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恋文(中)

連載 小説(7)
渥美 二郎
挿し絵(題字も)
西岡民雄

 夏は、バカンスの季節だ。蝉(せみ)が盛んに鳴き始め、一学期の終わりが近づいてくると、学校で授業をしていても、僕の頭の中は、バカンスのことでいっぱいになる。
 この頃読んでいる本は、サガンの「悲しみよ こんにちは・。何度も読んだことがある本で、夏になると読みたくなる。主人公はシングルファーザーと暮らす十八歳の女子高生。夏になると、二人はバカンスに出かける。南仏の海岸の近くに、別荘を借りるのだ。なんと、二カ月間も。
 父親は、四十歳、・若く、生活力に満ち、豊かな前途のある男・。僕も四十歳になる頃には、そうありたいものだ。その父と娘の関係も、理想的だ。一緒に豪華な休日も過ごしつつ、お互いの世界を尊重しあい、お互いの恋の話をしたりもする。この本は、シングルファーザーである僕の教科書でもある。僕は娘にボーイフレンドができて動揺するような父親にだけはなりたくないと思っている。娘は父親の所有物ではない。誰かにあげたり、誰かにとられたりするものではないのだ。
 ページをめくるたびに、波の音が聞こえてきそうだ。とても仕事どころではなくなってくる。
 バカンスは、何かをしにいくための行為ではない。何もしないための行為だ。計画を立て、観光地を効率よくまわり、土産を買い込むことは、旅行とは言えるが、バカンスではない。何もしないでいることは、今暮らしているところにいては、なかなか難しい。携帯電話もインターネットもある今、ひとは見えるものにも、見えないものにもつながっている。アンプラグド、つまり、コンセントにつながっていない状態でなくては、バカンスとは言えない。だから、南国あたりに場所を移す必要があるのだ。ホテルに滞在すれば、家事からも解放される。仕事が休みでも、家事には休みはないので、これも僕にはうれしいことだ。
 きっちり休むということは、大切なことだと思う。中途半端に休むと、もっと休みたくなるが、充分休みをとると、最後には仕事がしたくなってきたり、むしょうに包丁を握りたくなってくるものだ。
 そんなことを言ってはみたものの、僕もいちおうフルタイムで、しかも日本で働いているので、バカンスといっても、せいぜい四泊五日くらいだ。そのくらいのバカンスに行くにも、この国では、けっこう勇気がいるものである。
 バカンスは、モモと二人で暮らすようになってから始まった夏の恒例行事である。家族旅行といっても、モモと二人なので、身軽で、しかも経済的負担も最小限で済む。
 僕はあまり貯金をしない。なんとかなるさと、極度の脳天気ということもあるが、日本経済を応援しようと、本気で思ってもいるのだ。夏のボーナスの大半は、毎年、バカンスで消えてしまう。
 おととしの夏は、グアムに行った。モモは初めての飛行機、初めての外国だった。
 去年の夏は、沖縄。あまりにもよかったので、冬休みにもう一度行って、離島までわたり、ザトウクジラを見てきた。
 うちのバカンスの条件は、飛行機に乗って行くことと、南国でリラックスできること。行き先は、できれば時差が少なく、交通費もさほどかからないところがいい。となると、アジアがいいのだろう。
 しかし、今年は問題があった。この春から、僕は水泳部の監督となった。夏といえば水泳の季節、夏休みともなれば、毎日のようにプールサイドに行かなくてはならない。
 そこで、放課後、水泳部の練習のときに、マネージャーの美紀に相談することにした。美紀は、一年生で、まだストップウォッチをうまく使いこなせず、練習中何度もパニックになることがあり、僕がプールサイドにいないと、不安になるようだ。
 僕はネクタイは締めず、半袖のボタンダウンシャツ姿で、ストップウォッチ片手に、美紀と並んで、プールサイドに立っている。
 ちょうど長距離を泳ぐ練習をしていて、しばらくはストップウォッチは押さなくてもよさそうだった。僕が切り出した。
「あのさ、夏休みだけど……」
「なに、毎日あるんでしょ、練習」
「そりゃね。週に一日くらい休むけどね」
「練習は午前中だけ?」
「そうだよ。だから、午後は自由」
「やったあ」
「モモちゃんも来る?」
「来るよ」
「連れてきて、連れてきて」
 放課後の練習が六時に終わらなければ、僕は学童の迎えに行き、モモをプールサイドに連れてくる。ここには、モモ用の机と椅子があり、モモはそこで宿題をすることになっている。美紀は、そんなモモが退屈しないように、よく面倒を見てくれる。
 そして、僕は言った。
「で、旅行に行っていい?」
「旅行って、どこ?」
「まだ決めてないけどさ」
「何日行くの?」
「四日か、五日……」
「そんなに」
 と、美紀の声が大きくなったところに、選手たちが次々と泳ぎ終えた。僕たちは会話を中断して、タイムを読み上げていく。そして、また選手たちが泳ぎだしていった。
「先生、それ、どういうこと?」
「つまり、モモとバカンスにさ」
「バ、バカンス?」
 美紀は、次々に質問を浴びせかけた。僕に答える暇は与えなかった。どうして美紀を一人残して行けるのか。美紀がうまくできなくてパニックになったらどうするのか。それでも水泳部監督か。
 結婚していたあの頃なら、夏休みに水泳部員たちをおいて、何泊もバカンスに行くことなど考えもしなかっただろう。
 僕はワーカホリックだった。ワーカホリックとは、ワーク(仕事)と、アルコホリック(アルコール中毒)を合わせた言葉で、仕事中毒と訳せばいいのだろう。毎日のようにサービス残業をして、休日出勤もいとわなかった。学校の仕事に加えて、教職員組合の仕事もあった。平日の夜に会議があったり、週末に泊まりがけの会合や集会があったり、いつも留守にしていた。家事をしたことはなく、モモとの思い出もほとんどない。
 しかし、今は違う。バカンスは家庭の恒例行事となり、価値観がすっかり変わってしまったのだ。仕事か家庭かと選択を迫られたら、一瞬の迷いもなく、僕は家庭をとる。
「ヨーロッパじゃ、何週間もバカンスするんだよ」
「ここは日本です」
「じゃ、もし美紀が結婚して、だんなが仕事ばっかりやって、家庭を大事にしなかったらどうする?」
「そんなひととは結婚しないもん」
「だろっ、だんなには、仕事よりも家庭を優先して欲しいよね」
「うん。だけど……」
 沈黙。
「わかった。でも、先生、おみやげよろしくね」
「了解」
 僕たちはまた仕事に戻り、選手たちのタイムを読み上げていった。
 これで、バカンス前の最大の難関を一つ乗り越えた。
 もう一つ難関があった。勉強合宿である。この夏、僕が恐れていた三泊四日の勉強合宿だ。モモを連れて行くには、少し、いやだいぶ難しそうだ。しかし、これには、特進クラスの担任である若手の竜崎が、他の誰にも行かせない勢いで、行くことを申し出たので、助かった。
 夏休み中に補習も何日かあるのだが、団塊世代の石田先生と、僕と同年代のママ先生山口さんが担当してくれることになった。
 僕の担当は、一学期に赤点をとった生徒たちの補習と再テストだ。こちらは、僕の得意分野だ。本来、教育の重点は、こちらに置くべきである。バカンスに影響が出ない日程で、とりあえず、講義は少なく宿題は多めという指導方針だけ決めた。
 これで、バカンス前の難関をすべてクリアだ。あとは、義理土産を買ってきて、ばらまくだけでいいだろう。
 まったく、この国では、バカンスに行くのも一苦労だ。
 NHKのプロジェクトXなどという番組が人気があるようだが、そんなことだからいけない。たしかに僕も見て何度も涙を流したことがあるが、偉業を成し遂げる「挑戦者」たちの家で、家事と育児をすべて引き受け、挑戦者たちの内助の功となり、アイデンティティを失った無数の専業主婦のことを忘れてはいけないと思う。
 だいたい、・挑戦者」たちの労働時間が長すぎる。あれでは、家事ができない。子どもとの時間も持てないだろう。ある企業でコンピュータをつくったすごい男の回を見たが、最後は飛行場で倒れ、死んでしまった。過労死だろう。まさに企業に命を捧げた企業戦士だ。
 そういえば、その企業は、日本の企業の中で最も早く「成果主義」賃金を導入して、それがうまく機能しなくて、業績も下がったという。
 まったく、プロジェクトXは、一日も早く、放映終了したほうがいいと思う。
 
 何通かの祖父の手紙の差出人住所のところに、昭南島と書かれている。学校で、そのことを社会の先生に訊(き)いたら、シンガポールのことだということがわかった。
 時差が少なく、南国で、近くで、英語が通じるところ。すべての条件があてはまる。
 取材をかねてのバカンスにもなる。祖父が滞在していたシンガポールに行けば、少しは祖父に近づくヒントが得られるかもしれない。
 完璧だ。
 学童に迎えに行った帰りの車の中で、モモに訊いてみた。
「今年も、バカンス行く?」
「行くに決まってるじゃん」
「だよね。シンガポールにしよう」
「また、戦争があったところでしょう?」
「戦争があったところでもある。でも、いいとこだって」
「じゃ、どういうとこ?」
「南の島だよ。ホテルでダラダラして、泳いだり、観光したり、ショッピングしたりさ」
「いいねえ」
 いくつもの難関をクリアしておいて、本当によかった。
 僕たちは、本屋に寄って、ガイドブックを買った。パラパラとページをめくり、僕の目を引いたのは、チキンライス。鶏肉がうえにのったごはんだ。炊き込みごはんらしい。
 それで、その夜のごはんは、チキンライスとなった。といっても、シンガポールのチキンライスはよくわからないので、適当につくってみることにした。
 スーパーにより、タマネギと手羽を買った。うちに帰るとすぐ、タマネギをクシ切りにして、手羽と一緒に、米にのせて炊いた。味付けは、醤油とみりんを少々。
「パパ、おいしい。これなに?」
 モモは一口食べると言った。
「チキンライス」
「え、チキンライスってオレンジ色でしょ」
「チキンは鶏、ライスはごはん」
「なあんだ、とりめしじゃん」
「そうともいう」
 それにしても、おいしかった。きっと、シンガポールのチキンライスは、これ以上だろう。楽しみになってきた。
 
 読み聞かせの時間となった。僕とモモは、ベッドに並んで、横になった。
 「星の王子さま」を、時に僕が要約しながら、まだ読み進めている。夏休みの前に、何とか最後まで読み進むことができそうだ。
 王子は、いろんな星を旅して、へんてこな人たちに出会った。命令ばかりする「王様・。誰にでも感心されなくては満足しない「うぬぼれ男・。酒ばかり飲んでいることが恥ずかしく、それを忘れるためにさらに飲み続ける「呑み助・。お金の勘定ばかりしている「実業屋・。自分の机から離れない「地理学者・。
 誰もがみな孤独、たった一人でそれぞれの小さな星に暮らしている。
 そんな中で、王子が一人だけ友だちになりたいと思ったのが「点燈夫」だ。夜になると、小さな星にたった一つある街燈を点ける。しかし、その星の自転は一分なので、点けても三十秒経てば朝になるので、すぐ消さなくてはいけない。そして、三十秒経つと、夜になるので、またすぐ点ける。
「モモ、何で点燈夫だけ、王子は友だちにしようとしたのかな?」
「誰かの役に立ってるからじゃない。星、光らせてさ」
「あ、そうか、他のひとは自分のことしか考えてないからか」
「たぶんね。次、読んで」
 王子は地球にやってきて、友達ができた。キツネだ。王子に友情や愛について教えるキツネの言葉は、意味深で、簡単なようで難しい。そして、王子と別れるとき、最後にある秘密を教える。
「大事なものは目に見えない・、と。
「これもイマジンじゃん」
 と、僕は言った。
「想像するってことでしょ」
「そう」
 転(てん)轍(てつ)手が出てきた。スイッチマンとルビがふられている。短い章だ。スイッチマンの仕事は、汽車の転轍、つまり交通整理のようなものだろう。人間を千人ずつ汽車に乗せて、右へ左へと振り分けて、送り出す。王子が、人間たちはそんなに急いで、何を探しているかと尋ねる。スイッチマンは言う。それは、汽車に乗っている人間たちも知らない、と。また、人間は自分のいるところに気にいることはない、とも。それを聞いた王子が言う。
「子どもたちだけが、何を欲しいか、わかってるんだね」
 そして、僕はスイッチマンになりきって、ため息混じりに言った。
「子どもたちは、幸せだな」
 僕は間をとり、大きくため息をついた。
「へんなの」
 と、モモが言って、あくびをした。
「じゃ、今日はここらにしよう。電気消そう」
「パパはどうする?」
「もうちょっと起きてる」
「パパの時間でしょ」
「そう、仕事。さ、点燈夫が電気を消すよ」
「パパも早く寝るんだよ。明日学校なんだから」
「ラジャー」
 
 僕はダイニングテーブルに戻って、しばらく考えていた。スイッチマンの場面だ。サン=テグジュペリは、フランス人で、一九四四年に死んだと言われているので、・星の王子さま」を書いたのは、フランスがナチス・ドイツに占領されていたころだ。アメリカに亡命していたサン=テグジュペリは、いつもファシズムのことが頭から離れなかったはずだ。
 人間が自分のいるところに満足することはなく、いつも急いでいて、何を探しているかもわからず、何かに乗せられて動いている。これはまさに、ファシストが支配する社会では、大衆はそうならざるをえないという比(ひ)喩(ゆ)なのだろう。
 僕は、一瞬、緑が丘高校のことを思い出した。自分のいるところに満足することはなく、いつも急いでいて、何になりたいか、何をしたいかもわからず、教師の敷いたレールの上を追い立てられるように、勉強していく生徒たち。学校がファシズムのサポーターを育てていく……。
 それは、考えすぎだろうか。考え過ぎなら、いいのだが。
 サン=テグジュペリは、作家であるとともに、パイロットでもあった。最後は、祖国フランスのために、兵士にしては高齢にも関わらず志願し、ファシズムと戦うべく飛行機に乗る。しかし、サン=テグジュペリは弾を撃ってはいない。無差別爆撃機に乗ることは拒み、偵察機を操縦したのだ。そして、地中海上空で、消息を断つ。
 そんなサン=テグジュペリが「星の王子さま」を書いていた頃、青年将校だった祖父が若くてきれいだった祖母に宛てて恋文を書いていたのだろう。思わぬところで、六十年前がつながった。ファシズムとたたかったサン=テグジュペリ、かたやファシズムの中で生きた祖父が、同じ時代を生きていたことに少し感動した。
 
 この頃は、バカンスのことばかり考えているのだが、もう一つ頭の中に常駐していることがあった。見知らぬ彼女からメールが来てからというもの、いつも、彼女の言葉と、彼女への言葉が、交互に並び、決して追いつかないメリーゴーランドのように頭の中で回り続けているのだ。僕は何かに感動したりすると、彼女に伝え、共感して欲しいと思うようになった。
 彼女のことは、顔も知らなければ、どこに住んでいるかも知らない。
 名前は、雪乃さんという。そのせいか、彼女のイメージは白い。
 ただ、知っていることと言えば、毎日インターネットで僕の日記を読んでくれることと、シングルマザーであることと、日本語を教えたり、翻訳をしたりして、生計を立てていることと、彼女の一人娘がモモと同じ年ということだけだ。
 雪乃さんからは、一週間に一回ほどメールが来るので、僕もその頻度で返事を書くようにしている。
 はたして、この夜、雪乃さんからメールが来ていた。
 
 こんばんは。
 先日、たまたまNHKのフランス語講座で、ジローさんがきっと気に入りそうなシャンソンが取りあげられていました。
 もちろん、私はフランス語を学んでいるわけではありませんが、本当に偶然テレビをつけて、その歌詞に出会ったのです。
 
「独身主義者のバラード」
 
ぼくはつつしんで きみに求婚しない
 
野の鳥には 自由に飛ばせてやろう
二人ともずっと仮釈放の身でいよう
魂を鍋の柄に 売り渡した
料理自慢の 主婦なんか
悪魔にくれてやれ!
 
ぼくはつつしんで きみに求婚しない
 
僕にはメイドなんかいらない
家事とさまざまな気苦労から
君を免除してあげよう……
永遠のフィアンセとして
意中の姫君のことを
いつまでも いとおしもう
 
四十年近く前の時代、この歌をつくったジョルジュ・ブラッサンス。保守的なひとからは、非難もされたそうですが、生涯独身主義を貫いたといいます。また、筋金入りのアナーキストだったとか。
どうでした?
 私はこの歌を作って歌ったブラッサンスにすっかりしびれてしまいました。
 思わず、フランス語を勉強するつもりもないのに、このテキストを買ってしまいました(笑)
 それでは、また。
 
独身主義者の雪乃より
 
 このメールには、僕もしびれてしまった。・独身主義者」という言葉が、また僕の頭の中で回り続けそうだ。
 もし、女性を「永遠のフィアンセ」として愛したならば、・釣った魚に餌をあげない」と言われることもないだろう。このセリフは、モモの母親に何度言われたかわからない。
 もし妻を、純粋に一人の女性として愛したならば、結婚しても恋は続くのかもしれない。妻としてでもなく、母としてでもなく、そのひとらしい一人の女性として。家事や育児をしてもらうために一緒にいるのではなく、ただ恋心だけで、つながっている関係。
 一人の女性に妻の役割を与え、母の役割を与え、彼女を独占し、束縛し、うちに閉じこめ、夫は外でよろしくやっている。それこそまさに、僕の終わってしまった結婚生活である。
 つくづく、この手の結婚はこりごりだと思った。不幸な結婚があるように、幸福な離婚もあるのだ。
 モモには仕事と言ったものの、結局、この夜は祖父の恋文をコンピュータに一文字も打ち込むことはなく、ブログを書いて終わってしまった。
 
「独身主義者宣言」
 
僕はつつしんで君に求婚しない
君を永遠のフィアンセとして愛そう
まるで、野の鳥のように
 
お互いのうちを持とう
できれば、近くに
いや、遠くてもかまわない
 
家事なんて、恋のじゃまにしかならない
自分のことは自分でしよう
 
ひとは、どんなに多くのものを手にしても、
もっと欲しくなり、決して満たされない
だから、求めあうのではなく
お互いに、与えあおう
 
寄りかかるのではなく
お互い自分の足で立って
寄りそうように
残りの人生を共有しよう
 
万国の男たちよ女たちよ、恋愛せよ!
 
 メールに触発され、調子に乗りすぎたようだ。明日になって、読み返したら、きっと恥ずかしくなるだろう。しかし、そう思う前に、僕はこの文章をネット上に公開してしまった。まったく、調子に乗りすぎるところは、子どもの頃からなおらない。
 恋愛せよ、などと書いてはみたが、まだ恋にはうんざりしている。実は、恋が怖いのかもしれない。恋はどうせ冷めるだろうし、飽きるだろう。いや、この僕が飽きられるのだろう。
 つくづく、僕は口先だけの男だと思った。時に、そんな自分が嫌になる。
 さて、明日になったら、早速、シンガポールのバカンスの手配をしよう。旅行社に電話して、もっと資料も取り寄せよう。
 僕はベッドに戻ると、暗闇の中で、モモの寝息を聞きながら、南国を思った。祖父が食べたという椰(や)子(し)の実はどんな味がするのだろう。チキンライスは、祖父も食べたのだろうか。祖父が見た海は、どんな色なのだろう。祖父はどんな空の下で、祖母に恋文を書いたのだろう。
 その同じ空の下で、その同じ海を早く見たくなった。バカンスの夏は・すぐそこまで来ている。(つづく)
連載 小説(8)
渥美 二郎
挿し絵(題字も)
西岡民雄

 真夏なのに、僕とモモは長袖を着ている。うちでは扇風機しか使わない僕たちには、機内のエアコンが効きすぎているのだ。
 雪乃さんに勧められた「1984年」の文庫本を僕は読んでいる。ファシズムのもとの監視社会が舞台で、オーウェルが一九四八年に未来を想像して書いた作品だ。
「パパ、ひま」
 と、モモが言った。すでに機内食は終わり、窓から雲を見下ろすことにも飽きてしまったようだ。
「本でも、読めば」
「面倒くさいもん」
「寝れば?」
「眠くないんだって」
 シンガポールまでのフライトは、六時間ぐらいだろう。まだ半分も過ぎていない。僕もこの狭い空間に閉じこめられていることにうんざりしていた。そして、読んでいた文庫本をパタンと閉じた。
 僕は「星の王子さま」を持ってきたことを思い出した。通路側に座るビジネスマン風の青年は、イヤホンをつけたまま眠っているので、ここで読み聞かせすることにした。あともう少しで読み終わるのだ。
 王子が地球に来て、一年が経った。王子は、自分の星に残してきたバラのことが気になり、星に帰ることを決めた。
「パパ、どうやって帰るの?」
「聞いてれば、わかるって」
 王子にとって、星に帰るということは、死を意味していた。毒蛇に噛(か)ませて、旅立つのだ。
「ね、王子さまは、バラが好きなの?」
「愛してるんだって」
「なんで、ケンカしたのに?」
「愛があっても、ケンカはする」
 王子は、命とひきかえに、愛するバラのところに帰っていった。
 僕たちは、ようやく「星の王子さま」を読み終えた。マラソンを走り終えたような達成感があった。
「パパ、読んじゃったね。ね、あのバラって何?」
「サン=テグジュペリはお嫁さんとうまくいってなかったみたいだよ。でも愛してた」
「あ、だから、女のバラだったんだ」
「たぶんね。サン=テグジュペリはさ、パイロットでしょ。お嫁さんをうちに置いて、いろいろ旅してたんじゃない? 王子が星を旅したみたいにさ」
 モモは黙って何度も頷(うなず)いた。
「ああ似てるねえ。自分のこと書いたのかあ」
「作家は、自分のことを書いたつもりなくても、書いちゃうんだよ。きっと」
「パパもそう?」
「パパは、自分のことしか書けないから、自分のことを書く」
「もっとイマジンしなきゃね」
「はい」
 モモがあくびをした。僕にもあくびがうつった。
 僕もうとうとしながら、サン=テグジュペリのことを考えていた。・星の王子さま」を、サン=テグジュペリは遺書のつもりで書いたそうだ。バラは、愛する妻であるとともに、愛する祖国フランスでもあったのだろう。王子が命をかけて星に帰るように、サン=テグジュペリも命をかけてフランスに帰ったのだ。そして、ナチスとたたかうべく、操(そう)縦(じゆう)桿(かん)を握った。爆撃機を拒み、偵察機に乗り込み、飛び発(た)ったまま戻らなかった。
 祖父も、死ぬ覚悟はできていたのだろうか。死に対する恐怖は、一言も祖母には言わなかったそうだ。恋文にも、・笑って靖国の神になったと思ってくれ」と書いてあるだけだ。もっとも、死への恐怖は口にできない時代だったのだろうが。
 僕はこれまで身内の死を経験したことも、自分の死を意識したこともない。死は、想像できない遠いところにあった。
 
 僕もいつしか寝入っていた。その時だった。飛行機が、一瞬、大きく揺れた。飛行機が苦手な僕は、恐怖で目を覚ました。腹から脚のあたりがひやりとした。
 ポーンと電子音が聞こえて、頭上のランプが点(つ)いた。シートベルト着用のサインだ。アナウンスが流れ、気流の関係で揺れるが運航に支障はないと告げた。
 心臓の鼓動が速くなった。
 モモは隣で眠っている。反対側のビジネスマンも目をつぶっている。近くに、二人並んで座っている客室乗務員は、笑顔で談笑している。
 大丈夫だ。なんでもない。飛行機で死ぬ確率は、二百万分の一だ。
 僕は、もう一度、目をつぶった。こんなにも、死は恐ろしいものなのだ。僕は眠って忘れようとしたが、心臓の鼓動がますます速くなり、眠ることができなかった。
 神風特攻隊員のことや、9・11同時多発テロの機内にいた乗客たちのことが思い出された。その恐怖はこんなものではなかっただろう。
 
 飛行機を降りると、僕たちお互いのスーツケースをゴロゴロ転がしながら、入国審査のゲートに向かった。
「モモは、飛行機、怖いと思ったことある?」
「ないよ」
「一度も」
「ぜんぜん、怖くないよ」
「すごいなあ」
 と、僕は感心した。
「え、もしかしたら、パパは怖いの?」
「怖いわけないよ。何度も飛行機乗ってんだから」
 僕はモモに入国審査で言う英語を教えた。たいてい、旅の目的と期間を訊(き)かれるので、・サイトスィーイング、ファイブデイズ」と教えた。
「パパ、もう一回、言って」
 僕は、何度も言わされた。
「パパ、一緒に来てよ」
「無理、一人ずつだから」
 モモは英語を使うことに、そうとう恐怖を感じているようだった。
「サイトシー、え、なんだっけ?」
 なぜ、あんなに恐ろしい飛行機が平気で、英語を言うことが怖いのだろう。僕には、さっぱり理解できなかった。
 
 まだ明るいうちに、ホテルに着いた。街中のホテルで、ロビーが広かった。部屋に入ると、お互いのベッドを決めた。モモは街が見下ろせる窓際のベッドをとった。僕がモモのベッドの上に何かを置くと、すぐモモに「ここはモモの陣地」と文句を言われた。
「パパ、プール行くよ」
 と、モモが浮き輪に体を通して、立ち上がった。夕食前のひと泳ぎだ。僕は文庫本とモモの本も持って、ついていった。
 プールサイドには、パラソル付きのリクライニングチェアが並んでいる。白人ばかり、たいていサングラスをかけて、本を読みながら横になっている。僕はそのうちの一つに横たわり、文庫本を開いた。
「モモ、先に泳いでて、すぐ行くから」
「だめ。それ嘘だから」
「ちょっと、読ませてよ」
「日本でも本は読めるでしょ」
 僕はしかたなく、日本でもプールには入れると思いながら、プールに飛び込んだ。僕にとってのプールは、ひたすら往復するところだ。遊ぶところではない。ところが、ホテルのプールは、ひょうたんのような変な形をしていて、コースロープもなく、ひともたくさんいるので、往復できない。モモが浮き輪につかまり、僕はその近くに浮いていた。
「パパ、つまんない」
「そう?」
「もっと楽しそうな顔してよ」
 それで、鬼ごっこすることにした。これなら、追いかけるときに泳げて、逃げるときにも泳げる。僕たちは、何度も鬼を交代しながら、ずっと泳いだ。
 そのうち、モモもさすがに疲れたのか、リクライニングチェアに並んで横になった。僕は文庫本を開くと、モモにも本を手渡した。・大泥棒ホッツェンプロッツ三たびあらわる・、シリーズ三作目だ。
 「1984年」は怖い話で、その怖いもの見たさで、ページをめくる手が止まらなくなる。主人公は、ある政府機関で働いている。政府に都合の悪い記録を消去するのが仕事だ。彼が消去すると、歴史の事実がまったくなかったことになる。まるで、南京大虐殺はなかったとか主張する団体のようだ。
「パパ、おなかすいた」
 まだ、数ページ読んだばかりだった。
「何食べたい?」
「カレー」
「どうして、どこに行ってもカレーばかり食べるわけ?」
「うまいからに決まってるでしょ」
 僕は本をきりのいいところまで読むまでモモを待たせ、カレーを食べに行くことにした。
「モモ、じゃ本物のカレー食べに行こう」
「っしゃー」
 僕たちは、お互いの右手の親指と親指をあわせて、こすりあわせた。
 
 シンガポールで、一つ楽しみにしているものがあった。シンガポリアンたちが話す英語、シングリッシュに触れることだ。
 シンガポリアンに日本語を教えたことがある雪乃さんから教えてもらったのだが、ここでは独自の英語が発達したという。それが、シングリッシュだ。シンガポリアンたちは、英語を完全に道具として使いこなし、自分たちでアレンジまでして使うそうだ。
 リトル・インディアというインド人街までは、タクシーで行った。その中国系の中年のタクシードライバーに、僕はいろいろと話しかけた。シングリッシュを聞くためだ。ところどころ聞き取れなかったが、なんとかたくさんの観光情報を得ることもできた。
 オッケーラ、サンキューラ、グッバイラと語尾にラをつけるのがシンガポール風のようだ。
「グッバイラ」
 と、真似して言ってみた。モモにも「グッバイラ」と言わせた。
 タクシーを降りると、シンガポールから、他の外国に来たようだった。アーケード街を歩くと、日本人は見あたらず、ターバンを頭に巻いた男性と、額の真ん中に赤い丸が描かれた女性としか、すれちがわない。そこらからノリのいい音楽が聞こえてくる。ゴミが落ちてないことで有名なシンガポールだが、リトル・インディアにはたくさんゴミが落ちていた。いろんな店が並んでいたが、どの商品も見たことのないものばかりだった。
「カレー屋探すぞ」
「パパ、知ってるの?」
「知らない」
「大丈夫?」
「まかせとけって」
 はぐれないように、僕はモモと手をつないだ。そういえば、久しぶりのことだった。
 カレー屋はすぐに見つかった。レジのところのガラスケース越しに、カレーの入った鍋や、黄色いライスやナン、骨つきの鶏肉が見えた。
 英語で話してみたが、通じたのかどうかよくわからなかったので、いくつかの料理を指さして、奥のテーブルに座った。男性客が二人、ナンをカレーにつけて食べていた。僕たちは注目を集めているようだった。
「パパ、なんでみんなジロジロ見るの?」
「日本人めずらしいんじゃない」
 僕は、目が合えば、笑顔を返した。むこうも戸惑いながら微笑んだ。
「モモ、食べ方研究するぜ」
 僕たちは、さりげなく他の客の食べ方を見ていた。スプーンやフォークを使っていないようだった。
「パパ、手で食べてるよ」
「右手しか使ってないよ」
 左手は不浄の手、つまりトイレの手、食事では使わないのだろう。
 僕たちの料理がすぐに運ばれてきた。カレーとナンとペットボトルに入ったミネラルウォーター。
「サンキューラ」と僕。・サンキューラ」とモモも言った。
 カレーはとにかく辛かったが、その辛さとおいしさは正比例していた。僕とモモは、一口食べては、一口水を飲んだ。
 それにしても、右手だけで、食べるのはむずかしい。僕たちは、他の客の眼を盗んで、時々こっそり左手を使った。
 
 翌日、午前中ひと泳ぎしてから、またタクシーで外に出た。タクシー代は、日本ほど高くなく、ドライバーもいろいろ教えてくれるので、本当に助かる。
 シンガポールは、どんな木や花でも、とにかく葉が大きい。街路樹は、巨大な扇子を広げたような見たこともない木だ。
 街を歩くシンガポリアンは、多くが中国系で、インド系やイスラム系も目立つ。白人もよく見かける。どこの国に来ているか、わからなくなるほど、いろんな人種に囲まれている。
 僕は、タクシーの運転手や店員など何人か英語を話したが、どのシンガポリアンも自分のアクセントで話しているようだ。ここでは、英語が誰かのものではなく、自分の道具として、使い込まれているのだ。
 日頃、アメリカ英語を手本にしていたことが、バカらしく感じた。シングリッシュは、シンガポリアンたちのアイデンティティを表現する道具なのだ。日本人も、日本人らしい英語を話すべきなのかもしれない。
 タクシーを降りて、ガイドブックの地図を頼りに歩くと、モスクが見えてきた。
「パパ、見て、タマネギ」
 たしかにモスクの上には大きなタマネギが金色に光り輝いている。歩いている女性は、頭から肩にかけて白い布をかぶっている。昨日はインド、今日はアラブの国に来たようだ。モスクの見学は無料ということなので、入り口で靴を脱ぎ、入ってみた。時刻の違う時計が二つかかっていた。一つはシンガポール時間、もう一つはメッカ時間のようだ。柱が何本も立つ、とにかく広い絨(じゆう)毯(たん)の間に、ポツリポツリと男性ばかり五人ほどいる。全員が跪(ひざまず)き、額を絨毯にこすりつけるようにして、祈りを捧げていた。
 僕とモモは、一言もしゃべらなかった。この神聖な静寂を破ることができるのは、この世に何も存在しないようだった。
「なんかすごいねえ」
 と、モモが囁(ささや)いた。僕は頷いた。ここでは、神は、見えないが、たしかに存在していた。
 アラブ・ストリートを歩いていると喉(のど)が渇き、腹も減ってきた。もう昼食の時間だ。
「モモ、そこらの店でいい?」
「なんでもいいよ」
 通りの角に、食料品店のような店があった。店の前には、テーブルがいくつか並んでいる。白いスカートのような服を着たアラブ人のおじいさんが店の前に立っていて、僕たちに微(ほほ)笑(え)みかけた。
「ハングリー」
 と、僕がいうと、おじいさんが店の中に招き入れてくれた。葉っぱにくるまれた弁当のようなものが売られていた。
「モモ、これにするぞ」
「うん」
 モモは不安そうだ。
 テーブルにつくと、近くでアラブ人の中年男性が一人でおいしそうに葉っぱの弁当を食べていた。
「パパ、手で食べてるよ」
 右手をスプーンのようにして食べている。僕たちが驚いて眺めていると、おじいさんがフォークを持ってきてくれた。
 僕は笑顔で頭を下げ、モモを突いた。
「サンキューラ」
 おじいさんが、にっこりした。
「パパ、通じた」
 僕たちは、お互いの右手の親指をこすりあわせた。
 葉っぱを開くと、細長くぱさついたごはんと小魚の唐揚げと野菜に甘めのタレがかかっていた。今まで経験したことのない味だったが、おいしかった。魚が苦手なモモでも、気に入ったようだった。
 先ほどのおじいさんが、シングリッシュで話しかけてきた。何を言っているのかよくわからなかったが、すっかり仲良くなった。日本から来たことや、この弁当がおいしいということくらいは、伝わったようだった。
 
 滞在中、モモはプールばかり行きたがった。適度な運動と読書、僕もすっかりプール通いが好きになった。
 プールサイドで読む「1984年」には、ニュー・スピークが出てくる。独裁政府が、その管理支配を完成させるために作っている新しい言語だ。ニュー・スピークは、極度に単純化された言語で、語(ご)彙(い)が減らされ、多義語も意味を一つに限定され、政府に都合の悪い言葉はなくなっていく。つまり、言葉が無力化され、思想まで抹殺されてしまう。
 ふと、わかりやすいワン・フレーズを繰り返し、少なくない人の心をつかんでいくファシストを想像した。
 オーウェルは、言葉の支配がファシズムの完成を意味すると言っているのだろう。ということは、言葉が、ファシズムとたたかう最大の武器ということなのだ。
 かつて植民地だったシンガポールでは、宗主国の英語が公用語になった。いったんは支配されたシンガポール、しかし、シンガポリアンは逆に英語を支配して、シングリッシュを作り上げた。シンガポール政府は、グッド・イングリッシュを話すよう国民に訴えているらしいのだが、僕が英語を聞いた限り、シングリッシュは健在だ。
 淡路島ほどの面積の小さな島に異文化の多民族が平和に共存していることは、世界を見れば、奇跡に近いことだろう。そんなシンガポリアンが、シングリッシュでつながっているのだ。
 雪乃さんが、シングリッシュはおもしろい、と言ったのが分かる気がした。
 シンガポールでは、楽しいところばかり行ったのだが、一つ楽しそうでないところに行かなくてはならなかった。モモは、当然、乗り気ではないのだが、水族館に行くことを交換条件に、またタクシーで出かけた。
 チャンギ博物館、第二次世界大戦の資料が展示してあるという。かつての刑務所で、戦時中は捕虜収容所だったそうだ。
 まず、驚いたのは、入り口に掲げられた、年代ごとに並んだ四枚のシンガポールの地図だ。入り口から最も近い地図は緑色で描かれてるが、館内に進むにしたがって、その島が北から白く染められ、徐々に赤い丸が浮かび上がり、最後に日の丸で島が覆われる。
 今さらながら、日本人が侵略者だったことを知った。祖父も、侵略者として、この地に立ったのだ。
 館内には、数人の白人がいただけだった。日本人は僕たちだけだった。モモは早足で館内を回り、時々、何か気になるものを見つけては、僕のところに戻ってきて、報告したり、質問したりした。
「パパ、早く水族館行こうよ」
「ちょっと待って。もうすぐ出るから」
 この会話が、何度か繰り返された。
 展示は、壁に写真と手記、当時の様々なものも置かれていた。説明よりも、圧倒的に手記が多かった。英語で書かれた名前入りの手記は、その歴史の中に生きていた人間の息づかいが伝わってきた。拷問の図解や、生首の写真もあった。
 モモが唯一興味を持ったのは、学校の写真だった。校門に日の丸が掲げられた学校、その教室で、シンガポールの子ども達が勉強していた。
 シンガポールが、昭南島だったのは、三年半だけだ。その間、英語だけでなく中国語も、敵国語として禁止されていた。
「パパ、日本語。ね、見て」
 写真の中の黒板には、カタカナが書かれていた。ここでも、言葉は奪われようとしていたのだ。
 日本人として、ここは気分のいいところではなかった。僕もモモのように早く出たくなった。モモは、館内を行ったり来たりしている。
 そして、最後に僕は一枚の写真の前に立った。若い女性が一列に並んで立っている。説明には、Confort women・ mostly Koreanと書かれていた。・慰安婦・、ほとんどが朝鮮半島出身。レストランでの仕事などと言われ、連れてこられたらしい。
 ふてくされて煙草を吹かしている女性もいれば、あきらめきったかのようにうつむいている女性もいた。子どもの肩に手をかけている若い母親もいた。
 侵略者たちは、女性をモノとして扱った。愛の対象としてではなく、兵士たちの性的慰安の手段として。祖父は、間違いなく、侵略者の側にいたのだ。
 僕はもう耐えられなかった。モモがまた僕のところに戻ってくるとすぐ、水族館に行くことにした。
 広い通りに出て、タクシーが通るのを待った。
「パパ、おもしろかった?」
「おもしろくはないよ」
「じゃ、なんで行ったの?」
「ちょっと調べにさ」
「パパのおじいちゃんでしょ。何かわかった?」
「わからなかった」
 モモは僕の隣に立つと、僕の肩を二回叩(たた)いた。
「ま、そういうこともあるよ」
 僕はモモに慰安婦のことを説明できなかった。言葉少なになりながら、祖父の恋文のことを思い出していた。
 
 此度来た所は 淫(いん)売(ばい)窟(くつ)が非常に多いようです 日本人の経営して居るのも有るようです と言っても御安心を 僕も御前だけ操を強いる様な無責任な男ではありません いくら御前が無理するなと言ったとてね 同室の岡田少尉は三十九才で子供が三人有り 応召以来三年になるのだが 一度も妻以外の婦女に接した事のない人だよ よく此人が度々奥さんの惚気(のろけ)話を聞かすついでに 御前が操を破ったら俺が承知しないと大変な張り切り方だよ
 
 この手紙は、きっとここシンガポールで書かれたのだろう。・淫売窟」とは慰安所のことだろうか。あの写真の女性たちの顔が浮かんだ。そこには、祖父たちの知らないどうしようもない悲しみがあったのだ。
 祖父の言葉に嘘(うそ)はないはずだ。孫の僕には直感でわかる。青年将校達の愛国心より、その恋心に、心が少し洗われた気がした。
 「星の王子さま」の一節を思い出した。王子は、星に残してきたバラを愛していた。地球にもバラは無数にあるが、そのどれ一つとも違う、宇宙にたった一つだけの花を。愛は愛としか交換できない。代替品はありえないのだ。慰安婦を抱いたところで、決して慰安されることはなく、相手を傷つけることで、むしろ自分も傷つくだけなのだ。祖父たちには、それが分かっていたのだろう。
 一人の女性を想い続けたことで、祖父たちは、慰安所というさらなる加害の現場には立ち会うことはなかったのだ。
 ふと、僕は雪乃さんのことを思った。
「パパ」
 と、モモが沈黙を破った。僕たちはタクシーに乗っていた。
「今、何考えてた?」
 モモがよくする質問だ。
「イルカショー早く見たいなってさ」
「本当? 同じこと考えてた」
 僕たちはお互いの右手の親指をこすりあわせた。
「モモ、今夜はチキンライスを食べよう」
「とりめしでしょ。オッケーラ」
 シンガポールのバカンスには、まだまだ楽しいことが残されていた。(つづく)

連載 小説(9)
渥美 二郎
挿し絵(題字も)
西岡民雄

 シンガポールの空港に、無料で使えるコンピュータがあったので、帰国のフライト直前に僕は雪乃さんへメールを送った。そのコンピュータは、日本語を使えなかったのだが、雪乃さんが英語は堪能なことを思い出し英語で書いた。
 その三日後、モモが寝た後、夜風が心地よいキッチンでパソコンにむかうと、雪乃さんから返信が届いていた。
 
お帰りなさい。有意義な旅だったようですね。
シンガポールから、わざわざメールを書いてくれて、ありがとう。うれしかったです。
私も、いつか、娘と旅行に行ってみたくなりました。まずは収入を安定させなくては。
 
ジローさんが写真を見たという「慰安婦」のこと、とてもショックでした。
私がその場にいたら動けなくなってしまっただろうと思います。
異国の地で、言葉も分からないまま、一日に何人もの兵士に……。
あのメールの一文を読んだだけでも、しばらく体の震えが止まりませんでした。
 
実は、私はDVのサバイバーなんです。
サバイバーとは、もちろん、生き残った者という意味です。私は暴力から生き残ったのです。
「慰安婦」のことで、あの経験がフラッシュバックしたのかもしれません。
話が暗くなってごめんなさい。
 
男性に近づくことも苦手な私ですが、顔も知らないジローさんのコトバには惹(ひ)かれているんですよ。暴力の対極にあるのがコトバ、私にとってジローさんはコトバ。だから、安心するんです。
私もコトバを教えたり、翻訳したりしていますから、いい刺激になっています。
では、また。
少し、混乱して返事が遅れてしまいました。ごめんなさい。
二人とも早く旅の疲れがとれますように。
 
 それにしても、雪乃さんがDVサバイバーだったとは、驚きだった。まさにオトコの暴力から生き抜いた雪乃さんの心の傷はまだ癒(い)えていないのだろう。
 シンガポールの「慰安婦」の写真の前で僕が感じたショックの、何倍ものショックを雪乃さんは感じたのだ。僕はだいぶ鈍いようだ。
 言葉をほめられ、物書きとしては、浮かれるほどうれしかった。だが、雪乃さんにとって、僕は体を持たない言葉。どういう意味か、うまくつかめなかった。
 
 夏休み、モモは、平日は毎日、朝から学童に行く。学校のプールで泳いだり、汗だくになって遊んだり、多少宿題をしたり、毎日楽しそうだ。昼食も出してくれる学童は、まさにシングルファーザーの味方だ。
 さて、僕はというと、モモが学童にいる間、ストップウォッチ片手に、マネージャーの美紀とプールサイドに立っている。夏休みの最後にある大会に向けて、選手達は毎日何キロも泳いでいる。
 そんな夏の日のこと、プールサイドに石田先生がやってきて、僕を呼んだ。
「あのさ、モモちゃんと広島行かない?」
 同じ英語教師の石田先生は、いつも一緒に仕事をして、僕はフォローばかりしてもらっているのだが、僕と同じ教職員組合に入っている。この地区の役員もしていて、なかなか忙しいようだ。
 僕は突然のことに、返事ができないでいると、石田先生が事情を説明した。毎年、八月六日、広島で原水爆禁止を訴える大きな集会が行われる。それに、組合は毎年カンパを集め、地区から組合員を一人派遣する。しかし、今年は予定していた参加者が、体調をこわしたため、代わりに行けるひとを探しているというのだ。
 広島は、祖父がいたところだ。祖母への手紙のほとんどは、広島から送られている。
「カンパけっこうあるからさ、交通費くらいは出るよ。どう?」
「行きます。モモと」
 即決だった。
 石田先生は、よほど助かったと見えて、何度も僕に礼を言って、去っていった。
 僕は、マネージャーの美紀に、おそるおそる事情を説明した。
「また?」
 美紀は大きな声で言った。
 僕はまた美紀に、シンガポールに行く前に言ったことを言った。
「だから、もし美紀が将来結婚して、ダーリンが仕事ばかりしてたらさ……」
 美紀は、僕が紅葉饅(まん)頭(じゆう)を買ってくることで、広島行きを了承してくれた。
「先生、これで最後にしてよ」
「ラジャー」
 
 シンガポールに持っていったスーツケースに着替えを入れただけで、荷造りは終わった。
 指定された新幹線に乗り込むと、この県からの参加者は、みなオレンジのたすきをかけていた。僕もホームで手渡されたのだが、バッグの肩ひもに縛りつけておいた。
「パパ、ちゃんとつけなよ」
「つけてるじゃん。ここに」
「体に巻くんだよ」
「無理」
「なんで?」
 僕は小声で言った。
「ちょっと恥ずかしいから」
「関係ないよ。戦争反対なんでしょ」
「でも、無理。ならモモにつけよう」
「それも無理」
「なんで? モモも戦争反対でしょ」
「絶対、無理」
 僕はまた小声で囁(ささや)いた。
「恥ずかしいんでしょ?」
 モモが頷(うなず)き、僕たちは肩を組んだ。
 
 原水爆禁止世界大会には初めて参加したのだが、大きな会場に着くと、全国から何千人も集まっていた。その中に、外国人もたくさん混じっていた。こんなにも同志がいるのかと、涙が出そうになった。
「パパ、このひとたちみんな戦争反対?」
「あったり前じゃん」
「よかった」
 と、モモは安心したようだった。
「パパ、じゃ戦争来ない?」
「来るわけないよ」
 大会は、ステージ上で、次々にスピーチやパフォーマンスが繰り広げられた。途中、モモが退屈したので、席を立って、会場の入り口あたりの売店を見たり、ジュースを飲んだりした。売店は、様々な団体が様々なものを売っていた。書籍、文集、CD、ビーズ細工、ハンカチやTシャツなどだ。モモはビーズアクセサリーとバッジ、僕は憲法の本とコスタリカの本、二冊買った。お互い二つずつ、フェアな買い物だ。
 ホテルに着き、ひと休みしても、まだ明るかったので、ちんちん電車で平和公園まで行くことにした。
 広島は、夏の夕方、ぴたりと風が止む。夕(ゆう)凪(なぎ)だ。
 電車を降りると、まだ昼間の熱気が沈殿しているようだった。
「モモ、風が止まってるね」
「暑い。パパ、アイス食べよう」
「これ、ゆうなぎって言うんだってさ」
「パパ、アイス」
 僕たちはアイスを求めて歩き始めた。
「あ、あれ知ってる」
 と、モモが言った。目の前に、川が流れていて、その向こうに原爆ドームが見えてきた。
 僕たちはベンチに座り、ただ対岸のドームを眺めていた。言葉はいらなかった。
 コンクリートの建物が、一瞬にして、こんなになるのだ。人間など、いとも簡単に溶けてしまうだろう。人類が開けてしまったパンドラの箱、最後に出てきたのがこの原子力なのだ。いまだに、・平和利用」と称して、電気とともに、二万年以上も放射能を出し続ける核廃棄物を生み出している。
「パパ、アイスは?」
「ひと休みだって」
 僕は肩掛けバッグから、モモの旅ノートを出して手渡した。シンガポールにも持参した小さなノートだ。
「サンキュ」
 モモは、ドームの絵を描き、今日あったことをメモし始めた。
 僕は川の水面を見つめていた。夕凪のため、水面は鏡のようにくっきりとドームを映している。その水面のように、僕はあの戦争を心に映し込むことができるのだろうか。
 モモがノートを書き終わると、また僕たちはアイスを求めて歩き始めた。
 
 夜は、ホテルの近くに小さなお好み焼き屋を見つけ、モモと入った。カウンターだけの小さな店で、愛ちゃんという名の店だった。
 僕たちは鉄板の前に座り、熟練した手つきで愛ちゃんが広島風お好み焼きを作るのを黙って見ていた。焼きそば入りお好み焼きは、初めて食べる。静かな店内で、じゅうっと焼くときの音とへらが鉄板に当たる音だけが聞こえた。
 先に来ていたタクシーの運転手の男性が、鉄板から直にへらを使って食べていた。シンガポールのリトルインディアで、インド人が右手だけを使って食べていたのを見たときくらい、驚いた。
 愛ちゃんは、僕たちが旅行者だと察し、皿と箸(はし)を出してくれた。
 運転手が帰り、客が僕たちだけになると、愛ちゃんが声をかけてくれた。
「戦争中、祖父が広島にいたんですよ。原爆の前に、南方で戦死したのですが」
 すると、愛ちゃんは、子どものころの記憶が残っているようで、いろいろ教えてくれた。
「いつも、陸軍の将校さんたちが、ここらを軍服着て歩いててね。私たちは憧(あこが)れたんですよ」
 愛ちゃんは、陸軍将校だった祖父を見かけていたかもしれない。
「兵隊の下宿が、ここらにあったんでしょうか?」
「ありましたよ」
 祖父に面会に来た祖母も、この店のあたりを祖父と歩いたに違いない。
「パパ、これ頼んで?」
 と、退屈してメニューを見ていたモモが、コーラを指さして言った。
「他のにしなよ」
「いいでしょ。旅行中なんだから」
 モモは、愛ちゃんに聞こえるように言った。愛ちゃんは笑っている。うちは、ファースト・フードとコーラは禁止なので、いつもなら絶対に許さないのだが、まだ話を続けモモを退屈させそうだったので、しかたなくコーラを頼んだ。
「パパも飲むから」
「オッケー」
 僕たちは、お互いの右手の親指をいつものように擦(こす)りあわせた。
 愛ちゃんは、原爆が落ちた朝、疎開先からちんちん電車で広島市内に帰ってくるところだったそうだ。見たこともない光、その後の爆音、大人たちが騒いでいたことを覚えているという。
 愛ちゃんのお兄さんは爆心地近くで被爆した。お父さんが、病院に行くと、顔の見分けがつかないほどやけどした無数の被爆者が寝かされていた。名前を呼ぶと、かすかに手があがったので、お兄さんだとわかり、戸板に乗せてうちに連れ帰った。お兄さんは、その夜なくなった。うちの前の道を、皮膚が焼けただれたひとたちが、手を前に出して、幽霊のようにぞろぞろと歩いていったことも覚えているという。
「でも私は、若い人たちには期待してるんですわ」
 愛ちゃんは、昼間、平和公園や原爆ドーム周辺で、歌を歌ったり、踊ったりして、絵を描いたりしている若者を見たそうだ。
「あの若い人たちは、私ら年寄りとは違うと思う。だから期待してるんですよ」
 自分のことだけを考えた自己主張ではなく、他者のことをも考えた自己表現なら、多くのひとの心に届くかもしれない。
 ホテルに戻る短い道のり、祖父が歩いたかもしれない道を歩いていると、不思議な気分になった。僕が祖父になって歩いているような気分だ。一瞬、六十年前の昭和十九年に戻ったような錯覚に陥った。
「パパ、コンビニ寄っていこうよ。ホテルで食べるお菓子買おうよ」
 と、モモがすぐに僕を平成の現代に引き戻した。
 
 翌日、僕たちは船に乗った。広島から近い似(にの)島(しま)というところに行ったのだ。原水爆禁止世界大会中に企画された、小学生が参加できる唯一のツアーだった。
 似島は、戦中、弾薬庫や軍の病院があったところで、原爆投下後は、多数の被爆者たちがこの島に運ばれてきたそうだ。その島へ、たくさん子どもたちがフィールドワークに行くのだ。ガイド役は、地元の学校の先生たちがボランティアで務めてくれた。
 モモは、同じホテルに泊まっていた姉妹とすっかり仲良くなった。二人は、神戸から活動家の祖母に連れられてきた。モモと同じ年の妹と二つ年上の姉。二人は、メモ帳を持ち歩き、壁新聞を作ると言っていた。
 モモは、ジュースを僕にねだるとき以外、ずっとその姉妹と行動をともにしていたので、僕は一人、甲板に立った。熱風を突っ切って、船は岸を離れ、進んでいく。木が生い茂る小さな島がいくつかあり、すり抜けるように沖に向かった。この風景は、六十年前と変わらないはずだ。祖父も船の上から、同じ空と海、そしてこの風景を見たのだ。
 すると、また昨夜のあの気分が舞い戻り、祖父と気持ちが重なっていった。
 
 俺は今離れていく日本に、もう帰ることはできないかもしれない。俺とて帝国陸軍将校の端くれだ。死を恐れることは、自分に許すわけにはいかない。そのために、これまで修練してきたつもりだ。それに、俺が死を恐れたら、部下達はもっと恐れるはずだ。俺は、どんなときでも落ち着いて部下を指揮し、何かあれば笑って靖国の神になるのだ。
 この戦争は、この国の行く末を決める。愛する妻、きほの行く末も決めるのだ。
 この輸送船の船首にある指揮所から見下ろすと、部下の砲手たちが、二台の高射砲台につき、敵機の襲来に備えている。輸送は戦争の要、輸送が止まれば戦争も止まる。比島まで無事に送り届けるのだ。
 ふと、気をゆるめると、俺はきほに会いたくなってしまう。体力的に余裕があったり、腹が充たされていると、すぐにきほの温もりを思い出してしまう。そんなとき、俺は命も惜しくなってくる。愛と命は対になっているものなのだろう。
 しかし、そんな未練から俺を引き離すかのように、船は俺を日本から引き離していく。
 
 似島には、すぐに着いたので、僕の想像はそこで打ち切られた。
 モモは姉妹とずっと一緒だったので、僕は同年代のガイドの男性教師と歩き、いろいろと質問をした。
「おじいさんも、この島にいらしたと思いますよ。輸送船に乗った暁(あかつき)部隊の兵隊さんが、この島にいろいろ物資を運んだんですから。原爆投下後は、被爆者の方をここまで運んだりして、活躍されたんです」
 暁部隊という名前は、祖母から何度も聞いた。やはり、あの船の上の光景は、祖父が見た光景だったのだ。
 炎天下、軍の病院、弾薬庫、見張り台、トロッコの線路などのあった場所を歩き、最後に小学校の体育館で、昼食をとり、合唱や被爆者の話を聞いた。
 帰りの船を港で待っていると、モモが言った。
「明日、一緒に原爆の資料館行く約束したから」
「戦争の見るの嫌なんじゃないの?」
「でも、見ることにした。パパ、連れてってよ」
「ラジャー」
 
 広島で最後の夜は、姉妹のおばあちゃんには部屋でゆっくりしてもらい、僕はモモたちを灯(とう)篭(ろう)流しに連れて行った。この日の昼間も三人を連れて原爆資料館に行ったので、すっかり、僕たちは仲良くなっていた。真面目な二人には、僕とモモがおかしくてたまらないらしく、笑いが止まらないようだった。
 これまでさんざん僕に戦跡を連れまわされたモモは、そういったものにはうんざりしていたのだが、その姉妹の影響で、平和に関心が出てきたようだ。
 夕凪の中で川の水面に映った原爆ドームとともに、その夜、同じ水面を流れていった無数の灯篭が、僕の中で残像となり、いつまでも消えなかった。モモは灯篭に、Love and Peace と書いた。外国人もいるから英語で書きたいというモモに僕が教えたのだ。
 灯篭が見えなくなると、モモが灯篭がどこまで行くのか僕に何度も訊(き)くので、僕は実行委員会のメンバーに尋ねた。何艘(そう)かの漁船が、下流で待っていて回収するという。モモは、それで安心したようだった。
「パパ、おなかすいた」
 モモと一緒に、姉妹も頷いている。
「よし、お好み焼き食べにいこう」
「じゃ、あいちゃんに行こう」
 僕は、今日こそ、広島風お好み焼きの作り方を目に焼き付けようと思った。
 
 翌日、僕とモモは姉妹と別れ、電車で尾(おの)道(みち)まで行き、小さな船に乗り、因島(いんのしま)に渡った。因島は、祖父と祖母が最後に会った場所だ。ちょうど帰り道でもあり、どうしても寄りたかったのだ。
「おばあちゃんはさ、こうやっておじいちゃんに会いに行ったんだよね」
「いつ?」
「六十年前」
「そんな昔」
 モモの声のトーンがいきなり上がった。
「きほばあちゃんとパパのおじいちゃんがここで会ったから、洋子ばあちゃんが生まれて、それでパパも生まれて、最後にモモも生まれたんだよ。わかる?」
「じゃ、今から行く島がなかったら、パパもモモもいないってこと?」
「そう」
 ようやく期待していた因島に着いたのだが、船を下りると、あたりには何もなかった。蝉(せみ)の声ばかりが勢いよく聞こえた。港には船着き場以外、建物も何もない。そこで下船したのは僕たちだけだった。小さな待ち合い所に貼(は)ってあった時刻表によると、次の船までは二時間ほどあった。
 港のむこうに、鉄工場のような大きな建物が見えた。それは、昔からある造船所のようだった。祖父は自分の乗る船が修理でもされている間、この島で待機していたのだろう。
「パパ、ここで何するの?」
「わからない」
「誰もいないよ」
「歩いてみよう」
 二時間も、日陰もないところで、どうしたらいいのだろう。少し歩くと、畑の間に民家がちらほらと見えてきた。
「ペットボトルのお茶、大事に飲むんだよ」
「うん。自動販売機もなさそうだしね」
「そう」
「トイレ行きたくなったらどうする?」
「困る」
 今日も三十度を超えているだろう。汗を拭きながら、僕たちは歩いた。
「パパ、あそこ」
 モモが指を差す先に、小さなお好み焼き屋が見えた。砂漠のオアシスに見えた。
 僕たちは、クーラーの効いた店内に入り、また広島風お好み焼きにありつけた。おばさんがてきぱきと焼いていく手つきを一瞬も見逃さないように観察した。ちょうど昼時だったせいか、次々と客が入ってきた。
「お皿とお箸出そうか?」
 僕たちは今回、広島のひとのように、へらで食べてみることにした。おばさんは、研究熱心な僕たちに好感を持ったらしくいろいろと話してくれた。
 一度来てみたくてようやく夢が叶(かな)ったことや、僕の祖父がここにいたことなど、僕は話した。
「ちょうど、店から出たとこが、陸軍の兵舎の入り口だったんだよ」
「じゃ、ここらに下宿屋もあったんでしょうか?」
「もうつぶしちゃったけどね、子どものころ、道の向こうにたくさんあったよ」
「そうだったんですね。来てよかったです」
 おばさんは、また来てね、と言った。
 僕たちは、その店に長居した。食後に、かき氷も頼み、モモは店にあったマンガを読みふけっていた。僕はおばさんと話したり、テレビを見たりしていた。
 因島で、何を見たというわけではないのだが、自分のルーツとなる場所に足をつけただけでも、僕は満足だった。ここは、モモのルーツでもある。
 船着き場には、里帰りしたらしき若い母親と男の子がいた。老女が見送りに来ていた。なんだかしんみりとした気分になった。
「キーホルダーなかったね」
 と、モモが言った。モモは行った先々で、キーホルダーを買うのが趣味なのだ。
「尾道に、きっとあるよ」
 その親子と小さな船に乗った。いよいよ、旅も終わる。新幹線に乗れば、夜にはうちに着くだろう。
 この帰り道は、祖母が祖父と別れ、たどった道でもある。祖母も、あの船着き場で、祖父に見送られたのだろう。それが、永遠の別れとも知らずに。
 僕は、戦争とは引き裂くものだと知った。愛するものたちを引き裂き、生き残る者と死にゆく者に引き裂き、祖父は、国のために命を捧げようとする自分と、妻と生まれ来る我が子のために生きようとする自分の二つに引き裂かれていったのだ。
 愛には、結びつけ、新たなものを生み出す力がある。戦争には、引き裂き、殺す力しかない。Love and Peace モモが灯篭に書いた言葉が頭から離れなかった。
「切手と便せん買ってよ」
 と、モモは帰りの新幹線の中で何度も言った。あの姉妹に手紙を書くというのだ。
 僕もいつかは雪乃さんに、メールではなく、手紙を書いてみたいと思った。
「パパも、買うから」
「誰に書くの?」
 僕は笑顔で、黙っていた。(つづく)

連載 小説(10)
渥美 二郎
挿し絵(題字も)
西岡民雄

 秋。あんなに暑く、毎日泳いでいた夏が終わった。
 実は、僕は秋が苦手だ。夏の終わりを受け入れられず、おセンチになってしまう。毎年のことだ。
 秋はバイオリンの発表会があり、この頃はけっこう真面目にモモと練習している。僕はバイオリンを手にするたびに、高校の国語で習った詩を思い出す。
 
  秋の日の
  ヴィオロンの
  ためいきの
  身にしみて
  ひたぶるに
  うら悲し
 
 ヴィオロンとはバイオリンのことで、僕たちのバイオリンは、下手すぎて、そんな風には響かないのだが、その詩が頭から離れないのが、僕の秋なのだ。秋の風とため息は、どこか似ている。
 モモが寝つくと、夜はいっそう静かになり、秋の虫の声がいっそう悲しげに聞こえてくる。
 結婚していたころは、あんなにさみしかったにもかかわらず、シングルファーザーとなってから、さみしさはほとんど感じなくなった。日々、家事や仕事に追われると、さみしさを感じる暇もない。もしかしたら、僕は無意識に忙しくしてさみしさから逃げているのかもしれない。
 そんな秋の夜、雪乃さんからメールが届いた。いつもと同じ間隔、前のメールから一週間ほど経ったころだった。
 
  すっかり、涼しくなりましたね。
  今夜は、月がとてもきれいです。
  こんな青い月夜が、大好きです。
 
 僕はベランダに出てみた。満月が出ていた。本当に、夜が青かった。部屋に戻って、メールの続きを読んだ。
 
  私は、時に孤独に苛(さいな)まれるんです。
  でも、いつも明るい娘に助けられています。
  では、また。
 
 短いメールだった。雪乃さんが、孤独に苛まれていることに、少し悲しくなった。僕はすぐに返事を書いた。
 
  >私は、時に孤独に苛まれるんです。
  僕にできることが、何かあったら、いつでも言ってください。
 
 雪乃さんのメールの一文を引用して、それだけの短いメールをすぐに送った。
 しかし、返事は、すぐには来なかった。
 
 モモは、たいてい月に一回は、母親のところに泊まりに行く。必ず持っていくものは、バイオリンの他には、日記だ。モモがその日記を読むことを許可しているのは、世界中で、母親と僕の二人だけ。彼女は日記を読むことで、モモと会っていない空白を埋めているはずだ。また、モモと彼女が過ごした日々のことも日記に書かれるので、モモが帰ってくると、今度は僕がその日記を読む。モモの日記があるため、僕はいつ日記に書かれても恥ずかしくないように生きていこうと思う。しかし、なかなか思い通りには人生は運ばない。
 モモのいない週末、僕はいつものように実家に行った。両親が店に出ていて、祖母がうちの中で家事をしている間、僕は居間で兄と過ごしていた。兄のお茶をいれたり、兄のトイレの介助をしたりしながら、本をペラペラめくりつつ、テレビを見ていた。本にもテレビにも集中することはなく、ただダラダラとしていた。
 何か目的があるわけでなく、ただ時間と空間を共有することが愛なのかもしれないと、ふと思った。
 両親が店から戻ると、父がつくった海(の)苔(り)巻きの夜食を食べながら、家族団らんとなる。モモがいないと、とても静かな夜だ。そのぶん、むこうのうちが、明るくなっていることだろう。
 実家では、僕は祖母と枕を並べる。
 豆電球の灯りの下、かすかに虫の音が聞こえた。
「あんた、また本書いてるだかね」
 祖母は僕をあんたと呼ぶ。
「書いてないけど、アイディアはあるよ」
「何の話だい?」
 僕は、祖父の恋文を題材にして書きたいと言った。
「ありゃ、恋文かね」
「どう読んだって、恋文だよ」
「ありゃ、恋文か……」
 少し、祖父に同情してしまった。
「でも、うれしかったやあ。毎晩、何度も読んだねえ。何回読んでも同じなのにねえ」
 やはり、まんざらではなかったようだ。
「あんたは、生まれかわりかもしれんねえ」
「おじいちゃんに似てるの?」
「似てるとか、似てないとかじゃないだよ。けんぞくだでね」
「けんぞく?」
 輪廻転生を信じて疑わない祖母が言う「けんぞく」とは、死んでも身近に生まれかわってくるひとのこと。祖父の思いがあまりにも強かったので、祖父は孫になって生まれかわってきたのだろう。
「あんた、私のことを書くだかね?」
「うん、たぶんね」
「じゃ、いいのになるねえ」
「なんで、そう思うの?」
「モデルがいいでさ」
 その夜、祖母は、兄弟の話をしてくれた。実直で、要領が悪かった兄。南方で野営中、斥(せつ)候(こう)を命じられ、そのまま帰ってこなかったという。心やさしかった弟。南方でマラリアにかかり、帰国したが、伝染病のため下船を許されなかった。
「けんちゃんは、本当にかわいそうだったやあ」
 祖母たちの母親が、その船へ見舞いに行ったそうだ。
「おかあちゃん、おかあちゃんってずっと呼んでただってさ」
「船で死んじゃったの?」
「そう。別れ際に、帰っちゃいかんって言って、ベッドから転げ落ちたっていうだよ」
 気丈な母親が、げっそりして帰ってきたという。
「我が子に先立たれるほど、つらいことはないよ」
 僕は黙っていた。この話は初めて聞いた。
 
 祖母は、思ったより祖父のことを知らなかった。それもそのはずで、婚約したらすぐに召集令状が来て、慌てて式を挙げ、祖父は出征した。夫婦として、一日も家で暮らしたことがないのだ。
 自分で祖父のことを調べることにした。うちで、モモが寝てから、祖父の手紙の束をもう一度見なおしてみたら、部下から祖母に宛てた手紙が見つかった。
 消印は、昭和二十年九月十六日、終戦後だ。
 
 私は隊長殿とまさしく生死をともにしていたのですが、炭坑技術者だったため、突然、召集解除になって一人帰還したわけです。
 当日は隊長殿はじめ多くの戦友が、朝の三時だというのに皆見送ってくださいました。私は特に小隊の事務の方をやらしていただきましたので隊長殿に可(か)愛(わい)がられていました。広島の因島(いんのしま)のドック入(にゆう)渠(きよ)致(いた)した時でも特に十余日という長い(兵隊にはほとんど考えることも出来ない)休暇を頂いたのも私でした。
 船中でも何かの話から必ず奥さんの噂(うわさ)話になりまして「うちのき(・)ほ(・)は、うちのき(・)ほ(・)は」を大方聴かされたものでございます。やさしいしっかりした本当にいい隊長殿でした。それやこれやでいよいよ別れるとなると私は船を飛び降りて又皆と一緒にどんな辛いことでもやっていきたいと思ふ衝動に駆られて困ったものです。
 今ペンを執り乍(なが)らぢっと船中での生活を思い浮かべると何一つとしてなつかしく思われないものはありません。兵隊をかばってよく船員と喧(けん)嘩(か)していた隊長、緊急の場合でも少しも慌てず的確な指導を執って居られた隊長、何でも兵隊のことを先にしか考えないいい隊長でしたよ。別れるときの隊長殿のあの顔は瞼(まぶた)に焼きついています。奥さん宛の手紙も頼まれていましたが、途中で憲兵にとり上げられてしまったのが返す返す残念です。
 さてお尋ねの件でございますが我々の部隊は、防(ぼう)諜(ちよう)上「暁二九五四部隊」と呼ばれていましたが、正確には船舶砲兵第二連隊第九中隊第三小隊でございます。近くでしたらお目にかかって詳しくお話し致すとよいのですが何分遠方でありますし手紙でも意をつくしませんが何でもございましたらご遠慮なく御問い合わせ下さい。先に帰還したものの義務でございます。
 
 戦争が終わっても、祖父の消息はわからなかったという。だから、祖母が部下の一人に手紙を書き尋ねたのだろう。この手紙はその返事のようだ。
 祖母から聞いて思い描いていた祖父の人物像は、部下の目から見たものと、あまり変わらなかった。
 それにしても、祖父は祖母に惚(ほ)れていたようだ。将校が、腹心の部下にとはいえ、そんなにのろけていていいのだろうか。ばれていたら、きっと非国民と呼ばれただろう。
 僕の勤務する緑が丘高校の日本史の教師にもいろいろと訊(き)いてみた。東京の防衛庁の防衛研究所に行けば、日本の戦争の資料が豊富にあるから、きっと祖父の足跡もわかるはずだ、と教えてくれた。県庁にも軍歴の資料があるはずだから、遺族だと言えば、教えてくれるという。
 早速、県に問い合わせると、一枚の書類が届いた。いつ入営して、どの階級に昇進したのかが書いてあった。最後の階級は大尉だった。中尉だったのだが、戦死して一階級昇進したと、祖母に聞いたことがある。
 死亡年月日は昭和十九年十月十八日、死亡場所はレイテ島東北方洋上ということもわかった。
 後は防衛研究所だ。平日しか空いていないので、なかなか行けなかったのだが、ちょうど水泳大会の代休が取れたので、思い切って東京に行くことにした。
 その日はたまたま火曜日で両親の店の定休日だったので、モモは父に頼むことにした。そういえば、モモの面倒を頼むのは初めてだった。孫を預けるのも、親孝行である。モモと父はいいコンビなので、モモは大喜びだった。父は、夕方学童へモモを迎えに行き、二人でアパートに戻り、僕の帰りを待つことになる。
「パパ、いつおじいちゃん来るの?」
 と、モモはその日が来るまで、何度も僕に訊いた。

 雨の降る、肌寒い十月の火曜日の朝、モモと朝食をとり、モモを送り出してから、僕は久しぶりに新幹線で東京を目指した。
 東京は学生時代に暮らしたところでもある。新幹線が、東京に近づくにつれて、なぜか悲しくなってきた。秋というせいもあるだろう。学生時代の孤独を思い出したのかもしれない。都会というところは、僕のような田舎者には、淋(さび)しいところだ。こんなにも多くのひとがいるにも関わらず、全員が僕に無関心なためだ。一人でいる孤独より、他人の中にいる孤独のほうが、耐えがたい。
 僕は車窓から林立するビルや、密集した住宅地を見ながら、雪乃さんのことを思っていた。雪乃さんが苛まれるという孤独は、どういう孤独なのだろう。僕は何かできることがあればしたいと申し出たのだが、次のメールで、雪乃さんはどう答えるのだろう。
 やがて空腹感が孤独感に勝り、東京駅に着き、山手線に乗り換えた。昼近くだったが、乗客は多く、僕は座れなかった。
 
 池袋で電車を降り、傘を差して、街を歩いた。雨のせいで少し寒かった。たまたま通りかかった小さなラーメン屋で、スーツ姿のサラリーマンたちと昼食をとった。食事というより、栄養補給といった昼食だった。まわりにせかされるように、速く食べてしまった。
 防衛研究所に行く前に、大叔母のところに顔を出すことにした。大叔母は、祖母の妹で、祖父のことなど少しは知っているかと思ったのだ。学生時代、ちょくちょく顔を出しては、ごはんをごちそうになった。そのお礼に、今日は、ウナギパイを持参していた。
 大叔母は、数年前になくなった夫が残したマンションの管理人として、ネコ数匹と裕福に暮らしている。
 僕はマンションの最上階まで登り、ドアベルを鳴らした。インターフォンがあったので、名前を名乗った。
「あら、よく来たわねえ」
「おばさん、ごぶさたしてます」
 と、僕はウナギパイを手渡した。
「あらあら、ご丁寧に」
 窓から大都会を見下ろせる居間のちゃぶ台の前に座った。そこは、学生時代からの定位置である。猫が三匹、僕を警戒しているようだった。ちゃぶ台の上に、みかんがあったので、手持ちぶさたに、テレビを見ながら、食べることにした。
「コーヒーでいいでしょ」
「うん」
 大叔母が、コーヒー持ってきてくれ、ちゃぶ台に座った。
「聞いたわよ、本書いてるんだって?」
「うん、まあ。学校の先生もしてるよ」
「立派になって」
 僕は大学受験の時、ここに泊まった。
「おばさん、あのとき、お弁当もつくってくれたよね」
「そんなこともあったかしら」
 大叔母は、ずっと東京に暮らしているので、祖母と話し方が全く違う。少し、上品に話す。
 僕は上京してきた理由を話した。
「ね、おじいちゃんのこと、何か覚えてるでしょ?」
「まだ小さかったからねえ、ジロー君のおばあちゃんとはひとまわりもちがうんだからねえ」
 それでも、出征の見送りをよく覚えていた。
「いっぱい、駅に見送りに来ててねえ、私たちも旗を振ったのよ。みんなニコニコしてたのに、おじいちゃんが見えなくなったとたん、泣き出してたひとがいたのを覚えてるわ」
 僕は祖母からもらった手紙の束の中に、大叔母が祖母に宛てて書いた手紙があったことを思い出した。
 
 ねいちゃん、もんぺいをおくってくれてありがたう。邦子はうれしくてすぐはいたらたいへん、にやいました。毎日學校へはいてゐきます。桂一もお宮さんえかあちゃんがおぶって邦子もついてゐったよ。あしたは、り(※)んじたいさいで、おにいちゃんも戦地でよ(※)うはいをするとおもひます。ねいちゃんもしっかりやって来ださい。さようなら。
  昭和十八年四月二十四日
 
 ちょうど、大叔母は、当時、モモと同じくらいの年だったのだ。まだ、何が起こっているのか、よくわからなかったはずだ。
 大叔母は、祖父に会ったのはほんの数回で、あまり記憶がないという。そのかわり、祖母が一番きれいだったころのことをよく話してくれた。
「そりゃあ美人で、あの当時にしては進歩的なひとだったんだよ」
 海外旅行や映画や洋食が好きな祖母は、当時から進歩的だったようだ。
「なんだか、おじいちゃんの片思いだったような気がするんだよね」
 と、僕がポツリと言うと、大叔母が言った。
「そりゃ、そうだよ。いいひとがいたんだから」
 ショックだった。恋人の浮気を告げられたようだった。やはり、片思いだったのだ。祖母の結婚は、父親が決めたことだ。恋よりも、親の勧める縁談が優先される時代だったのだろう。
 大叔母は、その青年に可愛がられていたそうだ。祖母は、妹をその青年のところに連れていくという口実で、いつも家を出たという。実際、二人が会えば、大叔母は放っておかれ、近くで一人で遊んでいたそうだ。
 それにしても、大叔母の口の軽さに、僕は笑いを抑えるのに必死だった。その口の軽さは、姉譲りだ。僕も祖母にいくつ秘密をばらされたかわからない。
 あまり長居もできなかったので、その重要な情報を得て、大叔母のうちを後にした。
 僕は、祖父が知らなかったことを知って、少し肩を落としながら、雨の中をとぼとぼと歩いていった。
 
 途中、防衛研究所の場所を聞きながら、それらしき建物の前にたどり着いた。制服を着た自衛官が、門番として立っていた。門柱の間には、巨大な有刺鉄線のような車止めが置かれている。不審な動きをしたら、たちまち連行されそうな雰囲気に、少し緊張した。
 僕が門番に頭を下げて、門を通ると、彼は僕に敬礼をした。僕は驚き、さらに頭を深く下げた。門を入ったところの受付で、名前と住所、今日の目的を書類に記入して、僕は防衛研究所資料閲覧室に入った。
 テーブルが置かれていて、数人が資料を積み上げ、なにやら調べている。僕は何をどう調べていいかわからず、途方に暮れた。
 こういうときは、目と耳と口を使うに限る。まず、カウンターに行くと、ベテランに見える司書さんに相談することにした。
「あのう、祖父のことを、調べてるんですが……」
 ネクタイをきちんと締めて、カーディガンを着た初老の司書さんが、おだやかに答えた。
「部隊名とかわかりますか?」
 僕は、暁二九五四部隊と答えた。司書さんは、カウンターを離れ、コンピュータに向かった。何かを打ち込んで、しばらくして戻ってきた。
「船舶砲兵ですね。第二連隊だね」
「はあ、船舶砲兵って何をしていたんですか?」
 司書さんは、まるで答えを用意していたかのように、話し始めた。
 船舶砲兵の任務は、輸送船の護衛。高射砲という大砲で、敵機を打ち落とすのが仕事。しかし、砲弾はほとんど当たらず、輸送船は民間の船を突貫工事で改造したものが多く、敵機の爆弾でおもしろいように沈められたそうだ。
 僕は、祖父の戦死した日にちと場所を言った。司書さんは、海図を広げ、調べてくれた。
「その日のレイテ島東北五十キロのところでは、船は沈んでないねえ」
 せっかく東京まで出てきて、祖父の片思いの事実だけを知って、帰ることになるのだろうか。僕は落胆の表情を隠すことができず、ため息をついた。
 司書さんは、また立ち上がると、奥の書庫に行き、ハードカバーの本を持ってきた。
「これでも、読みなよ」
 その本のタイトルは「船舶砲兵」だった。まさに最適の本なのだが、厚すぎた。四百ページもあり、最初から読んだら終わりまで行きそうにないし、どこをどう読めばいいかもわからなかったが、とりあえずその本を持って、テーブルに着いた。
 僕はすぐ、先ほどの司書さんのところに戻った。
 祖父は将校だったようだが、いかにしてそこまで昇進したのか、訊いてみた。
「祖父は、陸軍士官学校出の職業軍人ではなかったようなんですけど」
 司書さんは、立ち上がって、一冊の本を持ってきて、それを開いて説明した。徴兵されたとき、旧制中学卒ならば、特別幹部候補生の試験を受けることができる。それに合格すれば、さらに一年近く訓練を受け、将校になれたという。謎(なぞ)が解けた。寿司職人の修業中の若者でも、そうやって将校になれたのだ。
 僕はその本も借り、またテーブルに戻ったが、情けなくなるほど知的作業には向いていないことがわかった。本を開いても、読み進む知的持久力が全くないのだ。
 いったん外に出て、ケイタイでうちに電話をかけた。もうそろそろ、モモが学童から帰ってくる時間だ。
「パパ、今どこ?」
「東京。おじいちゃんは?」
「ここにいる。モモがね、お茶いれてあげたんだよ」
「おじいちゃん、何してる?」
「ソファで、テレビ見てる」
「コンビニとか行くなよ」
「わかってるって」
 祖父は、モモにとにかく甘い。すぐにコンビニに連れて行って、中身よりおまけが大きなお菓子などを買い与えるのだ。
「パパ、じゃあね。早く帰ってきてね」
 モモは明るい声で、電話を早く切り上げた。何をしているのか、楽しくてたまらないようだ。
 テーブルに戻り、二冊の本を交互に開いた。モモがうらやましくなった。僕は祖父に会ったことがない。今こうして東京に来ても、祖父の足跡さえつかめないのだ。本に飽きると、僕はモモの子ども、つまり僕の孫は、思いっきり甘やかしてやろうと思った。
 閉館時間が迫っていた。結局、ここまで来てわかったことは、祖父が、簡単に沈められる輸送船に乗って命中率の低い高射砲を撃っていたことと、正規の将校が不足したために急造された将校だったことくらいだ。
 僕はついに眠くなってきた。ふと顔を上げると、司書さんが目の前にいた。
「さっきの部隊名は?」
 僕は部下の手紙をメモしてきた紙を見ながら、船舶砲兵第二連隊第九中隊第三小隊と答えた。
 すると、司書さんが、僕に一冊の文書を手渡した。表紙には、陣中日誌と書いてあった。丸秘と判が押してある。僕は薄い紙をそうっとめくった。
 第九中隊第一小隊の日誌だった。誰が、何時に、何をしたかの報告だ。めくっていくと、第二小隊の日誌になった。そして、第三小隊、見覚えのある筆跡だった。隊長名を見ると、そこには祖父の名前があった。
 僕は立ち上がり、司書さんのところに行った。
「ありました。ほんとに。おじいさんの字です」
「こんなことはめったにないんだよ。全国から、遺族が調査に来るけどね」
 司書さんの笑顔がまわりに伝染した。僕が祖父にようやく出会えたことを、喜んでくれているようだ。
 司書さんにいわれ、その陣中日誌のコピーを依頼する書類を書いた。後日、請求書とともにコピーが郵送される。その書類を書き終えると、五時、まさに資料室の閉館時間だった。
 資料室を出る前に、いろいろと資料をしまっていると、そのうちの一枚に目がとまった。祖父の軍歴の書いてある紙だ。
 なぜ気づかなかったのだろう。今日は、祖父の命日なのだ。祖父が死んで、ぴったり六十年後だった。
 帰りも雨だったが、僕の心は晴れ晴れとしていた。
 僕は心の中でモモに語りかけていた。モモ、パパもおじいちゃんに会ってきたよ、と。
(つづく)

連載 小説(11)
渥美 二郎
挿し絵(題字も)
西岡民雄

 モモを学童から連れて帰るとすぐ、僕はキッチンに立った。モモはダイニングテーブルで、宿題にとりかかった。
 僕はまずキャベツを千切りにする。そして、ボールに小麦粉をふるい入れ、水を足した。フライパンを熱し、焼きそばをウスターソースで炒(いた)め始めた。ジャーと音がして、湯気が上がる。
「パパ、またでしょ?」
 モモが僕の背中にむかって言った。
「そう、また」
「またか……」
 と、モモはため息をついた。
 炒めた焼きそばを皿にとって、フライパンに水で溶いた小麦粉を丸く広げ、そこにドサッとキャベツを置き、もやし、天かす、焼きそば、豚バラ肉をのせて、塩こしょうを振った。
「モモは戦争反対でしょ」
 僕は振り返って言った。
「そりゃ、そうだけど」
「なら、広島風お好み焼き食べなきゃ」
「でももう、飽きたんだよね」
 広島風お好み焼きをうちで作るのは、なかなか難しい。夏から、何度も作ってきたのだが、なかなか満足のいく味にはならない。何度も試作品を食べさせられたモモが文句を言うのも無理はない。しかし、たとえモモに文句を言われようと、ヒロシマへの思いを込めて、僕はお好み焼きを焼く。
「明日はカレーかなんかにするからさ」
「はいはい」
 モモはまた宿題の漢字の書き取りを再開した。
 残しておいた水で溶いた小麦粉をかけて、へらを二つ使って、お好み焼きを持ち上げ、勇気を出して、ひっくり返した。
「パパ、うまくいった?」
「たぶん」
 へらでぎゅうぎゅう押さえつけると、あんなに盛り上がっていたキャベツが、平たくなった。最後に茶(ちや)碗(わん)の中で卵を割り、少しだけ溶き、お好み焼きを持ち上げ、その下に卵を滑り込ませる。卵が固まるまで待ち、後は皿に取り、広島風お好み焼き専用のソースをかけ、青のりを散らせばできあがりだ。
「パパ、宿題終わった。テレビ見ていい?」
「いいよ。ちょうどできるから」
「じゃ、モモ、へらで食べる」
 僕たちは、広島人を真似して、箸(はし)を使わずに食べることにしたのだ。僕たちはテーブルにつき、モモの音頭で、いただきますを言い、一口食べた。
「パパ、今日のはおいしい」
 たしかに、今日は成功だ。
「Love and Peace な味がするだろ?」
「しない」
「じゃ、ヒロシマを思いながら、食べよう」
「はいはい」
 僕は平和を願いながら、箸を、いやへらを進めた。
 
 以前はモモを早く寝かせつけることに躍起になっていた。時間が刻一刻と過ぎていくうちに、僕は焦りだし、不機嫌になった。平日の夜は、すべきことがたくさんある。宿題、入浴、バイオリンの練習、日記、翌日の準備などをこなしながら、テレビも見るし、本も読む。これらを、寝る前に片づけるのだ。小学校の指導通り九時に寝ていたら、とてもこなせる量ではない。
 それに、子どもがまっすぐ最短距離を進むことは、まずない。子どもの旺盛な好奇心、繊細な感性が、寄り道をさせるのだ。大人がせかせばせかすほど、子どもは最短距離の軌道からはずれていく。
 結局、子どもを早く寝かせたいのは、大人の都合なのだ。焦ったり、せかしたりして、不機嫌になる理由は、思い通りにならないからだ。
 そんなとき、僕は時間にコントロールされている。自分の人生は、自分が主人公で、自分でコントロールするものなのに、そうできないことでよけい機嫌が悪くなるのだろう。
 しかし、このごろでは、僕とモモは、共有する時間と、お互い自分の時間を使い分けられるようになってきた。一緒に何かする時間があり、お互い勝手に好きなことをする時間もあるのだ。これで、ずいぶんと楽になった。
 僕の人生を決めるのは、時計ではなく、僕自身だとわかってから、不機嫌になることも少なくなった。何時になったから何かをするのではなく、何かをしたいから何かをすることにしたのだ。
 あまりにも早寝早起きがいいと聞かされ続けたので、一度、モモと早く電気を消して寝たことがある。僕たちは、暗闇の中で、すっかり退屈してしまった。眠気はさっぱりやって来ず、無意味な時間だけが過ぎていった。ようやく寝ついたのは、いつもより少しだけ早い時間だった。そして、翌朝、眠さはまったく変わらなかった。何時に寝ても、朝は眠いとわかってからは、寝る時間にもこだわらなくなった。
 そして、この夜も、モモがベッドで眠ったのは、十一時近くだった。僕はようやくダイニングテーブルの上のパソコンを前にして座った。秋も深まり、熱い緑茶がおいしくなってきた。
 まず、パソコンのメールをチェックした。
 ため息が出た。雪乃さんからのメールは来ていなかった。孤独に苛(さいな)まれると言った雪乃さんに、僕は何かできることがあれば言ってほしいと書き送った。それから、一週間が経(た)つが、まだメールが届かない。きっと、僕の言葉は、雪乃さんに対して、踏み込みすぎたのだろうか。後悔しても、送ってしまったものは削除できない。
 それから、ブログを書いた。僕とモモと時間の関係について、書きながら、頭の中を整理した。
 それから、祖父のことを書き出してみたが、二行書いて、気に入らなかったので、消去した。書き出しては消去、書き出しては消去、ここ数カ月の間にもう何度も繰り返している。きっと、テーマを押し進めていくためのパッションも資料もイメージもまだまだ足りないのだろう。
 僕は、そのとき、ふと思いついて、パソコンのインターネットに「船舶砲兵」と打ち込んで、検索をかけてみた。千件以上もヒットして、今さらながらネット上の世界の広さに驚いた。
 そして、たどり着いたのはある画家を紹介しているページだった。
 その画家は、船の絵を専門としている。祖父と同じ船舶砲兵だった。乗っていた輸送船が六回も沈没したにもかかわらず、生き残ったという。その画家の名前を検索にかけて、調べてみると、さらに詳しいことがわかった。
 最後の沈没の際、利き手の右手の自由を失い、戦後、海に沈んでいった戦友の鎮魂のため、左手で、資料もほとんど残っていない輸送船を描き続けているという。
 いくら夜型の僕でも寝なくては明日に響く時間になったのだが、興奮して目が冴(さ)えてきてしまった。その画家が、実家のすぐそばに住んでいることを知ったからだ。
 東京の防衛研究所で、祖父の直筆の陣中日誌を見つけて、祖父との距離が近くなったところに、この画家と会うことができれば、さらに祖父に近づくことができるはずだ。
 明日、電話帳でその画家の名前を調べ、電話してみることにした。
 
 モモが、母親のところに泊まりに行った週末、僕は画家のうちに車を走らせていた。手みやげには、緑茶の葉を買っておいた。
 僕が電話をかけたとき、何と呼んでいいのかわからなかったので、先生と呼んだ。むこうは最初照れくさそうにしていたのだが、僕は教わる立場、先生と呼ぶしかなかった。
 先生は、僕が船舶砲兵だった祖父のことを知りたいというと、喜んでくれたようだ。船舶砲兵のことを、語り継ぐのが使命だと思っているとさえ言ってくれた。
 隣町のはずれの田んぼの中に、先生のうちはあった。広い屋敷の少し古風な玄関で声をかけると、トレーニングウェアを着た先生が出てきた。小柄だががっちりとした体格で、一見がんこそうに見え、僕は緊張してきた。
 僕が名前を名乗り、深々と頭を下げ、お茶缶を渡すと、よく来たとねぎらってくれ、応接間に通してくれた。壁一面に、軍艦の絵が飾ってあった。不思議に、その絵が懐かしく思えた。
 僕はソファには座らず、絵を一枚一枚見ていった。
「これは、先生が全部お描きになったんですよね?」
 先生は頷(うなず)いた。
 一番大きな横長の絵は、戦闘の場面だった。火や水柱まで、リアルに描かれていた。これは、見た者にしか描けないだろう。迫力が違った。
 その隣には戦艦大和の絵があった。
「それはプラモデルの箱絵だよ」
 それで、合点した。
「先生、この絵を見て、なぜか懐かしく思ったんですが、そうだったんですね。僕は子どものころ、よく軍艦のプラモデル買ってましたから」
 僕は、そうだったのか、と呟(つぶや)き、何度も頷いた。
「子どものころから、先生にはお世話になってたんですねえ」
 先生の顔が、とたんに、ゆるんだ。なんだか、かわいい笑顔だった。
「レイテの船の上から、大きな船を見たんだよ。それが大和だったんだな。その頃は、そんな大きな船があることは極秘だったからね。とにかく、でっかくて驚いたなあ。しかし、すぐ沈められてしまって……」
 先生は早口で言った。そして、面子(めんつ)にばかりこだわり、そんなに大きな船を造り、しかも失ってしまったことを嘆いているようだった。
 僕は背筋を正した。あの戦争を生き抜いた、歩く歴史とも言える人物を前にしているのだ。乗っていた船が、六回も沈められたにもかかわらず、奇跡の生還を果たし、その後六十年、今日まで生きてきたのだ。
 先生に勧められてソファに座ると、僕は祖父のことを説明した。船舶砲兵第二連隊にいて、中尉だったこと。高射砲を担当して、レイテ沖で戦死したこと。できれば、そのことを文章にまとめたいということも伝えた。
 先生は、第二連隊ではなく第一連隊に所属していて、広島では兵舎が隣だったそうだ。終戦時は上等兵だったという。連隊は違っても、船舶砲兵ということには変わりなく、祖父のおかれた状況についてよく知っていた。
「因(いんの)島(しま)で、祖父は祖母と面会したんです」
「ああ、ドックがあったからな」
「そのとき、祖母が母を身(み)篭(ご)もったので、僕も生まれてきたんです。でも、祖父は娘の顔を見ることはできなかったんですよ」
「そっか……」
 先生は、とたんに涙ぐんだ。そんな戦友が何人もいたそうだ。それから、先生は立ち上がると、段ボール箱を一つ持ってきた。中には、本が何冊も入っている。
「みんな、ここに持ってくるんだよ。今じゃ、図書館みたいだな」
 東京の防衛研究所で目を通した「船舶砲兵」という本があった。
「これは、幻の本ですよ。手に入らないんです」
 段ボールの中には、船舶関係の本が何冊もあった。
「貸してあげるから、じっくり調べなよ」
 僕は何度も頭を下げた。そして、祖父の部下の手紙を見ながら、質問をした。
「いったい、祖父はどんなことを船の上でしてたんでしょうか?」
「中尉なら、小隊長だろう。高射砲ってことなら、指揮をしてたんだな」
 先生は、裏の白い広告を束ねたものを取り出して、鉛筆で船の絵や、高射砲の絵を描いてくれた。さすがは画家だ。わずかな時間で、的確な図を描く。
 船には、たいてい、船首と船尾に二基ずつ高射砲が取り付けられ、小隊長は指揮台に監視係と立ち、二つの高射砲の砲手たちを指揮したという。一つの高射砲は十二人で取り扱うそうだ。
 高射砲のリアルな絵を見ながら、先生の説明はよどみなく続いた。しだいに、僕の頭の中に祖父のイメージが浮かんでいった。
 ある時、先生たちが甲板にいると、敵機の一団が現れ、機銃掃射で攻撃してきたという。先生たちは、慌てて高射砲で応戦した。そのとき、同じ砲手の一人が腹を撃たれていた。戦闘が一段落すると、その砲手が腸をずるずると引きずりながら甲板を歩いてきたという。先生は、その腸を腹の中に戻してあげたそうだ。
「その戦友は、ありがとうって言って死んだんだよ」
 先生の話によると、先生は上官にはそうとういじめられたようだ。戦争の恐怖よりも、やたらと天皇の名を語り威張り散らす上官に絶対服従しなくてはならないことが、つらかったという。
「あんたのおじいさんは、よっぽどいい人だったんだなあ」
「はあ」
「普通、部下から手紙なんてもらわないよ」
 手紙の束には、数人の部下からの手紙があった。どれも、隊長殿にはかわいがってもらったというような内容の文面だった。
 船内でのことを僕はたくさん訊(き)いた。いつ眠っていたのか? 戦闘が始まりそうなときは一時間交代で眠った、と。何を食べていたのか? いつも握り飯と佃煮だった、と。
 船には、兵隊以外にも、船長以下船員、炊事などをする軍属などがいたという。
 ある日突然、民間の船が軍に徴用され、軍事輸送船となる。突貫工事で、改造され、兵隊が乗り込んできて、戦地へと物資を届けるという危険な任務を遂行することになる。軍人ではない船員や軍属も、その死地への旅に同行することになるのだ。
 軍人でさえ、死の恐怖を克服するのは、並大抵のことではなかったはずだ。船員や軍属たちの恐怖は、それ以上だっただろう。
 突然、僕は幸福感に包まれた。現在、死を強要されることはなく、モモと暮らせることが、ありがたく感じた。
 先生は、最後の沈没のとき、利き手の右手を負傷した。ぶらぶらになった右手を体にしばりつけ、傾き持ち上がる船首から海に飛び込んだ。海に浮かんでいると、運良くやがて救助されついに帰国することができた。
 戦争が終わっても、右手は不自由なままだった。実家の家業の塗装業をしながら、絵が好きだった先生は、利き手ではない左手の訓練にと、絵筆をとった。
「そしたら、戦友たちが乗り移ったかのように、手が動き出したんだよ。海の写真を見ても、波が揺れて見えるようにもなった」
 先生は、明けても暮れても、船の絵を描いた。輸送船ばかりだ。
「俺が描かなきゃ、戦友たちも忘れられちゃうからな」
 戦友の鎮魂にと、先生は船を描き続けた。
「見たことのない船も描けるようになったのが、不思議だったなあ」
 そのうち、先生の活動の場が広がり、戦記の挿し絵やプラモデルの箱絵なども依頼されるようになったそうだ。
 先生は、軍事郵便のはがきを何枚か見せてくれた。そこには、船のスケッチが描かれていた。
「将校たちが、船の絵を欲しがったから、何枚も描いてあげたよ。おかげで、何人かの上官にはよくしてもらったよ。みんな戦死したけどね。このころは、右手で描いてたんだ」
 先生は、当時、独身で、手紙を書き送るひともいなかったので、はがきを集めて、いろんな船の絵を描いていたという。
「あまった葉書を戦友からかき集めて、俺は絵を描いたんだよ。戦友にも何枚もくれてやったよ」
 葉書のそんな使い方もあったのだ。もし、祖父だったら、一枚残らず、祖母に手紙を書いていただろう。
 人間が生きるとは足跡を残すことだ。先生は絵で、祖父は恋文で、足跡を残したのだ。しかし、その恋文は、僕がコンピュータに打ち込んだところで、やがて忘れ去られてしまうだろう。やはり、祖父のことを書かなくてはならない。足跡は、継承されなければ、消えてしまうのだ。
 先生と、海図をテーブルに広げて、資料を見ながら、調べてみた。昭和十九年十月十八日、レイテ東北五十キロ。祖父が戦死したというその日、その場所で、沈没した船は書いてなかった。
 先生は、また他の資料を持ってきてくれた。太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑という三万円もする大型本や戦時輸送船団史、続・船舶砲兵、数冊の回想文集などだ。
「これ全部貸してあげるから、じっくり調べるといいよ」
 気づいたら、三時間が過ぎていた。そこで、僕はそろそろお暇(いとま)することにした。
「先生、まだまだ元気でいてくださいよ。また、いろいろ教えてもらいに来てもよろしいですか?」
「ああ、いつでも、いらっしゃい。あと五年は元気だと思うから」
 と、先生は笑った。
 最後に、先生の仕事場を見せてもらった。
「この頃は、こんな絵も描いてるんだよ」
 田園風景の絵だった。打ってかわって、平和な光景ばかりだった。船の絵の激しくも精巧なタッチとは違い、素朴でやわらかいタッチの絵だった。
 先生が、そのような絵も描くと知り、僕はうれしくなった。
「こっちはね、まだ勉強中なんだよ」
 戦争の話をしているときは、勇ましく見えたが、今は少し照れていて、やさしいおじいちゃんにしか見えなかった。
 段ボールの箱いっぱいの資料を借りて、僕は先生のうちを後にした。
 運転をしながら、僕の頭の中は整理できないままの情報であふれていた。箱いっぱいの資料に目を通すことも思うと、気が遠くなった。
 僕は先生が最後に見せた照れて、やさしい笑顔を思い出していた。最初先生は元日本兵にしか見えなかったが、最後は絵が好きでたまらない絵描きにしか見えなかった。
 ゆきがかり上、軍艦ばかり描いてきた先生だが、本当は田園風景のようなのどかなものを描きたかったのかもしれない。きっと戦争がなかったら、そんな絵ばかりを描いていたのだろう。
 
 その夜、僕はひとりでうちにいた。夕ご飯は、近所のラーメン屋ですませた。料理とは、誰かのためにするものなのだろう。あんなに毎日料理をするのが好きだったのだが、モモがいなくなると、料理をする気がまったくといっていいほどなくなってしまうのだ。
 意味もなく、ただテレビをつけっぱなしにしながら、ソファに座り、借りてきた資料が入った段ボール箱から、本を出しては戻し、また出してはまた戻しと、そればかり繰り返していた。その段ボール箱が、一瞬、太平洋の大海原のように思えた。すぐ近くの海から、東南アジアの浜までつながる歴史の資料がつまっているのだ。その海のどこから漕ぎだしていいものか、さっぱりわからない。
 そして、ダイニングテーブルの前に座り、パソコンを立ち上げた。
 期待しないようにと思うのだが、それでも期待しながら、メールボックスを開いた。
 メールが一通届いていた。雪乃さんからだった。実際、待ちこがれていたメールが来てみると、期待を不安が上回っていった。
 
ごぶさたしてしまいましたね。ごめんなさい。
>僕にできることが、何かあったら、いつでも言ってください。
こんなにやさしい言葉かけていただき、光栄です。
では、一つ、お願いを。
ジローさんは、ジローさんらしく生きてください。
ジローさんの存在が私にとって、どれだけ励みになっているか、はかりしれません。
それでは、また。
 
 僕はそのメールを暗記するほど、何回も読んだ。ここ数年忘れていた感情が体の奥から湧(わ)き起こるのを感じた。
(つづく)
連載 小説(12)
渥美 二郎
挿し絵(題字も)
西岡民雄

 放課後、僕は一時間の有給休暇をとり、駐車場へと急いだ。ジャージ姿の運動部員とすれ違うと、・さよなら」と大きな声で挨(あい)拶(さつ)をしてくれる。中には「先生もう帰るの?」と訊(き)いてくる男子生徒がいた。これから夜遅くまで練習するので、嫌みのつもりだろう。
 「ちょっとね。がんばれよ」
 「どこ行くの?」
 「映画」
 「え、これから?」
 「そう」
 「お嬢さんと?」
 「そう」
 「明日、学校じゃん」
 「そんなことわかってるって」
 「いいなあ。俺も行きたいよ」
 「ま、部活がんばれ。あばよ」
 と言いながら、僕は走り出していた。時間がないのだ。
 映画館までは、車で一時間はかかる。しかしそれは渋滞していない場合だ。もし道路が込んでいたら、もっとかかってしまうだろう。
 モモの小学校の駐車場に車を停め、まだ忙しそうに仕事をしている先生たちがいる職員室の前を小さくなって通り、モモがいる学童へ迎えに行った。
 「モモ、急げ」
 「わかってるって」
 僕たちは声をそろえて、コーチと呼ばれる指導員に「どうもありがとうございました」と言った。
 「お父さん、お出かけですか?」
 「今日は、ちょっと会合があって……」
 と、僕は嘘(うそ)をついた。平日の夜に、子どもを映画に連れていくなんて、とても言い出せなかった。
 車へと急ぎながら、モモが言った。
 「なんで、嘘ついたの?」
 「これから映画行くって言ったら、みんなうらやましがるだろ」
 「あ、そっか」
 「今日、字幕?」
 「そう」
 小学校三年生だと、字幕の何%くらいを読めるのだろう。僕は、僕が見たい映画にモモを連れていくので、たいてい字幕の洋画となる。モモが言うには、読めない漢字は適当に想像して読み、それでもストーリーはわかるらしい。
 「また字幕か……」
 「今日のは絶対おもしろいよ」
 「ならいいけどさ」
 僕は映画がおもしろいことと、ラブシーンがないことを祈った。
 ラブシーンになると、モモは顔を伏せ、僕が合図したら顔を上げることになっている。事前に、どの程度のラブシーンがあるかわかるようにしてくれると、ありがたい。そういうサービスはあるのだろうか。
 今日の映画は、子どもが主人公なので、まず大丈夫だろう。
 
 この日は運良く、道路が空いていて、少し早めに県庁所在地に着いた。そこで夕暮れの街を歩くことにした。映画までにまだ一時間ほどあった。
 本屋に寄った。マンガが欲しいというモモを無視して、ひときわ僕たちの目を引いた絵本を一冊買った。パステルカラーで描かれた個性的な横長の顔の人物の絵が、モモ好みだった。タイトルは「パパのカノジョは・、こちらは僕好みだった。
 映画のときにいつも立ち寄るイタリア料理店でパスタを食べながら、一緒に読んだ。
 シングルファーザーと暮らす少女の話。パパに新しいカノジョができた・とても変わったひと・野菜ばかり食べ・チューバを吹き・パパには赤ちゃん語で話す。
 しかし、カノジョはいつでも少女の味方だ。学芸会では、一番大きな拍手をしてくれ、機嫌が悪いときにはそっとしておいてくれ、話を聴くときはテレビを消してくれる。パパの新しいカノジョは、少女にとって、ちょっといい感じなのだ。今のところ。
 「これ、モモのにしていい?」
 「気に入った?」
 「うん。だから、モモのにする」
 「だって、うちにおいとくんだから、二人のなんじゃないの?」
 「ダメ、モモのにする」
 ここに、マジックがあったなら、モモは名前を書いていただろう。僕との共有物に名前をマジックで書き、自分のものにするのがモモの常(じよう)套(とう)手(しゆ)段(だん)だ。
 「じゃ、パパにいつでも貸してくれるならいい」
 「わかった。でも、ちゃんとモモに貸してって言うんだよ」
 「はいはい」
 うちに置いておくのだから、どちらのものでも構わないと僕は思うのだが・モモはそうは思わないらしい。
 Imagine no possession・(想像して、所有なんてない、と)、イマジンの三番の歌詞の一節を思い出し、僕は吹き出しそうになった。
 
 この映画館は、小さな映画館だ。上映する映画は、県内ではここでしか見られないものばかり。ドル箱ハリウッドスターが出たり、ディズニーのキャラクターが出たりすることは決してない。
 僕たちがチケットを買い、整理券を受け取ると、そこの若い女性が言った。
 「字幕ですけど、大丈夫ですか?」
 モモのことを心配しているのだ。
 「漢字が読めなかったら、想像させますから」
 モモは頷(うなず)いていた。
 ロビーのソファに座ると、モモが言った。
 「パパ、あのひと、新しいひと?」
 「たぶんね」
 と、僕はモモの肩を叩いた。
 僕につきあわされ、ここでもう何本も字幕映画を見てきたモモは、子ども扱いされたことが少し悔しいのだ。しかし、この映画館で子どもはいつもモモ一人だ。彼女の心配も無理はない。
 「あーあ」
 と、モモがため息をついた。僕にはわかっていた。ここでは、館内で、僕たちの好物のキャラメル味のポップコーンを食べられないのだ。
 「ま、次はポップコーン売ってるとこで映画見ようぜ」
 僕はロビーにサービスで置いてあるキャンディーを二つ持ってきて、モモの手に握らせた。字幕映画は見られるようになっても、まだまだ子どもである。
 
 今(こ)宵(よい)の映画は、昆虫が大好きな少年が主人公。余命数カ月と宣告された脳腫(しゆ)瘍(よう)患者だ。彼には夢があった。幻の青い蝶(ちよう)を、死ぬまでに見ること。そこで、彼のヒーローである著名な昆虫学者に、無謀にも、いっしょに蝶を探しに行ってほしいと直談判する。
 彼は、シングルマザーと暮らしている。彼女もその夢を応援する。彼の情熱が伝わり、ついに昆虫学者は、蝶を探す旅に出る決意をする。そして、三人は、コスタリカへと旅立っていく。
 僕は、美しいコスタリカと、美しいシングルマザーにすっかり魅せられていた。
 政情不安定な中米にありながら、軍隊を持たない国として有名なコスタリカは、世界で最も多くの種の生物がいることでも知られている。エコ・ツーリズム発祥の地。自然を守ることで、観光客が増えるという好循環。
 それにしても、シングルマザー、いくら女優とはいえ、魅力的すぎた。
 僕はモモの耳元に囁(ささや)いた。
 「あの子、頭に何かできて、もうすぐ死んじゃうんだよ」
 「わかってる」
 と、モモがうるさそうに答えた。こちらから、語句を説明するのは、失礼なのだろう。
 
 帰りの車の中で、モモが助手席でパンフレットを見ながら、訊いた。
 「あの話、本当にあった話なの?」
 「らしいよ」
 三人は、そうとう苦労した後、ついに幻の青い蝶に出会うことができた。そして、十年後、主人公のモデル本人はまだ生きているという。その旅を終えると、腫瘍が消えていた。夢には、そんな力があるのだ。
 おもしろかったのは、主人公が、母親の恋を応援しているところ。なんとか、尊敬する昆虫学者と仲良くさせようと、気を配るのだ。日本では、ちょっと想像しがたい場面だ。
 「あ、パパ、宿題」
 「そっか……」
 「漢字と算数のプリントあるよ」
 うちに帰れば、十一時頃だろう。
 「朝やる?」
 「そうする。パパ、起こしてよ」
 「ラジャー。じゃ、シート倒して、もう寝な。明日早いから」
 僕は、右手でハンドルを握りながら、左手でなんとか後部座席にあった毛布をとって、モモにかけた。
 「パパ、ありがと」
 「遅くなって悪かったな。これも芸術のためだ、許してくれ」
 「うん」
 モモは目をつぶった。車に乗ると、すぐ眠たくなるのだ。
 芸術至上主義は、我が家の家訓でもある。学校の宿題くらいは、ときに犠牲にしなくてはならない。
 夜の景色の見えない道路を進みながら、映画のシングルマザーのことを考えていた。なぜ、僕はそんなに惹(ひ)かれるのだろう、と。
 たぶん、それはシングルマザーが自立していて、男に媚(こ)びていないからだろう。そんな凛(りん)とした姿が、美しく見えるのだ。太陽に照らされて光る月ではなく、自ら光る太陽のように。・元始、女性は太陽であった」のだ。
 家事を覚え、ようやく自立しかけた僕は、もう寄りかかって生きていきたくはない。お互い、自立した人間どうし、寄りかからず、寄りそう。それに、憧(あこが)れるのだ。
 うちに帰ったら、このことをブログに書こう。雪乃さんもきっと読んでくれるはずだ。
 
 夕食後は、バイオリンの練習の時間である。毎年、この季節には発表会が行われる。モモは、ソロで一曲弾くことになった。実は、僕も発表会に参加することになってしまった。バイオリン教室の生徒全員で合奏をするので、モモといっしょにそれに加わるのだ。曲はカノン、三つのパートに別れ、同じメロディを輪唱のようにずらして弾く。
 さすがに、この頃は怠け者の僕たちも練習に熱が入ってきている。ふだんより十分ほど長く練習をするようになった。
 まず、モモがソロの曲を練習する。その後、二人でカノンだ。
 僕はCDをかけた。二小節後、僕が弾き始め、また二小節後、モモが弾き始める。もう一カ月近く練習しているのだが、CDとあわせて弾けたことがない。何度弾いても、つっかかり、途中でどこを弾いてるのかわからなくなってしまう。
 「モモ、速いって。ちゃんとCDにあわせろって」
 と、僕が自分の下手さにいらつきながら、モモに言った。
 「パパが遅いんだって」
 「そんなことない」
 モモも僕もお互い、決して自分の非を認めない。
 もう一度、CDを最初からかけ、僕たちは弾き始めた。また、CDについていけなくなってしまった。僕はCDを聴こうとするのだが、モモのバイオリンも耳に入ってきて・どちらにもあわせられなくなったのだ。
 「ちゃんとCD聴けって」
 「パパが聴いてないんだって」
 「モモが速いって」
 「もう、パパと弾かない」
 モモは怒鳴って、ベッドルームに行ってしまった。
 この頃・三回に一回は・このように喧(けん)嘩(か)になってしまう・バイオリンは・僕たちの生活の中では主要な位置を占めるのだが、芸術至上主義もなかなか大変である。
 モモが楽譜を僕に投げつけ、その楽譜が破れてしまったのは、その翌日のことだった。
 
 モモは、破れてセロハンテープで補修したカノンの楽譜とバイオリンと日記を持って、母親のところで週末を過ごすことになった。ブランチをとり、うちを出て、途中、コンビニで楽譜をコピーした。いつも一つの楽譜を二人で見ていたのだが、モモが泊まりに行っている間は、別々に練習するため、僕も楽譜が必要なのだ。
 そのコンビニの駐車場が、待ち合わせ場所だった。彼女は赤いスポーツカーでやってきた。車から降りると、僕は少し目をそらしてしまった。完(かん)璧(ぺき)なメイクにファッション、まぶしすぎたのだ。あいかわらずヒールも高かった。
 「いつも、娘がお世話になります」
 と、僕は大げさに頭を下げた。彼女は笑って答えた。
 「こちらこそ、いつも娘がお世話になります」
 僕は大笑いしてから、彼女にもう一度頭を下げた。モモの発表会の衣装のことを頼んだのだ。
 「オッケー。今回は、私のドレスを作りなおすから」
 「じゃ、タダ?」
 「もちろん」
 と、彼女が自慢げに微笑むと、モモがクチをはさんだ。
 「パパ、ラッキーだね」
 僕たちは右手の親指どうしを擦(こす)りあわせた。
 前々回の発表会は、ドレスを新調した。あまりにもそれが高かったので、前回は貸衣装にした。そして、今回は彼女のリフォームと、年々安上がりになっている。これも仕方がないことだ。モモはこれからバイオリンを子ども用から大人用に買い換えなくてはならないので、ここでお金をかけすぎるわけにもいかないのだ。
 「パパ、これからどうするの?」
 「映画かな」
 「ずるい」
 「じゃ、ママと楽しんできな。バイオリンちゃんと練習しろよ」
 「パパもね」
 手を振るモモを乗せて、車は走り去っていった。
 
 発表会当日、小さなホールの会場、モモの母親は後ろのほうに座っていた。いつもながら、背筋が伸び、姿勢がよかった。最前列には、僕の母が座っている。僕は合奏の出番が近いので、入り口寄りの席に、彼女とも母とも距離をとって座り、モモの出番を待った。
 そして、薄い緑色のワンピースを着たモモの登場だ。モモがスカートを履くのは、一年でこの発表会の日くらいだ。今回の衣装はさほど派手でなく、これまででは一番まともだと思った。それにしても、モモの発表のときは、自分のときよりも緊張する。モモはいったい緊張しているのだろうか。
 数分後、演奏は終わった。モモは、つっかかることなく、練習のとき以上も以下もなく弾いた。
 僕は緊張から解放され、控え室に戻って、自分のバイオリンの調弦をした。すぐにモモが帰ってきた。
 「パパ、すごい緊張したよ。どうだった?」
 「ま、よかったんじゃない」
 「ママと話してきた。これも」
 モモは、花束をもらってきた。そして、椅(い)子(す)に座ると、ペットボトルの冷たいお茶を飲み、リラックスしていた。ソロを終え、そうとう力が抜けたようだ。
 ついに、合奏の順番がまわってきた。モモは何も緊張していないようだったが、僕はさらに緊張してきた。そして、先生について、大人の生徒さんや、モモたち小さな子どもたちと、ステージに向かった。
 通路で、僕はモモに訊いた。緊張しないのか、と。
 「全然。だって、間違えても、合奏ならわからないもん」
 たしかにそうだ。少しは、リラックスしてきた。
 数分後、カノンの合奏が終わった。
 「あんなに練習したのになあ」
 と、僕がため息をつくと、モモが僕の肩を叩いて、言った。
 「まあまあ」
 いつか、先生が言ったことを思い出していた。合奏には、上(う)手(ま)いひともいれば、下手なひともいる。速く弾くひともいれば、遅く弾くひともいる。調弦があっているひとも、いない人も。それでいいのだ、と。いろんなひとがいてこそ、幅のある重厚なハーモニーが生まれる、と。
 とりあえず、僕はハーモニーの幅を広げることだけには、貢献できたようだ。
 
 うちの中が、花であふれ、いい香りだ。モモが母親からもらった花束が一番大きくて、まずダイニングテーブルの中央に置いた花瓶に入れて飾った。参加賞の小さな花束もあったので、生ビールのジョッキに差した。
 母も、僕とモモに花をくれた。こちらは、鉢植えだ。感動で目を潤ませた母は、合奏の後、それを僕に手渡しながら言った。ジローの生き方は間違っていない、と。母の前では、今回は、演奏よりも、生き方が問われたようだ。とにかく、母は何でも肯定的にとらえてくれるので、助かることが多い。カノンの弾き方は何度も間違ったが、生き方は間違ってないということなので、よしとしよう。
 だいぶ疲れていたが、僕はキッチンに立っていた。モモのリクエストで、ハンバーグを作っている。タマネギとシイタケのみじん切りと卵と挽肉をこね、塩こしょうとナツメグを入れたタネを、フライパンで焼き始めた。赤ワインを振りかけ、ケチャップとウスターソースと醤(しょう)油(ゆ)を混ぜたソースをからめてできあがりだ。
 タネは余分に作り、冷凍しておいた。ハンバーグは祖母の好物、今度、実家に持っていくことにした。
 キッチンタイマーが鳴った。
 「モモ、ごはんだよ」
 蒸らしの時間が終わったのだ。僕は野菜とハンバーグを盛りつけた。ごはんをよそうのはモモの仕事だ。モモはミトンを両手にはめて、炊飯用土鍋の蓋(ふた)をとった。
 このごろ、ごはんを土鍋で炊くようになった。つやのあるごはんが炊きあがり、本当においしい。
 僕は緑茶、モモは牛乳で、お互いをねぎらい乾杯をして、ごはんを食べ始めた。
 「うまい」
 「あ、自分で言ってる」
 「うまいものは、うまい」
 「パパ、たしかに、うまい」
 僕たちは、ぼんやりテレビを見ながら、箸(はし)をすすめていた。そのとき、モモが呟(つぶや)いた。
 「なんか、嫌なんだよなあ」
 そして、男性の名前を君づけでポツリと言った。
 「え?」
 「ママをとられるような気がするんだよね」
 モモもそのことを知っているとは、少し驚いたが、もうそろそろ、そういったことも知っておいたほうがいいだろう。
 「たまにはデートもいいんじゃない?」
 「ううん」
 「ママも人生を楽しまなくっちゃ」
 「うん」
 「べつにママがモモのママじゃなくなるわけじゃないんだしさ。ママから楽しみとっちゃダメだって」
 「そりゃ、そうだけど……」
 僕はデザートを用意した。カスピ海ヨーグルトだ。残り少なくなったら牛乳を足せば増殖するヨーグルト。今日はブルーベリージャムを入れた。
 デザートが終わった頃、それまで口数が少なかったモモが、突然、きっぱりと言った。
 「そりゃ、そうだよね」
 「そうそう。ま、パパともデートしたい女のひといるかもしれないしさ」
 「はあ」
 と、モモが語尾をあげた。
 「だから、あの『パパのカノジョは』みたいにさ」
 「ああ、大丈夫。いないから」
 と、モモは確信して言った。
 「わからないよ」
 「いるわけないって」
 「いるかもしれないよ。少しはファンだっているかも」
 「ああ、それはね。パパの本が好きなだけで、パパが好きなわけじゃないから」
 僕は無言で、ダイニングテーブルの上にあったパソコンを立ち上げた。
 「それがさ、いるんだよなあ。きっと」
 満を持してメールボックスを開いた。そろそろ、雪乃さんのメールが来る頃だ。
 「いないって。いるわけないって、心配いらないって」
 モモが執(しつ)拗(よう)に言う。そういうひとがいないほうが、僕自身は心配だ。
 しかし……、メールは一通も届いていなかった。
 「いるわけないか……」
 と、僕はため息をついた。
 「そうそう」
 と、うれしそうに言うモモが、ひさしぶりに憎たらしくなった。
 「Absence makes the heart grow fonder」
 と、僕の口からこぼれた。
 「何それ?」
 「何でもない」
 僕の好きな英語のことわざだ。・不在は愛を深める・。祖父も戦地で、なかなか届かない祖母からの恋文を待ちながら、愛を深めたのだろう。その気持ちの何分の一かを理解できたような気がした。
 「モモ、ガチャンしろよ」
 「はいはい」
 ガチャンとは、食後に食器をシンクまで運ぶこと。モモがこれをしなかったら、うちでは翌朝まで食器がテーブルにのっている。
 なぜ、僕はここまで落胆しているのだろう。皿を洗いながら、ずっと考えていた。
 僕は雪乃さんの不在を感じていた。雪乃さんは、たしかにパソコンの画面上の言葉にすぎないので、これまでも不在だったのだが、いつしか目の前にいる以上の存在感を持つようになった。こうして、雪乃さんからのメールが途絶えてみると、ただ会えない以上の不在を感じるのだ。
 たしかに、不在は愛を深めるのかもしれない。
(つづく)

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