが何度も尿意を訴えるのにはジローはまいった。せっかく映画の世界に入り込んでも、妄想がそのつど中断され、ジローは現実に引き戻された。
 それでも、スクリーンの中には、別世界がしっかりと存在して、見る者を引き込んでいく。これがテレビの小さな画面だったら、こうはならないだろう。
「これは、いい買い物をしたねえ」、とヨウ子が言う。
 大枚をはたいたかいがあった、とジローは思う。
 明日、モモもジローも特に予定はない。Nothing special is something special. 特に何もないことは、何か特別なこと。
 夜はまだたっぷりとある。
 今日も二本立てでもいいくらいだ。

24
 朝、ジローは布団で寝たままイヤホンでロハスなラジオ番組を聞いている。網戸越しに入ってくる朝の空気はひんやりとしている。タオルケットを首まで引き上げた。セミはもう元気よく鳴き出している。
 両隣に枕を並べる、きほとモモはよく眠っている。他の家族の面々もまだ起きそうもない。
 この実家のいいところの一つは、ラジオがよく入ることだ。ジローとモモが暮らすアパートは、鉄筋コンクリートの建物なので、うちの中まで電波が届かず、窓際にラジオを置くと、かろうじてローカルのAM放送が入るだけだが、ここならFM放送もよく聞こえる。
 小学生の頃も、ジローはラジオをよく聞いた。当時は、両親と兄と同じ部屋に寝ていて、いつまでも電気をつけておくことは許されず、寝付きの悪いジローは、毎晩、暗闇の中で孤独に耐えていた。そんなとき、ポケットラジオを手に入れた。とたんに、それが、夜の友となった。まわりが寝静まった頃、少年ジローは、布団の中に入ったまま、イヤホンをつけ、ラジオのスイッチを入れた。たいてい地元のラジオ局にチューニングを合わせていたのだが、時にハングル語や英語、何語かわからない言語の放送や、モスクワ放送局の日本語放送なども入ってきた。
 その小さなラジオ一つで、大嫌いだった暗闇が、まったく新しい空間となった。ケイタイもインターネットもない時代、少年ジローは、布団の中にいながら、世界とつながった。
 今、中年ジローは、FMラジオを聞きながら、あのころを思い出している。二千円もしないこの小さなラジオが、今もジローを、この田舎にいながらにして広い世界に連れ出していく。あのころの感動を思い出しつつ、ラジオに耳を傾けつつ、ジローはまた眠りに落ちていった。すると、夢とラジオが混じり合った、現実のような現実でない異空間に入っていく。ジローはこの感覚も好きだ。
 トモカズが台所に立ち、みそ汁をつくっている。もう昼近く、ブランチの時間だ。
 ジローはヨガマットの上で複雑なポーズをとり始め、体と宇宙と対話をさせているつもりでいる。モモはとうぶん起きる気配はない。
 きほは、今日も好調のようだ。外に出て、洗濯物を物干しざおにつるしている。
 イチローは早速、出るのか出ないのかわからないおしっこのために、オマルに座っている。そのそばで、ヨウ子が横になっている。イチローとヨウ子は、毎日、一日の大半はそう過ごしているのだろう。
「おい、できたぞ」
 トモカズの号令に、モモ以外の面々が食卓に集まってくる。
 ジローはトモカズのみそ汁が好きだ。具が多めで、ジローがつくるものより、味がどこかやさしい気がする。みそ汁とごはんと、余りもの、これが定番だ。トモカズがみそ汁をよそっている間、ジローが皿をならべ、きほがごはんよそう。
 イチローは、ヨウ子に連れられ、食卓にやってくる。
 モモ抜きで、ブランチだ。

25
 ジローがテレビをつけると、国会議員が派手に論争していた。一日の始まりにはふさわしくないと、チャンネルを変えた。将棋だ。あまり興味はないが、静かさを選んだ。
「あんた、将棋やるだかね?」
 きほがジローに聞いた。
「やらないこともないけど」
 きほは、子どものころの話をした。夏になると、夕方、うちの前に腰掛けを置き、そこで将棋をやった、と。
「将棋できたの?」
「できないもんで、はさみ将棋やっただよ」
「たまにはモモとやってみたら?」
「いいねえ」
「ボケ防止になるよ」
「そうだねえ」
 ジローのみそ汁のおわんには、卵が入っていた。ゆで卵のように固まっている。それを箸で崩し、ごはんを入れて混ぜると雑炊のようになる。いわゆる、ねこまんま、ジローの好物だ。
「行儀が悪いよ」
 と、ヨウ子が言う。ジローは、聞き流す。子どものころからずっと言われ続けてきたことだ。
「お母さんこそ、ちゃんと食べなきゃ」
「食べてるから、心配ないよ」
 とは言うが、ちゃわんの中には、鳥のエサほどのごはんしか入っていない。
「おい、ちゃんと食べんと、薬飲めんぞ」
 と、トモカズがヨウ子に言う。
「わかってるよ」
 ジローには何の薬なのかはわからない。イチローは、そんなやりとりをよそに、どんぶりに入ったごはんに、おかずをトッピングしたものを黙々とスプーンで食べている。
「今日は、兄ちゃんとおばあちゃんと、ここにいるよ」
 と、ジローがヨウ子に言う。
「助かるよ。じゃ、頼むでね」
 トモカズとヨウ子は、毎日、店に行く。店は二人の体の一部のようなものなのだろう。休業中でも、何かとやることはあるようだ。トモカズが、この先、再開するかわからない店をあれこれいじっている姿を、ジローは容易に想像することができる。トモカズは大工仕事が得意なのだ。
 トモカズがジローに言うには、店に行っても、ヨウ子は何をするわけでもなく、店の奥の部屋でずっと横になっているそうだ。トモカズの気配が感じられれば、ヨウ子は安心するようだ。トモカズは、トイレに行くときしか一人になれない、とこぼしていた。トモカズが近くにいる店は、ヨウ子にとって、一番心休まる場所らしい。そんなヨウ子が以前のように人前に出て、社交的に振る舞うことを、もうジローは想像できない。店を切り盛りし、トモカズをうまく操縦し、きほとイチローの面倒を見て、まさにこの家の中心にいたヨウ子が、本当に存在したのかも疑わしく思えてきた。
 ブランチがすむと、トモカズとヨウ子は店に行った。今日もいろいろと忙しくなる、とトモカズは言いながら、出て行った。ヨウ子は、寝間着のような格好で、髪の毛を多少逆立たせたまま、トモカズが運転する車に乗って出て行った。

26
 はやばやと再びシングルになったジローには、長年連れ添う夫婦関係など想像もできないのだが、この二人を見ていると、夫婦という絆も悪くないような気がしてくる。もちろん、ジローには再婚をする気などはさらさらないが。
 ジローが二人を見送り、うちの中に戻ると、きほが言った。「あの衆は、毎日、あっちで何やってるだかいねえ?」
 ジローにもよくわからない。何をするかより、誰とどこに身を置くかが問題なのだろう。少なくとも、ヨウ子は、店に行けば、よくなることはなくても、悪くなることはないようだ。現状維持だけでももうけもの、とジローは思っている。
「いろいろとあるみたいよ。それより、おばあちゃん、今日は晩ごはん、僕がつくるよ」
「そうかね。楽しみだやあ。手伝うでね」
「頼むよ」
 ジローは、モモを起こすのを忘れていたことを、そのときようやく思い出した。
 モモは、昼過ぎにブランチを食べ、テレビを見たり、夏休みの宿題をしたりしていたが、そのうち退屈したようだった。
 ジローは、きほに兄の面倒を頼み、何かあったらケイタイに電話するように言って、モモを車で連れ出した。
「よし、ちょっと出かけるぞ」
「どこ行くの?」
「ボウリング場」
「ボウリングするの?」
「ちがう。ピンポン、勝負だ」
 近くのボウリング場の隅に、三十分五百円の卓球台があるのだ。車を五分も走らせないうちに、二人はボウリング場についた。フロントで、ラケットとボールを借り、自販機でジュースを買い、早速、勝負を始めた。最後にプレイしたのは、一年ほど前、モモが中学生になり、卓球部に入ったばかりのころだ。その時は、どういうわけか、ジローがモモに勝ってしまい、モモをからかうと、モモはすねて、もう二度とやらない、と言った。
 しかし、今回は、さすがにモモも卓球部で一年過ごしていて、余裕の表情だ。
「じゃ、思いやり卓球からね」、とモモが言う。
「おうよ」
 思いやり卓球とは、相手の打ち返しやすいボールを打ち合うゲーム。点数より、ラリーを続けることに意義がある卓球だ。
 そして、ガチンコ卓球が始まった。ジローは完膚無きまでにたたきのめされた。
「もう、卓球、モモとやらない」
「負けるからでしょう?」
「そう」
「すぐすねる。根性ないなあ」
「なんとでも言え。もうやらないよ」
 二人は、卓球場をあとにして、自販機でアイスクリームを買い、わりと年配の方々が本気でボウリングをプレイしている姿に感銘を受けながら、立ったままアイスクリームをなめていた。
「パパ、このあと、どうする?」
 ジローは、実家で過ごすきほとイチローを思った。高齢者と障害者、あまり長い間、二人きりにしておくのは、心配だ。

27
 ジローはモモとボウリング場を出て、車に乗ると、言った。
「じゃ、文具でも見て、帰ろう。兄ちゃんとおばあちゃん待ってるから」
「いいねえ」
 二人は、文具好きだ。新製品をチェックするため、定期的に文具店に行く。
 百円くらいのペンをたった一本買うために、何度も試し書きをして、その書き味を論評しあい、ようやくレジに持っていく。
 新しい文具は、モモの勉強のやる気を起こさせるようだ。ジローが、文具店通いにモモをつきあわせるのは、たった数百円でモモの学習の動機づけになるからである。塾に行かせるよりよっぽど安上がりだ。
 ジローが何年も探し求めているものは、キャップ式ではなく、ノック式のインクの滑りがいいペンなのだが、いまだにピッタリと体の一部になるようなモノには巡りあってはいない。店頭で気に入って買ってみても、実際数週間使ってみると、たいてい不満が出てくるのだ。
 二人は、車の中で、最新ペン事情について、語り合いながら、文房具店に向かった。
 早く帰るつもりが、結局、長居してしまった。モモは蛍光ペンを一本、ジローに買ってもらい、もう一本ラメの凸ペンは自分の小遣いで買った。
「パパ、ありがと。帰ったらすぐ、これで勉強する」
「よし」
 ジローは今日も運命の出合いを果たすことができなかった。キャップ式なら滑りのいいのがあるのだが、ノック式になると、それが見つからない。文具は、日本のテクノロジーの中でも、もっとも進歩の速い分野の一つである。今後の各社のがんばりに期待することにした。
 いったん、実家に戻り、ジローはまた車で出かけていく。今度は、イチローと二人でだ。
 モモは、きほと二人で残り、さきほど買った文具の試し書きに宿題をやるとのこと。
 イチローは、一日に一回、必ず、遠足に行く。イチローの遠足とは、好物のコーヒーを近場の景色のいいところで飲むだけのことだ。いつもは、トモカズが連れて行く。たいてい、近くにある大池と呼ばれる貯水池のほとり、なかなかの眺めである。ジローもこれまで遠足には大池に行っていたのだが、最近は新たな場所を見つけ、そちらにばかり行くようになった。実家は、海からそう離れてはない。車で十五分も行けば、海岸に着くことができる。ジローが見つけた新しい場所は、発電用の風車が六基ほどまわる海辺の駐車場だ。車を降りなくても、海を見ることができる。
「兄ちゃん、今日も海いこう」
 と、ジローが声をかけると、イチローは笑顔になり、玄関までゆっくりと廊下を這っていく。イチローが一人で立って歩いていたのがいつか、ジローはもう思い出せなかった。
「おばあちゃん頼んだよ」
 ジローが玄関で叫ぶ。
「わかったよ」
 と、うちの奥からモモの声が返ってくる。

28
 車で海へ行く途中、ジローはコンビニに寄り、イチローのためにストロー付きの紙パックのカフェオレを買った。
 やがて、ゆっくりと回る風車が遠くに見えてきた。
「兄ちゃん、海、もうすぐだよ」
 と、ジローが助手席のイチローに声をかけると、イチローは機嫌がいいのか、指を鳴らした。
「あの風車で、電気作ってるんだよ。電気ってわかる?」
 イチローは、また指を鳴らして、うなずいた。
 海が見えてきた。ジローがエアコンを止め、窓を全開にすると、浜風が車の中を通り抜ける。ジローは海の匂いを嗅いだ。海岸沿いの駐車場に車を止めた。海は真正面だ。もう夕方近く、日差しもさほど強くない。浜風が眠気を誘うほど心地よい。
 ジローはストローをパックに差し、イチローに飲ませた。
 その時、駐車場に軽トラックが止まり、白髪の坊主頭の老人が車から出てきて、海岸まで下りていった。
「あのおじいさん、何するのかねえ?」
 イチローは、もちろん無言で、一瞬だけにっこりとして、ストローを吸い続ける。興味はなさそうだ。
 目の前の海岸の右前方はテトラポットが海の浅瀬に沈められている。テトラポットの手前は入り江になっていて、そこだけ波がおだやかだった。老人は、その波打ち際近くの砂浜に腰を下ろして、海をぼんやり眺めていた。
「兄ちゃん、ちょっとあのおじいさん見て」
 イチローは少し顔を上げ、一度うなずくと、またストローに集中した。
 老人は、手提げ袋を持っていて、そこからおにぎりを出して食べ始めた。
「あのおじいさんも遠足に来たのかなあ。兄ちゃんと同じだ」
 イチローはほぼ無反応。
 そして、老人は、突然Tシャツを脱ぎ、上半身裸になり、短パン一丁で海に入った。そして、波の静かな入り江を平泳ぎで、顔を水上に出したまま、亀のように、ひょうひょうと泳ぎだした。
「兄ちゃん、大変、おじいさん大丈夫かなあ」
 多少泳ぎは得意なジローは、何かあったらすぐに助けに行かねばならないと思うと、少し緊張してきた。老人は数分泳ぐと満足したのか、海から上がり、また砂浜に腰を下ろし、二個目のおにぎりを食べ始めた。
「あのおじいさんも、海見るの好きなんだねえ。ところで、兄ちゃん、海好きなの?」
 イチローは指を鳴らした。イチローがカフェオレを飲み終わっても、ジローはイチローの隣で、老人につられ、たそがれた気分に浸っていた。イチローは大して海を見るわけでもなく、おとなしく助手席に座っていた。
 この海岸の近くにファーマーズマーケットがある。地場野菜を帰りに買って、晩ごはんのおかずにしよう、とジローは考えながらも、時間はすっかり忘れ、ひたすらたそがれていた。

29
 ジローとイチローが、ナスとピーマンを買ってうちに戻ると、ヨウ子とトモカズも店から戻り、実家の面々が勢ぞろいしていた。
 モモは、扇風機の微風に吹かれ、座敷に横になり、腹にバスタオルをかけて、眠っていた。
 朝はゆっくり寝たにもかかわらずの昼寝。モモは本当によく眠る。それで、夜、理科の勉強を始めようものなら、また眠くなるだろう。
 きほは、今日も絶好調だったようだ。
「ジロー、庭のあそこんとこが、きれいになっただよ」
 きほが、自慢げに、南向きの窓から、玄関の脇のあたりを指さした。ジローたちが遠足に行っている間に、草がなくなり、すっきりとしていた。
「暑くなかったの?」
「涼しくなってからやっただよ」
「どれっくらい?」
「時計見てないで、わからんだよ」
 十分やそこらの短い時間ではとても終わる作業には見えなかった。熱中病には十分気をつけるようにと、ジローはきほに言った。
 トモカズは、炊飯器のスイッチを入れたところで、今日は台所をジローに譲り、居間でイヤホンをつけて、テレビのニュースを見始めた。トモカズの脇には、あいかわらずヨウ子が横になり、あいかわらずイチローがオマルに座っている。
 きほも、くたびれたと言って、モモの隣で、座布団を二つに折って枕がわりにして横になった。
 ジローはナスとピーマンを切って、大きめの深い鍋で炒め始めた。黒光りするこの鉄鍋は、取っ手はとっくの昔にとれてしまい、表面がでこぼこしているが、きほが嫁入りした頃には、いろりにかかっていたという。少なくとも六十年は使っている歴史ある鍋だ。ナスがしんなりしてきたら、酒、みりんを入れ、少し煮込んだ。砂糖を足し、最後にみそを溶いて、ナスとピーマンのみそ炒めできあがった。このうちでは、伝統的に作られている夏の定番だ。
 これだけでは物足りないので、ジローは冷蔵庫をのぞいた。桜エビとキャベツを見つけたので、炒めて、酒、塩こしょう、しょうゆで味付けして、皿に盛りつけた。
 ちょうどその時、玄関で誰かの声が聞こえた。隣に住む老夫婦の畑でとれたブロッコリーが届いたのだ。二人は、じいじ、ばあば、と呼ばれている。
  ジローが玄関で、ばあばを出迎えると、「もらってくれるかいやあ?」、とばあばが言う。
「じいじの畑でとれたの?」
「さっきとってきただよう」
 新鮮な野菜、おまけにタダ、こんなにうれしいことはない。ジローは丁重にお礼を言った。
 早速、そのブロッコリーを蒸して、おかずはそろった。
 白米は一合だけ、小さな鋳鉄の鍋で別に炊いておいた。実家のごはんは、ジローとモモにとってはやわらかすぎるのだ。米の硬さに関しては、ジローもモモも妥協することはない。

30
 ジローが声をかけると、全員が食卓に集まってきた。地元の新鮮な野菜のおかず。安上がりだが、家族そろって味わえば、おいしいスローフードになる。
 舌も体も喜び、魂にまで効くソウルフード、これをジローは目指している。
「ナスとピーマンも食えよ」
 どちらも、モモの苦手である。
「モモちゃん、何でも食べてえらいねえ」
 と、きほが声をかけると、モモはきほには笑顔を見せ、一瞬ジローをにらんでから、一口だけナスとピーマンを食べた。
「おい、うまいか」
「食べられる」
「なんだ、その言い方。母ちゃんも食べてよ」
「食べてるよ」
 ヨウ子も、ほんの一口だけ箸をつけた。
「おいしいよ」と、いちおう、ヨウ子はジローをねぎらうが、箸は今日も進まない。
 夕食後、ジローはイチローと風呂に入った。イチローの髪を二回洗い、イチローの体も、自分の体のように隅々までゴシゴシこすった。
 風呂から出れば、そろそろジローとモモは帰る時間だ。ジローはサザエさんのエンディングの歌を聞くときのようなもの悲しい気分に浸る。
「じゃまた来るよ」、とジロー。
 きほがはりきって、玄関まで、二人を見送りに出てくる。
「また来るよ、待っててね」
 と、モモが助手席の窓から顔を出して手を振る。
 日曜日の終わりのしんみりした気分に浸りながらハンドルを握るジローに、モモが今日はいかにきほが元気だったかを報告した。
「ずっと、草とりしてたよ。手拭い、頭に巻いて」
「それはすごい」
 きほが昨年はほとんど寝込んでいたこと思うと、それは信じられないことだ。あの頃は、このままもう起きてくることはない、とジローは思っていた。
 入退院を繰り返し、きほがうちで寝込んでいた頃、ヨウ子は「ろうそくのろうがほとんどなくなって、短くなった芯がぱたんと倒れたら、それで消えてしまいそうなほどの小さな火みたい」ときほの命を形容した。トモカズは「最終コーナーを回った」と言っていた。
 それが、この前の冬のことだ。春になり、暖かくなってくると、きほは朝目が覚めてから、寝間着から普段着に着替え、布団を畳むようになった。最初は、一日そんな日があると、次の日は寝込んだが、それを繰り返しているうちに、起きている日のほうが寝込んでいる日より増え、このごろでは寝込んでいる日がなくなった。
 きほは、ここ数年、自分の年齢がわからなくなってしまったようだ。
「私ぁ何歳になるだいやあ」
 きほが時につぶやく。
「もう九十だよ」
 と、ジローが教える。
「そんなになるわけないよ」
 きほは、ややきつめに言う。
「八十八くらいじゃない」
「そこらだねえ」
 きほは年をとるのをやめたのだ。

31
 世間では、百年に一度の不況などという言葉が頻繁に使われ始めた。正月には、職と住居を失ったひとたちが駆け込んだ年越し派遣村の様子が連日テレビで放映されていた。
 もともと、商売上手ではないヨウ子とトモカズである。重度の障害者のイチローと九十歳のきほの面倒を見ながらの営業は、効率のいいものではないだろう。配慮が行き届かないこともあるだろう。加えて、この不況、影響が出ないわけがなかった。
 葉桜の頃のある土曜日、トモカズとヨウ子はついに店を閉めた。もうこれ以上営業を続けたら、赤字が増えるだけというところまできて、決断したのだ。
 その日、ジローはそんな決断がされていたとも知らず、教え子の結婚式に出かけ、モモを実家に預けていた。ダークスーツにピンクのドレスシャツとネクタイという浮かれた格好で式と披露宴に出て、二次会は早めに切り上げ、引き出物を土産に、まだ浮かれた気分で実家に帰ると、まるでお通夜のような雰囲気だった。
「おじいちゃん、看板はずしたとき、目が真っ赤だったよ」
 モモが引き出物の箱の包装紙を早速破りながら、報告した。まさか、この浮かれた日に店を閉めるとは、これ以上の皮肉はないだろう。
 実家の面々は、これからあらゆる支出を切りつめ、年金だけで生計を立てなくてはならなくなった。
「どうにもならんだよ」
 それがヨウ子の口癖になっている。ヨウ子の思考は、すべての選択肢の最悪のものばかりを選んだ。一切プラスには向かわず、ひたすらマイナスを突き進んだ。
「このうちはちょうどいい柱がないだよ」
 その夜、ヨウ子のその言葉を聞き、ジローは実家の包丁をすべて新聞紙でくるみ茶だんすの奥に隠した。
 きほとトモカズとヨウ子とジローは食卓に集まり、家族会議を行うことになった。
 まずは借金がある。それは、きほの貯金とジローのボーナスからの援助で、ほぼ精算できるめどがついた。
「そのうち、電気も水道もガスも止められるよ」
 とヨウ子が言う。
「破産になったら、ジローにも迷惑がかかる。センセイもやれなくなる」
 ヨウ子の思考はさらにマイナスに進む。
 まったくそんなことはない、とジローが何度説明しても、ヨウ子は最悪のケースを当然のケースとしか考えない。
 ヨウ子の顔は、体重が落ちたせいで、ほおがこけ、ひとまわり小さくなった。目だけは大きく見えて、顔が縮んだ分、しわが増えた。その髪は、最後に染めてからずいぶんと経っているので、根本が白く、先のほうが黒い。髪が伸びすぎて、すかされてないせいか、実験に失敗して、その煙に包まれた科学者のように、逆立っている。とても人前に出られる状態ではない。ジローは、自分の母親ながら不気味だと思った。

32
 中学生になったモモは、ヨウ子にむこうに言っているように言われ、イチローのそばでお笑い番組を見ているが、もう何が話しあわれているかは見当がつく年齢だ。
「私ぁもう欲しいものもないだで、時々ちょっと小遣いがありゃいいだで」
 きほは、これまで比較的自由に使っていた年金を提供するといった。きほの夫は戦死したため、今も遺族年金が入るのだ。
「六月にはボーナス出るからまた援助するよ。だから心配ないって。海外旅行やめれば、いいだけだから」
 と、ジローが努めて脳天気に言う。
「今にお金なくなって、葬式代でも、ジローに迷惑をかけることになるだよ」
 と、ヨウ子はまだ最悪のケースを想定する。
 トモカズが、目を真っ赤にして、鼻をかんだ。
「そんな悪いほうばっかり考えるな」
 そのセリフの最後のほうが、もう声にならない。
「おばあちゃん、生きてるだけでも大仕事だよ。しっかりしてよ」
 ジローがきほに言う。
「わかってるよ。このごろは調子いいだで」
「おばあちゃん、正念場だよ。いい?」
 きほの遺族年金は、もうライフラインだ。
「おばあちゃんがどうかなりゃ、もう終わりだよ。破産するしかないよ」
 と、ヨウ子がうつむいて言う。ジローがどんな言葉をかけても、もうヨウ子には届かない。
「いよいよになったら、僕のアパートに転がりこめばいいよ」
「ジローが、やさしい息子だから、よけいつらくなるだよ」
 ジローは、完全にかける言葉を失った。このような状況で、がんばれと言ったら、相手はいとも簡単に死を選ぶだろう。がんばりきったひとに対して、がんばれというせりふほど、残酷に響く言葉はないようだ。
 ジローがモモのところに行くと、モモは膝を抱えてテレビを見ていた。そうとう落ち込んでるようだ。
「おい、テレビおもしろいか」
「ぜんぜん」
「そうか…。ま、元気出せ」
 ジローはモモに簡単に事情を説明した。
「わかった? もうぜいたくは敵だぞ」
「うん。でも、話に入れてくれなかったもん」
 モモの落ち込んでいる原因は、どうやら家族会議に入れてもらえなかったことだったようだ。ジローは笑ってしまった。
「おじいちゃんは、いてもいいって言ったのに」
「それで落ち込んでるわけ?」
「おじいちゃんだけが味方だよ」
 ジローが笑えば笑うほど、モモは不機嫌になっていった。
 今さらながら、ジローは貯金してこなかったことを後悔している。何に使ったかも覚えていないあのカネがあれば、今、ずいぶんと役に立つだろう。
 その初夏の夜は、壁に掛けた時計の秒針の動く音が聞こえてくるほど、静かだった。

33
 夜の道を走るジローの車は、うちに近づく。モモは、中学生になってから、助手席ではなく、後ろに座るようになった。
「ヨウ子ばあば、今日笑った?」
 ジローは、モモが車に揺られ眠りに落ちる前に聞いた。
「笑ってないよ」
「そっか、やっぱりなあ」
「もう笑わないの?」
「そのうち笑うよ」
「それ病気なの?」
「笑わない病」
「なおる?」
「笑うようになればなおる」
「おばあちゃん、お笑い番組見ないからなあ」
 ジローは噴きだした。
「おもしろいこと言うなあ」
 モモは不機嫌になり、口数が減った。もう眠くなる頃だ。
 沈黙の間、ジローは包丁を隠した夜のことを思い出していた。あのころに比べたら、ヨウ子は多少よくなっている。とにかく、トモカズの存在が大きい。ヨウ子は、トモカズがいれば生きていられるようだ。トモカズがヨウ子のそばにいるかぎり、包丁はもう隠さなくてもよさそうだ。
 朝、トモカズは、ヨウ子とイチローを連れて、閉店中の店に行く。片づけをしたり、いつかの営業再開に向けての大工仕事をしたりと、暇になることはない。
 ヨウ子は、店の奥の部屋で横になっている。誰に会うわけでもなく、何をするわけでもなく、イチローとじっとしている。
 もともと放浪癖のあるトモカズである。板前修業で、十七軒の店を渡り歩いたという。ところが、イチローが生まれ、根が生えた。ヨウ子と協力して育てなくては、イチローはこれまで生きてこられなかっただろう。
 ひとの役に立つようなことは、何一つできないイチローであるが、家族をつなぎとめるという大役を果たしている。ジローはイチローに感謝している。
 やがてモモは、朝寝とシエスタしたにもかかわらず、シートの背もたれを倒して、完全に眠りに落ちた。寝る子は育つ、ジローの願いだ。
 愛だ、とジローは思った。ヨウ子は、たしかに、愛によって生かされている。
 愛とは、特別なことではないようだ。ただそばにいたり、ともに食卓を囲んだり、同じものを見て感動を共有したり、そんな毎日繰り返すささいなことの中で、愛は育まれるのだろう。
 遠くに探しに行くと見失い、今ここにあっても気づかない、それが愛なのだ。
 ジローのこの夏のテーマは、家族がなんとかプラスマイナスゼロに近づくことだ。人生、プラスマイナスゼロなら、上等だ。そもそも、パイが増えもせず、減りもしないこの世界で、プラスをためこむことは、誰か他のひとをマイナスに追い込んでいるということだ。
 愛さえあれば、プラマイゼロで十分生きていける。プラマイゼロで満足する技術を、現代人は習得しなくてはならない。
「モモ、もうすぐうちだぞ」
 ジローが声をかけても、モモの目は閉じられたまま。起こすのに、また苦労するだろう、とジローは思った。

弟3章「夏の夜の」

34
 学校が夏休みとはいえ、教師には何かと仕事がある。
 生徒たちも、夏休みとはいえ、学校に出てきて勉強をする。
 学校には、進路課というセクションがあって、主に生徒たちを大学に送り込むための企画を立てるのが仕事だ。
 その進路課が生徒たちを遊ばせておくはずがない。ということは、教師も遊ばせておくはずがない。ジローも一年生の進学希望の生徒たちの英語の補習を担当するように言われていた。
 午前の水泳部の練習を終え、急いでうちに帰り、モモと昼食をとり、またすぐに学校に戻る。この進学補習のいいところは、学校の数少ないクーラーの効いた教室で勉強できることだ。
 運動部の生徒たちは、夏休み中は練習や試合の稼ぎ時で忙しいので、文化部の生徒たちが中心の補習だ。
 希望制である。ということは、勉強したい生徒だけが集まる。自然、話は聞いてくれる。
 話を聞いてもらえるとは、非常に喜ばしいことだ。特に、あの赤点補習で選ばれし者たちに英語を教えた後だけに、その喜びはジローの身に染みる。
 あの選ばれし者たちとも、勉強を強制するということさえなければ、良好な関係を保つことができるだろう。きっと、ジローの冷蔵庫の話を聞いてくれたように、勉強以外のことなら、真剣に耳を傾けてくれるだろう。
 幸い、赤点補習後の再試験では、選ばれし者たちは一人を除いて、全員合格した。その一人も、あと三点足らなかっただけなので、英単語の書き取りを提出すれば、合格とすることにした。
 その選ばれし者たちは、勉強こそ苦手だが、将来、会社に入れば、きっと宴会部長や花見の場所取り係、または体力仕事などで、まわりに感謝されるだろう。たたかれてもくじけない精神力と、仲間を大事にするチームスピリットで、大いに会社を盛り立てることは間違いない。もちろん、卒業までは、テストの度に苦労はするだろうが。
 さて、ジローがひんやりした教室に入っていくと、生徒たちが十五人、席につき、補習用のテキストを開いて待っていた。
 補習のテキストは、教師が自由に選ぶことができて、ジローが選んだのは、スヌーピーをとりあげたものだった。著者の伝記と、スヌーピーが出てくる四コマ漫画で構成されたテキスト。ジローの尊敬するスヌーピーは、高校生にもおなじみのキャラクター、これなら生徒の興味を引くに違いない、とジローは思ったのだ。
「じゃ、始めよう。予習してきたひと?」
 と、いきなりのジローの質問に全員が手を挙げた。予習しないのは授業放棄だ、と事前に言ってあったのだ。
 ジローは、一番前の席に座っていた女子生徒の下敷きを手に取った。
「ちょっといい? 見せて。おもしろいこと書いてあるなあ」
 下敷きには、スヌーピーが描かれていて、セリフが英語で書かれていた。

35
I gave up trying to understand people long ago. Now I just let them try to understand me.
 ジローがスヌーピーのセリフを黒板に書いた。
「はい、これ訳して」
 その英文が書かれた下敷きを持っていた女子生徒をジローが指名した。
「昔、人々を理解しようとするのをあきらめた。今は…」
 ジローがletの使い方を教える。まだ一年生にはあまりなじみのない使役動詞だ。
 そして、その後ろに座っていた男子生徒が続きを訳す。
「今彼らに私を理解させる」
 ここでジローだけが笑う。
 おもしろさというのは、言葉で説明するのは難しい。説明すればするほど、おもしろくなくなってしまうものだ。
「たとえば、新入生の頃は、他の生徒のことを理解しようと努力しただろ。したよね?」
 前列の生徒がうなずく。
「だけど、今は、まわりに自分を理解するよう努力させてあげてるって感じかなあ。letが効いてるよね」
 沈黙。
「なぜもうわかろうと努力しないんですか?」
 その文の後半を訳した生徒が少しズレた質問をした。
「そこがスヌーピーらしさなんだよなあ」
 ズレた質問をした男子は英語はわかっている。しかし、そのユーモアがわかっていない。
 日本では、その姿をよく知られたスヌーピーだが、その性格はあまり知られていない。
「スヌーピーのどんなところが好きなの?」
 ジローがスヌーピーの下敷きを持っていた女子生徒に聞く。
 沈黙。
「僕はスヌーピーを尊敬してるんだよね」
 尊敬という言葉が、大げさなのか、数人の生徒が笑う。
「ひとを気にしてくよくよするより、自分は自分って悟ってるとこがさ。大した自分じゃないけど、そんな自分をけっこう気に入ってるとこも」
 また沈黙。
 ジローのスヌーピーへの敬愛が生徒たちに伝わらない。
「とりあえず、テキストを読もう。きっと後でわかるよ」
 まず、作者のチャールズ・シュルツの生涯を読んでいく。
 少年時代の彼は、シャイで、クラスメートともうまくなじめない。ガールフレンドもいない。スポーツは好きだが、どれもうまくできない。勉強も特に優れているというわけではない。
「He accepted everything.とあるよね。accept 受け入れる。これがむずかしい。ねえ?」
 と、ジローはさきほどのズレる質問の男子に視線を送る。
「じゃ、すべてをあきらめたってことですか?」
「acceptしたからって、あきらめたとは言えないんじゃないか?」
 友達が多く、モテモテで、文武両道、それは誰もが願うことだ。しかし、誰もができることではない、とジローが話していると、ここでチャイムが鳴った。
「続きは明日。予習よろしく」

36
 ジローはチャイムが鳴ると、acceptと黒板に書いた。
「この意味は?」
「受け入れる?」
 ジローと目があった最前列の女子生徒が答える。
「彼はすべてを受け入れた、と訳す。で、どういうこと?」
 ズレる質問の男子に聞いた。
「すべてをあきらめたって昨日言いましたけど」
 ジローはスヌーピーの漫画を一つ紹介した。
 犬小屋の屋根にいるスヌーピーにルーシーという少女が話しかける。彼女はなかなかの辛口。
Sometimes I wonder how you can stand being just a dog.
「時々、私は疑問に思う、どうして耐えられるか。このstandは立つじゃなく、耐える。ただ犬でいることに。わかる?」
 英語は前から訳す。たとえ変な日本語になっても。英語と人生は前にしか進まない。ジローの教育方針だ。
 スヌーピーは実は閉所恐怖症で、自分の犬小屋にさえ入ることができない。それで、いつも屋根の上にいるのだ。
 ジローの話にうなずく少人数の生徒たち、心地よく冷えた教室、授業は順調に進む。
「よくも、あんたはただあんたでいることに耐えられるね、と。これほどの侮辱はないよね。そこでスヌーピーの決めぜりふ」
You play with the cards you're dealt. Whatever that means.
 ジローは黒板に一から十五の番号を書き、全員にその訳を板書するように指示した。
 難しいとかわからないとか、苦情が続いたので、ジローはヒントを与えた。ポーカーゲームのこと。dealtはカードを分けるという動詞の過去分詞であること。whateverの用法。
 一番成績のいい男子生徒がまず訳を板書した。
「あなたは配られたカードで遊ぶ。それが何を意味しても」
 訳は正しいかと言えば、まことに正しい。
「先生、間違ってますか?」
「間違ってないけどさあ…」
 一番できる彼がそんなことを言われ、他の生徒たちは萎縮してしまい、チョークが動かない。
「ためらうなって。ここで、間違った答えを書いて、失うものは何だ? それを教えてくれ」
 ポーカーは、たとえ手札がどんなに弱くても、勝つことができる。ポーカーフェイスで相手に感情を読ませず、掛け金をつりあげる。相手が自信を失い、勝負を下りたら、相手のそれまでの掛け金はこちらのものになる。これでも、勝ちは勝ちだ。
「分けられたカードで勝負するしかないんだよ。たとえどんなカードが来てもね」
 この訳が、ジローは一番気に入った。さえない自分、だけどそんな自分をまるごと受け入れて、配られたカードで勝負する。そんな等身大のキャラクターが世界中で共感されるのだ、とまとめた。acceptの単語一語だけをめぐっているうちに、無情にもチャイムが鳴る。
 ジローは、後悔はしてない。
「じゃ、続きは明日。予習よろしく」
 分けられたカードで…。
 この言葉がジローの中にいつまでも残った。

37
 夏期講座に備えて、ジローはうちでソファに横になり、シエスタの前に、改めてスヌーピーの漫画を読み返してみた。
「オトナのくせに漫画ばっかり読んで。モモが漫画を読めば、絶対に文句いうくせに」
 と、モモに責められながらも、ジローは全巻読み通した。
「これも仕事なんだなあ」
「漫画が仕事なの?」
「英語の漫画がね。ま、この深さは、中学生にはわかんないだろうなあ」
「そんなの、わかるし」
「おう、そうか、そうか。で、感想文の本、何読むんだ?」
「こころだし」
「え、漱石?」
「そう。おもしろいし」
 ジローはモモに中学二年で「こころ」を読んだと自慢したことがある。父親より優秀だと疑ったことのないモモは、負けじと読み始めたのだろう。
「いつ買ってきた?」
「さっきだし。はい、お金」
 ジローはその代金を請求され、小銭入れを出して渡した。
「パパの本があったのに…」
「古くて汚いからやだ」
 夕食まではたっぷり時間がある。モモも隣のソファに横になり、それぞれの本を開く。
「わかるか?」とジロー。
「わかるし」
 モモが眠りに落ちるのは、ジローよりも早かった。ジローはソファから立ち上がると、本棚からこころを探し出してきた。ジローは中二で読んだあと、三十歳になったときも読んだ。四十になった今読むと三回目だ。
 鎌倉の海で海水浴をしている主人公。そこで先生と知り合う。何かを教わったわけではないのだが、なんとなく先生と呼ぶようになる。
 『悲しみよ こんにちは』の南仏のまぶしい海もいいが、明治の鎌倉の海も負けてはいない。ただ海で泳ぐ。ただ語る。そんなことが娯楽だった明治が、ジローはうらやましい。
 ジローも多少シエスタをして、今夜も沖縄料理をつくった。
 豚ひき肉を炒め、塩こしょう、ケチャップ、そしてチリパウダーで味付けして、チリミートをつくる。
 あとは、白米を炊いて、その上にチリミートをのせ、細く切ったレタス、さいの目に切ったトマト、チーズをトッピングして、タコライスができあがった。
 モモを起こす。しつこく起こす。ジローは食事が冷めるのは許せない。料理は、時間のコントロールでもある。食べる時間から逆算して、料理にとりかかり、できあがると同時にいただきますを言うのが理想だ。できたてであることは、最良のスパイスでもある。
 ようやく不機嫌そうに目覚めたモモがテーブルにつく。
「何これ?」
「ま、食え」
 食に関して保守的なモモがおそるおそる一口スプーンで口に運ぶ。
「うまい」
 ジローは、メキシコ料理のタコスを、沖縄でアレンジしたのが、タコライスだと説明した。
「で、モモ、聞いてるのか?」

38
 アメリカには行ったことがないジローだが、アメリカには高校生の頃から興味があった。それで、大学でアメリカ文学を専攻したのだ。ジローはアメリカ映画もよく見る。地味な映画が好きだ。たとえば「普通の人々」。あの名優ロバート・レッドフォードが監督した作品。精神科医にかかる少年が主人公。一見、普通に見える家族だが、みな心を病んでいる。そんな悩むひとことこそが、「普通の人々」なのだ。
 補習最終日、テキストに、まず、スヌーピーの飼い主チャーリーが出てきた。チャーリーは、スヌーピーを幸せにすることが幸せだ。一方、スヌーピーは、チャーリーがいてもいなくても、とりあえずおいしいものがあれば幸せだ。
I'm depressed again.とチャーリーがつぶやく。「またウツになって」と。精神科医にかかっている。その医者は毒舌少女ルーシー。当然有料、毎回チャーリーは五セント払う。ろくなアドバイスをもらえないのだが、ウツになる度に通っている。
 アメリカでは、風邪で内科にかかるように、ウツで精神科医にかかるのだろう。これが「普通の人々」なのだ。
 次に登場はライナス。いつも毛布を手放せない。安心毛布だ。
「なんで、その子は毛布をいつも持っているんですか?」
 一番前の女子生徒が質問するのも無理はない。
 ジローは言葉に詰まった。実は、ジローも小学校高学年まで、安心毛布ならぬ安心パジャマをいつも抱いて寝ていたからだ。それは、もともとヨウ子の寝間着で、ボロボロで汚かったが、肌触りが好きだった。
「ライナスは、親指くわえてるよね。これは、心理学者フロイトによれば、おっぱい不足。ライナスの小さいとき、お母さんは忙しかったんじゃないか」
 ジローは、幼い頃、よく爪をかんでいたことも思い出した。これも指しゃぶりと同じなのだろうか。
「先生も子どもの時、ライナスみたいだったんですか?」
 いつもズレた質問をする生徒が、珍しくまったくズレない質問をしてきた。
「そんなの忘れたよ」
 ジローは、さっさと次のトピックに移る。
「スヌーピーは小説も書くぞ。It was a dark and stormy night. 暗い嵐の夜だった、その書き出しで始まる長編を書いて送っては、ボツになり続けてる」
「それは知りませんでしたよ」
 スヌーピーの下敷きを持っていた女子の瞳が輝く。
「書き出しがいつも同じと酷評され、満を持して書き出しを変えたことも。暗い嵐の昼だった、と。当然、またボツ」
 ジローは、ここは笑うところだと思うのだが、誰も笑わない。とりあえず、続けた。
「それでも、すべて受け入れて、決してめげない。登場人物は、みんな恋してるけど、みんな片思い。それでも? めげない」
 現状は受け入れて、決してめげない。ボツになっても、書き続ける。ジローは心に刻んだ。
「先生、続きは?」
「じゃ、冬の補習で」
 これで夏の補習は終了した。

39
 この日はこれを食べると決まっている。
 ジローは午前の仕事を終えると、スーパーによって、食材を買って、うちに帰った。
 いつものように空腹のモモが待っている。
「お昼、何?」
「今日、何の日か知ってるか?」
 モモはわからない。
 ジローは答えを教えず、早速、料理にとりかかる。
 キャベツを千切りにして、焼きそばをフライパンで炒める。味付けは、ソース少々。小麦粉を水で溶き、ドロドロとサラサラの中間ぐらいにする。
 炒めた焼きそばを、いったん皿に取り、水で溶いた小麦粉をフライパンに広げる。その上に、キャベツをどっさりとのせ、モヤシ、焼きそば、豚三枚肉をのせ、軽く塩こしょうする。
「あ、原爆の日だ」
 キッチンをのぞき見たモモが正答した。
 五年前の八月のこの日、二人は広島にいた。戦後六十年ということで、原水爆禁止世界大会に行ってみたのだ。
 小さな政府、大きな格差の現在の日本を築いたパフォーマンス上手の首相が式典で、あまり威勢よくない口調でしゃべっていたのをジローは覚えている。
 モモは、そのころ、ジローの執筆の取材を兼ねた戦跡巡りによくつきあわされた。広島もその一環だった。
 ジローの祖父は、戦中、広島にいたことがある。瀬戸内海に浮かぶ因いんの島しまというところにも。その足跡をたどったのだ。
 因島にも小さな船でわたった。何もないところで、次の船まで二時間ほどあって、炎天下、絶望的な気持ちになっていたら、お好み焼き屋を見つけ、そこに逃げ込んだ。そして、その近くで祖父がいた宿舎があったことを知った。この地で、きほがヨウ子を身ごもり、今、ジローがいて、モモもいるのだ。
「いいか、うちらがここにいるのも、この島のおかげだぞ」
 とジローはモモに言った。
 ジローの祖父は、娘のヨウ子の顔を見ることなく、戦死したのだ。
 水溶き小麦粉をもう一度回しかけ、両手にへらを持ち、勇気を持って、ひっくり返す。
 少し、キャベツがはみ出たが、成功した。後は、最後に、またへらでお好み焼きを持ち上げ、その下に溶き卵を入れ、それが固まればできあがる。広島風お好み焼き用ソースをかければ、ちゃんとあの味が出る。
 広島でも、お好み焼きを食べたが、因島でのお好み焼きが一番おいしかった。
「パパ、思い出すねえ。あの島のお好み焼き」
「平和に感謝して、食えよ」
「はいはい、いただきます」
 それにしても、ジローがこれをつくれるようになるまでには、何度失敗したかわからない。
 料理人のトモカズが言う。「失敗しなきゃ、うまくできない」と。たまたま成功しても、次がうまくいくとはかぎらない。人生、失敗から学ぶことは多いのだろう。ジローはそう理解している。

40
 連日の猛暑、熱帯夜も続いていた。
 それでも、ジローはクーラーのスイッチを入れなかった。窓という窓を開け放ち、二つある扇風機を、首振りをさせず、モモとジローのそれぞれの方に向ければ、なんとかしのぐことができた。
 どうしても暑いときは、玄関を入ったところのフロアに移動すればいい。そこは、ジローが風の交差点と呼んでいる場所だ。すべての窓から入った風がここで出合う。ヨガをここで行うと、ジローは効果が倍増するのを感じた。パワースポットなのだ。モモもよくヨガマットの上に横になる。仰向けになって、手足の力を抜き、決まって「シャバ・アーサナ」と言う。ヨガの死体のポーズという意味だ。
 夏の夜は長い。朝寝をして、シエスタもするので、ジローはなかなか寝つけない。モモも昼近くまで寝るので、夜は目がさえている。
 時間的余裕がある八月こそ、ジローは大いに読み、大いに書き、ブンガク的に過ごそうと毎年七月末に決意するのだが、いざ八月になると、大いに時間を浪費してしまう。これも毎年のことで、もうこんな自分にも慣れていた。
 その夜もDVDを見終わり、モモがヨガマットの上で死体になり、ジローが食器を洗っていると、ジローのケータイが鳴った。
「おっ、ママからだぞ」
「モモも出る」
「もしもし、どうしたの?」
 と、ジローが明るく出ると、ジローの前妻、パニックに陥ったユリ子の声にならない声が聞こえる。
「あのね、あのね…」
 すぐに電話に出ようとするモモを、ジローが掌を見せて制した。
「今ね、ヘンな男の人がついてきて、うちの近くにまだいるみたい」
 ようやくおびえるユリ子から聞き出した話だと、車で、仕事から帰宅途中にビデオレンタル店に寄って、うちに向かうと、ずっと一台の車に跡をつけられ、うちの前まで来たという。先ほど、玄関先で、見知らぬ男に、トイレを貸してほしいと背後から突然声をかけられたそうだ。あわてて、ドアを閉め、鍵をかけ、今電話をしているところだ、と。
「二階に上がってきたけど、まだ下でなんだか音がするみたい」
 ユリ子は両親と住んでいるが、その両親はともに老齢で、とてもストーカー退治などできそうもない。もちろん、パニック状態のユリ子も何の役にも立たない。ジローはすぐに車の鍵を手にして、ユリ子に言った。
「今から様子見に行くから。一回、切るよ」
「お世話になります」
 泣きそうな声だ。
「モモも行く」
「ダメ、じゃま」
 ジローはきつい口調で言った。
「モモは何の役にも立たないし、何かあったら被害者が一人増えるだけ」

41
 食い下がるモモを振り払い、ジローはすぐに車に乗り込んだ。何か武器になる棒のようなものを探したが、見つからず、しかたなくクイックルワイパーの柄を持っていった。
 十分もたたないうちに、ユリ子のうちの前まで来ると、隣の空き地にスポーツカーが止まっていて、ジローが来たことに気づくと、男が慌てて車の中に入った。そして、去っていった。
 ジローは車を道の脇に止め、ライトを消し、しばらく待った。三分もしないうちに、また同じところにスポーツカーが戻ってきた。ジローは車の向きを変え、ヘッドライトでその車を照らした。とたんに、スポーツカーが動き出した。
 ジローは車を追った。車間を詰め、車のナンバーを読み取ろうとする。ちょうど信号待ちで、真後ろにつけ、ようやく読みとり、何度も暗唱した。
 ジローはなおも追跡した。むこうはそうとうのスピードで逃げていく。そして、ついにジローの軽自動車はまかれてしまった。それから、ジローは空き地に戻り、男が戻ってくるのを待った。もう戻ってはこないはずだ。むこうはそうとう焦っているだろう。ジローはそのことをケータイでユリ子に伝えた。
「ほんと、ありがとう」
「明日からどうすんの? もう来ないと思うけど」
「どうしよう…」
「使えるオトコはいないの?」
「こういうとき頼りになるオトコはいないんだよねえ」
「しばらく、ここで様子見てから帰るよ。モモもパニクってるから」
「私からモモに電話しとく」
「そうして。なんかあったらまたケータイにかけて。すぐに飛んでくるから」
「ほんと、ありがとう」
 ジローがうちを出てからまだ三十分もたってない。その間、ジローは恐怖をまったく感じなかったことに気づいた。そんな度胸がどこから出てきたのだろう。ようやく、緊張から解放され、疲れと眠気がやってきた。とりあえず、モモの待つうちに戻った。
 モモは、英雄の凱がい旋せんを熱烈に迎えた。氷を入れた麦茶を持ってきた。
「ママ、もう大丈夫かなあ」
「大丈夫だよ。あいつ、ビビりまくって、逃げてったから」
「モモも行きたかったなあ」
「マジ、ドキドキだったぞ」
「パパ、すごいねえ」
「やるときは、やるよ。パパだって」
「ママもパパがいて、うれしいようね。で、なんで離婚したの?」
「突然、言うなって。世界一頼りになるベビーシッターが困っていたら、助けるのは当然だろ。もう寝るぞ」
 英雄は、ケータイを枕元に置き、それが鳴らないことを祈りつつ、眠りについた。
 その後、ケイタイが鳴ることはなく、ストーカーはその日以降もう二度と現れることはなかった。

42
 夏は、来客の多い季節である。高校を卒業したジローの教え子たちが、夏休みに帰省して再会すると、ジローのところでも行こう、となるからだ。
 この夏、どこかに出かけることは諦め、うちがリゾート、今はバカンス、ステイケーションと決めたジローがいつもうちにいるので、客が例年以上に来るようになった。
 お盆シーズンになると、まず水泳部OGたちがやってきた。昼頃、女子ばかり五人が、ジローのうちに集合した。彼女たちは、現役時代、マネジャーとメドレーリレーのメンバーとして活躍をした。気配りは足りなくても、ムードは盛り上げるマネジャー、バテても最後まで諦めないバタフライ、賢く器用な文武両道のバック、おっとりとしていつも笑顔の平泳ぎ、キャプテンとして自分に厳しくひとにやさしい自由形、と個性豊かな五人組だ。女子大生ともなると、化粧も覚えるようだ。ジローは、高校時代の風紀検査のように注意をした。コロッケにソースをかけすぎて食べられなくなるような厚化粧はやめろ、と。
 まずはメシ、冷蔵庫の中にある食材を見渡し、作れるものを考えた。
 料理長ジローの指示で、全員が一斉にキビキビと働き、作業が分担され、効率よく進む。そうめんをゆで、例のチャンプルーにして、野菜をテキトーに切って、小麦粉と卵とキムチと混ぜ、チヂミを焼き、麦茶のグラスもテーブルに並んだ。隣の自分の部屋にいたモモも合流して、それぞれ小皿にとって、高校野球を見ながら、テキトーに食べた。
 お互いに担当した料理を自画自賛しあい、なかなかおいしいランチとなった。
「パパがつくる昼ご飯よりおいしいよ」とモモが、彼女たちをねぎらう。
「ジローセンセイがいなきゃ、こんなにおいしくできなかったよ」、と自由形がジローをねぎらう。ジローは、モモにピースサインを見せる。
 こんなテキトーなメニューのランチが済むと、テーブルの上が片づけられ、クーラーのスイッチが入った。今日集まった目的は、食べるためだけではない。
「じゃ、銀行よろしく」、とジローがバタフライに言う。
「やっぱり、私だよね」、とバタフライが、プレイヤーとしての楽しみを犠牲にして、みながモノポリーを楽しめるように銀行役を引き受けた。
 モノポリーとは、世界的に有名なボードゲームである。不動産を買い占め、金持ちになることを競うゲームだ。破産したらゲームオーバー。これは資本主義社会の縮図とも言うべきリアルなゲームで、とても、一時間や二時間で終わらない。今日は、夜までたっぷりとプレーするために、彼女たちはここに集まった。ジローが誘ってもモモは乗り気ではなかったが、彼女たちに誘われると、二つ返事でこのゲームには参加することに決めた。

43
 とにかくアグレッシブに買い占めることばかり考えるジローに対抗して、女子たちは団結して、それを阻止しようとする。強欲になればなるほど、ジローは孤立していき、思うようにカネも不動産も集まらない。
「モモもそっちの味方か?」
 ジローのビジネスに非友好的なモモにジローが毒づいた。
「だって女子だもん」
 彼女たちが、みな拍手した。
 堅実にたたかうバック、交渉に長たけた平泳ぎ、無欲でカネがなぜか集まってくるマネジャー、やたらとジローに対抗する自由形、ただなんとなく駒を進めるモモ。
 二時間を超えた頃から、不動産の動きが激しくなり始めて、ゲームはエキサイティングになっていく。
 カネは、持てば持つほど、欲しくなる。カネは、カネを持てば持つほど、集めやすい。勝つためにはカネだ。カネでカネを釣る。格差がなくては、カネは動かない。水は高いところから低いところへ流れるが、カネは逆に低いところから高いところへしか流れない。革命でも起こらないかぎり。モノポリーでは、幸い、革命は起こらないので、カネに専念できる。ジローは、自分がそんなことを本気で考え出していることに、ふと驚きながらも、自分をもうコントロールできなくなり、ひたすら貪欲になっていく。
 なぜか、あまりやる気のないモモが、女子連合の全面バックアップを受け、トップを走っていた。強欲ジローは、四面楚そ歌か、それでもカネに対する執着は絶対に捨てない。
 不運が続き、平泳ぎが破産した。高校野球は、最後の試合が、ナイターとなっていた。腹も減ってきた。平泳ぎが、晩ごはんをつくることを提案した。
 続いて、ジローも破産して、平泳ぎを助手にして、キッチンに立った。
 ジローがいなくなった社会では、残りのメンバーは、お互い債権を放棄したりしながら、和やかにゲームをすすめている。
 食材はもうあまり残されていなかった。平泳ぎが玉ねぎとわかめのみそ汁をつくり、ジローは白米を炊きおにぎりをつくった。具は、梅干しと、平泳ぎのうちでよく入れるというシーチキン。のりはなし。
 夕食の準備ができると、モノポリーのメンバーたちは、金もうけにもう飽きたらしく、勝者なしでゲームを終わりにした。
 おにぎりとみそ汁と麦茶だけの夕食だが、他に食材がないためか、彼女たちの誰もがそのおいしさに感動していた。
「センセイ、おいしい」
 なんでこんなシンプルなものがこんなにおいしく感じられるのか、ジローも驚いた。
「みんなで食べるからおいしいんだよ」とモモが言うと、彼女たちはまた拍手した。
 バックの提案で、次に集まるのは冬で、今度は鍋をすることになった。
 ごはんさえあれば、カネは必要以上いらない、とジローは、その時は本気で思い、三つ目のおにぎりをほおばった。

44
 ジローは、八月にしてはめずらしく、早起きをした。ヨガもしないで、六時半には、キッチンに立った。
 サンドイッチ用の耳のない食パン二枚で、昨夜仕込んでおいたポテトサラダと、カリカリに焼いたベーコンを挟んで、ホットサンドメーカーにセットして、スイッチを入れた。数分後、直角二等辺三角形のホットサンドが二つできあがる。三辺がきっちりと閉じられている。続いて、チーズとハムをパンで挟み、ホットサンドメーカーにセットする。数分後、またホットサンドが焼き上がる。
 そして、モモを起こす。ホットサンドは、モモの朝食と昼食の弁当だ。
「いいにおい」
「おう、うまいぞ」
 モモは今日から三泊四日のキャンプに出かけることになっている。朝食が済むと、ジローは大きなリュックを背負ったモモを駅まで車で送っていった。いちおう、入場券を買って、ホームまで付き添った。
 ホームに向かう階段を上りながら、モモがジローに聞いた。
「パパは、今日から、何してるの?」
「ま、じいじたちと過ごすよ」
 ホームに出ると、同じ駅から乗り込む同学年の女子中学生が一人いた。やがて電車がやってくると、二人は一緒に乗った。
 モモの行き先は、長野県だ。キャンプといっても、飯ごう炊さんしてテントに泊まるというキャンプではなく、安民宿に泊まり、宮沢賢治を読み、解釈して、「人体交響劇」という前衛劇のような表現をするワークショップに参加するのだ。四日かけて、一つの物語と徹底的に向き合うらしい。その主催は、ものがたり文化の会という渋い名前の全国組織で、全国の支部が夏に長野に集まる。ちゃんと引率してくれる先生がいて、実は、その先生には、ジローが小学生の頃は英語を教わっていた。教育ママのヨウ子にジローはそこに通わされていたのだ。英語から物語表現へと活動内容は変わったが、その先生ならば、とジローはモモをその会に通わせている。実はジローには、その表現活動が前衛的すぎて、よくわからないのだが、モモは楽しそうに通って、日々、表現を磨いている。
「じゃ、いってらっしゃい。土産はいいぞ」
 電車のドアのところに立つモモに、ジローはホームから声をかけた。
「土産買うほどおこづかいもらってないし」
「ま、楽しんでこい。パパもテキトーにやってるから」
「酒飲むなよ」
「嫌いだし」
「お弁当、ありがとう」
「パパの朝ごはんのついでだって」
 電車のドアが閉まった。モモの大きなリュックサックが遠ざかっていく。
 ジローは、いちおう、右手を振った。そして、電車が見えなくなると、その右手を握りしめて、一言つぶやいた。
「自由だ」

45
 自由初日の午後、ジローのうちに、男たちが三人やってきた。団塊世代の男たち。この春、彼らが定年退職するまで、同じ教職員組合に属していた同志だ。
 ジローは、かつては学生運動の闘志だった彼らから六〇年代後半の学生運動の話を聞くのが好きだった。宴会のたびに聞くその武勇伝を楽しみにしていた。ジローには、その話がどういうわけか懐かしく、そして切なく思えるのだった。おそらく、前世、その時代に青春時代を過ごし、たたかいに挫折し、自殺したのだろう。ジローは、本気で、そう信じていた。
 実は、壮大な計画を持つ男たちである。その計画とは、コミュニティーをつくることである。過疎地の畑付き古民家を共同購入して、そこをラブ&ピースなアートの発信地にするのだ。男たちは本気である。
 しかし、資金も行動力も不足している現状では、コミュニティー計画は当分のあいだ実現することはない。そのため、とりあえず月に一回集まって、読書会を開くことになったのだ。
 無教会主義というものをジローは聞いたことがある。教会の建物がなくとも、祈る心があれば、そこが教会になる、と。同志が集まれば、今ここがコミュニティー。これは読書会のテーマにもなっていた。
「どこにでも、コミュニティーつくれるってのがいいなあ」
「ここでも、喫茶店でも、道ばたで立ち話しても、冬なら鍋を囲んでも」
「広大な土地を持たなきゃいけないなんて、所有から解放されてないんだよ」
 などと三人が語るところを、ジローは容易に想像できる。
 同志の一人が言う、所有からの解放、これはなかなかの思想である。
 たとえば、別荘。たしかに別荘は欲しいが、その購入はほぼ不可能だ。たとえ、万が一、手に入ったとしても、維持管理が大仕事だ。そこで、所有からの解放、非所有主義である。全国に別荘を持っている、と妄想する。たった一カ所だと飽きてしまうので、思い切って全国のペンションを自分の別荘にしてしまうのだ。別荘を買うために大金を出すのではなく、使うときだけカネを払う。維持管理は、別荘のオーナーに任せる。そのオーナーの生計は、自分が行かないときに来る他の客が払う金でまかなう。すると、別荘を買うカネがずいぶんと浮くので、他のことにも有意義に使うことができる。なんてステキな非所有主義、これで別荘だけでなく、山も湖も、美術品も、かなりのものを自分のモノにすることができる。
 ジローは、この非所有主義を知り、レンタルビデオ屋のDVDはすべて自分のモノのような気がしてきた。あんなにたくさんのDVDはうちに置けないので、レンタルビデオ屋に置いておく。保管料として、見るときにだけ、レンタル料とも呼ばれるカネを払うのだ。

46
 さて、ジローたちがこの読書会でもうすぐ読み終えるのは、「スモール・イズ・ビューティフル」。あの頃、アメリカで書かれた名著である。あの頃とは、もちろん六〇年代後半、若者たちが世界を変えられると本気で思っていた頃のことだ。
 毎回、どこまで読んでくるかと、各章ごとのリポーターを決めてある。すべて読んでなくとも、少なくとも自分の担当の章だけは読んでおき、多少のコメントはできるようにしておく。
 最初にやって来たのは、今川。彼は、この春まで、ジローと同じ学校で、同じ英語教師として働いていた。定年後は、絵を描いたり、歌を歌ったり、なかなかの芸術至上主義者、もちろん、学生時代は学生運動に参加し、ヘルメット学生を相手にやるかやられるかの日々を過ごした。そんな青春時代の反動か、学校ではもっとも温厚な教師の一人だった。
「お邪魔します。うちでとれたから、これ食べてよ」
 と、立派なゴーヤを持って、うちに上がってきた。今年は豊作だという。
 ジローは、両手でそのゴーヤをめでながら、自然の産み出した複雑な凹凸に感動した。
「こんなのつくっちゃうんだから、自然は偉大ですね」
 今川は、ジローの発言の意図がわからないようだった。
 ジローは、早速ゴーヤを縦半分に切り、わたを取って、半月状に切って、ボウルに入れ、塩をふった頃、残りの二人も、菓子や野菜を持参して、やってきた。演劇部顧問だった加藤、団塊世代にしては珍しく無口な大山。三人の共通した特徴は、太っていないこと、手ぶらでジローのところにこないこと、そして、いまだ社会変革の夢を捨てていないことだ。
 男たちがダイニングテーブルについて、本を開くと、ジローは定位置のキッチンに一番近い椅子から立ち上がった。コーヒーをいれるためだ。
 今日も暑いなど、どこの誰が病気だの、語りあっているうちに、読書会が、さざ波のように始まる。テーブルのそばには扇風機が二つ置かれ、ともに首を振っている。ジローがエアコンのスイッチを入れようとすると、三人はそろって扇風機でいいと答えた。
 湯を沸かし、豆をひき、ドリップしながらも、ジローは時折振り向いて、会話に加わる。
 いつも、章ごとにリポーターが決まっているので、それぞれがアンダーラインを引いた文章を読み上げたり、自分の哲学を述べたり、話が脱線して、六〇年代後半の武勇伝を語ったり、どこまでが雑談で、どこまでが本論か、わからないまま、読書会は続く。
 四人分のコーヒーをいれると、ジローはテーブルにつき、自分の分担のリポートを始めた。

47
 そば好きなジローだが、この本のテーマをおいしい手打ちそば屋にたとえて、理解していた。おいしい手打ちそば屋は、店主が一人で営む小さい店で、その日売る分をその日打ち、売り切ったら閉店となる。営業は昼だけ。心を込めて打つそばはおいしくて、当然、評判になる。ところが、やがて、店主に魔が差してしまう。もっとそばを大量につくって、もっとカネをもうけよう、と。それまでは、そばを打つためにそばを打つそば至上主義者だったのだが、今度はカネのために打つようになってしまう。とりあえず、もっとそばをたくさんつくるために、店を大きくして、そば打ち職人を雇った。残念ながら、その職人の腕は店主ほどではない。最初のうちは客が増え、売り上げも上昇するが、しだいに味が落ちたと、悪評が立ってしまう。味が落ちれば、客は減る。店の改装資金の借金に加え、そば打ち職人の給料も払わなくてはならない。そして、ついに、店は畳まざるを得なくなってしまう。
 小さいうちはうまくいくが、欲が出て、もっと大きくしようとすると、結局、すべてを失ってしまう…。
 巨大信仰、でっかいことはいいことだ。これに対抗するのが、まさにスモール・イズ・ビューティフル。
「このコーヒー、素人のうちでいれたにしてはおいしいね」
 と、今川がジローをねぎらう。
「そのそば屋の話、コーヒー屋でも言えるかも」
 ジローは、こだわりのマスターがネルドリップでコーヒーをいれる店を想像してみた。もし、機械で大量にいれたら、それなりの味しか出ないだろう。やはり、店は小さいほうがいい、と思った。
 続いて、今川がリポートする。
「現代人は自分を自然の一部と見なさず、自然を支配、征服する任務をおびた、自然の外の軍勢だと思っている」
 と、今川が引用した部分には、ジローもアンダーラインを引いていた。
「自然との戦いなどと口にするが、その戦いに勝てば、自然の一部である人間がじつは敗れることを忘れている」
 ジローは今川の言葉にうなずいた。
「それを、四十年も前に言ってたってとこがすごいなあ」
 と、加藤が言うと、大山とジローは黙ってうなずく。
 戦争の原因は、貪欲と嫉妬心。必要なのは、永続性と平和。問題は、人類の「失敗」ではなく、「成功」によって、引き起こされる。欲望には限りがなく、物質世界では満たされない。市場は、質を交換可能な量に転化する、個人主義と無責任を制度化したもの。自然は限度を知っているが、人間は限度を知らない。
 今川の指摘した部分の多くを、ジローは見落としていた。
「そんなこと書いてありましたっけ?」
 と、ジローが言うと、今川は付箋の張ってあるページを開き、引用部分を示した。
「同じ本でも、読む人が違うと、拾うところが違うんですねえ」
「それが、読書会の目的だって」

48
 この本の第四章は原子力についてである。続いて、大山がリポートした。大山の家は原発からほんの三㌔のところにある。若い頃、原発に反対する発言を繰り返し、隣人が冷たくなったという経験を持っている。
「今日、人類には放射性物質を造る力はあるが、いったん造ったが最後、その放射能を減らす手だてがまったくない、と書いてあるんだよ。つまり、自分ではどうしていいかわからない問題の解決を子孫に押しつけてる、とも書いてあるよ」
「まさに、パンドラの箱」
 と、ジローが言った。
「箱の中にまだ一つ残ってるからさ。予知が」と今川がいう。
「先のことはわからないから、希望を持てる…」
「そう思いたいね。要は、どうやってエネルギーを造るかより、どうやってエネルギー消費を減らすかだよ」と大山。
 加藤もリポートを用意してあったらしいのだが、言いたいことはもうほとんど言われてしまったなどといって、読書会は第二部に移ることになった。男たちは腹がすきすぎていた。
 三人がスーパーに食材を買いに行っている間、ジローはフランス製ほうろう鍋ル・クルーゼの二十㌢のココット・ロンドで、白米を三合炊いた。水は六三○㏄、沸騰したら、弱火で九分、火を止めて十分ほど蒸らす。その間に、酢六○㌘、砂糖六○㌘、塩一五㌘をあわせて、すし酢をつくる。
 白米を蒸らしてから、ようやく重いふたをとり、すし酢を回しかける。鼻をつく酢の匂いが、湯気とともに立ちのぼる。
 テーブルの上には、ジローの自慢の高級天然木の飯台が置かれている。両親の店が休業中で、すしを食べられなくなったため、しかたなくそれを買い、自分で酢飯だけはつくるようにしたのだ。ジローは回転ずしには一生行かないと決めている。
 白米を飯台に移すと、しゃもじで、切るように混ぜ、隅に寄せた。ここで、十分待つ。
 その間に、すし酢が熱い米に染みこんでいく。ここはまだあおいではいけない。
 酢飯の作り方は、実家で教わってきた。幼い頃から祖母のきほが酢飯をつくるのを見てきたジローは、その記憶を頼りに、教えを実行してみたら、だいたい同じ味になった。
 団塊の男たちが買い出しから戻ってきた。これから行われる手巻きずしパーティーには十分すぎるほどの食材が、買い物バッグの中にはあった。余った食材は、いつもジローが場所代としていただく。
「あ、酢飯の匂いだね」
 と、加藤が言う。この三人の中では、加藤が一番料理には疎い。ということで、ジローは、加藤に単純作業を依頼、酢飯を、飯台一面に広げ、うちわであおぎ、冷ます作業だ。
 ジローは急いで、フライパンで、形のあまりよくない卵焼きをつくり、今川と大山にキッチンを譲った。ふたりは並んでキッチンに立ち、お互いに声を掛け合いながら、手際は悪いながらも協力して、ネタを用意していく。ジローは手が空いたので、皿や箸を選び、テーブルに並べ始めた。

49
 男たちは誰一人として、手を休めない。ここでのホームパーティーの原則は、働かざる者食うべからずだ。
 準備ができた。四人のうち、ただ一人加藤だけが酒を飲む。早速、五〇〇㏄の缶ビールを開けた。ジローは、飲もうと思えば飲めるのだが、酔っぱらって、洗い物をするのも面倒なので、今日は飲まないことにした。今川と大山は、自動車を運転して帰らなくてはならない。ということで、ビールと麦茶で、まずは乾杯だ。
 テーブルの中央には、酢飯の入った飯台、まわりには、マグロ、イカ、たくあん、しそ、キュウリ、卵焼き、納豆、マヨネーズとあえたツナなどネタがのった皿が並ぶ。
「じゃ、オレから先にちょっといただくよ」
 と、今川が左手にのりをのせ、右手ですし飯をすくってのせ、マグロを巻いて、一口食べた。
「のりがパリっとしてて、おいしいなあ」
 続いて、大山も加藤もまねして、のりでシャリとネタを巻いていく。
 加藤は、自分がつくる気はまったくないにもかかわらず、ジローに作り方を詳しく聞く。
「絶対に大事なことは、ごはんを上手に炊くことなんですよ。ここがダメなら全部ダメ」
 加藤は、ジローにさんざん熱く語らせ、自分は笑顔で黙って聞いている。聞き上手なのだ。
 男たちは、食べつつ語り、語りつつ食べ、次の本をどうするかも話題に上げた。
「マルクスの娘婿にさ、なんとかっていうのがいてね」
 と、加藤が缶ビール片手に、語り出した。
「なんとかじゃ、わかんないねえ」
 と、今川が言う。
「パソコンで調べればわかるよ」
 と、大山がいうので、ジローはテーブルの上の皿を寄せて、パソコンを置き、早速インターネットで検索をかけた。やがて、ポール・ラファルグ『怠ける権利』という本がヒットした。
「紹介文で、高貴で神聖な怠ける権利を宣言しなければならぬって書いてありますよ」
 とジローが説明すると、全会一致で、次回の本はそれに決まった。怠ける権利、なんと美しい響き、ジローはその場で早速ネットで四冊注文した。
 次回は、スモール・イズ・ビューティフルにけりをつけ、その本を配ることになった。リポートが始まるのは、次のまた次からだ。
 いつしか、飯台の酢飯は、三合、もうすべてなくなった。
「さっきのコーヒーおいしかったから、もう一杯コーヒーいれてくれる?」
 と、今川。
「さっきのおいしかったからね」
 と、大山が続くので、ジローはまたコーヒーをいれる。湯を沸かし、豆をひき始めた。
 加藤は陽気に二本目の缶ビールも飲み干した。
 網戸越しに、ヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。あたりはようやく暗くなり始めた。

50
 男たちは、腹が満たされ、話のネタもつきると、全員が立ち上がり、片付けを始めた。パーティーは、買い出しから始まり、片づけまでで完結する。生徒たちを引率して、どこかで宿泊すれば、教師が必ず言うセリフは、「来たときよりも美しく」である。ここでも、それがルールだ。
 大山が食器を洗い、今川が布巾で拭くと、ジローの指示で、加藤が食器をそれぞれの収納場所に置いていく。今日もあまった食材は、すべてジローのものになった。ジローは新しくなって容量の増えた冷蔵庫に食材を収納して、テーブルを拭くと、男たちが「来たときよりも美しく」なった。
 そして、男たちはまたテーブルにつくと、それぞれ財布を出した。まず、今日のパーティー代を精算した。一人千円ちょっとだった。そして、ジローが小ぶりのブリーフケースを持ってきて、中から封筒を出して、配った。男たちは、それぞれの封筒の中に月収の百分の一を封筒に入れていく。実は、この男たち、日本を変えるために、ここに集まっている。誰もが本気だ。
 特に団塊の世代の三人は、学生運動時代に目指した社会変革の夢を、四十年以上、今も諦めないで、追い続けている。
「〝いいかげん〟がよいかげん。それが長続きするコツだよ」と今川。
「熱心なヤツでも、燃え尽きて、離れていったのもいたなあ」と加藤。
「そうそう」と大山。
 ジローは、そろそろ日本が変わると思っている。本気で。
 ジローが集金袋を回収し、領収のサインをした。この金は、男たちも属す、日本を変えるための組織を支援する活動資金に充てられる。ジローは、その支援活動の会計を担当している。
 国を変えるには、とにもかくにも、カネがいる。団塊の男たちは、たとえ年金生活者となっても、決して多くない月収の百分の一は社会変革のために費やすことを決してためらわない。
「しかし、定年になったらさ、話し相手を探さなきゃいけないくなったから、面倒だよな」
 と、今日は十分語った今川が、大山と加藤に同意を求める。二人は、うなずく。
「定年後は、やることいっぱいあるからってさ、断ったんだよ。学校に残って数時間授業やるように頼まれてもさ」
 と、今川が続けた。
「多少の束縛は、人生には必要なのかもしれないなあ」
 と、加藤が言う。
「孫の面倒もいいけどさ、孫は来てよし、帰ってよし、だからなあ」
 男たちのうち、大山だけは、孫が二人もいる。ジローは、自分の孫を想像した。モモが働いている間、ベビーシッターとして孫を思いっきり甘やかす。シングルグランドファーザー、想像するだけでも、楽しくなる。
 男たちは、来月集まる日にちを決めて、帰っていった。
 まだ、夜はたっぷりある。ジローは、またつぶやいた。
 自由だ、と。

51
 ジローにはささやかな夢がある。それは、一人、居酒屋にふらりと行ってみることだ。
 知らない町の駅にふらりと降りて、その近くにある小さい店に立ち寄る。七人も座ればいっぱいになるようなカウンターの中央に、その町に暮らす常連たちが居座っていて、その隅にひっそりと座り、常連たちの会話に耳を傾け、時にあわせてほほ笑んだりしながら、一人、ちびりちびりと飲むことを想像してみたりする。
 団塊世代の男たちが去り、一人、自由な時間を前にして、作戦を練ってみた。
 茶畑の真ん中のこの田舎には、そんな店は一軒もない。
 さすがに、これから電車に乗って出かけるのもおっくうだ。
 仕事帰りに、週に何日も、居酒屋に立ち寄るオトコはいるだろう。
 仕事帰りにはスーパーに寄るくらいのジローは、少し、うらやましくなったりもする。
 かつて、ジローの両親の店もそんな店の一つだった。
 夕方になると、カウンターで、刺し身をさかなに飲んでいく常連も珍しくなかった。
 さて、この自由な夜をどうしてくれよう。ジローの目の前には、まぶしいほどの無限の選択肢が放射状に広がっている。
 短パンではなく、ジーンズを履き、Tシャツではなく、襟のあるポロシャツを着て、ビーチサンダルではなく、スニーカーを履き、髪に微量の整髪料をつけ、うちを出た。
 まだ、夜は始まったばかりだ。
 車に乗って、結局、ジローが行き着いたのは、ファミリーレストランだった。飲み放題のコーヒーを注文し、一冊の本を持ち込み、ボーっとすることだった。明るい店内には、若きカップル、中年のカップル、語り合う女性客、ひとり食事するサラリーマンなど、見ていて飽きることはない。
 ジローは、ヘミングウェイの短編を思い出した。老人が一人、カフェで長居する話。若いウェイターは迷惑がっている。妻がいる。初老のウェイターは老人に共感している。彼も眠れない夜を過ごす派なのだ。
 ジローは、複雑系科学の本を開いた。今日のページには、因果関係を疑うとあり、理解が難しい。
 ふつう、原因があって結果がある。原因をつきとめれば、同じ結果を再現することも、阻止することもできる。こうすればああなる、と。
 試合に勝った日に、ひげをそらなかった。だから、次の試合も、ひげをそらなければ勝てる…。これは極端だが。
 一つの問いに一つの答えを求める勉強にわれわれは慣れすぎている。自然界や実社会での現象のどれも、たった一つの原因で起こることはありえない。
 ジローがここまで理解するのに、三十分かかってしまった。
 コーヒーはすでに三杯飲み干し、もう飲めない。
 体が冷えてきた。ジローにはこの店内はクーラーが効きすぎている。
 ジローは席を立った。

52
 ジローは次の店に移動した。
 最近できたコーヒーのチェーン店。ここは、雑誌や新聞が何種類も置かれ、コーヒーと一緒に豆菓子もついてくる。どうやら、朝来れば、トーストと卵もおまけでついてくるらしい。
 ファミレスのクーラーで冷えた体を温めようと、ホットココアを頼んだ。
 雑誌に一通り目を通すと、この夏、政権交代の記事ばかり。
 いよいよ、団塊世代の同志たちの社会変革の夢が現実に近づくのだ。まずは、半世紀続いた政権党を権力の座から引きずりおろすことから始めなくてはならない。
 ジローは持ってきた本をまた開く。こうすれば、ああなる。この思考に何度裏切られてきたことか。がんばれば、成果が出るはず。しかし、がんばらなくても成果が出たり、がんばればがんばるほど悪くなったり、人生はそう単純ではない。
 労働者が団結して力を合わせれば、社会を変えられるはずだ。強者より、弱者のほうが圧倒的に数が多い。ゆえに、団結こそ力になる。しかし、ことはそう単純には進まない。
 実際、ジローの属すクミアイは少数である。ジローは、同僚に加入を呼びかけても、呼びかけても、フラれ続けてきた。
 一つの結果は、複数の原因によってもたらされ、一つの原因が、複数の結果をもたらすこともある。
 豆菓子のしょっぱさと、ココアの甘さが、心地よいハーモニーを醸し出す。塩を入れればしょっぱくなり、砂糖を入れれば甘くなる。料理も、そう単純ではない。塩と砂糖の配分だけでも、ずいぶんと味が変わる。
 季節、素材の状態、食べる人の好みや体調、料理の仕方、食器や盛りつけ、食べる場所の雰囲気、誰と食べるか、無限の要素が一つになり、初めて美味は生まれるのだ。
 ジローは、以前、同僚に誘われ、陶芸家を訪ねたことがある。その陶芸家の言葉を覚えている。偶然と必然の融合、これが芸術。自然が介在すると、思い通りにはいかない。やれることはすべてやって、あとは自然にすがるしかない。
 その陶芸家は、一週間、松のまきを燃やし続けるという。家族総出で、交代で眠り、二十四時間休みなく。
 人間は、コントロールすることで進歩しようとしてきた。自然をコントロールし、他者をコントロールして。コントロールができなければ、暴力的な手段さえ使って。
 ジローは、モモをコントロールできず、自分さえコントロールできない。
 はたして、人間はコントロールできるのか。人間のすることは、すべて、偶然と必然の融合なのではないのか。
 端から見れば、そんなジローはとても暇そうに見えるだろう。しかし、今、ジローはまったく暇ではない。ボーっとすればするほど、頭の中は超多忙になる。
 閉店間際に店を出て、帰りに缶ビールを買った。ひさしぶりの晩酌だ。まだ、夜は長い。

53
 自由第二夜、ジローのうちに、また他の男たちがやってきた。昨年、ジローが担任したクラスの卒業生三人だ。そのクラスは、就職・短大・専門学校コースで、男子が五人しかいなかった。その五人とジローの六人が、男組なる組織を結成した。
 体育会系女子が多いそのクラスでは、当然、主導権は彼女たちに握られていた。そこで、男子の団結を強める必要性から、ジローが男組を提唱したのだ。残念ながら、男子の結束は固かったものの、女子に対する影響力はほとんどなく、卒業まで、クラスは体育会系女子の意向に沿って運営されていった。
 その男組は、今も活動を続けている。時々、ジローのうちに集まり、男の料理を食べる。男の、男による、男のためのホームパーティーだ。会話のほとんどは、とても女子には聞かせられないようなものばかりである。
「お邪魔します。お、いい匂い。さすがセンセイ」
 元バスケットボール部男子が、先頭で、入ってきた。なかなか要求の多い男子だ。
「申し訳ないっす」
 元サッカー部主将が気を利かせて、二㍑入りペットボトルの烏龍茶を差し入れた。
「お邪魔します」
 声が小さいのは、元卓球部男子。
「ま、味見してみろ」
 と、ジローが鍋から汁を小皿にすくい、バスケに渡す。
「やべえ、これ」
 サッカーも卓球も味見をして、「やべえ」と言う。
 やべえは、彼らのほめ言葉の最上級である。
「二日かけたからな」
 バスケの執しつ拗ようなリクエストの豚の角煮だ。昨夜三時間蒸して、脂を抜き、今朝からトロトロになるまで煮込んでおいた。
「よし、仕事だ」
 ジローの号令で、三人がまず手を洗い、餃子作りに取りかかる。タネはジローが仕込んである。テーブルの上のボウルを囲み、全員、スプーンを片手に、タネを市販の餃子の皮で包んでいく。皮が足りなくなったが、強力粉があったので、水で溶いて皮をつくり、ひたすら包んだ。包み終わった餃子は、半分をフライパインで焼き、もう半分を卓上コンロの上の鍋で水餃子にした。
 白米が、フランス製ほうろう鍋ル・クルーゼで炊きあがった。ジローは電気炊飯器を信用していない。以前は持っていたのだが、処分してしまった。
 ジローはふたを開け、湯気が上がるつややかな白米にしゃもじを入れ、天地返しをした。茶わんによそい、男たちに分ける。
 この白米も「やべえ」と評された。
「なんで、こんなにうまいの?」、とバスケ。
「ごはんだけで、三杯はいける」、とサッカー。
「おいしい」と一言、卓球。
 それしか言えないのかと、卓球が二人に即座に責められる。
 白米は瞬く間になくなった。
「センセイ、もう炭水化物なんかないの?」、とあいかわらず注文の多いバスケ。

54
 冷蔵庫の中には大した食材がなかったので、男たちは仕方なくジローの書いたメモを持ってスーパーに買い出しに行った。
 食材がそろうと、今日一日動きの鈍い卓球が、ジローの細かい指示に従い、あんかけ焼きそばをつくった。
「これうまいぞ。よくやった」
 と、ジローは味見をして、卓球をねぎらう。この焼きそばも、「やべえ」と形容された。
 卓球は、いわゆる、いじられキャラである。つまり、からかわれるタイプということだ。たいてい、バスケがいじり始め、サッカーも便乗する。
「で、アンちゃん、どうなったの?」
 アンちゃんとは、高校時代、卓球がひそかに思いを寄せていた女子だ。卓球と同様、アニメが好きなようである。
「そうそう、それ聞こうと思ってたんだよねえ」、とサッカーが早速便乗する。
「いくときゃ、いかなきゃ、何も始まらないぞ。いってダメなら、次いきゃいいってわかるんだから、ダメでも前進なんだぞ」
 と、ジローも説教で参戦した。
「センセイ、たまにゃ、いいこと言うじゃん」
 バスケがからかう。
「たまか?」
「じゃ、ときどき」
「ときどきか?」
「いや、いつも、です」
「よし」
 そして、ついに卓球に白状させたところ、実は卒業式の直後、卓球はアンにすでに告白していた。面と向かってではなく、メールで、だったが。返信メールは、いまだ届いていないらしい。つまり、フラれたのだ。
「よくやった」
 ジローは椅子を卓球の隣に寄せ、卓球の肩を抱いた。
「その勇気すごくね?」
 めずらしく、バスケがやさしい声で言った。
「見直したよ」、とサッカー。
「その度胸がありゃ、カノジョできる日は近いな」
 バスケが熱く語り出した。
「これは、負けじゃないぜ。むしろ勝ちといえる」
 サッカーが右拳を握って、突きあげた。
 卓球の勇気と、サッカーとバスケのやさしさに、ジローの胸も熱くなった。焼きそばもなくなると、デザートだ。
「よしアイスロボⅢの出番だ」
 と、ジローはこれからかき氷を作ることを宣言した。この夏、アイスロボⅢの二回目の登場である。
「センセイ、かけるのあるの?」、とバスケ。
「心配するな。たしか、冷蔵庫に練乳がある。カルピスかけてもうまいぞ」
 バスケがそれらの賞味期限を調べた。すでに一年以上過ぎていた。
「ま、気にするな。大丈夫だ」
 卓球がすぐに椅子から立ち上がり、キッチンに立った。
「お、えらいぞ。ちょっと変わってきたねえ」
 その後も、男たちは女子の話題ばかりで盛り上がった。ジローも年齢を忘れ、その話題を終始リードした。

55
 次の日は、水泳部の練習があった。ジローが立てた練習メニューは、泳ぐ距離はさほどでもないのだが、ダッシュを繰り返すというかなり強度なものだった。
 プールサイドの黒板に、マネジャーがメニューを書くと、当然、選手たちからはブーイングの声が上がる。
「でも、早く帰れるぞ」
 と、ジローが言うと、それもそうだ、と一人が言い出し、他の選手たちもやる気になったようだった。
 スポーツの指導者がよく言うことは、練習量は裏切らないということだ。努力をすればするほど、よりよい成果が出る、と。しかし、現実は、努力しても負けたり、努力をしなくても勝ったりすることもある。これが現実だ。
 時に指導者は、究極の選択を迫られる。実力のない努力家を起用するか、努力をしない実力者を起用するか。もちろん、勝つためには、後者を起用するしかない。しかし、それは、練習量が選手を裏切り、努力が報われないことを認めることにもなってしまう。
 ジローが監督を務める水泳部も、今、その究極の選択を迫られていて、チーム内は揺れていた。もちろん、ジローの心の内も揺れていた。
 月末には地区大会があり、それに入賞すれば、県大会に進むことができる。それは、チームの大きな目標である。
「センセイ、どうすんの?」
 と、しっかり者の女子マネジャーが、八月に入り何度も言う。男子チームのことだ。さすがのジローも、最近、そのことではストレスを感じてはいる。
 次の地区大会では、県大会に確実に出場できるのは、ジローの予想ではエースだけ。そのエースを中心に、ベストメンバーでリレーチームを組めば、ぎりぎり入賞して、他三人、あわせて四人の男子が県大会に出場できるだろう。残念ながら、個人種目で勝算のある男子はエース以外にはいないので、このリレーチームの編成は、かなり重要になってくる。
 エースの次に速い準エースが問題なのだった。練習をサボるのだ。たまに練習に参加したとしても、一時間以上遅刻してくる。他の選手が疲れているころに、練習に合流し、得意げに速く泳ぐ。当然、他の選手はおもしろくない。プールの雰囲気も険悪となる。
 しかし、準エースに頼らなくては、リレーでの地区大会入賞は難しいだろう。この日も準エースは練習をサボった。ジローは何度もケータイにかけたが、応答はなかった。
 そんな状況での、短時間練習は、気分転換にもなったようだ。中には、練習後カラオケにでも行こう、という選手もいた。
 監督としての結論はまだ出していない。人生は、思い通りにはならないが、思いがけないことも起こる。こちらが思ってもみなかった答えが、むこうからやってくることを、特に水泳部では、何度も経験している。ジローは、積極的静観を決めた。

56
 まだ、昼までに一時間はある。ジローは、街の一番大きなスーパーへと車を飛ばした。モッツァレラチーズとゴルゴンゾーラチーズは、いつも行く小さなスーパーには売ってないからだ。
 ジローは食材を買い込み、うちに戻ると、ベランダのミントを摘んで、ハーブティーをつくり、冷蔵庫で冷やしておいた。バジルも摘んで、ニンニク、オリーブオイル、松の実、パルメザンチーズ、塩を混ぜ、すり鉢ですり、ペーストをつくった。
 翌日にはモモが帰ってくるというこの日、最後のシングルデーである。午後は、しっかりと有給休暇の申請をしてある。
 ジローは久しぶりに、短パンではないジーンズと靴下を履いた。洗面台の鏡の前に立ち、帽子をかぶっていたせいで、寝てしまった髪を濡らし、少しワックスをつけて、立体感のあるヘアスタイルにした。
 今日の午後は、シングル・アゲイン・クラブ(以下SAC)が開催されることになっていた。
 SACは、もう一度シングルになった独身主義者の集まりである。お互い慰め合うのではなく、お互いを高めあうことを目的としている。
 といっても、活動内容は、ただ参加者がおのおの料理をつくり、レシピを教えあい、食べては語り、語っては語ることだ。
 そのメンバーは、いまのところ、ジローを含め、二人である。
 やがて、ドアチャイムが鳴った。ジロー以外の唯一のメンバー、シングルマザーのユキノが到着した。入道雲の白より白いワンピースを着ていた。
 ジローは、彼女のサラダのようなところが気に入っている。化学調味料などの過剰な味付けがされてないオーガニック野菜のような女性である。素材そのものの味が伝わるようなナチュラル・ビューティーの持ち主だ。
 ジローは、シングルマザーが好きである。同じシングルペアレントということで、共感できることも多いからだ。
 ユキノは、結婚に幻想を抱かず、所帯じみてなく、男にこびず、自分の足で立ち、太陽に照らされて光る月ではなく、自ら輝く太陽のような独身主義者。
 つられて、ジローも独身主義者となった。独身主義者は、男女の関係を築くとき、法律や家制度で相手を所有しようとしない。よりかかるのではなく、よりそう関係が理想だ。
 人間関係というのは、いったん成立すれば、ずっと続くようなものではない。会うたびに、お互いが試され、時には緊張感も伴うもの。いったん結婚すれば君は永遠に僕のもの、というわけにはいかないのだ。
 もちろん、誰かを好きになったら、その関係はずっと続いてほしいものだ。しかし、そのために相手を所有しようとしたら、かえって関係を終わらせてしまう。
 家事や育児や家計の必要性から続く関係もあるだろう。しかし、それはSACの目指す関係ではない。
 今、二人がここにいる理由は、二人がここにいたいからだ。その他に理由は、何もない。

57
 前菜は、モッツァレラチーズとトマトとレタスのサラダパスタだ。
 ジローがキッチンに立つと、隣にユキノが立って、必要なときに必要なだけ、さりげなく手を貸す。ジローがチーズと野菜を切って、ボウルの中に、氷水で冷やしたスパゲティと一緒に入れた。その間、ユキノが、ドレッシングをつくる。オリーブオイル、蜂蜜、ワインビネガー、岩塩、四色ペッパーを、二人で味見しながら、混ぜる。最後に、ドレッシングと野菜とスパゲティをあえて、できあがりだ。
 二人は、丸テーブルの時計でいうと三時と六時の位置に座った。向かい合うわけでなく、ともに同じ方向を向くわけでなく、時間と空間を共有しやすい心地よい距離感だ。
「ジロー君、いつもこんなにおいしいの食べてんの?」
「今日は調子いいみたい」
「モモちゃんも幸せだね」
「モモは、こういうの好きじゃないみたい」
 ユキノがジローの膝に手を置き、笑った。それは、ユキノにとっては大した意味のない自然な行為でも、ジローにとってはなかなかの刺激だ。
 湯はパスタ鍋の中で、沸騰したままなので、食べている間に、次のパスタをゆでている。
 二品目は、ベランダで育てたバジルのペーストを使った。パスタとついでに一緒にゆでたスティック状のジャガイモに、そのペーストをあえる。
「ペーストは、たくさん作ったから、瓶に詰めて、お土産で持っていって」
 ジローはまたユキノを喜ばせる。ユキノに見つめられ、ジローは照れて、皿に視線を落とす。
 最後は、かびの生えたチーズ、ゴルゴンゾーラを使った。ニンニクのみじん切りをオリーブオイルで炒め、生クリームを注ぎ、チーズを溶かし、ギザギザの太いマカロニのようなペンネとあえる。
「手際いいね」
「そう?」
「私はそんなに要領よくできないから」
 ジローはほめられて伸びるタイプだ。ユキノが来るたびに、料理がうまくなっていく。
「もうおなかいっぱい」
「じゃ、デザートにしよう。ミントティー冷やしておいたから」
 ユキノが、ジローを制して、立ち上がった。
「いいの。あとは私がやるから」
「じゃ、ミントティー冷蔵庫から出さなきゃ」
 立ち上がろうとするジローの両肩に、ユキノが手をのせ、背後から言った。
「ジロー君は、立たなくていいの。あっちのソファにでも座っててくれればいいから」
 デザートはユキノの担当だ。
 アイスロボⅢの出番は今日はなさそうだ。
 座っていれば食べ物が運ばれてくるということは、ジローがもう何年も経験していないことだった。デザートに期待をふくらませ、胸が高鳴るという言い古された現象が、本当に胸のあたりで起こっていることに驚いた。

58
 残念なことに、ユキノは、晩ごはんの支度があるからと、まだ明るいうちに帰っていった。
 ジローは、その夜、ぽっかりと穴が空いたように暇になった。明日はモモが帰ってくるため、ジローの最後のシングルナイトである。
 その夜、花火大会が予定されていた。電車で三駅ほどいったところの河川敷で行われるのだが、人混みの嫌いなジローは、毎年近くの山の頂上まで車で登り、モモをつきあわせて、その遠い花火を眺めた。ラジオを聞きながら、麦茶を飲みながら、菓子を食べまくりながら。
 天気はよさそうだった。予定通り花火大会は行われるだろう。
 ジローが誰を誘おうか考えると、一人しか思い浮かばなかった。襟のあるシャツとジーンズと靴下を脱ぎ捨て、短パン、Tシャツ、サンダルのいつもの格好に着替え、ジローは実家へと車を飛ばした。
 実家では、ちょうど夕飯時だった。
「おなかはどう?」
 と、ヨウ子が、おかえりを言った後に、聞いた。ジローは、もちろん、空腹だ、と答えた。
「ちょうど、ナスとキュウリとシラスをもらっただよ」
 と、ヨウ子が言う。テーブルの上の新聞紙の包みを開くと、形はいびつだが、ツヤとハリのある野菜たちが姿を現した。
「ほんとうに、ありがたいよ」
 と、ヨウ子が言う。店の収入が途絶えた今、かつての店の常連客が野菜を時々届けてくれるのだ。
「じゃ、これでおかずつくるよ」
 ヨウ子は、それを聞くと、安心したのか、居間で横になった。居間には、たばこをふかしながらテレビのニュースを見るトモカズと、オマルに座るイチローもいた。
「なんか手伝うかね」
 と、きほがエプロンをつけて台所にやってきた。
「じゃ、野菜でも切ってて」
 ジローは、一人でも簡単にできるのだが、あえて、きほに頼んだ。本当の不幸は、誰からも必要とされないこと、と聞いたことがある。
「おばあちゃん、ごはん食べたら、花火見に行こう。粟ケ岳の頂上まで車で上れば、川の向こうに遠い花火が見下ろせるよ」
「そりゃ、よさそうだやあ」
「だから、すぐに行けるように、支度しておいて」
「そうするでね」
 早速、ジローは、ナスを網の上で焼きながら、キュウリを薄く切り、塩をふった。ショウガをすり下ろし、汗をかいたようなキュウリを手ぬぐいで包んで絞った。ショウガは、焼きナスの薬味に使う。キュウリは、酢、砂糖、シラスとあえ、塩で味を調え、うりもみにした。
 ジローは居間のトモカズを台所に呼んだ。
「ちょっと、うりもみ、味見て」
「もうちょっと、砂糖だなあ」
 この家の伝統の味は、やや甘めである。
「で、どうなの、このごろ?」
 ジローが、トモカズに小声で話しかける。ジローの質問に、トモカズの反応がない。

59
 トモカズはもともと耳が遠いのだ。もう一度、声をかけると、ようやく答えた。
「まあ、あと三カ月やそこらは、かかるなあ」
 ヨウ子の様態である。
「まだ、一人にしとけないでな。オレが見えるとこにいにゃあ、いかんだで。たばこを買い行くにもついてくるから、まったくまいっちゃうよ」
 すると、居間から、ヨウ子がキツい口調で言った。
「聞こえてるでねえ」
「これだで、まいっちゃうなあ」
 ジローもトモカズも笑った。
 会話の最中にトモカズが、片耳に手を当てて、何度も聞き返すので、ジローはトモカズの耳の調子を尋ねた。
「オレ、こっちの耳が聞こえんくなっちゃっただよ」
「で、もう片方は?」
「それが、こっちの感度がよくなったから、電話がよく聞こえるようになったなあ」
 ジローにとっては、片耳が聞こえなくなったら一大事だが、トモカズにとってはそうでもないようだ。かえって、電話が前より聞こえるようになって、便利になった、と喜んでいる。
「じゃあ、得したねえ」
「まあ、そんなとこだなあ」
 ジローは、あらためて、人生はつくづくプラスマイナスゼロであることを思いながら、うりもみに砂糖を多めに入れて、かき混ぜ、トモカズに再度味見を頼んだ。
「これで、おばあちゃんのと同じ味になったなあ」
 ジローと、ジローの祖母、両親、兄の五人がテーブルに着いた。白いごはんと、おかずは焼きナスとうりもみと冷ややっこだけ。イチローには、ラーメンのどんぶりにごはんを入れ、その上におかずをのせた。トモカズとジローのごはんは大盛り、きほはふつう盛り、そして、ヨウ子の茶わんには鳥のエサ程度。
「兄ちゃん、おいしい?」
 ジローが聞くと、イチローはスプーンをすすめる右手を休め、指を鳴らした。
「こういうおかずがが一番いいなあ」
 と、トモカズが言う。
「いい味だよ。ね、お母さん」
 と、ヨウ子が、きほに言った。
「あんた、男だに、よくやるねえ。昔は男やもめにゃうじがわくって言ったもんだに」
 ここのところ、経済的事情から、この家の食卓に肉や魚が上らないことがよくあるが、戦争をくぐり抜けたきほにとっても、貧しい幼少期を過ごしたトモカズにとっても、大したことではないようだ。毎日米を食べられるだけでもありがたいのだろう。粗食は、家計だけでなく、体にもやさしそうだ。これもプラマイゼロ、いや、むしろプラス、とジローは思った。
 夕食後、トモカズがしきりにヨウ子に薬をきちんと飲むようにと言った。
「わかってるで、いいよ」
 と、ヨウ子が面倒くさそうに答える。
「ちゃんと食べなきゃ、薬飲めんぞ。薬は食後に飲むんだから」
 トモカズは、子どもに対するような口ぶりだ。

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 ヨウ子の食欲はいまだに戻っていないようだ。薬を飲むためにしかたなく食事をしているのだろう。食後のお茶を飲むと、ジローは、きほを連れ出した。
 一時間もたたないうちに、山道を、ジローが運転する軽自動車は上っていった。コンビニに寄り、和菓子とペットボトルの緑茶も買い込んだ。高度が上がるにつれて、道幅が狭くなる。対向車はまったく出合わない。こんな時間に、山に来るような物好きはまずいないだろう。
 きほは、女学校の遠足で、この山頂まで歩いて登ったのだそうだ。ここに来るのは、実に七十年ぶりくらいのことだ。きほは、話し上手で、いきいきとその時の様子を話す。ジローは何度も聞いたことがあるのだが、あまり退屈することはない。
 やがて、眼下の町の夜景が広がった。
「ほい、きれいだやあ」
 と、きほが言うが、ハンドルを握るジローは見ることができない。よそ見運転などしたら、崖から落ちてしまう。
「なんだか、おっかないねえ」
 頂上には、屋上に展望台がついた売店と駐車場がある。売店はすでに営業を終え、駐車場にも車はない。
「着いたよ」
 ジローは車を、花火大会が行われている方向に向けて止め、窓を全開にした。この高度だと蚊はいない。煎餅の袋を開けた。
「おばあちゃん、団子もあるよ」
「この夜景だけでも十分きれいだやあ。宝石箱をひっくり返したみたいってよくいうけど、ほんとそんな感じだねえ」
 煎餅の次に団子を食べ始めると、フロントガラス越しの夜景の底に小さな水中花のような花火がポツポツと上がった。
「あれは仕掛け花火っていうだよ」
「へえ、そうなの」
 もちろん、ジローは知っている。
「あれやあ、近くで見たら、大きなしだれ柳だねえ」
 続いて、スターマインが上がる。色とりどりのドーナツ型の花火がうち上がる。
「近ごろじゃ、ああいうのもあるだねえ」
「近くだと、人混みで大変だから、ここから見るのが一番いいよ。夜景もいっしょに見れるし」
「長生きはしてみるもんだねえ」
 ジローは、いつかここからの花火をきほに見せたい、とずっと思っていた。
「後で、音がなるだねえ」
 ジローは、音速と光速のことを説明しようと思ったが、面倒になってやめた。
「来年は、お母さんも連れてこよう」
「また一年、長生きしにゃいかんねえ」
「来年なら、お母さんも元気になってんじゃない?」
「なってもらわにゃ、困るやあ」
  最後の仕掛け花火は、ナイアガラだった。きほは、ナイアガラというマリリン・モンローの映画を見たことがあるという。
「ジローのおかげで、今日はいい保養をさせてもらったやあ」
 ジローにとっても、なかなか悪くない保養になった。

弟4章「お盆休み」

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 お盆が近づいてきた。世間がお盆休みに入る前に、ジローは生徒会本部のメンバーに集合をかけた。毎年恒例の夏休み企画、民主主義実践強化訓練だ。ジローは、生徒会顧問でもある。
 学校行事には、教師主導のものもあれば、生徒主体のものある。学校祭や球技大会などは、生徒会本部が中心となって、千人近くの人間を動かすのだ。
 これは、瞬速仕事師のジローをもってしても、なかなかの労働である。連日のサービス残業で、晩ごはんも、ついついスピードメニューになりがちだ。
 たしかに、大きな行事を成功させれば、大きな達成感を味わい、生徒たちは大きな成長を遂げるのだが、いかんせん時間がかかりすぎる。
 ジローは生徒会顧問を十年以上続けているのだが、この時短にも、ずいぶんと苦心してきた。
 そして、ジローがたどり着いた結論は、民主主義だった。
 民主主義が一番速い。
 もし、ジローが専制的リーダーだったら、行事の全体像だけでなく、それに要する作業のすべてを把握し、事細かに指示を出さなくてはならない。
 この専制主義では、リーダーの資質が問われる。
 もちろん、ジローは自らの資質に幻想を持っていない。
 一方、民主的リーダーは、メンバーの討議で導き出された結論を尊重する。メンバー全員が、討議に関わるので、全員がその全体像を把握し、全員がその決定に責任も感じる。
 こちらは、たとえリーダーが優秀でなくとも、メンバー全員が動く。結果、速くなるのだ。
 完全なリーダーの下での専制主義は、もっとも速いだろう。しかし、人間とは不完全なもの。もし、リーダーが優秀でなかったら、指示を待つメンバーは動かず、仕事はいつまでたっても終わらないだろう。また、そのリーダーが暴走すれば、メンバー全員も暴走し、収拾がつかなくなるだろう。
 その日、ジローはモモの朝ごはんをつくりながら、モモの弁当もつくって、出勤してきた。そして、午前中に水泳部の練習を終えると、調理室に向かった。
 生徒会本部のメンバーたちが、午前中に何をつくるか、討議をして、役割分担もして、もう昼食が用意されているはずだ。会費は、一人三百円。すでに、ジローは、朝のうちに会計長の生徒に払ってある。
 今ごろモモがうちで弁当を食べているはずだ。ジローがつくった弁当は、韓流のっけ弁。白いごはんの上に、豚ひき肉を炒め、コチュジャンとしょうゆとみりんで味付けてしてのっけ、さらに、モヤシとにんじんとニラをごま油で炒め、塩で味付けしてのっけた弁当。彩りもよく、上の具のごはんへの染みこみ具合が絶妙な弁当。
 さて、調理室では、男子五人だけが、まだ昼食を準備していた。メンバー十二人のうち、男子は五人のみ、彼らが調理を担当することになったようだ。
「で、女子は料理しないの?」
「しません」と、副会長が言う。
「で、女子は何やってるわけ?」

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 午前中の会議で、料理に自信のない男子生徒たちは、料理を女子に押しつけようとしたらしい。それはフェアではない、と女子生徒会長が怒り、それなら男子が料理をして、女子が生徒会室の掃除をするということになったという。
「ま、それは男子が悪いな。何のために、家庭科の授業を男女一緒にやってると思ってんだ。昔は、女子は調理実習で男子は本棚づくりとか別だったんだぞ」
 そんな教育を受けたジローは、家事はオンナがしてくれるものと大きな勘違いをしてしまったことがある。
「料理できないオトコはだめだ」
「え、先生はできるんですか?」と、すかさず、副会長が聞いてくる。
「当たり前だ」
「高校生のときもできたんですか?」
 ジローは一瞬記憶をたぐり寄せる。
「できなかった」
「じゃ、大学生のとき一人暮らしで」
「いや、インスタントラーメンばかり食ってた」
「じゃ、社会人になってから」
「いや、第一次独身時代は、毎晩、外食だった」
 彼らここで気づいた。
「バツイチになってから…」
「ま、必要に迫られてということもあるが、better late than neverだ。意味わかるか?」
 ジローは、パソコン担当の二年生男子にきく。彼の学力は、この中で一番高い。
「六十の手習い」
「そうだ。人生に遅すぎるということはないぞ。それに、料理できる男子はモテるらしいぞ」
「おれ、料理がんばるよ」と、副会長。
「じゃ、先生はモテモテですか?」
 シャイな一年生男子がおそるおそる聞く。
「当たり前だ」
 彼らが買ってきてあったのは、焼きそばの食材だった。
「焼きそばなんか、失敗するほうがむずかしいだろ。それで、女子が喜ぶか?」
 彼らは首を横に振る。
「料理ってのは、ひとを喜ばせなくちゃならない」
 そこで、調理室に常備してある小麦粉を借りることにして、ジローの得意の広島風お好み焼きをつくることになった。
「おい、デザートは?」
「もう冷蔵庫の中にありますよ」
 副会長は、やや得意げだ。
 牛乳と混ぜるだけでできるフルーチェ。
「それだけか?」
「トマトも切ります」と一年生男子が、トマトを切る。調理室の切れの悪い包丁で押し切ろうとするので、トマトがつぶれ、まな板が水っぽくなる。
「包丁の先で、切れ込みを入れて、そこから切れば、つぶれないだろ」
 ジローが実演すると、彼らは手をたたく。
「急げ、料理で女子を驚かせてやれ。僕が見ててやるから」
「先生は、手伝ってくれないんですか」と副会長。
「甘えるな」とジローは笑顔だ。

63
 男子チームは、見事に、その料理で女子を驚かせ、喜ばせることに成功した。
 そうとう散らかっていた生徒会室も、女子のおかげですっかり片づき、机の上に積み上げられていた書類の山も消えた。
 今、生徒会本部メンバー十二人がその机を囲んで座った。
「では、恒例のしゃべり込みを始めます」
 と、女子生徒会長が言う。
 ジローは、生徒会室は学校における民主主義の牙城だと考えている。学校というところは、実に民主主義の実践が難しいところだ。職員会議は、どんなに議論を尽くしても、最後は校長の意向で決まる。教室でも、もし教師が、授業をするかどうか生徒の多数決をとったら、たいていの授業はつぶれ、生徒の学力は落ちるだろう。だから、時に、教師は有無をいわせず教えなくてはならない。
 ジローは、今日、民主主義を教えるためにここに来ている。メンバー全員が参加して、一つの結論に達するまで、自由に、対等に、しゃべり込む。これが、民主主義の基礎づくりだ。
 三年生が引退し、新執行部が発足したばかりのこの生徒会室で、民主主義が確立され、教師の指示がなくとも、メンバー全員が、自ら考え、自ら動くようになることを、ジローは期待している。ジローの仕事の軽減と時短も大いに期待している。
「先生、お題をお願いします」
 ジローが、調理室で皿洗いを手伝いながら思いついたお題を発表する。
「ドラえもんのキャラで、生徒会長にすべき人物は誰か? のび太、ジャイアン、スネ夫、静香、出来杉の五人で。ただしドラえもんの助けは借りない。多数決で決めるのもダメ」
 生徒たちは笑った。ジローは、ふざけているようだが、いたって真面目である。
 まず、生徒会長の指示で、AとBの二つのグループに分かれた。それぞれのグループで結論を出し、あとで合流することになった。
 会長のいるAグループは生徒会室に残り、副会長のいるBグループは、生徒会室の前のホールに椅子を出して、丸くなって座った。
 ジローはBグループのそばに椅子を置いて座った。こちらのほうが、生徒会室の中より風通しがよさそうだからだ。
 メンバーたちが、黙って考えて始める。セミの声が、ジローの耳によく届く。たまに吹き抜ける風が心地よい。
 副会長が最初に自分の意見を発表した。
「オレは、ジャイアンにしたんだよね。リーダシップがあっていいかなと思って」
「それはないな」と二年生のパソコン担当の男子が反対する。「オレは、静香ちゃんが一番。静香ちゃんのためならオレはがんばれるし」
「それ、下心じゃないですか」
 と、会計担当の二年生女子。他の女子もうなずく。
「私はやはり、出来杉君かな。頭いいから」
 議論は冒頭から熱くなる。

64
 乱暴なジャイアンは武力の象徴、バイオリンを弾く静香は芸術の象徴、優等生の出来杉は知性の象徴、金持ちの家に生まれたスネ夫はカネの象徴。では、のび太は何の象徴か? 議論は深まっていく。
「じゃ、のび太の特徴を言っていこうよ」
 副会長の提案に、メンバーたちが次々に発言する。
 なまけもの。甘ったれ。泣き虫。核家族の一人っ子。他力本願。あやとりが上手。取りえがない。
「だけど、将来、静香と結婚するし、有名なロボット学者になるんだよなあ。ある意味、うらやましい。今はイジめられて大変だけど」
 パソコン担当の切り口にメンバーたちが感心する。
「体力もないし、芸術的センスもないし、お金もないし、頭脳もないし、私ってのび太」
 会計担当の二年女子が言う。
「しかも、ドラえもんのいないのび太」
 パソコン担当がそう言うと、会計担当は開き直る。
「どうせ、私はのび太ですよ。でも、みんなのび太なんじゃないの?」
 ジローも、実に自分がのび太であることを日々思い知らされている。
「ジャイアンはどっちのジャイアン? テレビそれとも映画」
 パソコン担当によると、毎週金曜日に放送される「ドラえもん」のジャイアンは意地悪だが、毎春公開の映画のほうのジャイアンは、強さとやさしさを兼ね備えているのだそうだ。
「先生、どっちのジャイアンなんですか?」
 副会長が聞くが、ジローはすぐには答えられない。
「映画のジャイアンは年一回だから、毎週のジャイアンが、ホントのジャイアンだよ」
 会計担当の意見に、みな同意した。ジローは立ち上がり、生徒会室の中のAグループに「映画じゃなくてテレビのジャイアンでよろしく」と伝えた。
 二時間などあっという間に過ぎていく。結局、Bグループでは、のび太を生徒会長に推すことになった。あえて、頼りないリーダーを立てることにより、メンバーにのびのびと個性を発揮させるのがねらいだ。
 生徒会室で両グループが合流した。Aグループは、ジャイアンを一番に推していた。女子生徒会長の強い意向が働いたようだ。彼女は、絶対に譲らない、と宣言し、議論が始まった。
「のび太は、何の取りえもない普通の子。誰の中にも弱いのび太がいるはず。そんなのび太をみんなが支えていく。最後に勝つのは、のび太。将来は、静香と結婚できるし」
 パソコン担当が自信を持って、そう切り出した。
「やっぱり会長は、リーダーシップでしょ。のび太は、決まるものも決まらないし、実行力がなさそう。ジャイアンは、たしかに性格悪そうだけど、やるときはやりそうじゃない」
 生徒会長の片腕的存在の一年女子が切り返す。なかなか弁が立つ。議論は真っ向から対立だ。

65
 ディベートとディスカッションは違う。ディベートは、二つのグループが、あるトピックに対して、賛成側と反対側に分かれて討論し、どちらが、説得力があるかを競う。賛成側のグループに入ったら、自分の意見がたとえ反対でも、賛成の意見を言わなくてはならない。ディベートは、勝ち負けのある言葉のゲーム。目的は、論理的な話術で、相手を論破すること。
 ジローも数年前に生徒会の合宿で、メンバーたちにディベートをやらせたことがある。そのときは、おにぎり対サンドイッチでたたかった。議論は深夜まで続き、翌朝も続けられた。
 ディベートでは、結論はそれぞれのグループで決まっている。決して揺るがない。議論は尽くしても尽くしても、平行線。
 たしかに、そのときのメンバーたちはしゃべり込んだ。遠慮しがちな下級生にも発言機会が十分に与えられ、全員が議論に参加することができた。
 しかし、結局、両グループともいがみあったまま、勝敗はつかずに終わってしまった。
 それは、ジローにとっては少し苦い記憶として残っている。
 そんなことを思い出しながら、ジローは議論を聞いていた。これは、ディベートではなく、ディスカッションだ。勝ち負けはない。全員一致で、一つの結論を出すのが目的である。
 いったん、議論を中断し、休憩となった。ジローが購買の自動販売機で、好物のバナナオレを買っていたら、生徒たちにせがまれ、全員分おごることになってしまった。これも、民主主義への投資と、ジローは自分を納得させた。
 議論が再開すると、出来杉の頭脳とスネ夫のカネも捨てがたいという意見も出た。
「私は何度も言うけど、絶対にジャイアン。ここは譲れない」
 会長の語気が荒くなった。その勢いは止まりそうにない。ジローは交通整理をすることにした。
「ものごとは、声の大きさや肩書きで決まっちゃダメなんじゃないかなあ。会長が絶対に譲らないとか言ったら、ルール違反だよ」
 途中で、バナナオレのストローを二回ほど吸って、穏やかにそう言った。
 会長は自分がジャイアンになって暴走していたことを認めたのか、しばらく聞き役となった。
 執行部に入ったばかりの一年生たちが、先輩に促され、意見を言い始めると、今度は静香の人気が上がってきた。
 ジャイアンにひとがついていくのは、怖いから。一方、静香についていくとしたら、その優しさや誠実さや感性に引かれてのことだろう。
 議論は三時間を超え、ようやく、全会一致で、静香生徒会長が誕生した。
「今日は意地張ってごめんなさい。今は納得できたし、スッキリした」と会長が言うと、他のメンバーも笑顔で納得する。
 この小さな一歩は、生徒会本部の大きな飛躍、日本の民主主義への一歩でもあることを、ジローは確信していた。

66
 月末に大会を控えた水泳部も、さすがにお盆休みはとる。ほんの三日ほどだが。
 お盆休みの前は、恒例の一日練習である。いつもは午前中だけの練習なのだが、この日は午前午後と二回練習して、十㌔ほど泳ぐ。この夏、一番きつい練習である。この日をピークとして、徐々に練習量は大会が近づくにつれて減っていく。
 一日練習を明日に控え、練習後、プールサイドでミーティングが開かれた。とりあえず、明日の昼食をどうするかだ。
「先生、カレーよろしくお願いしますね」
 女子のエースである部長が言う。ジローのカレーも恒例なのだ。ミーティングの結果、明日は全員、ごはんと飲み物を持参することになった。デザートは、毎年、一日練習をのぞきに来る卒業生の差し入れに期待だ。
 そして、もう一つの議題を話し合った。この日も練習をサボった準エースのことである。
「おれは、明日の一日練習いっしょに泳がなかったヤツとはリレー組みたくない」
 準エースのライバル的存在のマッチョな男子が言う。
「明日来なかったら、もう決断するしかないんじゃない?」
 部長が、男子エースの意見を求める。彼はただうなずいた。
 そして、ジローはケータイをとりだし、準エースにかけた。留守番電話になっていたので、そのことを告げた。
 その翌朝、ジローが卓上コンロとカレーの入った鍋を二つ持って、プールに行くと、選手たちはストレッチを始めた。
 準エースはいなかった。
 ストレッチの間に来るかもしれない、とジローはかすかな期待を持った。彼が今日来れば、リレーメンバーに入り、男子のリレー県大会出場は確実だ。
 ストレッチが終わった。ジローが練習メニューを説明し、全員でプールへあいさつをした。
 ジローは部員を集合させた。
「ま、男子リレーはあいつ抜きで、組むことにしたから」
 ジローは、一年生部員の名前を呼び、彼が返事をすると、言った。
「おい、リレーで平泳ぎ行くぞ」
「はい。がんばります」
 彼は覚悟はしていたようだ。
「一番、遅いってことは、一番、速くなるってことだぞ」
 午前の練習が始まった。午後の練習を軽くするため、午前の練習のほうがきつかったが、選手たちはお互いに声をかけあいながら、長距離を泳ぎ切った。
 選手たちがクールダウンして、着替える間、ジローはプールサイドの机に卓上コンロを置き、二つのカレーの鍋を交互に温めた。一つは、豚ひき肉とタマネギとほうれん草のカレー。もう一つは、鶏胸肉とタマネギとトマトが入ったカレー。市販のルーを使えば簡単だ。時間をかけない割に美味だ。
 部員たちが白米だけ入った弁当箱を持って、プールサイドの日陰に集まって、座った。部長が、手を合わせるように言う。
「じゃ、先生、いただきます」
 他の部員も唱和して、カレーパーティーが始まった。

67
 ジローは、ブランチの後のデザートに、梨をむいていた。
 モモは思い出して、怒り出した。
「結末、言われちゃったよ。どうなるか楽しみにしてたのに」
 モモが読書感想文のために読んでる「こころ」のことだ。卓球部顧問は国語教師で、何を読んでいるか聞かれ、そのときに言われてしまったという。
「あの先生は、友達の好きな人と結婚して、その友達が自殺しちゃったんでしょ」
 まったくその通りである。
「それで、先生も自殺しちゃう」
「え、そうなの?」
「あ、そこまでは知らなかったのか」
「また、言われちゃったよ。もう読む気なくした」
「待て。ここでやめたらもったいないぞ。名作読破できるのに」
 ジローも、今、こころを読んでいるが、それは三回目である。もちろん、あらすじは知っているが、退屈はしない。
「旅だってさ、ガイドブックの写真見て、何があるか知ってても、行けば楽しいだろ?」
「それはそうだけど」
「読書はな、旅みたいなもんなんだって」
「旅?」
「好きなところには何度も行くだろ。同じところにいっても、自分はいつも同じとはかぎらないから、毎回、新しい自分と対話できるんだなあ」
「誰が言ったの?」
「パパの考えだって」
「うそだ」
「で、こころのどこがおもしろいんだ?」
「散歩するとこ。先生と、電車乗って降りて、また散歩するんだよ」
 歩きつつ語る、語りつつ歩く。ジローはもうずいぶんとしてないことだ。
「モモ、散歩行くぞ」
「暑いからいやだ」
 その日も猛暑が予想されていた。
「たしかに、そうだな」
 ジローはモモと最後に歩いたのはいつだろうと、記憶をたどったが、忘れてしまった。
「パパ、あの先生、何の先生?」
「何って、そりゃ、人生の先生じゃね」
「パパは何で先生になったの?」
「そりゃ、人生を教えるために決まってるだろ」
「絶対、うそ」
 実は、ジローにもよくわからない。もう熱血教師ではなく、熱すぎず冷たすぎず常温教師に成り下がってはいるが、ただこの仕事は嫌いではない。
 そんな話をしているうちに、ドアチャイムが鳴った。
 モモは、今日、いとこたちと会うことになっている。モモの母親が迎えに来たのだ。大きなサングラスをヘアバンドのようにして、今日もまぶしい彼女に、ジローはモモを引き渡した。
「で、その後、ストーカーは?」
「おかげさまで、大丈夫。その節はお世話になりました」
「いえいえ」
「パパ、じゃ、いってくる」
「おう、いってこい」
ジローは、ぽっかりとその日は暇になった。

68
 シュフにとって、一人の時間は、めったにない貴重な時間だ。自分の、自分による、自分のためだけのお一人様タイム。
 ジローは、軽自動車に乗り込み、まず、お気に入りの喫茶店を目指した。山のほうに向かい、茶畑の中を登っていく。
 三十分も走ると、突然、見落としそうな小さな喫茶店が現れる。自家焙ばい煎せん珈琲と看板にある。
 駐車場から茶畑の裾野を見下ろせる。店内はまったくの異空間だ。天井が高く、小さな絵が程よく飾られ、内装はログハウス調、静かにバロック音楽が流れ、外国に来たかのようだ。
 ジローがいつも飲むのは、クリスタルブレンド。無口なマスターがドリップしたやや濃いめのコーヒーが、やや小振りの白いカップに入って出てくる。
 シュフとは、日常の専門家である。日常を見直し、その家事の技を研ぎ澄ますには、このような非日常も必要なのだ。
 北欧のインテリアの雑誌をめくりつつ、コーヒーを味わう。
 一度モモを連れてきたことがあるが、さっさと飲み終え、そわそわし出した。モモにとって、喫茶店は飲み物を飲むところ、飲んでしまえばそこにいる意味がないのだろう。この店は、やはり、お一人様にかぎる。
 ジローは雑誌に飽きると、文庫本を取り出した。こころだ。モモが言っていた電車で散歩に行く場面が本当にあって、驚いた。散歩しながら、金がひとを変える、と先生は言う。金で裏切られたことがあるのだ。モモがこれをおもしろいとは、おもしろい。
 ジローは喫茶店を出ると、髪を切りたくなり、美容院に電話して、すぐ予約をとった。
 三十分後には、ジローは髪を洗ってもらっていた。ジローより少し年下の彼女とは、もう八年のつきあいである。
「この夏はモモちゃんとどっか行くんですか?」
 顔に布をかぶせられたジローに彼女が聞く。モモも彼女に髪を切ってもらっている。
「今年は、ただうちでダラダラしてますよ」
「それも、いいですね。うらやましいですよ」
 彼女はジローの主治医のようなものだ。ジローは、いたって従順である。
「じゃ、今日はちょっと冒険して、アシメにしちゃいましょう」
「ああ、はい」
 ジローはリコン直前、彼女に言われ、勇気を出して髪型をかえ、メガネもかえ、ついでに生き方もかえた。
「生徒さん、びっくりしますよ」
 生徒は教師の変化に敏感だ。少しの変化で大げさに反応する。あまり生徒と会わない夏休みでよかった、とジローは思った。
 外していたメガネをかけて、前の鏡を見ると、前髪が左右長さが違う。髪の上のあたりは、ツンツン立っている。
「かっこよくなりましたねえ」
 それはジローにはよくわからないが、彼女に髪を切ってもらうと、間違いなく気分が前向きになる。そのとき、ポケットの中のケータイが振動した。メールが届いたのだ。

69
 美容院を出てから、ケータイを開いた。
「ごぶさたしています。帰省しました。先生のうちにおじゃましてもいいですか?」
 メールはジローの教え子の古田からだった。前々任校で、ジローが顧問をしていた生徒会の本部役員の一人だ。当時、ジローはリコンほやほやで、彼にはベビーシッターをよく頼んだ。
 ジローが何を食べたいか聞くと、魚というので、魚屋で鰹かつおを買って帰った。
 ヒグラシが鳴き始めたころ、ジローは晩ごはんの準備にとりかかる。やがて、古田がやってきた。バイクで来たという。
「いちおう、これお土産。人気のお菓子だよ」
 生のマスカットが入った和菓子。なかなか買えないという。
 古田は、キッチンでジローの隣に立ち、近況を報告した。今も東京の私立中学で、技術科を教えている、と。幸いなことに、これまでは毎年契約を更新する講師だったのだが、来春からは正規教諭になれそうだという。
「それは、めでたいな。このご時世」
「で、今年が勝負なんだよね」
 古田は、現在、陸上部の顧問をしているが、競技経験もなく、苦労しているらしい。
「先生が部活してるところ、見学させてほしいんだよね」
「そんなの参考になるわけないだろ? やめとけ。専門の先生に頼んでやるぞ」
 他の専門の先生の指導を見ても、まねできないので、役に立たない、と古田が言う。
「今うちもごたごたしてるんだって。来ても学ぶことはないぞ」
 ジローはなんとか古田に見学を諦めさせようとする。
「それなら、なおさら、見学したいんだよね。うちの陸上部はもっとごたごたしてるからね」
 ジローはしゃべりながらも、手を休めることはない。みそ汁とサラダを作り終え、いよいよ鰹に金串を四本刺した。
「何すんの?」
「あぶる」
 コンロの火に、扇状に串刺した鰹をかざす。
「古田、氷水をボウルに用意しろ。早く」
 鰹があぶられて白くなると、氷水につけた。そして、伝家の宝刀を取り出した。
「すごい、刀みたいだね」
 ジローが父親から譲り受けた刺身包丁だ。料理人の魂の入ったまさに刀である。金串も父にもらった。刺身は、一切れずつ、一太刀で切る。包丁を前後させると、細胞が破壊され、水分が出てきてしまうからだ。
 鰹をオニオンスライスの上に並べ、ネギを散らし、ポン酢をかけた。
「先生、この部屋、暑いね」
「我慢しろ。扇風機そっちむけていいから」
 魚好きな古田はまず鰹に箸をのばした。
「先生、これ、マジうまい」
「当たり前だ。で、ホントに見学来るのか?」
「お願いします」
「やめとけって」
 古田は次の練習を見学に来ることになった。

70
 今年も八月十五日正午、水泳部員たちが、練習を終え、プールサイドに並んだ。いつものプールへの礼だ。
 ジローの隣には、見学に来た古田も立っている。
「ありがとうございました」と部長がプールに向かって言うと、他の部員が唱和する。そして、ジローと向かいあうと、ジローが一言ねぎらった。
「古田も、何か言えって」
「いきなり、ですか?」
 古田は、見学のお礼と、練習の雰囲気の良さをほめ、大会でベストが出るようがんばってほしい、と言った。それから、ジローが部員に問いかけた。
「で、今日は何の日だ?」
 と、ジローが問いかけると、男子部員の一人が言う。
「原爆の日」
「ちがうって、戦争終わった日だろ」
 と、隣の男子部員が言う。
「そう。平和じゃなかったら、スポーツはできないんだから。はい、黙とう」
 ジローの指示で、全員がうつむいて、目を閉じた。セミの声が、一斉に耳に入ってくる。
 そして、お互いに礼をして、練習は終了した。
「先生、いいチームだね」
「たまたま、今日は知らないお客さんが来たから、いいとこ見せよう、とがんばったんじゃないか」
「みんな励ましあってさ。上級生は自分が一生懸命泳ぎながらも、下級生の泳ぎ見て、注意したりしてたでしょ」
 チームは、ジローの予想以上に、団結が深まっていた。
 準エースが抜けてから、マッチョが責任を感じて、男子チームを率先しつつ、自らをも追い込んで泳ぐ。男子チームは、準エースが抜けた穴を埋めようと、必死だ。
 急きょ、リレーメンバーとなった一年生男子は、一本一本、気合いを入れ、別人のようなフォームで泳いでいた。
 ジローがほとんど諦めていた県大会出場を、彼らは諦めてはいなかったのだ。
 競泳は、リレーはあるが、基本的に個人競技である。水の中に入れば一人だ。誰の力も借りることはできない。だからこそ、仲間の存在が必要で、チームスポーツなのだ、とジローは思う。人間は、一人でがんばれるほど強くはないからだ。
「先生が、何も言わなくても、みんな声掛けあって、手抜かないで、がんばってるよね。どうやって、指導したの?」
 それはミーティング後の初練習だからだろう、とジローは思う。特に何もしていない。
「だから、たまたまだって。いつもこんなじゃないよ」
「いや、絶対、何か秘密があると思うんだよね」
「そんなのないから、他の部活見に行け」
「いや、また見学させてよ」
「意味ないぞ。また来たって」
「もしかしたら、黙とうがいいのかなあ」
「そんなの一年に一回しかできないだろ。もう来るな」
「じゃ、先生、明日、差し入れ持ってくるから」

71
 黙とう後、ジローが急いで帰ると腹をすかせたモモが待っていた。そうめんと豚しゃぶサラダの昼食を十分で用意して、十分で食べ終え、モモを車に乗せ、窓を全開にして、実家に向かった。
「今日は、わかってるか?」
「戦争終わった日だから、墓参りでしょ」
「わかってりゃいい。うちの伝統行事だから。ま、靖国神社参拝に行くようなもんだな」
「そうなんだ」
「いや、それとは違う」
「ふーん」
「やっぱり全然違うから」
 実家では、きほが一人で、よそ行きの格好をして待っていた。日傘とハンドバッグを持って、車に乗った。助手席に座っていたモモは後部座席に移り、きほに助手席を譲った。
「悪いねえ。モモちゃん、後ろでいいの?」
「全然いいよ。後ろのほうが広いしね」
 と、モモは、大きな声で、きほに言った。
「パパ、兄ちゃんは?」
「店にいる。兄ちゃんも連れてくぞ」
 店に立ち寄ると、トモカズが頭にタオルを巻いて、材木を切っていた。それは新しい店のカウンターになるらしい。モモは、トモカズの作業を近くで観察するため、車を降りた。
 ジローは店の裏にまわった。そこにはちょっとした座敷があり、そこでヨウ子は横になって、テレビで高校野球を見ていた。この夏は、ヨウ子は甲子園の全試合を見ているようだ。ヨウ子の近くで、イチローがストローで緑茶を飲んでいた。
「兄ちゃん、おしっこしたら、お墓行くよ」
 イチローは、笑顔になり、指を鳴らした。たとえ近場でも、イチローは外出が大好きなのだ。
「いいねえ、兄ちゃん。お出かけだって」
 と、ヨウ子は上体を起こして、用意してあった献花用の花束をジローに渡した。
「どう、高校野球は?」
 ヨウ子は、上体を起こして、午前中に行われた試合がいかにエキサイティングだったか、説明した。
「やっぱりスポーツはいいねえ」、とジロー。
「スポーツが一番いいだよ」
「タダだしね」
「ありがたいよ」
 それから、ジローは、今うちにある食材が何か聞き、それで適当に晩ごはんのおかずをつくることにした。今日も、もらいものの野菜があるようだ。
「晩ごはん作ってくれるなら助かるやあ。じゃあ、兄ちゃんも、いってらっしゃい」
 ヨウ子は、二人を見送ると、また横になった。
 ジローはイチローの手を引き、きほの待つ車に戻り、モモも乗り込んで、ラジオで高校野球を聞きながら、墓参りに出発した。
「モモ、おばあちゃんの話聞いておけよ」
 毎年この日は、きほが戦争の時の話をする。

72
 当時、なかなかの美人だったらしいきほは、ジローの祖父次雄に一方的に求婚され、このうちに嫁いでくることになった。
 まだ婚約期間中のこと、次雄のもとに召集令状が届いた。次雄は、この結婚はなかったことにしようと、きほに言った。
 いったん、戦地へ行けば、生きて帰ることは難しい。天皇のために命を捨ててこその日本男児である。生きて帰ることを期待してはならない時代でもあった。
 しかし、きほは結婚を決意する。簡単な結婚式を済ませ、次雄は出征していった。
  次雄は陸軍将校で、船舶砲兵として輸送船に乗り込み、南方と日本を行き来していた。次雄の任務は、船の上から敵機を撃つ高射砲の指揮である。
 輸送船は、徴用した漁船を改造してつくったものもあり、すぐに米軍機によって沈められた。高射砲の命中率も高くなかったようだ。
 次雄を乗せた船が、たまたまこの町の前の、浜の沖を航行していたとき、敵機に沈められたこともある。そのとき、次雄は泳いで陸までたどりつき、重油まみれの外がい套とうを羽織ったまま、ずぶ濡れで、夜中にうちまで歩いて帰ってきて、きほを驚かせたこともあるという。
 瀬戸内海の因いんの島しまという小さな島に、次雄が南方から帰ってきたとき、きほは一番きれいな着物を着て、汽車と小さな船を乗り継いで、因島までわたった。
 それが、二人が会った最後である。その因島で、きほはヨウ子を身ごもった。つかの間の新婚生活の後、次雄は死地へ旅立っていった。
 ヨウ子が生まれてから百日後、きほはヨウ子と写真館で写真をとって、戦地へ軍事郵便で送った。
 ヨウ子の誕生日から次雄の戦死した日までの日数は、百日とない。次雄は自分の娘の顔を見ることはできなかった。
 あの八月十五日、きほはこれで次雄が帰ってくると思い、うれしくてたまらなかったという。次雄の死を知ったのは、終戦後一年以上たってからのことだった。
 以上が、ジローが知るすべてだが、この話のダイジェストを、墓地に着くまでの間に、きほがモモに話す。モモは、わりと真剣に聞いている。
 ジローは、以前、次雄が戦地からきほに宛てて書いた軍事郵便を読んだことがある。そのほとんどが、きほへの恋文だった。ひげを今のばしていると書いたはがきもあった。しかし、今度帰る時は、そのひげをそっていくが、理由は、接吻のジャマになるらしいから、と。よくもそのような手紙が検閲を通ったものだ。勇気ある行動だったにちがいない。ジローは、次雄を、兵士としてではなく、一人の女性を愛する一人の男性として尊敬している。
 やがて、墓地に着いた。次雄が眠るのは、宗派を問わない市民墓地で、隣の墓には十字架が刻まれてあり、反対側には南無阿弥陀仏、向かいには南無妙法蓮華経もある。

73
 車を降りると、ジローがイチローの手を引き、モモがきほと腕を組み、墓と墓の間の砂利の上を歩いていった。
 日差しが強く、日陰がないので、ジローはさっさと墓参りをすませたかったのだが、イチローもきほも歩みは遅く、時間がかかりそうだ。わずか、数十㍍の距離だが、イチローにとってははるかな道のりで、その首筋に汗の玉が噴きだしてきた。
「イッチニ、イッチニ」
 ジローは、イチローの両手を引き、後ろ向きに歩いていく。片手をつなぐより、このほうが安定するので、イチローの歩みが速くなる。モモは、水道のところまで行き、そこに置いてある手おけに水を入れ、ひしゃくと一緒に持ってきた。
 きほが、葉っぱの多い花を、墓に供え、モモが水をかける。
「上からもかけてやってよ。パパのおじいちゃんが喉乾くだろうから」
 と、きほがモモに言う。おじいちゃんといっても、今のジローより十歳も若いときにこの世を去っている。
 モモは背伸びして、墓の真上から水を滴らせる。きほもジローもひしゃくを受け取り、水をかける。イチローは、砂利の上にしゃがみ、額に汗をかきながら、まぶしそうな顔をしている。
 きほとモモとジローは墓の前に並んで立つと、手を合わせた。イチローも、まねして、しゃがんだまま手を合わせた。
「モモちゃん、みんな死んじゃったら、このお墓頼むでねえ」
「うん、だいじょうぶ」
「これで、安心だやあ」
「モモ、パパもここに入るから、そんときはよろしく」
「はいはい」
 ジローには、一つだけ、イチローに頼みたいことがあった。
「兄ちゃん、ジーより、先にお墓入ってよ。わかった」
「アイ」
 イチローは元気よく笑顔で答えた。
「これで、ジーも安心だ。兄ちゃん、先に死んでよ、頼むよ」
 兄はアイと元気よく返事して、指を鳴らし、「コーヒー」と言った。
「じゃあ、コーヒーでも飲みに行くかね。おばあちゃんがごちそうしてやるで」
 次の四人の目的地は、ファミリーレストランだ。障害者用駐車スペース、広いトイレ、入り口のスロープ、最近のファミリーレストランはなかなか利用しやすくなっている。
 イチローは、ようやく車に乗り込むと、何度も指を鳴らした。外食は、イチローにとっては、一大イベントなのだ。
「モモは何食うの?」
「アイス」
「おばあちゃんは?」
「あのお好み焼きみたいな丸いの分けて食べるだやあ」
 ピザのことだ。
「モモ、こういうのが、平和っていうんだぞ。覚えとけ。ほんと、ありがたいなあ」
「こういうのって何?」
「こういうのは、こういうのだって」
 終戦日、四人は、まさに平和を生きていた。

弟5章「ソウハツ」

74
 ジローはケチである。時折、とんでもないものに、とんでもないカネをかけることもあるが、基本的にケチである。
 ジローは、モモに勉強を教えるが、これもケチなためである。塾に通えば、今時、毎月何万円もとられるが、ジローが教えればタダだ。時に、ジローにも理解できない問題もあるが、そんなときは、ジローは「他の子もできないから、気にするな」などと、無責任に言い放つ。
 夏休みも終盤となり、モモの宿題も追い込みの段階に入ったようだ。
 その夜も二人は夕食を終えると、ダイニングテーブルで夕食の余韻にひたったまま、テレビをしばらく見ていた。ジローはふとキッチンに立つと、なんとなくポップコーンを作った。夕飯前、キッチンの棚の奥にたまたま見つけたのだ。ガラス鍋があったので、乾燥したトウモロコシを入れ、油をまわしかけ、ふたをして、弱火にかけた。
「モモ、今にパンパンなるぞ」
「そのポップコーンいつの?」
「そうとう古い」
「賞味期限は?」
「見ない方がいい。ま、心配するな」
 賞味期限切れの食材は、ジローのうちにはいくらもある。
 やがて、最初のポップコーンが爆はぜ始めた。ガラス鍋の底から白いポップコーンが次々と生まれ出る。ジローが鍋をゆすると、さらにポンポン白いポップコーンが湧き出てくる。
「すごい、すごい。おもしろい」
 モモも大喜びだ。ジローは、どんぶりにポップコーンを盛り、塩を振った。そして、味見、というより毒味をした。
「うまい。食べてみ」
「だって腐ってるもん」
「だから、大丈夫だって。ま、食え」
 モモは恐る恐る一口食べると、悔しそうに「おいしい」と言った。ジローはまだ熱いポップコーンの山の頂上にバターの塊を落としてみた。
「あ、溶けてく。なくなってく」
 モモの関心は高まる。ちょっとカロリーは高くなるが、コクは出るだろう。
「よし、これ食べながら、勉強すっぞ」
「いいねえ」
 テレビを消し、ポップコーンの山が半分ほどの高さになると、モモはようやく宿題の問題集を開いた。今日は、数学だ。グラフを読んだり、コンパスで円を書いたり、文章を式に表したり、なかなか忙しそうだ。
 ジローは、ときどきヒントを与えるだけで、モモを放っておき、自分は複雑系の本を読む。
「わからない」、とモモ。
「わかるまで考えろ」、とジローが本から目を離さず答える。
「考えても、わからない」
「うるさい」
 二人は不機嫌になり始める。しばらく、沈黙が続くと、モモがあくびをした。朝ゆっくりと目覚めたにもかかわらず、眠たくなったようだ。こうなると、モモの思考はさらに鈍り、モモの機嫌も加速して悪くなる。相乗効果で、ジローもさらに不機嫌となる。

75
 ジローはモモが手こずっている問題に目を通す。本気にならなければ、解けそうもない。
「でも、答えあるんだろ?」
「あるに決まってんじゃん」
「いいなあ、子どもの問題には答えがあって」
「なに当たり前のこと言ってんの? 早く教えて」
「もっと、考えろって」
「あ、わかんないんでしょう?」
「わかるに決まってんだろ」
 ジローはモモを無視して、複雑系の本を読む。
 学校の勉強では「こうすればああなる」の事例を頭の中に蓄積させる。つまり、一つの原因が一つの結果を生む。すべての問いに、答えが用意されている。
「子どもの勉強と、おとなの勉強の違い、何だかわかるか?」
「わかるわけないじゃん」
「それはな、子どもの勉強には答えがあるけど、おとなの勉強には答えがないってこと」
「はいはい。でも、パパは解けないから、わけわかんないこと言ってんじゃないの?」
 ジローは、しかたなくモモが手こずる問題を解き始めた。
「けっこう、むずかしいなあ」
「解答と解説、見る?」
「うるさい」
 結局、ジローが解くのに、三十分ほどかかってしまった。
「パパ、本番のテストだったら、時間足りなくなっちゃうよ」
「うるさいって」
 問題の解説をして、いちおうの義務を果たしたジローは、複雑系の要点をメモ用紙にまとめることにした。
 法則があってものごとが動くのではない。ものごとが動いて、法則が生まれるのだ。その新しい法則の下で、ものごとが動き始め、また新しい法則が生まれる。ゆえに、法則はわかったと思った瞬間、見失ってしまう。
 ジローがひかれたのは「創発」という言葉だ。ものごとが相互作用しつつ動いて、新しい現象が、下から上、ボトムアップで、出現することだ。
 学校の勉強では現象のむこうにある法則を見つけさせる。既存の法則の下でものごとが動く世界観を教える。教師がつくった校則の下に生徒たちが動くようなトップダウンの世界観を。
「創発って知らないだろ?」
「ソウハツ、何それ?」
 ジローが、メモ用紙に図を描いて説明しようとすると、モモが言った。
「また今度ね。シャワー浴びて寝る」
 親の思い通りには動かないのが、子どもだ。子どもは、さまざまなものに出会い、刺激を受け、親の思いもしない成長をすることがある。これもソウハツだ、とジローは思った。
 思い通りにいかないのが人生、しかし思いがけないことがあるのも人生。人事を尽くし、ソウハツを待つ。ジローは明日を待つことにした。

76
 その夜のホームシアターの上映作品に、ジローは「ジュラシック・パーク」を選んだ。
 あのスティーブン・スピルバーグ監督の超スペクタクル大作で、なんと恐竜が出てくるというもの。まったくジローの好みではない。
 モモとジローが出張映写技師として、実家で上映してきた作品は、これまでジローの選んだものだったが、たいてい特撮も殺人も熱いラブシーンもなく、登場人物が少なく静かな映画。
 前回、次は何がいいか、ジローが聞いたときに、ヨウ子が言った。
「たまには兄ちゃんが喜びそうなものも見せてやらなきゃ、かわいそう」
 それで「ジュラシック・パーク」にしたのだ。
 その映画は、もう十年以上前、イチローが最後に映画館で見た映画である。当時、まだイチローはすいすい歩けたので、ヨウ子と手をつなぎ、バスに乗って、映画館のある隣街まで行ったのだ。
 ヨウ子はイチローを連れて、自分の行きたい展覧会やコンサートにもよく出かけていた。
 イチローはその映画がそうとう気に入り、パンフレットをずっと大事にしていて、誰か来るたびにそれを見せていたのを、ジローは覚えている。そのパンフレットは、ボロボロになり、いつしかなくなってしまった。
 パンフレットも、映画を楽しむための必需品である。
 ジローは、その上映に備え、インターネットオークションで、そのパンフレットを見つけ、競り落として手に入れていた。
 DVDは、田舎のレンタルビデオ店には置いてなかったので、これもインターネットで中古品を見つけて取り寄せた。
 これで、すべてがそろった。
 車にホームシアターセットを積み込み、ジローとモモは実家へ向かった。
 車の中は食欲をそそる匂いが立ちこめる。ジローが作ったカレーの入った鍋もあるのだ。実家に着くと、まずは晩ごはんだ。
「夏はカレーがいいなあ」
 と、トモカズが言った。
「兄ちゃんもカレー好きなの?」
 イチローは指を鳴らす。
「明日の分もあるから助かるよ」
 と、ヨウ子が言う。
「あさっても大丈夫だよ」
 と、ジローが言う。カレーはついたくさん作りすぎてしまう。このカレーは、いたって普通のカレーだ。市販のルーで、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ。豚小間切れを煮込んだもの。
 夕食後、ジローはイチローにあのパンフレットを見せた。
「兄ちゃん、これ覚えてる?」
 イチローは指を鳴らす。忘れるわけがない。
 モモがスクリーンを設置し、ジローが映写機を調節する。
「今日は何やるだいねえ」
 と、きほが言う。
「恐竜の映画だよ」
「たまにゃあ、そういうのもいいねえ」
 電気を消すと、蚊取り線香の煙が映写機の光に照らされた。
 ヨウ子が手をたたく。
「兄ちゃん、よかったねえ」

77
 ジローは、イチローが子どもの頃、高見山という相撲取りが大好きだったことを思い出した。テレビ中継を見て、勝てばうれしくて泣き、負ければつらくて泣いた。
 ハワイ出身の高見山は、愛あい嬌きょうがあり、とにかく負けっぷりがよかった。コロンと気持ちよく転がされた。
 ヨウ子はイチローと相撲も見に行ったことがある。バスツアーだったが、きっと会場は広く、駐車場からも遠く、当時は車椅子も使ってなかったので、想像を絶する労力を要しただろう。
 その日の高見山は、きわどい勝負で負けてしまった。イチローは涙を流した。
 しかし、物言いがついて、判定が翻り、一転、勝ちになった。イチローはまた涙を流した。一つの勝負で、二回も泣けるとは、わざわざ行ったかいがあったというものだ。
 そんな高見山も引退してしまい、イチローのお気に入りもなくなってしまったのだが、恐竜が、高見山以来のイチローのお気に入りになったのだ。
「ほい、あの怪獣は大きいねえ」
「おばあちゃん、怪獣じゃなくて、恐竜だよ」
 と、モモが教える。
 スクリーンには、首の長い恐竜がのっしのしと歩いている。
「兄ちゃん、出てきたよ。恐竜が。あれが好きなの?」
 イチローは指を鳴らす。
「おおすごいねえ」
 と、モモも引き込まれていく。
 ジローはそんな子どもだましの特撮にはだまされないつもりだ。
 恐竜の血を吸った蚊が、琥こ珀はくに閉じこめられ、何千万年もたってから、科学者がその血から恐竜のDNAを取り出し、恐竜をクローン再生したという設定。孤島にそんな恐竜を放し、テーマパークを建設中だ。
 主人公は恐竜学者、ヒロインは古代植物学者。二人とも、研究者として、テーマパークを訪れた。そして、なぜかマルコムという数学者も出てくる。
 ティラノザウルスも出てきて、とにかくその動きがリアルだ。スクリーンも大きく、なかなか迫力がある。ジローは、依然、冷めている。
 マルコムは言う。地球での生息期間を全うして絶滅した恐竜を再生させるのは、研究一筋で倫理的責任を考えない科学者の自然に対するレイプである、と。
 ジローには、マルコムが主人公となった。
 マルコムは、カオス理論について語る。北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで雨が降る。つまり、複雑なシステムでは、初期のわずかなズレが、後に大きなズレとなり、とりかえしのつかないことになりうるのだ。
 手の甲に、水滴を垂らす。その動きは、予測できない。その動きは直線ではなく、非線形、これは予測不可能。
 百パーセントコントロールするというテーマパークの科学者に、マルコムは言う。
「百パーセントの確率を保つことは不可能だ」
 ブラボー、とジローは一人つぶやいた。

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 夏の夜のホームシアターは、クライマックスを迎えた。
 スクリーンの中では、恐竜たちが暴れ出した。はらはらドキドキ、手に汗握るパニック映画。
 主人公たちは、もうダメかと思わせては、なんとか逃げ延び、今度こそダメかと思わせては、またなんとか逃げ延びていく。
 ジロー以外は、割と真剣に映画に引き込まれているようだ。イチローは、ストローで日本茶をすすりながら、スクリーンをたまに見上げている程度だ。
「兄ちゃん、見てる? ほんとに恐竜好きなの?」
 イチローは、「アイ」と手まで挙げて、返事をする。
 ジローは座布団を二つ折りにして、横になった。スクリーンはその位置からは見にくいが、もう気にしなかった。ジローにはわかっている。主人公はどんなことがあっても死なない、と。ヒロインも大丈夫だ。脇役が一人か二人犠牲になるだけだろう。同情されそうもない人物が。
 ハリウッド映画は、基本的にそうなっている。主人公がいて、憎たらしい敵がいて、主人公は危ない場面を切り抜け、敵は殺され、最後にヒロインとハッピーエンド。
 ディズニー映画にも、このストーリーが適用され、子どもの頃から、悪役が死んでスカッとする快感を植えつけられる。
 正義の味方、アメリカ大統領がいて、どこかの国に憎たらしい独裁者がいて、苦戦の末、その独裁者は殺され、国民はハッピーエンド。こう考えなくては、あれほどの戦争を続けられないだろう。
 ジローは結末の予想がつくと、眠くなってきた。イチローのお茶が湯飲みに入っていることを確認すると、目をつぶった。
「兄ちゃん、見といてよ。後で教えてよ。頼むよ」
 と声をかけて、ジローはしばし眠った。
「パパ、終わったよ」
 と、モモがジローを起こす。
「主人公、死ななかっただろ? ピンチは何度もあったけど」
「なんでわかるの?」
「そんなのわかるって」
 ジローは映写機を片づけ、モモが電気をつけた。
「よかったやあ」
 横になっていたヨウ子が上体を起こした。
「兄ちゃん。お母さんと見に行ったの、覚えてる?」
 と、ヨウ子が言うと、イチローは二回も指を鳴らした。
「お相撲も行ったんでしょ? 兄ちゃんと。よく行けたねえ」
「兄ちゃんも歩けたし、お母さんもまだ若かっただよ。そういえばいろんなとこ行ったねえ」
 イチローも思い出したのか、笑みを浮かべている。
「ありがとねえ。もう一度、兄ちゃんにジュラシック・パーク見せてあげたかっただよ」
 ヨウ子の言葉に、映写技師としてジローは充実感を覚えた。
「おもしろかったのに。パパ寝ちゃってさ」
 と、モモが言うが、ジローはまったく後悔はしていない。
 帰りの車の中でのこと。モモが突然言った。
「あ、大事なの忘れてた」

79
 モモの夏休みの宿題で、理科の自由研究が残っていたのだ。
 ジローとモモは、昨日のカレーのブランチを食べ終え、昨夜から引き続き、話し合う。
「何、研究したらいいの?」
「いいの、あるぞ。おいしいコーヒーの研究。お湯の温度、豆をひく荒さ、豆の量、ドリップの湯量と速さ。これらのどの組み合わせが一番おいしいか。これならパパが共同研究者になってやるぞ」
「いやだ。だってコーヒー飲めないもん。どれがおいしいかなんてわかんないよ」
 ジローは黙り、モモの宿題の一覧表のプリントを手にして、眺めた。
「施設見学のリポートでもいいって書いてあるぞ」
「じゃ、研究しなくていいの?」
 科学館などを見学してリポートにまとめても可、とある。
「じゃ、車で行こう」
 モモが安易に提案する。今日は一日、特に仕事も予定もない。
「どこに?」
「パパ好きなところでいいよ」
 ジローは科学館にはまったく興味がない。動物園は暑そうだし、水族館も少し飽きている。
「やっぱり研究にすれば?」
「何を研究にすればいいの?」
「こっちが聞きたいよ」
 ジローがノートパソコンを立ち上げ、インターネットで検索すると、自然史博物館というのを見つけた。車で、一時間半。
「よし、ここに行く」
「何があるの?」
「恐竜の骨」
「いいねえ」
 昨夜、DVDでジュラシック・パークの恐竜を見ただけに、興味をそそられる。
 ジローたちは、まず図書館に寄った。予習をするためだ。
 館内は、やんわりと冷房がかかっていて、とても静かだ。受験生が、本を読まず、勉強していたりする。
「いいか、テーマのないリポートはないぞ」
 と、ジローがささやく。
「だいたい、テーマって何?」
「それがわかれば苦労しないって」
 まず、恐竜関係の本をテーブルに積み上げ、見学のテーマを決めることにした。モモが図鑑をめくっている向かいで、ジローはジュラシック・パークの原作本を読み始めた。
「何をテーマにしたらいいか、わからないよ」
 モモがささやく。
「なんで恐竜をリポートしようと思ったんだ?」
「パパが行くって言ったから」
「じゃなくてさ」
「兄ちゃんが恐竜好きだから」
「そんな動機だめだ」
「じゃ、パパはなんで恐竜の骨を見に行きたいの?」
「兄ちゃんが恐竜好きだから」
 二人は、とりあえず、図鑑と文庫本を借りて、車で出発した。
 一時間半ほど走ると、海が見えてきた。ジローがモモに声をかけて、起こす。
「そこら走ってていいよ」
「うるさい。起きろ」
 モモは図鑑とノートとペンを持って、ジローは文庫本を持って、自然史博物館の中に入った。

80
 学校の体育館ほどもある展示室。薄暗く、とても静かだ。
 いきなり、七㍍のトリケラトプスが出迎える。頭に角が生えている、立体的な全身骨格標本だ。
 その隣にも七㍍のステゴザウルスの骨がこちらを向いている。背中を縦に二列、板状の骨が何枚も並んでいる。
「でかい」とモモ。
「でかすぎる」とジロー。
 人間が存在するはるか前、この地球上にはそんな大きな生き物が歩いていたのだ。
 ジローがふと見上げると、縦長の展示室の背骨のように三十㍍ほどのディプロドクスの骨格標本がそびえ立っている。
「こりゃ、シロナガスクジラよりでかいぞ」
 モモはもう言葉を失っている。
 壁の恐竜の説明板を読むと、一億五千万年ほど前に、こんな巨大な生物が存在していたという。ジローはしばし考える。
「百年が百五十万回で、一億五千年だぞ」
「人間はいつからいるの?」
「二百五十万年前」
「全然ダメじゃん」
「ま、ダメだな。地球の歴史を一年にすると、人間の誕生は大みそかの午後らしいぞ」
「もう一回最初から言って」
 モモはノートにその数字を書いていく。
「人間、ほんと、ダメじゃん」
「まあ、ダメだな」
 ジローには人間のどこがダメなのかはよくわからなかったが、人間、自分がダメだと思わなくては謙虚さも生まれないだろうと思った。
 だいたい、自分はダメだと思っていたほうが、間違いはないものだ。
 ガランとした展示室に骨だけがあるので、見ているものは想像力をかきたてられる。
 人間が作ったものは何一つない大地、これだけの大きな草食動物がいたということは、生えている木や葉も大きかっただろう。足音が聞こえてきそうだ。
 ジローは隅の椅子に腰を下ろし、骨を見上げている。モモは一頭ずつ恐竜の前に立っては、説明をノートに写していく。
 たまにはスケールの大きなものに接することが人間には必要だ。人間がいかにちっぽけな存在かを自覚し、自然の一部、長い歴史の一点にすぎないことを思い出し、謙虚になるためにも。
 新しくても六千五百万年前の恐竜の大きさに比べたら、人間の悩みなどいかに小さいことか。今も、食べず笑わず、起きず、家族以外とは誰とも会わないヨウ子こそ、ここに来るべきだとジローは思う。
 モモがやってきた。
「終わったか?」
「まだまだ。説明、書き写したら、絵も描かなきゃ」
「で、テーマは決まったのか?」
「パパ、考えといて」
 モモはまた次の恐竜のところにいってしまった。
 テーマとは、これを乗り越えなくては前に進めないが、簡単には乗り越えられないもの。
 ただ座っているだけのジローだが、頭の中は結構忙しい。

81
 初めて恐竜の骨の化石を見つけた人物は何を思ったのだろう。ジローは、ベンチに座り、三十㍍もの長さのディプロドクスの全身骨格を眺めながら、そのことを考えていた。モモは展示室内を歩きまわり、メモをとったり、スケッチしたりしている。
 今でこそ、その姿をよく知られた恐竜だが、実は誰もその姿を見たものはいない。最初に恐竜の骨の化石を見つけた人物は、それが恐竜の化石とは知るよしもない。やけに大きな骨を見つけ、さぞ驚いたことだろう。
 どんな分野においても、先駆者は偉大だ。とてつもなく大きな生物が地球上にいたなどと言っても、最初は信じてもらえず、笑われただろう。今、ここに、これだけの恐竜の全身骨格が立ち上がるまでに、何人の科学者や発掘者が、どれだけの時間と労力をかけてきたのだろう。
 ジローは謙虚にならざるをえなかった。恐竜もすごければ、化石の破片と破片の間を埋めた、研究者たちの想像力もすごい。図鑑では、誰も見たことがない恐竜が、躍動感あふれる体に色まで着いて描かれている。
 モモが戻ってきた。
「パパ、スタディルームってのがあるらしいから、そこ行くよ」
 展示室から出ると、売店の横に小さな図書室があった。そこがスタディルームなのだ。
「もう、ここでリポート終わらせちゃうから」
 モモがノートのメモとスケッチを元にリポートを書き始めた。こうなると、モモは止まらない。
 ジローは文庫本を開く。ジュラシック・パークの原作、カオス理論の数学者マルコムのせりふを中心に飛ばし読んでいく。
 マルコムは警告を発し続ける。恐竜を現代科学でよみがえらせ、管理しようとする考えそのものが間違っている、と。
 予測不可能性、これがキーワードのようだ。
 ビリヤードの球は、入射角と反射角、球を突く強度、それで予測が付くはず。しかし、最初のほんのわずかのズレが、後に大きなズレとなり、そんな単純なものでさえ、予想もコントロールもできない。
 マルコムは言う。人間がたとえ滅んでも、何億年かかろうと生物は生き延び、また繁栄するだろう、と。今、危機的なのは、地球ではなく、人間だ、とも。
 人間は、飛行機は造れても空をつくれない。船は造れても海をつくれない。人間は、地球を滅ぼすことも救うこともできない。しかし、自分たちを救うことくらいはできるかもしれない。
「なるほど」と思わずジローの口からこぼれた。
「何が?」とモモ。
「船や飛行機を造れる人間は、海つくれるか? 空つくれるか?」
「忙しいから、変なこと聞かないで」
 モモはスタディールームにあった子ども用の色鉛筆を借りて、恐竜のスケッチの色を塗り始めた。もうこうなるとモモは止めることができない。閉館時間まで、二人はそこにいて、モモの宿題は無事に終わった。

82
 いよいよ、水泳部は明日が大会、最後の練習となった。選手たちは、ウォーミング・アップが終わると、フォームをチェックしながらゆっくり泳いだ。
「じゃ、ダッシュの前に、サブトラクションいこう」
 マネジャーが笛を吹き、選手たちが泳ぎ始める。
「先生、サブなんとかって何?」
 今日もジローの監督術の見学にきている古田が言った。
 サブトラクションとは、引き算という意味である。
「人生、何でも数が多けりゃいいってもんじゃないんだな」
 選手は、速く泳ごうとすると、手を速く回し、その結果、水をかく回数が増えてしまいがちだ。水をかく回数が増えれば、当然、疲労度も増す。これでは、いいタイムが出ない。
 かといって、かく回数を減らしすぎれば、疲労度は減るが、スピードも落ち、当然タイムも下がってしまう。その選手によって、最も速く泳ぐための水をかく回数は違う。これは、誰も教えることはできない。選手が、自分の体と水と対話して、つかむしかない。ジローと古田は、選手の泳ぎを見ながら、プールサイドを歩いていく。
「わかった?」
「ま、理屈はわかったけど」
 選手たちが、一本泳ぐと、マネジャーがタイムを読み上げていく。
「じゃ、部長から」
 と、ジローが言うと、選手が一人ずつ、水をかいた回数とタイムの秒数を足した数を言う。
 マネジャーがまた笛を吹き、二本目を泳ぎ始める。
「この数を減らしてく練習。わかった?」
「わかったけど。陸上でも使えるかなあ」
「使えないと思う」
 少し落胆する古田にジローは大好きなエピソードを話した。
「勇気を持ってゆっくり泳げ、って知ってるか?」
 古田は首を横に振る。
 それは、北京オリンピックでのこと。あの北島選手が、準決勝で、ライバルに負けた後、コーチが北島選手にかけた言葉。
 準決勝では、あの北島でさえ、焦ったのか、かく回数が増えてしまい、結果、タイムが伸びず、二位になってしまったのだ。
「世界一速い男を決めるレースの前に、ゆっくり泳げなんて言えるか?」
 北島選手は、決勝では、コーチの指示通り、勇気を持ってゆっくり泳ぎ、かく回数を減らし、見事、世界新記録を叩きだし、金メダルを獲得した。
「先生は、北島と同じことしてるってこと?」
「悪いか? 何でも計算通りだ」
「はいはい」
 最後に短い距離のダッシュ、リレーの引き継ぎの飛び込み練習で終わった。
 一時間もかからなかった。
「先生、もう終わりなの?」
「勇気を持って、練習も減らすんだって。勇気だ、勇気」
「これも計算通りって言うんでしょ?」
「当たり前だ。超回復理論知らないなんてことないよな?」
 古田は、また首を横に振った。

83
 ジローには苦い思い出がある。教師になりたての頃、努力と成果は正比例すると信じていた。努力をすればするほど、成果が上がる、と。当然のように大会直前まで、ハードな練習を続けた。結果、マジメな選手ほど記録が伸びず、練習で手を抜く選手ほどベスト記録を連発した。
 実は、マジメな選手は、マジメに練習に取り組んだゆえに、疲労が蓄積し、その疲労が抜けないまま、大会のレースを泳いだのだ。これでは、いい記録が出るはずがない。一方、練習で手を抜いた選手は、ほどよく疲労も抜け、絶好のコンディションでレースに臨んだのだろう。
 その後、ジローは超回復理論を知った。練習を積むと、疲労が蓄積し、いったん体力が落ちる。しかし、休養をとると、疲労が抜け、体力が回復するのだが、体はまた痛めつけられては大変と、前の状態より強くなるまで回復する。これが、超回復理論だ。休養がなしでは、体力は落ちる一方で、超回復は起こらない。超回復のため休養は、積極的休養と呼ばれている。
  古田に、ジローはその理論がさも常識であるかのように説明した。
「さすが先生、これも計算通りだったんだ」
「あほ、いつも計算通りだ」
 練習の終わりのあいさつ後、プールサイドに並んだ選手たちに、ジローは問いかけた。
「で、今夜は?」
「早く寝る」、と絶好調をキープしているマッチョな男子部員が答える。
「他には?」
「はい、ごはんいっぱい、おかず少なめです」
 部長が答えた。彼女も調子は上々、もともとの泳力もあり、明日は活躍が期待されている。
「そう、いよいよ、今夜はごはん超大盛りで頼むよ」
 ジローは最後に古田にもしゃべらせたが、月並みなことしか言えず、解散となった。
「もっと気の利いたこと言えよ。お疲れさま、明日はがんばってじゃ、記録は出ないな。崖っぷちの男子チームが県大会行けなかったら、古田のせいだ」
  別れ際、ジローが言った。
「そりゃ、ひどいよ。明日も応援に行くからさ」
「来るのか? じゃ、バナナ」
「はいはい、差し入れでしょ。で、ごはんいっぱいって何?」
「カーボローディングだ」
 これは栄養摂取法の一つ。大会が近づくと、食べる米の量を減らして体が炭水化物に飢えた状態にし、大会直前、一気に炭水化物をとる。すると、飢えていた分、体はいつもより多く炭水化物を蓄えることができる。
「つまり、ガソリンタンクを大きくして、燃料をたくさん入れるって感じかな」
「すげえ、これも計算通りだ。なんでそんなにいろいろ知ってるの?」
「体育の先生に頭を下げれば教えてくれるぞ。タダで」
「で、男子、県大会行けそう?」
「差し入れにかかっている。責任重大だぞ」
 ジローは車に乗り、古田とここで別れた。自信はなかった。 

84
 練習後、昼まで時間があったので、ジローは実家に行った。大事なことの前には、仏壇の前で手を合わせるように、と幼少の頃からヨウ子にきつく言われているのだ。
 実家では、あいかわらずヨウ子は横になって、高校野球を見ていた。トモカズは、そのそばで老眼鏡をかけ、新聞を見ていた。きほは、台所で皿を洗っていた。イチローは不在、すでに通所施設に出かけていた。
「ほい、お土産」
 通りがかりのパン屋で、あんパンを買ってきたのだ。トモカズの好物である。
「お金使わせて悪いねえ」
 とヨウ子が言う。
「パンが安売りしてたからさ」
 ジローはうそをついた。そして、仏壇の前に正座して、水泳部のことをお願いすべく、手を合わせた。特に崖っぷちの男子チームのことは念入りに頼んだ。
「えらいねえ。明日は大会かね」
 ヨウ子は、ジローが仏壇の前に座るたびに、幼少の頃からほめ続けてきた。仏壇の前に座る習慣を定着させようと思ってのことだろう。見事、困ったときの仏頼みほどには定着した。
「困ったときだけ拝んだって御利益はないよ」
 と言いながら、皿洗いを終えたきほが、お茶を持ってきた。
「やらないよりいいよね?」
「どうだかやあ」
 テレビでは、勝利した高校が校歌を歌い、敗北した高校の選手たちは、涙を流し、甲子園の土をかき集めている。
 いつ見ても感動的なシーンだとジローは思う。明日、男子チームが入賞できず県大会出場を逃したら、同じような光景を見ることになるのだろうか。
「あれだけ泣くんだから、ほんとにあの子たちはがんばってきたんだねえ」
 ヨウ子がつぶやいた。もらい泣きしている。目標が達成できなかったら、それまでの努力は無駄になるのだろうか。決して目標を達成しなくてもいいわけではないが。ジローも思わず、もらい泣きしそうになる。
「どうだね。生徒さんたちの調子は?」
「まあがんばってるけどね」
「さっき仏様に手を合わせたからきっと大丈夫だよ」
 仏様だけが根拠のこの「大丈夫」という言葉に、ジローは妙に励まされた。
「そういえば、兄ちゃん、高見山が勝っても泣いて、負けても泣いてたねえ」
「名古屋まで兄ちゃんを連れてっただよねえ」
 ヨウ子が思い出して言った。
「勝っても涙、負けても涙、甲子園と同じだ」
 高見山は、番付こそ、関脇止まりだったが、大記録を残している。幕内連続出場は堂々の歴代一位である。
「勝っても負けても、毎日、ベストをつくせばいいだよ」
 ヨウ子の言葉にジローの腹は決まった。
 ヨウ子とトモカズは、これから店に行くという。店が開店でも閉店でも毎日行く。まさに高見山だ。明日も高見山だ。

85
 ジローは朝五時半にベッドを出た。こんなに早く起きるのは、一年で、ほんの数日、水泳大会のあるときくらいだ。
 実は、ほとんど眠ってはいない。遠足前夜の小学生のように。
 すぐにキッチンに立ち、朝食と弁当を用意した。昨夜のうちに、ベーグルを焼いておいたので、サンドイッチにするだけだ。ドーナツ型で、もちもち食感のパンであるベーグルは、パン切り包丁で、上下半分に切る。朝食用には、クリームチーズ&ジャム、弁当用にはポテトサラダとカリカリベーコンにケチャップ少々。
 スポーツバッグにベーグル弁当を入れ、テーブルの上にベーグル弁当を置き、いざ出陣である。ベーグルを食べながら、車を運転して、会場に着くと、駐車場には、すでに古田がバナナを持って待っていた。
 ジローは会場脇の日陰に部員を集合させた。そして、ジローを中心にヨガが始まった。レースの朝はこれをするのが、このチームの恒例の儀式である。
「五秒吸って」
 とジローが言うと、力を抜いて立っている選手たちが胸を張って空気を吸い込む。
「二十秒息を止めて」
 二十秒の沈黙。
「十秒吐いて」
 ジローは選手たちとともに息をゆっくりと吐いていく。
 それからジローがいくつかのポーズをとり、選手たちがまねしていく。
「おい、古田もマジメにやれ。負けたら古田のせいだ」
「そりゃひどいよ」
 古田は硬い体を不器用に伸ばし始めた。
「先生、これなに?」
「ヨガだ。大会前はいつもやる」
 続々と他のチームも会場に到着し、それぞれストレッチをしたり、先生の話を聞いたりしているが、ジローのまわりだけ異質な空気が漂っている。
 ヨガが終わると、選手たちは腰を下ろし、目をつぶる。
「じゃ、好きな風景を思い浮かべて。大きく息を吸って、長く吐いて」
「先生、これ何?」
「古田うるさい。邪魔すんな。負けたら古田のせいだぞ。これはイメージトレーニングだ」
 これもこのチームはいつも大会前に行う。ジローは次に会場内の雰囲気を思い出させ、プールサイドに立ち、自分の泳ぎを、第三者の目で見ているイメージを浮かべさせる。
 それから、水の温度や重さ、実際に泳ぐイメージ、スタートで飛び込むイメージ、ターンするイメージなどを促す。
 最後にストップウォッチで経過時間を測りながら、本番のレースをイメージして、イメージトレーニングは終わる。
「ま、いちおう、やれることはすべてやってきたから、これでダメなら僕のせい。思い切っていこう。今日の作戦は、前半から積極的に攻めて、後半勝負。苦しくなったら、チャンス。ライバルも苦しいんだから」
 そして、ジローは選手をウォーミングアップに送り出した。

86
 ジローは、プールサイドで、マネジャーを呼んだ。
「じゃ、いつものよろしく。一年マネにも教えておいて。選手に絶対にバレるなよ」
「まかせて、先生」
 横にいた古田が聞く。
「ヨガとか、イメトレとか効果あるの?」
「そんなのわからないよ」
「え、なのにやるの?」
「心配するな。少なくとも選手たちは効果あると信じてる」
「そうなんだ。で、さっきのマネジャーに言ったのは何?」
「歴代マネ秘伝の作戦だ」
 二人のマネジャーはストップウォッチ片手にプールサイドに立っている。ウォーミングアップ会場のプールでは、スタートダッシュの練習が始まった。
 選手が、飛び込んで、短い距離をトップスピードで一、二本ダッシュする。ジローはその様子をプールサイドで眺めている。
 すると、マッチョがダッシュを終え、プールから上がり、ジローのところにやってきた。
「先生、やべえ、ベスト出た」
「ほんとか?」
「ほんとだって、マネに聞いてみてよ」
 マネがストップウォッチのタイムを見せる。
「すげえ。絶好調だな。プールサイド走って転ぶなよ」
「じゃ、もう一本行ってくる」
 マッチョが意気揚々と飛び込み台の方に歩いていった。その後もダッシュを終えた選手が、次々に好記録を報告に来る。
「みんな調子いいみたいだね」
 さきほどからジローにつきまとっている古田が言う。
「ま、秘伝だからね」
「教えてよ。それ何?」
「絶対、誰にも言わないか?」
「言わないよ」
「墓場に持ってくか」
「言うわけないよ」
 ジローはマネジャーに指示したのだ。大会当日のウォーミングアップでのダッシュのタイムを測るとき、ストップウォッチをほんの少し早く押せ、と。やけにいいタイムが出たのは、そのためだ。さきほど、マネジャーとジローがそのタイムに驚いたのは、もちろん、演技。これは、このチームで、代々、上級生マネジャーから下級生マネジャーに伝わり、決して選手たちに知られることのない秘伝中の秘伝なのだ。
「じゃ、さっきの全部演技だったの?」
「そう。選手に自信を持たせるための作戦だ」
 今日は負ける理由が見つからない、とジローは先ほど選手たちに話し、開会式へと送り出した。チーム状況は、女子チームは上々。部長が好調ならば、三位に入り、表彰台に上りそうだ。リレーチームも確実に入賞し県大会に進むだろう。
 とにもかくにも男子が問題なのだった。エース以外は、個人種目での入賞の可能性はない。
 なんとか力を合わせ、四人で四種目泳ぐメドレーリレーの入賞を目指していたのだが、準エースの脱退で、その可能性も低くなってしまった。
「ソウハツって知ってるか?」
 ジローが古田に聞いた。

87
 ジローは、ロビーの自動販売機で缶コーヒーを二本買い、古田とベンチに座った。
 大会が始まるまで、あと十五分ほどあるが、ジローにはもうすべきことがなかった。
「ま、飲め」
「ブラックだ。苦手なんだよね」
「うるさい。人生の苦みに比べたら、こんなの甘い甘い。がまんして飲め」
 そして、ジローは複雑系科学の話をした。
「つまり、ものごとは思い通りにコントロールできないってことでしょ?」
「そう。古田もセンセイだからわかるだろ」
「オレ、部活の指導でそうとうまいってたんだよね」
 古田がため息をつく。ジローは細かいことはきかず、古田の肩を叩いた。
「犬に芸仕込んだことあるか?」
「お座りくらいなら」
「エサで釣れば、犬はすぐ覚えるだろ」
「うん」
 古田は、一口、コーヒーを飲んだ。
「甘いか?」
「苦いよ」
「じゃ朝顔を育てたことあるか? ま、他の花でもいいけど」
「それっくらいあるよ。小学校の時だけど」
「芽を出せって言えば、芽を出したか? 咲けって言えば、咲いたか?」
「咲くわけないよ」
 ここで間。二人は同時にコーヒーを一口飲んだ。
「でも、生徒に咲けって言って咲かせちゃうセンセイもいるよね」
 古田がまたため息をつく。
 「いる…、いや、いるように見えるだけじゃないか」
 また間。
「そうか。先生、わかったよ」
「何が?」
「こっちが、水あげたり、棒を立てたり、雑草とったりすると、朝顔は自らの力で咲くってことだ」
「自らの力か…」
 教師のできることは小さいが、生徒のできることは大きい。なにしろ、教師は一人だが、生徒は圧倒的多数だ。
 教師の指示でトップダウンで動くのではなく、生徒たちが自ら支え合い、励まし合い、競い合い、ボトムアップで動く。そのときは、教師の思惑をはるかに越えて、生徒たちは成長するだろう。これが、ソウハツだ。
「教師は、なめられたっていいんだぞ。生徒に超えられてなんぼ。自分以下の生徒を育てて、どうする? 踏み台になれ」
「だから、先生は生徒になめられてるのか」
「なめられてんじゃないって。なめさせてやってんだって。これも、計算通りだぞ」
 どうやら、古田は生徒になめられればなめられるほど、高圧的になり、反感を買い、やることなすこと裏目に出て、悪循環に陥っていたようだ。
「ちょっと気が楽になったよ。先生のとこ来てよかったよ」
 ジローは腕時計を見た。
「行くぞ。コーヒー飲み干せ」

88
 ジローがこの学校に転勤してきて、チームの顧問になったとき、まずモットーを決めた。それは、Do Our Bestである。
 競泳の一番の目標は、自己ベストを出すことだ。たとえ、レースでビリになったとしても、自己ベストを更新できれば、ジローも選手も喜ぶ。逆に、優勝したとしても、自己ベストが出なければ、くやしいものだ。
 優勝をねらう選手も、参加することに意義がある選手も、目標は同じ、ベストを更新することである。だから、早い選手も遅い選手も同じチームでともに練習することができる。
 たとえ、男子チームが入賞できなくて、県大会出場を逃したとしても、ベスト記録を出すことができれば、勝ったも同然。
 この夏休み中の練習を振り返れば、チームの誰もが、ベスト記録はまず更新するだろう。
 全員がベスト記録を更新すれば、まさにDo Our Bestしたことになる。この夏の目標は、それで達成したことになる。
 と、思うジローは、レース前すでに弱気になっていた。Do Our Bestもたしかに大切なことだが、負けたときの言い訳をすでに用意しているよう気なもしていた。
 本大会最初のレースは、まず女子メドレーリレー。部長を中心によくまとまった女子チームは、順当に入賞し、県大会出場権獲得第一号となった。その次が、男子メドレーリレーだ。本大会で、ジローがもっとも気にかけているレースである。
 ジローは、招集所にいた男子メンバーのところに行った。
 四種目を泳ぐ四人がジローを囲んで立っている。彼らの表情は、ジローの目には、緊張しているようには見えなかった。
 もちろん、ジローは緊張していた。いつものことだ。
「フジヤマのトビウオの指、知ってるか?」
 敗戦後、世界新記録を何度も塗り替え、日本を励ました古橋廣之進のことだ。
「トビウオは知ってるけど、指までは知らないよ」
 と、マッチョが言うと、他のメンバーもうなずく。
 古橋は、幼少期の事故で、指の一部を失っていた。当然、水をかけば、そこから漏れるので不利である。しかし、そのハンディがあったからこそ、古橋は人一倍練習し、その結果、世界一のスイマーとなれたのだ。
 ジローはさらに続けた。
「全体は部分の総和じゃない。わかるか?」
 彼らは首を横に振った。
「チームが一つになれば、実力以上の力を発揮できるぞ。一かける四が四以上にな」
 たしかに男子チームは部員が一人減った。しかも、主要メンバーが。しかし、その穴を埋めるべく、残ったメンバーは今まで以上に泳ぎ込んできた。そのジローの言葉にマッチョが応える。
「俺たち絶対に県大会行くよ」
 彼らはまだ諦めていない。
「よし、トビウオになれ」
 スターターがピストルを天に向かって突き上げた。会場が、一瞬、静まり、ピストルの音が鳴り響いた。

89
 男子チームのエースが好スタートを切り、ターンをして、ジローの予想通り、二位で帰ってきた。
 続いて、一年生の平泳ぎが飛び込む。急きょ、リレーに起用された選手だ。ここで、最もタイムが落ち、順位も下がることをジローは覚悟している。もっとも大きなプレッシャーを感じているのは、まさしく彼だ。もともと遅かったというのもあるが、大幅に自己ベストを更新して、バタフライの副部長に引き継いだ。
 副部長は平泳ぎ専門の選手、バタフライ専門の準エースが抜け、その代役である。バタフライは、もっとも負荷のかかる泳ぎである。後半の疲労にどれだけ耐えられるかが勝負だ。
 順位もスピードもさらに落ちて、副部長がターンする。前半はよくまわっていた腕が、後半になると、鈍くなってきた。疲労が極限に達しつつあるようだ。ゴールがなかなか近づかない。
 他の三人のメンバーが副部長にむかって大きな声をかける。
  最終泳者のマッチョが飛び込み台に上がった。
 副部長は、順位を入賞圏外にまで落としてしまった。
 応援席で、ジローは叫び続ける。その横でマネジャーと古田も、魂の込もった声援を送る。
 副部長がなんとか泳ぎ切って、つないだ。とにかく、泳ぎ切らないことには、リレーは成立しない。
 そして、すべては自由形のマッチョに託された。この夏、一番熱かった男である。マッチョでダメなら、諦めもつく。
  マッチョがいきなりトップスピードで出ていく。
 マッチョの課題は、持久力である。スピードはあるが、そのスピードを維持するスタミナに不安がある。ターンをしてから、がくんとタイムが落ちるが、そこからどれだけ我慢できるかが、今日のすべてを決める。
 以前は、最初だけ飛ばして、後半はがたがたになるレースをしていたマッチョである。
 マッチョは二人を抜き、入賞圏内にまた順位を押し上げた。
 後半、一人でも抜かれたら入賞は逃す。
 ターン後、マッチョのスピードがやや落ちるが、まだ諦めていない泳ぎだった。
 レースはタッチの差の混戦となり、肉眼では最終順位はわからなかった。
 マッチョも自己ベストを大きく更新、チームの記録もジローの予想よりも数秒速かった。
 問題は順位だ。
 電光掲示板に、入賞チームが発表されると、マッチョが、両拳を突き上げ、雄たけびを上げる。男子チームはギリギリ入賞することができたのだ。その次のチームとはわずか0・5秒差だった。誰かがひとかきでも手を抜けば負けただろう。
 ジローは、さすがにマネジャーを抱きしめることはできず、嫌がる古田を抱きしめて、全身で喜びを表現した。
 彼らは、ジローが実は諦めていた入賞を果たし、「全体は部分の総和以上」であることを、証明して見せたのだ。

90
 続いて、エースが、順当に個人競技で二種目準優勝。ライバルに負けてしまったが、タイムは来シーズンの全国大会参加標準記録に迫り、高校最後の夏こそ、その標準記録を突破してジローをインターハイに連れていく可能性が高まった。
 ジローは、プールサイドで、レースを終えたばかりのエースを出迎えた。エースは表彰台に上がり、賞状ももらってきた。
「来年こそ、あいつに勝って、インターハイ出場だ。頼むよ」「はい、がんばります」
「そう、コーチを信じて、がんばれ。死ぬ気だぞ、死ぬ気」
 エースは、スイミングクラブの鬼コーチの下で、日々、厳しい練習を積んでいる。
「沖縄そばとタコライス、おごってやるからさ」
 来年のインターハイは沖縄で開催されるのだ。ジローはどうしても行きたかった。いや、行かなくてはならなかった。
「僕の言うことなんか聞いてたら遅くなるから、コーチの言うことだけ聞いておけよ」
「わかりました。死ぬ気でがんばります」
 エースは常に謙虚で素直だ。
 その後、部長が女子平泳ぎに出場し、まず二百㍍のレースで三位に入り、表彰台に上った。
 実はそのレース、彼女は百五十㍍の最後のターンまで、トップだった。そこで、次の百㍍では優勝だ、とジローが言った。
「そんなの無理ですよ。私、後半、バテますから」
「無理じゃない。今朝のダッシュのタイムなら、勝てるぞ。表彰台の一番高いとこ、頼むよ」
「いちおう、がんばります」
 部長は、謙虚なのか、弱気なのか、あまり闘志が表に出ない。
 彼女をレースに送り出すと、また古田と観客席に並んで立った。ピストルが鳴り、百㍍平泳ぎのレースが始まった。
 平泳ぎは、調整の難しい泳ぎである。手をかくときには推進力となるが、前に伸ばすときには抵抗になる。足も、曲げて引きつけるときには、抵抗になる。水と油のような正反対のものを融合させなくてならない。
 また、かく回数も、多すぎても少なすぎてもいけない。
 スイマーは水の中では誰の助けも借りられず、その調整をしながら孤独にたたかう。
 部長はトップで飛び出し、五十㍍のターン後もトップをキープした。最後の二十五㍍のところで、両脇の選手が迫ってきて、ほぼ三人並んでゴールタッチまで争った。肉眼では誰が優勝したかわからない。観客は電光掲示板の発表を待つ。一位と二位の差は、瞬きよりも短い百分の五秒差。電光掲示板の一番上には、部長の名前が光っていた。
 ジローはまた古田を抱きしめた。気づけば、最高の結果で大会は終わった。
 閉会式後、ジローは部員全員にアイスをおごった。古田にはブラックコーヒーをおごった。
「俺もアイスがよかったのに」
「今飲めば甘いぞ」
「先生、すごかったね」
「だから計算通りだ」
「やっぱり苦いよ」
「うるさい」

91
 昨日の水泳大会では、ジローの目の前で、まさにソウハツが起こった。
 ジローの思惑通り部員たちが動いたのではなく、その思惑をはるかに越えて、部員たちが相互に影響を与えあって、チーム力を発揮したのだ。トップダウンではなく、ボトムアップ。
 その原動力は、準エースの脱退だった。主力選手が減った分、危機感にあおられ、結果、チーム力が高まった。
 十から一を引いたが、九ではなく、十を超えたのだ。
 ジローは、これで、この夏の仕事は終了とした。
 気がかりだった準エースだが、昨日の朝のメドレーリレーだけを会場まで見にきたという。マネジャーは、彼に気づいたが、ジローには黙っていた。スポーツドリンクも差し入れたという。
 アルバイトがあるので、男子の入賞を見届けて、すぐ帰ったようだ。結局、準エースが来たことを知らなかったのは、ジローだけだった。
 もう夏休みも残りわずか。ジローは、八月三十一日まで、完全休養のため、予定を入れないという予定を立てた。
 一日中、生産的なことは一切しないで、非生産的に時間の浪費を楽しむ。これぞステイケーションの真髄。
 そんなジローとは対照的に、昨今の女子中学生はなかなか忙しい。モモは、宿題が終わっていないのにもかかわらず、連日、友達と、県庁所在地やプールなどに出かけている。
 中学生ともなれば、一日、父親とうちにいたら、間がもたないのだろう。モモは、たまにうちにいても、テレビの前で、リモコンを片手に、ソファの上で横になり、ぐうたらしている。
 ジローは、自分のことは棚に上げ、モモは時間を浪費すべきではない、と思っている。
「おい、モモ、いい加減にしろ。時間がもったいないだろ」
 ブランチ後、ソファに寝転がって動かないモモに、ジローがややきつく言う。
「自分だって、いつもぐうたらしてるくせに」
「あほ、パパがぐうたらしてるときは、頭の中フル回転で忙しいんだって」
「モモも頭ん中、フル回転。女子中学生もなかなか大変」
 その午後、モモはまた母親と出かけることになっていた。
 昼ごはんも食べてない昼過ぎに、モモの母親が迎えに来た。隣街の巨大ショッピングモールへ行くのだそうだ。新学期に向けてのお買い物らしい。
「モモ、おみやげよろしく」
「じゃ、お小遣いちょうだい」
「なら、いい」
 玄関には、真っ黒で大きな丸いサングラスを額に上げ、今日もキメているユリ子が待っている。
「では、モモをお借りします」
「どうぞ、無期限レンタルで、ごゆっくり」
 ジローは気が変わり、予定を入れないという予定を変更して、予定を立てた。

弟6章「一人旅」

92
 テレビで高校野球の準決勝を見ながら、ジローはふと思いついた。海へ行こう、と。しかも、電車で。高校野球は、ラジオで聞けばいい。
 すぐに、レジャーシート、ラジオとイヤホン、文庫本、メモ帳とペン、ろ過水を入れたペットボトル、長袖シャツをデイパックに放り込み、それを背負い、野球帽をかぶり、首に手ぬぐいを巻き、久しぶりにマウンテンバイクに乗り、駅へ向かった。
 この町には、一両編成の小さな電車が走っている。この町の始発駅から、まず山に向かい、その後、大きな湖のほとりを進み、県境の終点の駅に着く。ジローは、ここに十年以上住むが、一度も乗ったことがなく、一度乗りたいと思い続けてきた。
 今日は、その冒険を決行する絶好のチャンスだ。今日を逃したら、また十年くらいあっという間に過ぎてしまうだろう。
 ペダルをこぎ始めると、すぐに汗が噴き出した。今日も猛暑日のようだ。暑さにくじけそうになりながらも、駅に着き、駐輪場にマウンテンバイクを置くと、ペットボトルの水を飲んだ。
 この鉄道は全長六十㌔ほどしかないが、三十以上も駅があり、電車の速度も遅く、終点まで二時間はたっぷりかかる。
 ジローは、ある海岸を思い出していた。小学生の頃、夏休みに両親に連れられ、海水浴に行った場所。海の家などはなく、波が穏やかで、大きなプールのような遠浅の海だった。かすかに記憶にあるのは、松林があり、その木陰に、イチローとヨウ子がいたことだ。
 少年ジローは、口は達者だったが、運動は苦手だった。教育ママと呼ばれたヨウ子は、水泳なら他の子より早く始めればなんとかなるだろうと、小学校入学前の夏、泳げぬジローをスイミングスクールに連れていった。ジローは、持ち前の運動神経の鈍さで、なかなか泳げるようにならなかった。ヨウ子は、そんなジローを許さず、スクールの練習が終わってもジローをプールから上げなかった。プールの向こう側に立ち、ここまで泳いでくるよう命じた。ジローが途中で立ったりすると、向こう側に着いた瞬間、日傘を閉じ、それでジローの頭をたたいた。また反対側にいき、ここまで立たずに泳いでくるように命じた。
 ジローは、この世からプールがなくなることを願った。せめて、スイミングのコーチ全員が食中毒になり、スクールが休止になることを願った。そんな願いが何一つかなわないうちに、ジローは水泳が得意になった。
 スクールの帰りは、近くの用水路のザリガニを採った。ジローがザリガニの後ろにたも網を置き、ヨウ子が棒でザリガニをつつくと、ザリガニは後ろに勢いよく泳ぎ、網の中に入る。おもしろいように、ザリガニは採れた。ジローは水泳が大嫌いだったが、ザリガニ採りは大好きだった。そのうち、水泳が得意になり、大好きになった。おかげで、運動音痴のジローは、夏だけはヒーローになれた。
 その海でも、得意の泳ぎを思う存分披露した。
 
93
 この小さな電車が、その海岸の近くに止まるはずだ。記憶に残っている地名と同じ名前の駅がある。そこで下車すれば、きっとたどりつけるだろうと、とジローはここ数年思っていた。
 改札口の路線図で確かめ、切符を買い、ホームで電車を待った。やがて、たった一両の小さな車両がホームに入ってきた。乗客は、部活帰りの高校生や高齢者がほとんどだった。
 折り返し、始発駅となるので、車内はすいていた。二人ずつ向かい合う四人がけの座席の奥に座り、車窓からの景色を見ながら、ジローは窓際にペットボトルとラジオを置いた。その座席には、おそらく定年退職したばかりの夫とその妻らしき二人も、通路側に向かい合って座った。二人とも駅に置いてあった沿線紹介のパンフレットを見ている。
 通路を挟んだ向こう側の席には、年老いた男女が並んで座っている。髪の毛のない男性の方が、靴を脱ぎ、両足を向かい側の座席の上に乗せて、伸ばした。年の離れた夫婦か、それとも父と娘か、女性の方が、男性をいたわっているようだ。電車は、市街地を抜け、やがて茶畑と田んぼの広がる地帯を進んだ。
 いつしか汗は引き、クーラーの冷気に慣れないジローは長袖シャツをバックパックから出して袖を通した。車窓からは、灼しゃく熱ねつの太陽の下、うっそうとした植物の鮮やかな緑色が、ジローの目にはまぶしいほどだった。
 昼をまわったころ、隣の席の初老夫婦が駅弁を食べ始めた。ジローは、ブランチが昼近かったため、まだ腹はすかないので、文庫本を開いた。『怠ける権利』、著者のラファルグは、かのマルクスの娘婿である。実に読みにくい訳文で、二㌻ほどで眠りに落ちた。
 五つほど駅を通り過ぎ、ジローが目を覚まし、車窓から外を見ると、家の数が減り、緑の量が圧倒的に増えてきた。やがて電車は両側から木々に挟まれ、緑のトンネルに入っていく。ジローは、また文庫本を開いた。
 
 一切合切怠けよう
 恋するときと
 飲むときと
 怠けるときをのぞいては
 
 こんな文章を見つけて、うれしくなったが、なかなか読み進められない。何度読んでも、意味が伝わってこない文章がいくつも出てくる。
 これは、読解力不足というより、翻訳者の悪文のせいか、もしくは翻訳者が理解できないまま訳文を書いたせいである、とジローは確信した。翻訳の翻訳が必要だとさえ思った。そして、いったん本を閉じ、ラジオを取り出し、イヤホンで高校野球実況放送を聞くことにした。
 やがて、海が見えてきた。海といっても大きな湖の入り江でもある。その昔、この湖の南端が決壊し、海に開かれ、湖に海水が流れ込んだ。海のような湖、湖のような海、水は塩辛い。
 目的の駅に電車が止まり、ジローはラジオのイヤホンをつけたまま、電車を降りた。

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 ジローがホームに立つと、線路の向こう側に海岸が見えた。山側に改札口があったが、無人駅で、そこに置いてあった小さな箱の中に切符を入れた。駅員はいないが、モルタルの駅舎には、なぜか喫茶店が併設されていて、さすがにそこには人がいる。ジローは、ぜひとも立ち寄りたかったのだが、とりあえずあの海岸を目指すことにした。
 ジローの記憶では、松林と神社があり、波のおだやかな遠浅の海だ。バックパックの中には、海水パンツがいちおう入っている。もしその気になれば、泳ぐこともできる。
 イヤホンで高校野球中継を聞きながら、ジローは歩いていく。駅の前には、鰻うなぎ屋が一軒だけ。鰻にも心ひかれたが、海へ向かった。夏の日の平日、まったくひとが歩いていない。時折、車が通りすぎるだけだ。道を尋ねることは、無理そうだ。例の海岸は、駅前の地図でだいたい予想をつけておいた。線路の踏切を越えると、海岸線に出た。家がぽつりぽつりとあり、一軒、鉄筋コンクリートの小さなホテルを見つけ、それを目当てに歩いていった。汗がまた噴き出ていた。
 甲子園のグラウンドも、三十五度以上あるのだろう。イヤホンからは、ブラスバンドの演奏と応援団の必死の応援の声が聞こえてくる。炎天下の高校生に励まされながら、ジローは歩き続けた。
 やがて、小さなホテルを通り過ぎ、海岸へ出ると、小さな神社があり、そのまわりに松が数本あった。芝生が植えられていて、寝るのにはちょうどいい木陰になっている。どうやら、ここが目的地のようだ。記憶よりずいぶん狭いことに、ジローは驚いた。その芝の上に腰を下ろした。海風が心地よい場所だ。
 ジローがラジオのイヤホンを抜くと、小さなスピーカーから割れた音の実況放送と、おなじみの応援の曲と歓声が聞こえてくる。
 海の水は、青くなく、茶色に濁っていた。たしかに、ここは海水浴場なのだが、誰も泳いではいない。海の家も、シャワー設備もなく、神社の隅にかなり臭うトイレがあるだけ。泳ぎたくなれば泳ぐつもりだったのだが、とても泳ぐ気にはなれなかった。南国のコバルトブルーの海でモモと泳いだことのあるジローには、その海は汚すぎた。
 小学生の頃に連れてこられたときには、海が汚いなどとは、少しも思わなかった。この海は、あのころの海とは、あまり変わりはないのだろう。水泳が得意だった少年ジローには、海の色は関係なく、この遠浅の海が巨大なプールに見えた。松の木陰にいるヨウ子に、その泳ぎを見せつけたくて、夢中になって泳いだ。泳ぎ疲れて、母のもとに行けば、飲み物も食べ物も十分にあった。帰りの車の中では、来年の夏がもう待ち遠しくて、悲しくなった。
 今も、ジローは悲しくなっている。少年時代にあれだけ楽しみにしていたこの海で、自分がもう泳ぐ気になれなくなっていることに。

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 ジローは、帽子をとって、芝の上に仰向けになった。松の木陰のおかげで、暑くもなく、まぶしくもない。ラジオは、放送局を変えた。リスナーからのリクエスト曲を流す前に、その曲にまつわるエピソードを読みあげる番組だった。
 ジローは目をつぶった。少年時代にはやっていた歌がやがて流れ始めた。リクエストをしたリスナーは同年代のようだった。もう三十年も前の歌をジローは口ずさんだ。当時は意味もわからずサビの部分を歌っていたが、実はせつない別れの歌だったと知り、少し驚いた。
 少年ジローは、夜、一人布団の中で、ラジオを友にしていた。部屋を明るくすることはできず、店に出ている両親はなかなか寝室には来ない。兄のイチローは寝つきがよかった。この暗闇の中の孤独は、ジローには耐え難かったが、ラジオの音楽や声があれば、その孤独も少しは紛らわすことができた。
 少年ジローの孤独は、夜だけではなかった。ジローの周りのおとなたちは、いつもイチローの世話に追われていた。ジローは、ヨウ子に頼み込んで犬を飼ったことがあるが、それも孤独を紛らわすためだったのだろうか。中年ジローには、少年ジローの心情はもう思い出せない。
 ジローは大学生になると、一人旅によく出かけた。家族や友人や恋人から遠く離れる行為は、自分が一人ではないことを、目の前にいない人が心の中に存在することを確かめる行為でもあった。何日も一人で旅をしても、そのときはまったく孤独は感じなかった。
 孤独とは、一人でいることではないのだろう。目の前に誰かがいても、その人の心の中に自分が存在しないとき、また目の前の相手が、そこに存在しても、こちらの心の中に存在しないとき、そんなときにこそ孤独を感じるに違いない。これは、リコンに至るまでの日々、ジローが感じていたことだ。おそらく、ユリ子もそうだったのだろう。
 Absence makes the heart grow fonder.「不在は愛を深める」
 ジローが、毎年、生徒たちに教えることわざだ。相手に会えないときにこそ、相手への思いが強くなる、と。ジローがこのことわざで生徒たちに伝えたいことは、学力は、教師不在の時にこそ伸びるということ。つまり、うちで勉強しろ、と。
 本当に孤独な時は、一人旅などできないだろう。今、こうして一人で小さな旅をしているジローは、目をつぶったまま、さまざまな顔を思い浮かべている。
 あの夏、この木陰に、今のジローよりも若いヨウ子がいた。少年イチローも、ここにいた。今のジローよりも若いトモカズと少年ジローが泳いでいるのを、ヨウ子はここから眺めていたのだ。ジローの頭の中で、過去と現在が混じりあい、どこにいるかわからなくなり、夢と現実の谷間の眠りに落ちていった。
 一人だけれど一人ではないと感じることができるこの場所ほど、ジローにとって昼寝に最適な場所はないだろう。

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 ジローは二十分ほど眠ったのだろう。ふと、人の気配がして目覚めた。
「あ、死んでなかった」
 五歳かそこらの少女がジローを見下ろして言った。少女は水着を着ている。
 ジローは、一瞬、自分がこの松の木陰にいることに少し驚いた。しばらく、現実を把握するまで、横になったままでいた。
「生きてるよ。心配してくれたの?」
 少女はうなずく。彼女の背後から、浮き輪を持った若い父親と、大きな帽子をかぶり、大きなバッグを持った母親がやってきて、ジローに頭を下げる。
「すみません。お休みのところをおじゃまして」
 という母親に、ジローは笑顔で、「いえいえ」と答えた。
 少女は父親に手を引かれ、海岸に歩いていく。母親は海岸に木陰を見つけ、シートを敷いて座った。ジローは上体を起こし、三人を眺めていた。水着姿の父親が、浮き輪をつけた少女の手を引いて、一緒に海の中に入っていく。
 ジローはうれしくなり、ケータイをとりだし、その光景を写真に撮った。うちに帰ってから、モモに見せようと思った。
 いつの日か、その少女もこの夏の日を思い出すだろう。木陰で昼寝していたジローのことは忘れても、両親とのこの光景は原風景として少女の記憶に残るに違いない。
 ジローは、モモがその少女と同じくらいの年齢の頃を思い出そうとした。しかし、モモが小学生になってから、つまり、シングルファーザーになってからのことはいくらでも思い出せるのだが、それ以前のことはほとんど記憶を呼び起こせなかった。
 当時、ジローは仕事人間だった。うちの中のことはすべて専業主婦の妻にまかせ、うちの外のことに専念していた。社会をよくするため、この国をよくするため、考えることも、やることもいくらでもあった。
 ある時、ジローは「これも日本をよくするためだから」と言って、うちを出ようとしたら、妻のユリ子に言われた。
「うちはよくしなくてもいいの?」
 ジローにはユリ子のその言葉に込められたメッセージが理解できなかった。ジローはうちのことで不満を感じたことは一度もなかった。
 今は、ジローにもわかっている。ジローが「世のため、ひとのため」と言うとき、すべては「自分のため」だったということが。もし、シングルファーザーにならなかったら、ジローはモモの心の中にも存在することはできなかっただろう。
 ジローは立ち上がって、海岸に向かった。親子からは離れたところで、サンダルを履いた足を水につけた。しばらく、水と戯れる親子を眺めていた。
 その瞬間、ジローは、たしかに自分がこの海で泳いだことを思い出した。
 そして、木陰に戻り、素早く水着に着替え、中年ジローは少年ジローに戻り、海に入って、泳ぎだした。

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 ジローは海から上がると、神社のすみの水飲み場の水道で軽く体を洗った。
 父親と手をつないだ少女がジローに手を振って帰っていく。
「お上手ですね」
 少女の母親がジローの泳ぎをほめた。「いえいえ」とジローは笑顔をつくった。実は、つい本気で泳いでしまった。
 心地よい疲れを感じながら、横になり、また文庫本を開いた。
 過剰労働に命をかけ、節約に明け暮れるという、労働者のこの二重の狂気の沙汰を前にして、資本主義経済の最大の課題は、もはや生産労働者を見つけることや、その労働力を倍加することではなく、消費者を新たに見つけ、欲望を刺激し、偽りの必要性を作り出すことである。
 ジローは、この文章を何往復もしてしまった。
 マジメな労働者が、過労死寸前のサービス残業にもかかわらず、低賃金に甘んじている。
 マジメであることは、美徳だ。家庭でも学校でも社会でも、そう教えられる。
 ところが、マジメであることは、ときに「上」に従順なあまり、文句も言わず、自分の気持ちを殺し、「狂気の沙汰」となりうる。資本家の搾取を、マジメな労働者たちが、図らずも支援してしまうこともある。
 ふつうに考えて、これが続くわけがない。
 しかし、最新技術を駆使したCMによって、労働者の欲望がかき立てられる。本来、必要もないモノが、幸せになるためには、さもそれが必要だと思いこまされる。「偽りの必要性」だ。
 労働者は、そんなモノを買い続けるため、マジメであり続ける。
 ジローは、CMに美女が出てくると、目がとまる。動きも止まる。モモに「なに固まってるの?」とも言われる。気をつけよう、と思った。
 やはり、「怠ける権利を宣言しなくてはならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない」。
 そもそも、怠けるとは、サボること。その語源は、フランス語の木靴、サボだ。労働者が争議の際、木靴で機械を壊したことからきている。
 サボるとは、歴史的には、たたかう行為なのだ。
現代は、油断すれば、資本家にせかされ、必要以上のスピードで働かされ、必要以上のモノを買わされてしまう。
 やはり、「サボる権利」を宣言しなくてはならない。
 サボるとは、決して、ただ働かず、怠けることではない。自分のペースで歩くことだ。本当の自分の心の声に耳を傾け、本当の自分を取り戻す行為だ。
 それでも、マジメであることは大切なことである。ただ、何に対してマジメであるかが問題なのだ。本当の自分の心に対して、まずマジメであるべきだ。
 ジローは、今、ここで、ただ横になっていることで、全世界に向けて宣言しよう、と思った。
 万国の労働者よ、マジメにサボって、団結せよ!

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 空腹を感じ始めたジローは、立ち上がり、芝生に敷いていたシートを畳んで、その海岸に別れを告げた。無人駅に併設された喫茶店を思い出し、そこに行くことにした。
 雑誌や漫画が充実した、昭和の雰囲気の喫茶店だ。常連らしき男性客が、カウンターの隅で、たばこをふかし、新聞を読みながら、ときおり、ジローより少し若い女性店主と話している。
 ジローは、L字形のカウンターの角に座り、コーヒーとトーストを注文した。窓の向こうには、さきほどの海が見える。壁にカモメが飛んでいる写真がかかっていた。この駅のホームからの写真のようだ。ここは、冬にはカモメの名所になるらしい。
 冬にまた来られるだろうか。モモを誘えば、ついてくるだろうか。ジローはそんなことを思いながら、おしぼりで汗の塩を噴いた顔を拭いてから、コーヒーカップに口をつけた。
 トーストは厚切りで、カリッと焼かれた表面にバターがよく染みこみ、中はふわふわ、決してうちでは出せない味だ。
 ここの居心地のよさに、帰りの電車を一本見送った。
 ホームで電車を待つ間、あの海岸を眺めていた。電車が来ないので、実家に電話してみた。出たのはヨウ子だ。張りこそないが、沈んでもいない声だった。
「今、お店から帰ってきて、お父さんが、ごはん用意してくれてるとこだよ」
 かつては板前で包丁を握っていたトモカズが、今日もその腕を家族のためだけに振るう。
 ジローは今いる場所をヨウ子に告げた。
「よくジローが子どものころ、行ったねえ」
「松の木陰で昼寝もしたよ」
「あの頃の私みたいだねえ」
 他に特別言うこともないので、電話を切ろうとしたら、ヨウ子が言った。
「モモの誕生日もうすぐだね」
「プレゼントならいらないよ」
「なら、パーティーでもするかね」
 と、ヨウ子が提案したので、ジローは驚いた。何か行動を起こすことなど、ここ数カ月のヨウ子にはなかったことだ。
「何食べても、おいしくないんじゃないの?」
「それが、この頃おいしいだよ」
 先日、病院に行った帰り、トモカズと地下の食堂でうどんを食べたら、ここ数カ月で初めて、おいしいと思ったという。それ以来、食が進むようになったらしい。
 パーティーといっても、ハッピーバースデーを歌って、いつもよりちょっと豪華な晩ごはんを食べるだけのことだが、この家族には一大イベントである。
 電車が来た。
「じゃ、母ちゃん、楽しみにしてるよ」
「プリンつくるでね」
 ジローは、子どもの頃、誕生日になるとヨウ子がつくった大きなプリンを思い出しながら、ケータイを切った。
 海側の席に座ると、あの海岸が見えた。電車が動き出した。見えなくなるまで、見ていようと思った。

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 モモの誕生日は、ジローが父親になった記念日でもある。
「モモはラッキーだなあ」
「ほんと、ほんと」
 モモは珍しくスカートをはいた。今日は、ユリ子と誕生日を祝うことになっている。
「誕生会、パパのとことママのとこと、二回もやってもらってさ」
「そうそう、プレゼントも二つもらうし」
「普通のうちじゃ、こうはいかないぞ」
「ほんと、ほんと」
 ジローはモモが生まれた夏の日を思い出していた。仕事を抜け、慌てて病院に向かった。病院に着くと、すでにユリ子は分ぶん娩べん室に入っていた。間に合わなかったことが、悔しくて、涙が出そうになった。
 ジローが分娩室に入ることを許され、小さなモモを初めて見たとき、これがわが子だという実感はまったく湧かなかった。恐る恐るモモを抱き上げたときも、あまりにも小さすぎて、これが人間だとも思えなかった。
 その日、戸籍上、生物学上、ジローはたしかに父親となったが、本当に父親となったのは、やはりリコンしてシングルファーザーになってからだろう。
 年中無休の家事と育児を通して、この体を実際にモモのために動かして、頭の中の半分、もしくは半分以上が常にモモのことで占められるようになって初めて、父親としての実感が湧いてきたのだ。
 だから、ジローが父親となった記念日は、モモの誕生日ではなく、リコン記念日である。
 一方、「鼻からスイカ出すくらい痛かった」と言って、ジローを笑わせたユリ子は、たしかにあの日、母親になった。
 あの細い体と、おとなしい性格で、どうやってあの偉業を成し遂げられたのだろう。されど母は強し、とジローは思う。
 ベッドで、疲れ切ったユリ子が、それでも微笑を浮かべ、小さな小さなモモを抱いていた。その母子像は神々しく、ジローには近寄りがたかった。自然とジローの目から涙があふれた。
 ドアチャイムが鳴ると、モモがユリ子を出迎えた。
「お昼、まだでしょ?」
「まだ。おなかぺこぺこ。ママと食べる」
「あえて、食べさせてないよ」
 と、ジローも出迎える。
「じゃ、モモをお借りします」
「どうぞ、どうぞ。僕のものでもないし」
 ユリ子が笑った。
「モモはママになにプレゼントしてもらうんだ?」
「内緒だよねえ」
 と、モモが自慢げに言う。
「女の子はいろいろと必要なものがあるんだよね」
 と、ユリ子が言う。モモが思春期を迎え、ジローがユリ子を頼ることがずいぶんと増えた。
「ママとベッドも選んでくる」
「お金はよろしくね」
 と、ユリ子が言うと、ジローはうなずく。ベッドは、ジローからの誕生日プレゼントだ。
 二人は手をつないで出かけていった。十四年後の母子像は、いまだに近寄りがたかった。

第7章「記念日」

100
 八月はいよいよ残すところあと二日。夏休みもついに終わり、しあさってには始業式が行われる。ジローは、毎年のことながら、悲しくなってくる。
 学校が始まるからではなく、夏が終わるからだ。ジローの少年時代、唯一の特技は、水泳だった。校内水泳大会ではヒーローになり、プールで鬼ごっこをすれば、ジローから逃げられる友達はいなかった。
 しかし、秋になれば、子どもたちの主戦場は、プールからグラウンドに移る。運動音痴のジローは、とたんにグラウンドの隅に追いやられてしまった。
 十四歳になったばかりのモモは、朝から同級生たちと、流れるプールに出かけていくことになっている。大きなドーナツ型のプールで、川のように水が流れている。モモが小学生の頃は、毎年、ジローが連れて行ったが、中学生になると友達と行くようになった。
 朝食は、シンプルにバター・トースト。
「これだけ?」
「ミネストローネもあるぞ」
 ニンニクとベーコンを炒め、タマネギ、にんじん、ジャガイモ、トマトを賽さいの目に切って放り込み、コンソメスープを足し、圧力鍋で、煮込んだスープ。
 モモは厚めのトーストの角を一口かじり、黙った。もう一口かじり、ひとこと。
「めちゃめちゃ、うまい」
 ジローは一人旅の最後に食べたトーストの味が忘れられず、研究したのだ。
 外がカリカリ、中がモチモチ、ということは、表面を素早く焼けばいい。中の水分が逃げないうちに。
 そして、到達した結論は、焼き網をガスコンロで熱し、パンを焼くことだった。トースターよりも高温なので、あっという間に表面に焦げ目をつけられる。片面を焼き、ひっくり返して、バターを乗せる。じわじわ溶けて、パンに染みこんでいく。少しでも目を離したら焦げてしまうので、気の抜けない仕事だ。
「ごちそうさま」
「一枚でいいのか?」
「いいよ。だって夜はパーティーでしょ」
「プールでも食いすぎるなよ」
「わかってるって」
 モモは歯を磨くと、ジローに小遣いをもらった。
「日焼け止め代も」
 ジローは仕方なくもう五百円追加した。
 友達が迎えに来た。
「いってきます」
「宿題は終わるのか?」
「明日ちょっとやれば大丈夫」
 モモが出ていった。
 ジローはモモの言葉を信じていない。おそらくモモの宿題は、明日は一日中机に向かわなくては、終わらないだろう。毎年のことだが。
 モモは、今日の夕方、実家のある町の駅まで電車で来て合流することになっている。
 今日のパーティーのメニューは、ヨウ子と相談して、寿す司しということになった。
 寿司職人のトモカズがひさしぶりに寿司を握るのだ。

101
 店が営業していた頃は、毎週末、トモカズの寿す司しをジローとモモは食べていた。ジローの月曜日から金曜日までは、土曜日の寿司のためにあった。モモはいつもアボカド巻き、ジローはいつもちらし寿司。
 少年ジローも、土曜日は寿司と決まっていた。半日授業が終わると、急いでうちに帰り、トモカズにちらし寿司をつくってもらった。
 ところが、今は店が休業中、トモカズの寿司が食べられない。ジローは、回転寿司には一生行かないと心に誓っているので、寿司の禁断症状に苦しんでいた。
 寿司飯だけは、きほに教わり、手巻き寿司くらいは食べられるようになった。それはそれで美味なのだが、本当の寿司とはいえない。ジローにとっての寿司は、やはり、トモカズがつくる寿司なのだ。
 今夜は、ジローが寿司飯を担当する。実家の面々に食べさせるのは初めてのことなので、少し緊張している。ジローの寿司飯が、わが家の味として認定されるかどうかが試されるのだ。
 ジローは、実家に着くと、台所に立った。きほが近くで、ジローの動きを見ている。
 ごはんを炊くためのフランス製ほうろう鍋と飯台は持参した。早速、米を研ぎ、水を張った。すると、ヨウ子がやってきた。
「なんか手伝うことないかね」
「おばあちゃんもいるし、特にないよ」
 と、言って振り向いたジローは、驚いた。
「いつ美容院行ってきたの?」
「思い切って、昨日行ってきただよ」
「お父さんと?」
「美容院の前まで送ってもらって、あとは一人で行っただよ」
 ついこの前まで、トモカズは、ヨウ子のことをおばけと形容していた。こけた顔に大きな目、白髪交じりの髪が真ん中で分かれ、まるで鳥の翼のように両側に広がっていた。今は、ショートヘアになり、ちょっとしたシャンソン歌手のようだ。
「今夜、お父さんに染めてもらうだよ」
 一人での外出。おそらく、ここ数カ月で初めてのことだろう。ヨウ子のこの小さな一歩は、わが家の大きな飛躍だ、とジローは思った。トモカズはジローに言っていた。トモカズが店の再開にむけてトンカチやっているうちに、ヨウ子も快方に向かう、と。ジローはまるで信じていなかったのだが、その通りになりつつあることに驚いた。
 これが夫婦なのだろう。夫婦は、年をとるにつれて、当然、お互いセクシーではなくなっていく。セクシーでなくなればなくなるほど、心の絆が強まっていくにちがいない。
「お父さんは?」
「今、プリンの材料とお寿司のタネを買いに行ってるだよ」
 ついこの前まで、トモカズがどこに行くにもヨウ子はついていった。今、ヨウ子の目の前にいないトモカズは、ヨウ子の心の中にしっかりと存在している。
 独身主義のジローは、結婚も悪くない、と思ってしまった。

102
 少し日が傾いてきて、暑さが峠を越えた頃、イチローが、コーヒー、と言った。これは、イチローの発音することができる数少ない単語の一つだ。もう遠足の時間だ。イチローは、一日に一度、近くの景色のいいところで缶コーヒーを飲むのが日課である。
「ジーが連れてってやるから、玄関まで行って、靴履いてて」
 イチローは、玄関までゆっくりとはっていく。ゆっくりに見えるが、イチローとしては急いでいるのだろう。
「兄ちゃん、今日も海行く?」
 イチローは、指を鳴らした。海へは、車で十分も走れば着く。
「お母さんも行くだやあ」
 と、ヨウ子が言って、ジローを驚かせた。ヨウ子がトモカズ以外と外出するのは、この数カ月で初めてのことだ。美容院へ足を一歩踏み出したことで、うちの外へ足を二歩も三歩も踏み出せるようになったのだろう。
 きほは、うちに残り、洗濯物を取りこみ、畳んでいるという。
「助かるやあ。お母さん、いつも悪いねえ」
「毎日やってるだで、どうってことないよ」
 きほには、他にも食器洗いや掃除などの仕事がある。
 昨年きほが寝込んだとき、食器や洗濯物がすぐ山になり、大変だったことをジローは思い出した。
「この家はおばあちゃんがいないとまわらないね」
「私ぁ、用がいっぱいあるだで」
 そういえば、この家できほがグータラしているところを、ジローは見たことがない。
  助手席にイチロー、後部座席にヨウ子、ジローはまずコンビニを目指した。イチローのために缶コーヒー、自分にはミネラルウオーターを買った。ヨウ子は、もったいないからいらない、と言った。
 国道に出て、しばらく走り、南に折れ、田んぼや工業団地を抜けると、やがて風車が回っているのが見えてきた。
「兄ちゃん、いつもジーとこんないいところ来てただね。昔はあんな風車もなかったのにねえ」
 いつもの海も見えてくる。堤防沿いの駐車場に、海を正面にして車を止めた。窓を全開にすると、波の音が聞こえ、浜風が車内を通り過ぎていく。ジローとイチローには見慣れた風景だが、ヨウ子は中学生の時に遠足に来て以来だという。
「そこのとこから降りれるよ」
 ジローは、駐車場の脇にあるスロープを指さした。最近できたようだ。車椅子でも、砂浜のところまでいける。なかなか好ましい税金の投入法だとジローは思っている。一日も早く日本から段差がなくなることを願うばかりだ。
「ちょっと行ってくるでね」
 ヨウ子は、車から出て、スロープを降りていった。
「兄ちゃん、カー、出てっちゃったよ。大丈夫かなあ」
 ジローは、イチローの缶コーヒーを開け、ストローを差した。
 ヨウ子は足を止めず、波打ち際に向かって、砂浜を横切っていく。その背中がみるみる小さくなっていく。

103
「コーヒー、飲む人いますか?」
「アイ」
 助手席のイチローが元気よく答え、ジローは左手でストローの刺さった缶コーヒーをイチローの口にあてがう。
「兄ちゃん、カー、あんな遠く行っちゃったよ」
 イチローはひたすらコーヒーを吸う。ヨウ子もひたすら砂浜を歩いていき、さらに小さくなっていく。
「兄ちゃん、カー、あんなちっちゃくなっちゃったよ。見える」
「アイ」
 イチローはろくに見もせず、答えた。
「兄ちゃん、いつかカーもいなくなるでね。わかる?」
 イチローはストローをくわえたまま、うなずく。
「先に、バーがいなくなって、次にトーがいなくなって、カーがいなくなって、モモが大きくなってお嫁にいくと、最後はジーと二人だよ」
 ジローは、老人ジローと老人イチローが暮らす様子を想像してみる。
「ジーがお出かけのときは、モモに来てもらって、面倒見てもらうか」
 イチローは、笑顔になって、「アイ」と元気よくいう。
「兄ちゃん、モモが好きなの?」
 イチローは照れているのか、笑顔のままだ。
「そういえば、兄ちゃんは、若い女の子のボランティア好きだもんねえ」
  そのときは、モモはおばさんになっているだろう。ジローは一人、笑った。
「みんな年齢順にいってもらわなきゃ、困るね。兄ちゃんも先に死んでよ」
 そのとき、後ろから車が来た。ジローの車と隣の車の間に駐車しようとしたのだが、中途半端な隙間しかないので、迷っているようだった。運転手は、タンクトップを着たマッチョな坊主頭、おそらくビーチ好きなことで知られるブラジル人だろう。上腕の筋肉の盛り上がったところに入れ墨も入っている。
 ジローは、その外国人がちょっと怖そうだったので、急いで、イチローの缶コーヒーをカップホルダーに収めると、エンジンをかけ、いったんバックして、左に寄せて、隣の駐車スペースを十分確保した。マッチョは、そこにするりと駐車した。マッチョが、車を降りると、こちら側にまわり、ジローのそばまで来て、車窓から中をのぞき込むようにして、頭を下げた。
 見かけによらず、やさしそうな青年だった。
 ところが、その瞬間、イチローが息をのみ、ひきつけを起こさんばかりに驚いた。これは、イチローにはよくあることで、ジローは何の反応もしなかったのだが、マッチョもイチローに負けないくらい驚いた。
「兄ちゃん、大丈夫だよ」
 と、ジローはイチローの肩をたたき、マッチョに笑顔を見せて、頭を下げた。それから、笑いが止まらなくなった。マッチョも苦笑いしながら、後ずさりして、車から釣りざおを出し、砂浜に降りていった。その後も、しばらくジローは笑っていた。

104
 さて、ヨウ子は、まだ歩いていく。もう豆粒くらいに小さくなった。ジローは、もしかしたら、そのまま海に入っていってしまうかもしれないと、恐ろしくなった。
「兄ちゃん、カー大丈夫かなあ?」
 イチローは、笑顔だ。万が一、ヨウ子が海に入っても、走っていき、海に飛び込めば、助けられる自信がジローにはあった。だてに長年、水泳を続けてはいない。
 ヨウ子は立ち止まると、前かがみになって、発泡スチロールのふたのようなものを拾った。そして、また歩き出し、ようやく波打ち際の近くまでたどり着くと、発泡スチロールを下に敷いて、腰を下ろしたようだ。砂浜の起伏があって、ヨウ子の頭だけが、かろうじて見えた。その頭が見えなくなったら、ジローは走ろうと思っていた。
 イチローはコーヒーを飲み干した。ヨウ子はまだ海を眺めていた。
 ジローは、ヨウ子をずっと強い人間だと思っていた。障害者のイチローが生まれたときも、うろたえなかったという。障害者の介護だけの人生はごめんだ、と店の切り盛りに加え、ママさんコーラスにも参加し、コンサートにも展覧会にも出かけ、と芸術を断固として生活の一部としていた。ジローの芸術至上主義は、母譲りだ。
 そんなヨウ子が、ずいぶんと小さくなってしまったのを見ていたら、ジローの目から涙がにじみ出てきた。
「兄ちゃん、なんだか泣けてくるねえ」
 イチローは、海を見ているのか見ていないのか、うつむき加減でにこやかな顔をしている。
「兄ちゃん、わかる?」
「アイ」
 イチローは、わかってもわからなくても質問にはいつも元気よく返事をする。まわりが、どんな状況でも、いつも笑顔だ。
 しばらく座ってたたずんでいたヨウ子が、立ち上がると、うろうろと何かを探しているようだった。どうやらヨウ子が海の中に入る可能性はないと、ジローは確信して、ペットボトルの水を飲んだ。そして、先ほどのマッチョの驚いた顔を思い出して、また一人で笑った。
 ヨウ子の姿が、少しずつ大きくなって、帰ってくる。
「兄ちゃん、カー、帰ってくるよ。よかったねえ」
 イチローは無言でうなずく。
「ただいま。これ、モモちゃんに、と思って」
 と、ヨウ子は白い貝殻のかけらをジローに手渡した。
「ありがとよ」
「海はいいねえ」とヨウ子。
「タダだしね。ね、兄ちゃん、海好き?」
「アイ」
「ほんとはコーヒーさえあればどこでもいいんじゃないの?」
「アイ」
 イチローの返事はいつも元気だ。
「そんなことないよね。兄ちゃんは何でもわかってるだよね」
 イチローは、ヨウ子の言葉に指を鳴らした。

105
 海に入っていくこともなく、無事に車に戻ってきたヨウ子は、子どもの頃、遠足でこの海に来たことを話した。弁当のおにぎりに砂がついてしまったことや、帰りに農家で飲ませてもらった井戸水がしょっぱかったことをよく覚えているという。
「さっき、筋肉もりもりの外国人が来てね」
 と、ジローが話した。
「それで、その外国人が窓からのぞき込んで、お礼を言ったんだけど、そのとき、兄ちゃんがすごく驚いてね、そしたらその外国人はもっと驚いたよ」
 イチローが、思い出したのか、声を出して突然笑った。
 すると、ヨウ子も笑った。たしかに、笑った。ジローは、もう一度最初から話した。
「ね、兄ちゃん、怖そうな外国人が来てね…」
 ヨウ子が、また笑った。イチローもつられて笑うと、ヨウ子はもっと笑った。
 ジローは、ヨウ子が最後に笑った時を思い出せなかった。
「さ、帰って、プリンをつくらなくちゃね」
 と、ヨウ子が言った。ジローも寿す司し飯を作らねばならない。
「兄ちゃん、帰ろう」
 ジローがエンジンをかけると、イチローがシーと言った。
「帰り道で、もらさないでよ」
「アイ」
 車が走り出すと、ヨウ子は遠足のことをまた話した。
「学校から、ここまで歩いてきただよねえ」
 十㌔はあるだろう。子どもにはきつかったに違いない。
「ひさしぶりに海を見れてよかったやあ」
「タダだしね」
「もう、やめただよ」
 ヨウ子が唐突に話し出した。
「何でも悪い方に考えるのをやめただよ」
 これまでのヨウ子は、目の前の分かれ道を、すべて悪い方ばかり選んできた。
「もうどうにもならんだよ」
 と、ヨウ子が何度も言った。ジローが家中の包丁を隠した夜もあった。
「心配するのもやめただよ。困ったら、お父さんもいるし、ジローもいるし、おばあちゃんだっているし」
「ま、兄ちゃんもいるしね」
 イチローが指を鳴らした。
「ケセラセラだよ」
 ジローは英語を思い出した。
 Whatever will be, will be.
 ハンドルを握りながら、ジローは訳した。直訳すると「何でもなるようになる」。何ごとも、なるようにしかならないから、先の心配をするより、今を生きろ、ということか。
 思い通りにならない人生、今を生ききった結果、思いがけないこともあるかもしれない。
 ジローは、ヨウ子の新しい哲学が気に入った。

106
 パーティーの準備が始まった。ジローは白米を炊きあげた。ずっしりと重い、フランス製ほうろう鍋を使った。この鍋は、うちから持ってきたのだ。
 酢、砂糖、塩をボウルの中でかき混ぜる。
 ジローの様子を、シャリ炊き歴六十年以上のきほが見ている。ジローが鍋のふたをとると、湯気があがり、つやのある白米が姿を現す。きほがご飯をのぞき込んだ。
「上手に炊けたねえ。硬さもちょうどいいよ」
 寿す司し飯のごはんは、やや硬めなのだ。寿司酢をまわしかけ、飯台に移す。素早く、しゃもじでご飯と寿司酢を合わせ、隅に寄せて、山にした。
「手つきがいいねえ」
「子どもの頃から、おばあちゃんがやるの見てたからさ」
「ここで、十分待つだよ」
 きほがお茶を二人分入れて、ジローとキッチンの椅子に座った。この家では、夏でも熱い緑茶だ。茶こしを使って、大きな湯飲みで飲む。
 ジローはケータイについているキッチンタイマーをセットした。その脇で、ヨウ子もプリンの用意を始めた。卵、砂糖、牛乳をボウルに入れ、かき混ぜる。
 ジローはレシピを聞こうとも思ったが、やめておいた。やはり、ヨウ子のプリンは、ヨウ子しかつくることができないほうがいい。
 キッチンは狭いので、トモカズはまだ入れない。待っている間、イチローと居間でテレビを見ていた。
 きほが、トモカズとイチローにもお茶を持っていく。
「父ちゃん、しっかり兄ちゃんの世話しててよ」
 と、ジローが言うと、トモカズは右手を挙げて、答えた。
 タイマーが鳴った。
「おばあちゃん、十分たったよ」
「じゃ、シャリを広げて、うちわであおぐだよ」
 ジローが山になったシャリをしゃもじで崩して、広げた。湯気とともに酢のにおいが立ち上る。
 きほがうちわで風を送り、ジローがしゃもじでシャリをほぐしたり、ひっくり返したりする。ジローがシャリを一つまみ味見する。
「おいしいと思うけど……」
 きほもシャリを一つまみ口に入れた。
 間。ジローは少し緊張する。
「上等だよ。もうこれで、私がいなくても、大丈夫だねえ」
 ジローは、この家の味を伝承したことを喜んだ。遺産相続のようなものだ、とも思った。
 一方、ヨウ子はプリンの素である液体を、巨大なドーナツをつくるような型に流しこみ、湯気の上がる蒸し器に入れた。
 シャリもほどよく冷めた。
「父ちゃん、出番だよ」
 いよいよ、トモカズが出てきて、寿司を握る。
 久しぶりのトモカズの寿司である。ジローはそれを食べて大きくなった、といっても過言ではない。
 そのとき、ジローのケータイが鳴った。モモから、駅まで迎えに来て、と。

107
 駅が見えてきた。ハンドルを握ったまま、ジローは徐行しつつ、フロントガラス越しに、モモを探す。
 駅前のバス停に、長い手足が夏服からのぞく少女が立っていた。一瞬、ジローは、その少女がモモだとはわからなかった。
 ジローの知らぬ間に、モモはずいぶんと背が伸びていた。いつも、うちの中で見ているだけだと気がつかなかったようだ。ジローは、一瞬、モモの幼年期の終わりを感じた。
「トナカイか?」
 車に乗り込んだモモの鼻が赤く日焼けしていた。
「背中も赤くなったよ」
「ヘンなお兄さんが話しかけてこなかったか?」
「そんなことあるわけないじゃん」
 車に乗ると、モモはいつものモモだった。
「今日はパパが奇跡を起こすぞ」
「どうせくだらないことでしょ」
「ま、見てろって」
「何の奇跡?」
「ま、見てろって」
 ジローとモモが実家に着くと、トモカズが迎えに出てきた。
「アボカドある?」
「買っておいたぞ」
 モモとトモカズは、イチローがいる居間でサイダーを飲んでいる。トモカズがモモのために買っておいたのだろう。ジローならば買い与えない飲み物だ。
「モモ、ごはん前に、調子に乗って飲みすぎるなよ」
 ジローが言うと、モモは「はいはい」とあしらい、トモカズと顔を見合わせている。
「バカうまいなあ」とトモカズ。
「バカうまだね」とモモ。
 ヨウ子のプリンが蒸し上がった。粗熱をとって、冷蔵庫で冷やせばできあがりだ。
「いいにおい」
 と、モモが言った。バニラエッセンスのにおいだ。モモがものめずらしさに台所に行くと、まずヨウ子の髪型に驚いた。
「ヨウ子ばあば、かっこよくなったね」
「そうかねえ」
「ぜったい、かっこいいよ。プリン、モモも作りたい」
 ヨウ子がモモに作り方を説明した。カラメルには、インスタントコーヒーを使うのだそうだ。二人は、次のパーティーの時に一緒に作ると約束した。ジローは、わが家のプリンの味の伝承はモモに任せることにした。
 いよいよ、トモカズが台所に立った。
「兄ちゃん、もうすぐお寿す司しができるよ。トーが今作ってるよ」
 イチローは指を鳴らし、声を出して笑った。このうちでは、トモカズ以外、みな寿司が大好物だ。トモカズは、寿司だけは食べる気が起こらないそうだ。
 ジローはトモカズの横に立ち、その様子を見ていた。やってみろ、と言われ、寿司を握ってみたが、うまくいかなかった。
 こちらの伝承は、まだまだ時間がかかりそうだ。
「店ができたら、また教えてやるぞ」
「じゃ、冬休みに頼むよ」
 こちらも、男と男の約束をした。

108
 食卓の中央の大きなおけに、寿司がずらりと放射状に並んだ。マグロの赤、イカの白、卵焼きの黄、かっぱ巻きの緑、ガリのピンク、鮮やかな光景。
「まだ、シャリがあるから、なくなったらまた握ってやる」
 と、トモカズが言うと、きほとヨウ子が拍手をした。ジローにとっては、手巻き寿司以外の久しぶりの本格的な寿司だ。トモカズ以外はみな食卓についた。
「おじいちゃんはお寿司食べないの?」とモモが聞く。
「俺はいらんなあ」
 この家で、トモカズだけがただ一人、寿司を食べない。
 寿司が一番の好物であるジローは、この家に生まれてきたことへの感謝を忘れたことはない。きほもヨウ子もイチローも寿司は大好物である。
  モモはまだハンバーグや焼き肉のほうが好きなようだ。寿司が、わが家のソウルフードであることがわかる日が必ず来る、とジローは信じている。
 トモカズの寿司より美味しい料理は、いくらでもあるだろう。しかし、我が家の味、代々受け継いだ遺産、それを食べれば家族の魂に栄養が届き、家族を一つにする食べ物、つまりソウルフードは、寿司以外には考えられない。
「まずは乾杯だね」とヨウ子が言った。ジローはグラスをヨウ子ときほに渡し、缶ビールを注いだ。
「あんたも飲みないよ」
「車、運転するから、麦茶だよ」
「ビールなんて、何カ月かぶりだよ」
 乾杯の音頭は、ヨウ子だ。
「じゃ、モモちゃん、お誕生日おめでとう。かんぱい」
 麦茶とビールで乾杯だ。イチローはグラスを持てないので、指を何度も鳴らした。
 ヨウ子が、イチローのどんぶりに、しょうゆをつけた寿司を入れた。
「おじいちゃんは、おなか、すかないの?」とモモ。
「やっぱり、すくなあ」
 ジローが、寿司をほおばりながら、立ち上がって、冷凍庫を開けた。
「讃岐うどんあるよ」
「じゃ、それいただくかなあ」
 冷凍の讃岐うどんは、コシが残っていて、なかなか美味だ。
 ジローは、立ったまま、ちょくちょく寿司をつまみながら、トモカズのためにうどんをゆで、冷水でしめた。油揚げを短冊に切って軽く煎って、うどんの上にのせ、大根おろしとポン酢と刻みネギをトッピングした。ぶっかけうどんだ。
 トモカズがうどんを食べ始めると、寿司がなくなった。
「おじいちゃん、もっとつくって」と、モモが言う。
「ちょっと待ってろ。じいじに、うどんくらい食わせろ」
 トモカズが急いでうどんをすする。
「モモもうどん食べる」
 そのうどんがモモにはやけにおいしそうに見えたのだろう。
「じいじのなくなっちゃうだろ」
「お寿司食べればいいじゃん」
 トモカズのうどんはモモが食べてしまった。

109
 追加の寿司をトモカズが握っているとき、ヨウ子が言った。
「ハッピーバースデー、歌うの忘れたねえ」
 ヨウ子が音頭をとり、ハッピーバースデーを歌った。ジローとトモカズは歌うふり、モモは自分のために歌い、ヨウ子はママさんコーラスで鍛えた声を発し、きほは思いあまって声がかすれ、イチローはただにこにこしている。
「おばあちゃん、パパとじいじ、ちゃんと歌ってなかったよ」
 と、モモはヨウ子に言いつけた。ジローとトモカズは、ヨウ子ににらまれた。
「おいしいやあ」
 きほがしみじみと言った。
「お母さん、どう?」、とジローが聞く。
「おいしいよ」
「ほんとにおいしいと思うようになったの?」
「このごろは、本当においしく食べられるようになっただよ」
  ジローは、向かいのモモと目が合うと、食卓の上でハイタッチをした。
 ここで、パーティー恒例のミニコンサートの時間となった。
 まずは、バイオリン演奏。モモとジローは、週一回、バイオリンのレッスンに通っている。モモが小学校二年生のときに一緒に習い始めた。モモのほうが上達は速く、この頃ではジローはレッスン中、モモの背後でバイオリンを構えるだけで、邪魔にならないようにほぼ立っているだけ。モモが、ちょうど今習っている曲を弾いた。この夏休み、練習をさぼっているので、何度かつまづいたが、そんなことはかまわず、ヨウ子ときほが大きな拍手を送った。続いて、そのバイオリンで、ジローが、もっとも簡単な曲の部類に入る「むすんでひらいて」を弾いた。これはイチローが幼少の頃から好きだった曲で、イチローは体を揺すりながら聞いていた。
 イチローも歌う。いつも「アイ」と元気よく返事をするので、アイアイという猿の歌だ。イチローが歌える唯一の歌である。「アイアイ」とジローが歌うと、「アイアイ」とイチローが応える。
「お猿さんだよ。はい」
「アイアイ」
 息も合ってなくて、間も長すぎたりするが、兄弟でなんとか一曲歌い終えた。
 きほとヨウ子が立ち上がって大きな拍手をすると、イチローは満面の笑みで応える。
 トリは、きほだ。直立不動の気を付けの姿勢で、ヨウ子が菓子箱のふたの厚紙に書いた歌詞を見ながら歌った。「時計台の鐘」という歌。ヨウ子の子守歌に、きほがよく歌ったらしい。きほは、女学校では、唱歌のお手本を代表で歌ったというのが自慢だ。この歌が、当時は美人で評判の若きシングルマザーだったきほの、うっとりとさせる声で歌われたことを、ジローは想像した。
「デザートは?」
 と、モモが言うと、ジローも甘いものがほしくなった。
「もうプリン冷めたかやあ」
とヨウ子が心配しながら、冷蔵庫を開けた。

110
 ヨウ子が、大きな皿を、プリンの入った大きなドーナツ状の型に逆さまにしてかぶせ、一気にひっくり返した。型をとるとプリンが姿を現す。上にはカラメルソースがのっていて、プリンはまだ少し生温かかった。
「おいしそう。味見する」
 とモモが言う。
「パパが切ってやるぞ」
「じゃ、上の茶色いのはとって」
「なんで?」
「苦いからいらない」
 なぜ、子どもは苦いものが嫌いなのだろう。ピーマン、ゴーヤ、コーヒーなど、決してモモは口に入れない。
「ヨウ子ばあが、張り切ってつくったんだから、勇気を持って、苦いのも食え」
 ジローが切り分けて、包丁を水平にして、そこにプリンをのせて、慎重にそれぞれの皿に移していく。
「あ、食べれた」とモモ。
「当たり前だ」
「だから、この苦いのも。おばあちゃん、おいしいよ」
「うれしいやあ」
 プリンのカラメルソースは、寿す司しの脇のガリのようなものなのだろう。それだけでは、あまり食べたくはないが、寿司と一緒に食べると何倍もおいしく感じる。
「モモ、つらい日もあるから、楽しい日はめちゃめちゃ楽しいんだぞ。このほろ苦いカラメルソースがあるからこそプリンの甘さがうまいんだって」
「なら、お寿司は?」
「ガリか?」
「パパだって、お寿司にわさび入れてないじゃん」
「そうきたか」
 トモカズは、ジローに握る寿司にはわさびを入れない。もう四十をすぎたジローだが、いまだに子ども扱いだ。
「食べれないことはないぞ。しかし、わさび入りの寿司を食べたこともないな」
 ジローは話題を変えた。
「おばあちゃん、今日はお母さんと兄ちゃんと海に行って来たよ」
 ジローが、きほに報告した。
「あ、そうそう、忘れていた」と、ヨウ子がモモのために拾ってきた貝殻を持ってきた。
「ああ、きれい、おばあちゃん、ありがとう」
 モモの喜びように、ジローは感心した。もしジローが同じものをあげても、ここまでリアクションはしない。これも成長、とジローは思った。
「兄ちゃん、海きれいだったね?」
 弟の問いかけに、イチローは笑顔になる。そして、ジローは、今がチャンスだと思った。海辺の駐車場での様子を、きほに話した。当然、ヨウ子の耳にも入る。マッチョな外国人の乗った車がやってきて、ジローの車を動かして、彼が駐車できるようにしたら、その外国人が、運転席の窓から中をのぞき込んで、礼を言おうとした、と。
「私ぁ、海はどうも好かんやあ。山の方がいいねえ。海は怖いだよ。あんたのおじいちゃんが、海で死んだからかいやあ」
 と、きほがトンチンカンなことを言い出し、話の腰を折る。

111
 ジローはめげずに、この話のクライマックスに進んだ。
「大きな体の外国人の男の人が来てね、車の窓からいきなり中をのぞいて頭を下げたもんだから、兄ちゃんが、ビックリしてね、それを見た外国人が、もっとビックリしてさ」
 トモカズもきほも、笑った。もちろん、ヨウ子も笑った。
「ほんと、兄ちゃん、あんときはビックリしたねえ」
 ジローはしつこく繰り返す。
「兄ちゃんがビックリしたもんだから、外国人がもっとビックリしてさあ」
 ヨウ子が、また笑った。
 モモが、一瞬、驚いた表情を見せ、笑顔になった。
「パパ、すごい。おばあちゃん笑った」
「キセキ起こすって言ったろ」
 ジローとモモは、テーブル越しに、また両手の平をあわせた。
「ソウルフードって知ってる?」
 と、ジローが教師口調で、ソウルフードについて説明した。
「おばあちゃん、わかった?」
「それが、わからんだよう」
 ヨウ子がまた笑う。きほはまったく聞いていなかったのだ。
 きほの指導の下でジローがつくったシャリ、そのシャリでトモカズが握った寿す司し、デザートにヨウ子がつくったプリンは、腹だけでなく、魂をも満たす、まさにソウルフードだ。
「お寿司おいしかったね」
 と、モモが言った。
 ヨウ子が答える。
「またお店始まったら、いつでも食べれるよ」
 モモは、またテーブルの向かいのジローとハイタッチした。これまでヨウ子が決して口にすることのなかった店の再開を、ヨウ子の口から聞くと、ジローはそれが実現すると確信した。
「涼しくなる頃には、店ができるでな。今度はよくなるぞ」
 トモカズは誇らしげに、大工仕事の進しん捗ちょく状況を語った。店はさらに小さくなるが、居心地はよくなるらしい。
「甘いもの食べたから、コーヒーがほしいね」
 と、ジローが言った。
「新しい店ができたら、何杯でもコーヒーをいれるよ」
 ヨウ子のコーヒーもまた飲めるようになるらしい。とりあえず、ジローは今日のところは緑茶でがまんした。
「そろそろ、帰るよ。明日で夏休み、終わりだから」
「明日ね、モモのベッドが届くんだよ。パパからの誕生日プレゼント」
 モモがヨウ子に自慢する。
「自分の部屋ができるだね」
「宿題終わるまで、そのベッドで寝られないぞ」
 玄関でみなに見送られ、車に乗ると、ジローは急に夏の終わりを感じた。
 今日はヨウ子の笑顔が戻った記念日、明日はモモの部屋ができる記念日、そしてジローの小さな世界が変わり始める記念日にもなりそうだ。
 夏の終わりを悲しんでいたジローだが、秋も待ち遠しくなった。           (完)